太平洋のまんなかで

南の島ハワイの、のほほんな日々

私たちが得たもの、失ったもの

2012-11-26 10:00:45 | 日記
テクノロジーで思い出した。

昔、地図にも載っていないような小さな島に行って、ルポを書く人が書いた本を読んだことがある。



彼は、ある島に船でたどり着き、

滞在して何日か目に、今夜は嵐がやってくるから、と言われ、1本のヤシの木を指差し、

「おまえはあの木だ」

と言うがいなや、無理やり木に登らされて、幹に身体をくくりつけられた。

村人それぞれに木があてがわれており、みんな身の回りのものを腰にくくりつけてスルスルと木に登ってゆく。

果たして日が暮れてくると、大嵐がやってきた。

ヤシの木は、大きく風に揺さぶられて遊園地の遊具のように180度ぐるぐると回った。

嵐が去り、夜が明けてみると、小さな島は丸ごと波に洗われて、家も何もかもなくなってしまっていた。

村人は、さしてガッカリすることもなく、また新たに家を建て始める。



また、ある日、村人何人かと集まっていると、その中の一人が

「タバコを買ってくる」

と言ってその場を去った。

それきり、4日たっても5日たっても彼は戻ってこない。

その人の妻に彼のことを聞くと、「最寄の島までタバコを買いに行ったから10日は戻らない」とこともなげに言う。




電話も電車も車もなかった時代、人は必要があれば歩いてどこまでも行った。

それほど遡らなくても、私がうら若かった時代には携帯電話も普及していなかったし、パソコンだってなかった。

社会人になりたての頃、来客がたいそう重そうな、黒電話がついた箱を持ってきて

「これが自動車電話だ」

と見せてくれたのを覚えている。

ワープロだって画期的だったし、ポケベルですら便利なものだと思ったものだ。



親にとられたくない電話を待って、お風呂も入れずに電話機の前でうろうろするとか、

約束の時間に会えなくて不安になるとか、

そんなのは当たり前だった。

今は、どこにいても連絡がつくし、自分だけにかかってくる電話番号があるし、メールだってできる。

スマートフォンでは、音声だけで電話をかけたりもできるのだ。



先日、チベットとモンゴルの人々の暮らしのドキュメントを観た。

電気も水道もない。移動手段はラマか徒歩。

でも人々の表情は満ち足りており、私はふと、そういう暮らしに憧れに似たものを感じた。



今、これだけテクノロジーが氾濫している暮らしの中で、それを使わない生活をするのは辛いんだけれど。



大事な相手の居場所がわからなくて、不安な気持ちで過ごした夜。

あの頃の私が持っていて、今の私が失ったもの。

チベットやモンゴルの人々が持っていて、私たちが失ったもの。

無論、彼らにないものがたくさんあるのもわかっていても・・












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