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Mayumiの日々綴る暮らしと歴史の話

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荀子の弟子にして法家の実務家 始皇帝を支えた逸材・李斯

2018-03-04 03:52:00 | Weblog



野心あふれる楚人
始皇帝が皇帝として即位する前から仕えていた李斯は、始皇帝のブレーンで側近中の側近だが、元々は楚の下級役人だった。
その頃李斯は、便所でビクビクと暮らすネズミと、穀物庫で悠然と暮らすネズミを見て「環境によって人の運命は変る」と一念発起。出世の為荀子と云う儒学者の下で学び、野心を燃やして秦に向かった。呂不韋のお抱えとなった李斯は、やがて呂不韋の推薦で始皇帝に仕える様になる。
順調に出世した李斯だが、その地位を脅かす者が現れる。かつて共に荀子の下で学んだ韓非である。始皇帝は韓非の著作を読んで「これを書いた男と会って交際できたら死んでも本望だ」とまで感銘を受けるが、李斯は韓非を秦に呼び寄せた上で「韓非は韓の王族です。このまま帰しては、我が国を視察させた様なもので、秦の利益には為りません」と始皇帝に進言し、韓非を牢獄に入れる。しかも、毒薬を届けて韓非を自殺させているのだ。同門の者を殺してまで地位を守った李斯は、天下統一後の政策の多くを考えて秦帝国の成立に尽力するが、始皇帝亡き後に権力を一気に失う。宦官の趙高と偽の文書を作り、始皇帝の末子である胡亥(こがい)を二世皇帝の座に就けたものの、趙高と共に悪政を続ける胡亥に対して度々諫言を行った。李斯にしてみれば、自分が手塩にかけた大帝国・秦を崩壊させる様な政策は見ていられなかったのだろう。しかしその為、二世皇帝の不興を買ってしまったのだ。遂に紀元前208年には、趙高がでっち上げた罪によって、李斯は処刑される。秦の頭脳とも謂える者としては、あまりにも悲惨な末路だった。(画像・李斯)
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◆荀子 青はこれを藍より取りて藍より青し(出藍の誉れ
 君子曰、
「学不可以已。」
青、取之於藍、而青於藍、
氷、水為之、而寒於水。
木直中縄、輮以為輪、
其曲中規、雖有槁暴不復挺者、
輮使之然也。
故木受縄則直、金就礪則利、
君子博学而日参省乎己、
則智明而行無過矣。

故不登高山、不知天之高也、
不臨深谿、不知地之厚也、
不聞先王之遺言、不知学問之大也。
干越夷貉之子、生而同声、
長而異俗、教使之然也。

詩曰、
「嗟、爾君子、無恒安息。
靖共爾位、好是正直、
神之聴之、介爾景福。」
神莫大於化道、福莫長於無禍。


君子曰はく、
「学は以て已むべからず。」と、
青は、之を藍より取りて、藍より青く、
氷は、水之を為して、水より寒し。
木直くして縄に中るも、輮めて以て輪と為さば、
其の曲なること規に中り、槁暴有りと雖も復た挺びざるは
輮むること之をして然らしむるなり。
故に、木、縄を受かば則ち直く、金、礪に就かば則ち利く
君子博く学びて日に己を参省せば、
則ち智明らかにして行ひに過ち無し。

故に高山に登らざれば、天の高きを知らず、
深谿に臨まざれば、地の厚きをしらず、
先王の遺言を聞かざれば、学問の大なるを知らざるなり。
干越夷貉の子、生まれたるときは而ち声を同じくするも、
長ずれば而ち俗を異にするは、教へ之をして然らしむるなり。

詩に曰はく、
「嗟、爾君子よ、恒に安息すること無かれ。
爾の位を靖共し、是の正直を好み、
之を神とし之を聴き、爾の景福を介いにせよ。」と。
神、道に化するより大なるは莫く、福、禍無きより長なるは莫し。

昔の君子が言っている、
「学問は途中でやめてはならない。」と。
青は、藍草から取ってできるものだが、藍草より青く、
氷は、水が変化してできるものだが、水より冷たい。
木がまっすぐで定規にぴったり合うようでも、
湾曲させて輪にすれば、其の曲がりようはコンパスにぴったり合うようになり、枯れて乾燥しても二度とまっすぐにならないのは、湾曲させることがそうさせたのである。
同様に木は定規に当てられれば、まっすぐになり、金属は砥石で磨かれれば鋭くなり、 君子は幅広く学んで一日に我が身を何度も振り返るならば、物事に通じ行動を誤らなくなるものである。

ところで、高い山に登ってみなければ天の高さを知ることはできず、 深い渓谷を間近に見てみなければ大地の厚さを知ることはできず、古代に聖王の残した言葉を聞いてみなければ、学問の重大さを知ることはできないものである。干や越、夷や貉といった異民族の子供らは、生まれたときは同じように産声を上げるが、
成長すれば異なった風俗を身に付ける、これは教育がそうさせているのである。

詩経にこうある、
「ああ、おまえたち君子よ、常に安逸をむさぼることがあってはならぬ。 自らの職責を全うし、その正しく嘘のないところを好み、神的なものを畏敬してこれに従い、自分の大いなる幸いをさらに大きなものにせよ。」と。
ここにいう「神的なものを畏敬する」とは、聖人の学問に感化されることより重要でなく、ここにいう「幸い」とは、災いのないことより良いものはないものなのだ。

◆韓非子 (?~紀元前233)
 韓の弱体に発奮して法家思想を究める。
荀子に学び、申不害、慎到、商鞅らの法家思想を大成。
荀子の「性悪説」を人性利己説に徹底させて、また老子の「無為自然説」を君主の絶対権力の理論と臣下操縦術に実用化。
儒学の礼楽による徳治を退け、法律、刑罰を絶対化し、信賞必罰を説いて富国強兵と中央集権強化を図った。

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◆荀子門下の逸材は如何に始皇帝を支えたか 悪行と言われる政策の数々
 秦で「外国人を追放すべし」と云う声が高まった時期に、始皇帝は逐客令(外国人追放令)を出そうとするが、自身も外国人だった李斯は「秦のこれまでの人材登用がどれだけ開かれたものだったか」を説く文書始皇帝に奉った。この文書は後に詩文集『文選』に選ばれるほどの名文で、始皇帝の考えを改めさせることに見事成功した。

 秦のダークサイトの象徴とも言える焚書も、李斯の考えによるものだった。紀元前213年、医学、占い、農業以外の書物の所有が禁止されて、民衆が持っていた文学書や儒教の経典、思想家の言葉を載せた本は没収の上、焼却処分された。司馬遷は、このことによって民衆は政治を批判することを禁じられたと記している。

 秦が各国を滅ぼし従えた後の紀元前221年に、李斯は文字と度量衝の統一を行っている。度量衝の「度」は長さ、「量」は容積、「衝」は重さを指していて、ものの量を示す単位のことである。秦の文字や単位を使わせることで始皇帝の威光を誇示するだけでなく、これまで外国同士だった地域間でも円満な交易が可能となった。

 李斯は天下統一後には、諸侯の武装を解除して武器を没収し、各地の富豪たちを首都である咸陽に強制移住させている。移住させられた富豪は数にして12万戸と云うから、膨大な人数である。これらには武力と富も始皇帝の御膝元である咸陽に集結させて、首都を政治に於いてだけでなくすべての中心にすると云う狙いがあった。

    


                   秦の始皇帝 最強研究
                        史上最も偉大で 最も嫌われた皇帝の真実!

 
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