●一見穏やかな結婚生活のようだが.....
織田信長の妹でありながら、後に対立する浅井家に嫁ぎ、結果的に浅井家を滅ぼしてしまったお市の方。嫁スパイの異名をとる彼女と浅井長政の間に生まれたお江与(小督)は母の逞しさを受け継ぎながら、なかなかに乱暴な性格の持ち主だったといわれている。豊臣秀吉に姉たちと共に養われていたお江与は、秀吉の外交戦略の一環として、家康の息子である秀忠に嫁ぐことになる。だがその後、秀吉と家康の対立が決定的なものとなり、遂に豊臣家が滅亡。家康の天下となってしまう。政略結婚で秀忠の元に嫁いだお江与だったが、3男5女を儲けるなど、その夫婦仲に一見問題はなかったように見える。
織田信長の妹でありながら、後に対立する浅井家に嫁ぎ、結果的に浅井家を滅ぼしてしまったお市の方。嫁スパイの異名をとる彼女と浅井長政の間に生まれたお江与(小督)は母の逞しさを受け継ぎながら、なかなかに乱暴な性格の持ち主だったといわれている。豊臣秀吉に姉たちと共に養われていたお江与は、秀吉の外交戦略の一環として、家康の息子である秀忠に嫁ぐことになる。だがその後、秀吉と家康の対立が決定的なものとなり、遂に豊臣家が滅亡。家康の天下となってしまう。政略結婚で秀忠の元に嫁いだお江与だったが、3男5女を儲けるなど、その夫婦仲に一見問題はなかったように見える。
●凄い女は子育ても凄い!!
お江与夫婦の内情は酷いものだったという。お江与は六歳上の秀忠に側室を置くことを許さなかった為、秀忠は鬼嫁から逃げるように外で浮気に勤しんでいたのだ。恵まれた夫婦生活を冷戦状態に変えたのは、お江与の歪んだ性格にほかならなかった。その後、子供が生まれ、母となってもお江与の性格は和らぐどころか、エスカレートして行った。三男である忠長は不義密通の子で、お江与が必要以上に溺愛した為、結果的に残忍な性格を持った人物に育ってしまったとする説もある。その性格が災いし、結局将軍にはなれなかったが、子育てすらお江与の傍若無人さが垣間見ることができるというわけである。
お江与夫婦の内情は酷いものだったという。お江与は六歳上の秀忠に側室を置くことを許さなかった為、秀忠は鬼嫁から逃げるように外で浮気に勤しんでいたのだ。恵まれた夫婦生活を冷戦状態に変えたのは、お江与の歪んだ性格にほかならなかった。その後、子供が生まれ、母となってもお江与の性格は和らぐどころか、エスカレートして行った。三男である忠長は不義密通の子で、お江与が必要以上に溺愛した為、結果的に残忍な性格を持った人物に育ってしまったとする説もある。その性格が災いし、結局将軍にはなれなかったが、子育てすらお江与の傍若無人さが垣間見ることができるというわけである。
学校で習った歴史はウソだらけ!?
日本史 大ウソ事典 「江戸」
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