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ヴラド・ツェペシュ (1431~1476年)ワラキア(現・ルーマニア) ドラキュラのモデルとなった血みどろの君主

2017-08-07 17:24:44 | Weblog


美女を襲って生き血を吸う、吸血鬼ドラキュラ。
これはアイルランド出身の作家ブラム・ストーカーが書いた怪奇小説『ドラキュラ伯爵』に登場する架空の人物だが、実は列記とした実在のモデルがいる。モデルとなった人物はヴラド3世(通称 ブラド・ツェペシュ)。15世紀のワラキア公国(現在のルーマニア)の君主で、小説に出て来る伯爵の名は、「ドラクル公の息子」を意味するヴラドの別称「ドラキュラ」から来ている。

ヴラドは一族の血生臭い争いを経て君主の座に就き、ギリシア正教のビザンチン帝国、カトリックのローマ教皇庁、そしてイスラム教のオスマン帝国と云う3つの勢力が激しい争いを繰り広げる時代に於いて、小国ワラキアを率い、オスマン帝国の侵略に抵抗していた。ヴラドは奇襲と徹底した殺戮で勝利を収めて行った。例えば、ヴラドを捕らえようと、和平交渉を名目にやって来たオスマン帝国の使節に夜襲をしかけた際には、2万3000人のオスマン兵を殺し、更に2万の兵を捕虜にしている。捕虜は裸にされ、生きたまま口から、或いは尻から棒で串刺しにされた。無残な死体の列は長さ3㌔にも渡り、死臭が立ち込める地獄絵図に、後ろから攻め入ろうとしたオスマン兵たちはスッカリ怖気づいてしまったと云う。

ヴラドは敵兵への攻撃と同時に、自国の裏切り者の処刑も徹底的に行ない、中央集権の強化を図った。前述の様な「串刺し刑」は当時一般的に行なわれていた処刑法だが、例え貴族であっても、ヴラドは串刺し刑を執行した。通常、貴族の処刑法は斬首だが、君主の絶対的な権威を見せ付ける為に、敢えて下層の者たちと同様の刑に処したと見られる。

ちなみに、ツェペシュと云う通称は「串刺し公」を意味するものだ。ただ、単なる権力の示威が目的だとは言い切れないほど、ヴラドは多くの串刺し刑を行なっているのも事実である。また、周囲の人間だけでなく、国民にも異常なまでの厳格なモラルを強い、禁を破った者には厳罰を課した。例えば、不倫をした人妻は子宮を裂いて生皮を剝がし、ふしだらな未亡人は真っ赤に焼いた鉄の串で子宮を刺す、と云う残虐ぶりである。

そんな恐るべき君主のヴラドに死が訪れたのは、1476年のことだった。ブカレスト郊外の戦場で、オスマン帝国軍と戦っていたヴラドは自軍と逸れ、敵に囲まれてしまう。ヴラドは一計を案じ、オスマン兵の死体から剥ぎ取った服を身に着けて、その場を脱出することに成功する。しかし、彼の命運もそこまでだった。自身の部下たちに追い着いたヴラドは、あろうことか敵兵と誤解されてしまい、皮肉にもズタズタに串刺しにされて無残な死を遂げる。ヴラドの首は塩漬けにされ、オスマン帝国の王の下に送られて晒し首となり、胴体部分はブカレスト郊外の修道院に埋葬されたと謂う。

今日に伝わるドラキュラ伝説の如く、ヴラドが血を吸ったと云う記述は残されていないが、彼の残した残虐な逸話の数々が吸血鬼の伝説と結び付けられ、その名は世界中に知れ渡る様になったのである。ただし、ルーマニア本国では、オスマン帝国の侵入から自国を守った英雄として、高く評価されていることを記しておく。

(画像・串刺し公ヴラド3世、ヴラドの残酷な処刑風景を描いた16世紀の記録画)

           

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