仙台市博物館において10月26日(金)~12月9日(日)に「戊辰戦争一五〇年」の特別展が開催されています。
現在、NHKの大河ドラマで「せごどん」が放映されていて、明治維新にいたるいきさつが詳しく描かれています。会津が大変な目にあったことは、様々な機会に語られ有名です。白虎隊の出来事は特に有名で私たちも小学校の修学旅行でその地を見学したものです。
しかし、仙台藩が当時どのような状況だったのかは、考えたこともありませんでした。
そのあたりの事情や出来事がこの特別展では資料を提示しながら披露されていました。
仙台藩では、会津討伐を命じられ錦旗が下賜され、また、会津藩からは朝廷へのとりなしを依頼されたのだそうです。
このような状況下で伊達藩主慶邦は征討軍の中止を求めて新政府に意見します。
慶邦の主張 ● 鳥羽・伏見の戦いの契機となった発砲はどちらが先か?
● 大政奉還後の徳川慶喜に謀反の意思があるか?
● この決断は幼い天皇の判断なのか?
● かつて朝敵となった長州藩が許されたように慶喜にも寛大な処置をすべきではないか?
● 内乱に乗じて外国から干渉されないか?
慶邦はこの建言書を朝廷に提出するため家臣を上京させますが、すでに征討軍が出発していたため時期を逸したとして、提出は断念されたとのです。
当時、奥羽の多くの藩は、仙台や米沢の大藩がどう対応するか探っていたそうですが、慶邦は奥羽(東北地方)の10万石以上の藩主たちにこの建言書を送り、戦争回避への協力を求めました。奥羽の藩主たちもおおむね賛成したのです。
しかし、建言書の提出に失敗した仙台藩は、米沢藩とともに会津藩に謝罪させるため、玉虫左太夫(たまむしさだゆう)と若生文十郎(わこうぶんじゅうろう)を会津に派遣します。会津藩が謝罪すれば「会津藩討伐」の目的が消え、戦闘が中止されると考えたからです。
会津藩征討のため、新政府が組織した公卿(くぎょう)の九条道孝(くじょうみちたか)を総督とする奥羽鎮撫軍が仙台にやってきました。
やがて...
新政府は12月になると、敵対した奥羽越諸藩への処分を発表し、仙台藩は会津藩と並んで厳しい処分を受けました。62万石から28万石へと領地を削られました。翌年5月には戦争責任者として但木土佐(ただきとさ)と坂英力(さかえいりき)の2人が斬首に処せられました。また、仙台藩の内紛により、玉虫左大夫(たまむしさだゆう)や若生文十郎(わこうぶんじゅうろう)等も切腹させられたそうです。
戦争を戊辰戦争を生き延びた人のなかには、明治時代の仙台の発展に大きく貢献した人もおり、松倉恂(まつくらまこと)は戊辰戦争時に兵器や軍艦の購入に尽力しましたが、戦後、明治11年(1878)に初代の仙台区長(現在の市長)となったそうです。
明治維新にむけて仙台藩でもたくさんの葛藤や出来事があったことが分かりました。政変というのはやはり多くの人にとって大変なことなんですね。
ところで、白虎隊の唯一の生き残りとして飯沼貞吉がいました。
貞吉は自刃をしましたが死にきれずにいたところを同じ年ごろの息子を探しにきた会津藩士の妻に見つけられ手当を受け一命をとりとめたということです。
その後、新政府軍に捕われましたが、見込みがあるとして長州藩士の楢崎頼三に引き取られ、長門国に連れ帰り庄屋の高見家に預けて庇護したという。会津方にも長州方にも知られないように飯沼の母にだけ生存を知らせ自らの家族や知人以外には存在を秘匿したとのことです。飯沼は当初何度か自殺を思い立ったが、ある日頼三に「今、日本には外国船が押し寄せており、会津・長州と言っている場合ではない。日本人は団結して国を強くしなくてはならず、その担い手は若者だ。国の役に立てるように勉強せよ。」と諭され、以降貞吉は一心不乱に勉学に励んだといいます。楢崎家でも貞吉の話は密かに語り継がれていたとのことです。
貞吉はその後、勉学に励み国内各地の数々の要職を歴任し、1910年(明治43年)に仙台逓信管理局工務部長に就任。日本の電信電話の発展に貢献したそうです。
退職後も仙台に住み続け、1931年(昭和6年)仙台にて永眠。墓は輪王寺にあるそうです。
学ぶ機会を与えられた祖父にちなみ、孫の一元はNPO法人「海の会」を設立し、東日本大震災の遺児に返済不要の奨学金を与える活動をしているとのことです。
また、次男の孫に石巻赤十字病院院長・飯沼一宇がいるそうです。
なるほど...。世の中はつながっているのですね。意外なところに身近に助けがあったり、人との出会いがあったり..。
良い出会いに恵まれるように、また、自分と出会った人が良い出会いだったと感じられるようになったら素敵です。
そのためには...、さて...。
今の季節仙台市博物館のあたりも木々がきれいです。
この入り口は、博物館構内の「残月亭(旧姉歯家茶室)」のものです。仙台市の指定・登録文化財です。
中には、茶室や水やがあります。ちょっとほっとする簡素?な設えですね。
見学を終わって、博物館の門をでようとすると、交通規制をしていて出られません。
「第36回 杜の都全日本大学女子駅伝」が開催され、そのコースになっていたのです。
「全員が通過するまで待ってください。」と言われ、その場で端により見学することにしました。
一人来る毎に拍手して応援します。元気だなあ。若さは素晴らしいなあ。なんて思った秋晴れの日でした。