ヒト遺伝子想定的生活様式実践法

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高抗体価の意義(田頭氏24/3/21記事関連)

2024年03月23日 | 思いつき

〔更新履歴:2024-3-31一部修正追加〕

 

 ワクチン理論は余り興味が湧かないので個人的にほとんど勉強していないけど、内科医の田頭氏の「たがしゅうブログ」の次の記事に啓発されたので、少し抗体価について考えてみたところ備忘録として・・・:

 

ワクチン打って抗体がつかない人で見過ごされている価値 -2024/03/21 
https://tagashuu.jp/blog-entry-2152.html

>この度のはしか報道の中でも、「抗体の有無を確認して、なければMRワクチンを打ちましょう」などという主張がよくなされています。
 「MRワクチンは有効」という前提に立っているので、このワクチンを打てば長く「抗体」を作り続けることができるということになると思います。それでも、中には「抗体」が時間とともに低下してしまっている人がいるので、少なくなったらワクチンを打ちましょうという論理が成立します。
 ただここで考えたいのは、そもそも「特定の抗原に対する抗体が年余に渡って上昇し続けていることははたして身体にとって本当に良いことなのか」ということです。
 人体のエネルギーは有限です。ここに異論のある人はいないと思います。抗体を産生させるにも、あるいはその状態を維持するのにも、何らかのエネルギーを費やし続ける必要があると思います。
 しかしこの度のコロナワクチン接種でも明らかになってきたように、抗体が高いことが必ずしも感染予防に寄与しているとは言い切れない状況です。あるいは、コロナワクチン接種後にはIgG4という不完全な性質の抗体が生まれるということもわかってきています
 これは私の考えですが、抗体産生システムをあまりにも過剰に刺激し過ぎると、一定の割合で不完全な抗体が生み出されてしまうのではないかと思うのです。
 そうすると本来異物を攻撃するはずの抗体が間違って自分の組織を攻撃してしまったりすると、そう考えるとIgG4関連疾患と呼ばれる病気が自己免疫疾患様に振る舞うことも説明がつくし、ステロイドが有効であることもしっくりきます。<

>これは「ワクチンは有効」という前提に立てば、「なかなか抗体がつかない厄介な体質」という理解になってしまうかもしれませんが、実は「少々の異物接触では抗体産生システムを乱されない安定的な恒常性維持能力」を意味しているのかもしれません
 かくいう私もB型肝炎ウイルス予防ワクチンを医療従事者の責務として打っていた若手医師の時代に、何度ワクチンを打っても大して抗体がつかないという経験を持っていました。その当時は自分の体質を厄介だなと感じてしまっていましたが、今にして思えば異物に負けずに身体が頑張ってくれていたのかもしれません。<


引用者注)MRワクチン:麻しん風しん2種混合ワクチン。MRは "measles and rubella" の略。

 

 上記引用の記事の内容(注1)に則して考えてみると:

 

注1)これに関連し、たまたま読んでいた、進化生物学者の長谷川 政美氏の著作「ウイルスとは何か」(2023年)において、麻疹ウイルスに関し次の記述を見つけたので紹介しておこう:

「その結果、麻疹ウイルスが牛疫ウイルスから分かれたのがおよそ2500年前(紀元前528年:95%信頼区間は紀元前1174年前~紀元後165年)・・・ということが分かってきた。
 およそ1万年前にウシ、ヤギ、ヒツジなどが家畜化されたが、これらの動物の感染症である牛疫ウイルスや小反芻獣疫ウイルスは、家畜化の後で出現したものと思われる。一方、ヒトに感染する麻疹ウイルスは人口25万~40万以上の規模の都市かないと、感染が持続しないといわれている。
 麻疹は一度罹ると一生のあいだ免疫が持続するといわれているので、これくらいの規模の都市がないと持続的に感染が保たれないのである。このような規模の都市が生まれるのが紀元前500年ごろであり、そこで牛疫ウイルスがヒトに感染するようになって、麻疹ウイルスに進化したものと考えられるのだ。
 麻疹の免疫は一生持続するので、『二度なし病』といわれていたが、最近は2回かかる例が出てきた。麻疹の免疫もやはり時間とともに減衰する。従来は常にある間隔をおいて麻疹の流行があったので、無症状で感染して免疫の抗体価を上げるということを繰り返していたのだ。ところが、ワクチンの普及でこのサイクルが途絶えてしまったために、2回罹るようになったのだという。」(同書112-113頁)

 

  進化的にみれば、麻疹は狩猟採集時代にはなかった病ということなのだろう。想像を巡らせると次のような感じだろうか:

-野生の牛が家畜された結果、個体群密度が高い状態の生活様式に変化し病原性ウイルスが発生した、

-時には牛も病気になり、その世話を人々がすることになり、牛とヒトとの接触が緊密なり、ヒトを宿主とできるようにウイルスが変異してきた、

-ヒトの集落が小さいうちは流行も起きないのだろうが、集落が都市化して個体群密度が高まると、流行するようになった。

 たまたま欧州の古代都市(トリピーッリャ、紀元前4000年頃。ウクライナの遺跡)の再現イメージ図を掲載した記事を見つけたので紹介しておこう。ニュースサイト「Gigazine」の記事から:

古代ヨーロッパで牛は食肉目的ではなく「糞」のために飼育されていた -2024年03月29日
https://gigazine.net/news/20240329-cattle-trypillia/
(記事中の3番目の図表が古代都市の再現イメージ図)

 ウシの家畜化された後の生活様式、ヒトの家畜飼育後及び集落の大都市化後の生活様式は、それぞれの従来の生活様式と異なりその歴史が浅いことから、高い個体群密度、牛との頻繁な接触などに対し遺伝子的に対応ができていないということかもしれない。ヒト側の都合では都市化や牛の飼育を止めるわけにもいかないだろうから、麻疹ウイルスの類を根絶はできなくて、共存していく道しかないのかもしれない。

 

引用記事から>「特定の抗原に対する抗体が年余に渡って上昇し続けていることははたして身体にとって本当に良いことなのか」

 製薬企業は、いろいろな仮説(天然の薬効成分の発見・精製は粗方終わり、創薬に手を出しているが故に本来複雑系のものを簡略化した何らかの枠組みが必要なため)が庶民にとって最終的に有益かどうかにかかわらず、利己的に仮説(この場合は「高抗体価万歳教」)の布教に努めているように見受けられる。また、企業内部の専門家も、庶民のためにと利他的行動を追求していると部門ごとお取り潰しの可能性もあり、利己的へと流されてしまうのかもしれない(創薬でしょうもない薬ができても「ボツです」とは言えずに、投資を回収する道筋を付けないといけない暗黙の圧力が内部であるのかもしれない。摩訶不思議でありながら販売開始された脳内のアミロイドβを分解する薬も、このような感じの産物なのかもしれない。注2)。

 

注2)かつて、とあるスポーツの採点競技を観戦していて思ったのが「潰しの効かない専門家ほど嘘をつき易い」ということなのだが、今は世界的に経済成長の原動力に乏しい状況なので、営利的な事業のいろいろな分野に広がっている雰囲気とも言えよう。

 専門家というのも一種のオタクな訳で、皆が人格高潔というわけでもないだろう。そのオタクとしての力を発揮し楽しい人生を送るためには、専門家の職務にしがみついていないといけない(人格高潔なら「武士は食わねど高楊枝」的な振舞いができるかもしれないが・・・)。真に優秀なレベルであればどこでも拾ってくれるだろうが、普通のレベルであれば、専門家集団内に序列をもたらす権威・考え方に挑戦するというのは難しいだろうし、権威筋や資金提供者の顔色を窺い迎合するという必要性が高まるのかもしれない。


 生物的には強毒の病が流行っても集団内の誰かが生き残る戦略のため、個々人の免疫系には多様性が確保されており、同じ異物の対処の仕方でも個人差が大きいだろう(例えば、抗体価は個人差も大きく同じ状況下でも100倍以上あるともされている)。各種アレルギーや花粉症をみても、抗体が多いことが必ず体に良いとは思えない。次の新聞社の記事は、安易に抗体価を上げることの危険性を示しているのだろう(デング熱は、熱帯ではいわば土着の風邪で子供の頃に感染することが多く、複数回感染すると稀に出血熱に移行して重症化する人がいるようで、エボラウイルス病にも似ている印象):

62人死亡? 比デング熱ワクチン導入の“失敗” -2018年7月22日
https://mainichi.jp/premier/health/articles/20180713/med/00m/010/021000c

 

 抗体も人体にとっては異物の一種であり(異物の構成タンパク質に特異的に反応する部分があり、自己とは異なるため)、二度・三度と人為的に量を増やそうとすると弊害があり得、必要に応じて自然にできる方が望ましいのだろう(例えば、免疫グロブリンIgG4は、山勘だと、必要以上に抗体が多すぎる場合に実際の免疫応答の現場でブレーキをかける役割と思われるところ。免疫系の多様性の故に、抗体価は上がれど現場での細胞性免疫は低下してしまう体質の人がいそうである)。

 


冒頭引用記事から>何度ワクチンを打っても大して抗体がつかないという経験を持っていました

 抗体価引上げ販売モデルにも闇があるのかもしれない。製薬業界による高LDLコレステロール対策や高血圧対策の薬販売モデルには、結構な闇が存在すると理解しているところ、低い抗体価(未感染なら当然)を何とかしようという取組みにも似たような構図が潜んでいる可能性があるだろう。

 この販売モデルの前提は

   「抗体価が高い方が感染への抵抗力が高い」

という理解なのであろう。この仮説に基づいて各種の抗体価を上昇させる薬(抗体価上昇薬。いわゆるワクチンがその典型例。昔からの名前を出さない方が適正な考察ができそうなのでリネーミング)が製造されているのであろうが、本当にこの前提が正しいのかどうかも考える必要があろう。

 副次的な前提(副前提)としては

   「抗体価上昇薬を使えば、抗体価が上がる」

というのもありそうだ。薬を使っても抗体価が上がらない体質の人は、稀な特異的な体質と整理としてるようだが、本当なのだろうか。

 

 先ずは、副前提への疑問を述べておこう。ウイルスに対する免疫応答には、自然免疫系のものもあり、その段階で余裕をもって処理されてしまえば、自ずと抗体はできにくいだろう。この方面の最近の知見(ウイルスに侵入された細胞内での自然免疫応答の模様)を知れば、獲得免疫が始動しそうもない人がいそうなことは容易に想像がつきそうなものである:

 

RNAウイルスの増殖を抑え込む、2段階目の防御戦略を発見 ~DNAウイルスへの反応経路を利用~ -2021.10.15
https://www.iis.u-tokyo.ac.jp/ja/news/3637/
>〇発表のポイント:
◆細胞は、DNAウイルスとRNAウイルスそれぞれに対して別々のセンサーと反応経路を介して、自然免疫を誘導すると考えられてきた。
◆マイナス一本鎖RNAウイルスである麻疹ウイルスが感染した細胞内では、RNAウイルスに対するセンサーに加えてDNAウイルスに対するセンサーも活性化し、重層的に自然免疫が誘導されることを、今回初めて発見した。
・・・<

 

 次に、前提への疑問についでに言えば、(既述の抗体の数量問題のほか)薬剤が産生する抗体の質にも問題がありそうである。自然感染後の方がよい抗体が身に付くとも言われており、人為的に盛った抗体価の強さと実際の感染への抵抗力との間に相関があるのか疑問が残るところ。
 本当に、人為的な抗体の質は良いのだろうか。抗体価が高い人がいっぱいいても感染の広がりを止められていない現状がある。そうすると、人為的に盛った抗体価に本当に意味があるのか、ということも考える必要があろう(注3)。従来一般人には知られていなかったが近年広がってきた抗体原罪の話は、まさに抗体の質の問題に関係しているのだろう。ビジネス・モデルの根幹に係わる話なので、なかなか情報は表に出てこないのかもしれない。

 

注3)抗体価上昇薬の場合、自然感染できる抗体価に対し平均するとその約20分の1の水準にしかできないものでも有効されている場合がみられる。人為的に盛った抗体価については、もしかすると体質によっては、感染への抵抗力を高めるためには絶対量として少なすぎるという点が問題になっているのかもしれない。この点は、抗体価を評価するための閾値が(免疫系の多様性を確保するために)様々ある体質の個々人全てに対して妥当なのか、ということと関連していそうである。

 


 以上のように考えを巡らせると、高い抗体価でよくないこともあり、低い抗体価でも問題ないこともある、という事情が浮かび上がるのだが、果たして現実は・・・?(注4)

 

注4)注1で触れたように、人為的に抗体価を上げると従来「二度なし病」と整理されていた感染症が「二度あり病」に変化するという現実があるようだ。従来は、当初感染した後、15-20年以下の周期で流行するようなら無症候感染による追加免疫効果(抗体価のブースト効果)でほとんどの場合に二度なしが実現していたのだろう。抗体価上昇薬が広く普及すると二度なし病が二度あり病に変化するのであれば、30-40年スパンで観察して、庶民にとって長期スパンでみても感染リスクが減ることを検証していく必要があろう。
 個人的なコスト・ベネフィト的には、二度なし病であってくれた方が楽でいいので、今後において抗体価上昇薬の利用に対するハードルが上がったかなと思うところ。

 

 最後に、なんとなく抗体価上昇薬を分類すれば、従来型のワクチン(21世紀以前に開発されたものに限る)、遺伝子操作を伴うワクチンもどきの類(所詮もどきであり「ワクワクチーン」とか「ワクチンチーン」とでも呼ぶべきか)、その他の抗体価上昇薬の三つに分類できるだろうか。個人的には、前者は打ってもいいけど(トラブルの程度が実証されているので)、中者や後者は、よほどのことがない限り打つことの是非の検討すら始めないだろうという感じ(とある感染症が交通事故死リスクを上回らないと、そもそもワクチン理論(現状では仮説の一種と評価)を勉強する気が起きないところ)。