太平洋のまんなかで

南の島ハワイの、のほほんな日々

母の日

2024-05-12 13:10:22 | 日記
ハワイは今日が母の日。
日本の母の日に実家の母に電話をすると、
「アメリカにも母の日があるの?」
と母は言ったものだ。
母の日はアメリカ発祥なんだけど・・・・・

100年以上前に、アンナ・ジャービスという女性が、2年前に亡くなった母親を偲ぶために始めたのが始まりとされていて、日本には1930年代に少しずつ一般に広まっていったらしい。
日本でカーネーションの花を贈るのは、アンナが集まった人々に手渡したのが白いカーネーションだったからで、
そこから母親がいる人は赤、すでに亡い人は白ということになったというのだけれど、
幼稚園の頃、赤いカーネーションを持っている子供たちに混ざって、白いカーネーションを持っている子がいて、その意味を知って子供心に辛かった記憶がある。
母の日や父の日に、親の似顔絵を描かせたりするのは普通だったが、今思えば、親のない子供にはずいぶんな仕打ちだったのではと思う。


アメリカ本土では、カーネーションを贈るところも多いようだけれど、ハワイではほとんど関係ないようにみえる。
花を贈るなら、カーネーションよりもバラのほうがずっと人気があるし、
ハワイの場合、花よりも生花で作ったレイが一般的で、
レストランでパーティをしたり、家に集まったりと派手に楽しむ。
それに、アメリカでは「すべての母親」が母の日の対象になる。
つまり、夫から妻へ、親から娘へ贈り物をしあうのである。このへんは、日本のバレンタインのように商業的な匂いがしないでもない。
実際、母の日の経済的効果はけっこうなもの。


あいにくの雨になった母の日は、義両親とわたしたちでヨットクラブのブランチに出かけた。
4,5年前には、友人たちも誘って多い時には10人以上のグループになった。そのうち半分は亡くなり、本土に引っ越し、ハワイにいても外出もままならぬ状態だったりする。
共に80の義両親は元気で、2週間後には毎年恒例のヨーロッパに出かける。
義父など、痩せているのにローストビーフやワッフルまでぺろりとたいらげ、頼もしい。

「とてもきれいだよ、昔デートしていた頃とおんなじだ」

アメリカ人というのは、どうしてこういう歯の浮くようなことを真面目に言えるんだろう。
でも私は、そういうアメリカ人の暑苦しさが大好き。

「そうは思わないけど、ありがとう。彼は視力に問題があるようね」

嬉しそうにそう言って私にウィンクするシュートメは、なんだか可愛かった。



「アメリカにも母の日があるの」
と言っていた母が亡くなって、3回目の母の日だ。
我が家の隣りのお寺には、朝から母親のお墓に詣でるための車の列ができる。
母もなく、誰の母親でもない私は、シュートメがいなくなったら、母の日にはいっさい関係のない人になる。







意味もなく怖いもの

2024-05-12 12:21:12 | 日記
昔、仕事仲間に誘われて「13日の金曜日」などの怖い映画をよく観ていた。
若者のグループが古い館に泊まりに行き、一人ずつ消されていくというお決まりのストーリーの映画はいくつもあって、最後の一人が命からがら館の外に停めてある車に辿り着いて助かる結末をみて、その翌日に自動車学校に申し込んだ。
ホラー映画のおかげで今も車を運転しているわけだけれど、
今ではそういう映画は絶対に観ない。
怖いからというよりも、幽霊屋敷や肝試しのように、いきなり脅かされて、見たくもないような残忍なものを見せられるのがバカバカしいからだ。
なぜあんなものを若い頃は観ていたのかわからない。


私が怖いものは、他にある。

外国人作家の地底探検に行く小説を読んでいたとき、背筋を下から撫でられるような恐怖を感じて、読み終えることができなかった。
地底にある湖のそばで、外へ出られなくなって遭難した人たちが息絶えていく。
人ひとりがようやく入れるほどの穴に入っていくドキュメンタリー番組も、見ていられずにチャンネルを変えてしまう。
鍾乳洞も、だからどちらかというと苦手で、富士山のまわりにいくつもある風穴にも入ったことはない。

何度も記事にしているが、足がつかない深さの水中も怖い。
私が入れるのは遠浅の海だけ、シュノーケルをするときはライフジャケット必須で、夫の水着をしっかり持って離せない。
深いところは下を見ないようにして、心で念仏を唱えている。
何のためにシュノーケルしているのかわからないが、それなのに、潜ることへの憧れはあったりするのだからめんどくさい。
夫が以前、ハワイ島で夜のダイビングをして、車ぐらいの大きさのマンタレイを見た、なんていう話を聞いただけで、ゾゾー!と来る。


海や川で溺れたことも、洞窟で迷ったこともないのに、それらに対する恐怖は半端ない。
人が何度も生まれ変わるのだとしたら、私はどこかの人生で、深い水中で溺れ、また別の人生では洞窟で遭難したとでもいうのか。

意味もわからずただ怖いという恐怖は、説明できないだけに不気味であり、克服のしようがないように思える。