今、読んでいる小説は、ママ友の話だ。
といってしまうと実も蓋もないけれど、
誰ちゃんのママではなく、一人の人間として関わってゆける友達を得たいと思う5人の女性達が主人公。
私はママ友という呼び方に、密かに違和感を感じている。学生時代の友人と、社会人になってからの友人と区別をしないように、
友達は友達でいいんじゃないの、と思う。
しかし、子供の名前のあとにママをつけて呼び合う世界が実際にあるのかも知らない私が、どう思おうと、お呼びではないのも承知。
だから、そういう話題には意識して距離をとってきた。
以前の私だったら迷わず素通りする内容なのに、この小説は、まるで行ったことのない国の特集記事のごとく、
私の知らない世界を見せてくれるように思えて、私は変に感心しながら、興味深く読んでいる。
作家が女性だからだろう。
女性特有の、妬み、見栄、弱さ、意地悪さ、優しさ、残酷さが、ひじょうな現実感をもって描写されている。
5人の主人公の誰の中にも、自分と同じものがあって、うまくシールを貼ってごまかしたつもりの、そのシールを剥がされたような気まずさを感じる。
新しい学校で、社会で、クラス替えで、友達ができるだろうかという心細さや、
楽しそうにしている人達を見ると、自分だけ取り残されてしまった焦りとか、
一人でいることを寂しいと自分が感じることよりも、
寂しい人、と人に思われることのほうが耐え難いと思う、そんな心理は、ずいぶんな大人になっても引きずっていたように思う。
それは、子供がいるとかいないとかに関係なく、そういう人はいっぱいいるのかもしれない。
親になったからといって、急に悟って立派になるわけでもないのかもしれない。
いくつになっても、自分の居場所を見つけるまで、多かれ少なかれ、迷いの橋を渡るものなのかもしれない。
この話の中には、悪人は出てこないし、突飛な事件が起きるわけでもない。
普通の、どこにでもいる女性達の日常が描かれているのだけれど、そんなただの日常に、事件が起こるよりも怖さを感じてしまう。
女性であり、母親であるということは、こんなにも孤独なことなのだろうかと思わずにいられないし、
それぞれに善良な女性たちが、幸せになろうともがきながら、自分を追い詰めてゆく過程は、母親ではない私にも察して余りある。
小説は、私が今回選ばなかった人生の、パラレルワールドなのだ。
普通に結婚して子供を生んだ私が、登場人物の誰かに重なりながら生きている。
私は人生をリセットしたけれど、リセットせずに生き続ける私が、小説の中にいる。
興味があったら。
『森に眠る魚』 角田光代
にほんブログ村
といってしまうと実も蓋もないけれど、
誰ちゃんのママではなく、一人の人間として関わってゆける友達を得たいと思う5人の女性達が主人公。
私はママ友という呼び方に、密かに違和感を感じている。学生時代の友人と、社会人になってからの友人と区別をしないように、
友達は友達でいいんじゃないの、と思う。
しかし、子供の名前のあとにママをつけて呼び合う世界が実際にあるのかも知らない私が、どう思おうと、お呼びではないのも承知。
だから、そういう話題には意識して距離をとってきた。
以前の私だったら迷わず素通りする内容なのに、この小説は、まるで行ったことのない国の特集記事のごとく、
私の知らない世界を見せてくれるように思えて、私は変に感心しながら、興味深く読んでいる。
作家が女性だからだろう。
女性特有の、妬み、見栄、弱さ、意地悪さ、優しさ、残酷さが、ひじょうな現実感をもって描写されている。
5人の主人公の誰の中にも、自分と同じものがあって、うまくシールを貼ってごまかしたつもりの、そのシールを剥がされたような気まずさを感じる。
新しい学校で、社会で、クラス替えで、友達ができるだろうかという心細さや、
楽しそうにしている人達を見ると、自分だけ取り残されてしまった焦りとか、
一人でいることを寂しいと自分が感じることよりも、
寂しい人、と人に思われることのほうが耐え難いと思う、そんな心理は、ずいぶんな大人になっても引きずっていたように思う。
それは、子供がいるとかいないとかに関係なく、そういう人はいっぱいいるのかもしれない。
親になったからといって、急に悟って立派になるわけでもないのかもしれない。
いくつになっても、自分の居場所を見つけるまで、多かれ少なかれ、迷いの橋を渡るものなのかもしれない。
この話の中には、悪人は出てこないし、突飛な事件が起きるわけでもない。
普通の、どこにでもいる女性達の日常が描かれているのだけれど、そんなただの日常に、事件が起こるよりも怖さを感じてしまう。
女性であり、母親であるということは、こんなにも孤独なことなのだろうかと思わずにいられないし、
それぞれに善良な女性たちが、幸せになろうともがきながら、自分を追い詰めてゆく過程は、母親ではない私にも察して余りある。
小説は、私が今回選ばなかった人生の、パラレルワールドなのだ。
普通に結婚して子供を生んだ私が、登場人物の誰かに重なりながら生きている。
私は人生をリセットしたけれど、リセットせずに生き続ける私が、小説の中にいる。
興味があったら。
『森に眠る魚』 角田光代
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一晩あっても無理かもっていうくらい
色々なことがあったなぁ
転校したのをきっかけにママ友からは
足をあらおうと決めたっけ(笑)
参観日等に仲よさそうに話している人たちを見ると
少し寂しさも感じながら、もう関わりたくないという思いも
常に心のどこかにあったよ
あの時、転校先でも新しいママ友を作ろうと決心していたら
今とはまた違う世界が広がっていたのかもね。。
皆そうやって、それぞれの選択をしながら
今とか未来とかを選び取っているんだよね
本の中に自分が生きたかもしれない
もうひとつの世界が広がっているって
ありかも。。ね
一晩あっても語りつくせないほど・・・
転校というのは、親にとっても、いい切り替え地点なんだろうな。
かかわる加減が難しいのかなあ。
子供がからんでくると、個人 対 個人の友人関係とは、全然違ってくるのだろうね。
仲良しができると、いろんなことを共有したりできて心強い反面、
次第に、小学校受験とか、幼児教室とか、暮らしぶりとか、張り合いたい気持ちとか、優越感とか劣等感とか湧いてきて・・・・
小説の中にも、ママ友は作らないと決めている人がいる。
会えば挨拶して、当たり障りのない話をして、それで充分だって割り切って。
ママ友と、子供の学校が終了してもずっとつきあっているという人も知っているけれど、それは少数派なのかな。