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石巻白梅ししの会便り

石巻のためにできることを一緒にしようね!!

石巻 長浜での出来事 ー戊辰150年ー

2019年04月25日 | 紹介

 

 上の写真は確か長浜海岸だったような気がしますが、今から60年余り前の門脇小学校の当時1年生の子どもたちと当時の確か1年3組(?だったかな?)の担任の先生、保護者のお母さん2名ほどが写っている海浜学校の写真の上部です。

 後ろの景色に見覚えのある方がいらっしゃるのではないでしょうか?

 渡波出身の方がこの写真を見たとき、「ああ、あそこが〇〇ね。」と話していたので、近辺に住んでいた方にとってはおなじみの風景なのかもしれません。

 

 この長浜にも、「戊辰150年」の生々しい事実があったことが分かりました。

 伊達藩でも新政府軍派と旧幕臣派とに分かれ様々な混乱があったことは、以前の「戊辰戦争150年」の記事でちょっと紹介しましたが、この長浜での事件もその頃のことです。

 

 以下の内容は、2019年2月3日の河北新報によるものです。(途中省略があります。)

 

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 1868(明治元)年旧暦10月12日、旧幕臣の榎本武揚、新鮮組副長土方歳三、仙台藩額兵隊長の星恂太郎(じゅんたろう)ら2000人を乗せた艦隊は石巻の折浜から蝦夷地(北海道)へ向けて出航した。

 当時、石巻にいた旧幕府兵らは4300人。全員は乗せられず「不動の決心を有する忠誠の士」(戊辰役戦史)を選抜した。 

 この後乗船できなかった者たちは追跡してきた政府軍により、150人が捕縛、斬首されたのだ。

 

 これほど大規模な処刑は戊辰戦争を通じても異例なのに、新政府や仙台藩の記録には載っていない。

 目撃者の口伝で語り継がれてきた。

 元石巻市図書館長で郷土史家の故橋本昌氏は祖父から目撃談を聞いたという。石巻の生き字引と称された橋本氏の著書などによると、処刑は長浜(現在の石巻漁港周辺)であり、目抜き通りに首がさらされた。

 さらに裏付ける証言が2005年、歴史継承の市民団体「石巻千石船の会」(石巻市)の機関紙「ふるさとのかたりべ」に載った。市内の女性(匿名)が1944年に目撃者の高齢女性から聞いた話だという。

 話によると、路地を逃げ回る旧幕臣兵が家の雨戸をたたき「入れてくれ」と請う。しかし、助けると責めを受けると恐れた住民はみな知らんぷり。山に逃げた兵たちは空腹や寒さに耐えかね下山して捕まった。手向かおうにも刀や羽織は借金のかたに取られていたらしい。

 「処刑がある」というので長浜に見に行くと、兵たちはうなだれていた。斬首の時には「助けてくれ」と泣いた。暴れる時には取り押さえられ、やりで刺された。「威張って歩いていた兵が泣いて殺される姿は見ていられなかった。」という。100人できかない数と振り返っている。

 これほどむごたらしい出来事が歴史に埋もれたのはなぜか。

 元石巻教育長で郷土史家の阿部和夫さん(80)=同市芸術文化振興財団理事長=は「住民は旧幕府の関係者と思われて処罰されたり、逆に旧幕府兵から報復されたりするのを恐れて口をつぐんだ」と指摘する。

※ 石巻の敗残兵

 旧幕府軍の敗残兵らは石巻周辺の各集落や島に潜んだ。現地では民家に押し入って略奪したり、宿泊させるよう強要するなどの事件が相次いだ。仙台藩の統制を離れた脱走兵たちも地域の富豪や米穀船を襲い、軍資金と称して強制的に金品を差し出させた。東北三大地主の一人、前谷地の斎藤善右衛門は現在の貨幣価値だと1億数千万円に上る2200両を奪われた。仙台藩士二関源治の率いる脱走兵らの組織「見国隊」は徴発した軍資金で英国商船を雇い、石巻から函館に渡って榎本武揚と合流。二関は1869年、函館五稜郭の戦いで戦死した。

   文・酒井原雄平

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 子どもの頃、みんなで楽しくキャーキャーと波と戯れ遊んだ砂浜にそのような歴史が秘められていたとは全く思いもよりませんでした。この年齢になって初めて知って驚きました。

 

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 おまけ (上の記事とは関係ありません。)

 「ある晴れた冬の日のカフェテラスの出来事」

 スズメがきました!

セグロセキレイも来ました!

私はパンのかけらを投げて与えました。

「アッ!! 食べ物だ!」とセグロセキレイ君?が気がつきました。

「さあ、いただくとしようか..」

大きいのでちぎって一部分を食べました。あっ!!陰にはスズメちゃんがいますね!

いつの間にかスズメちゃんが近づいてきています。右上です。

しかし、セグロセキレイ君は立ち去ろうとしません。

「ああ、まだいる...!」一定の距離を保ってスズメちゃんはその辺にいます。

「まだいるなあ...」スズメちゃんも待っているようです。

「まだいるけど、欲しいなあ..」少しづつ近寄ってくるスズメちゃん。

そして、ついに!! セグロセキレイ君は飛び去っていきました!

「ヤッター!!」スズメちゃんは素早く飛んできて、私たちをも警戒してあっという間にパンくずを加えて立ち去ったのでした。

めでたし!めでたし!

 

 

 

 


「石巻うぐいす豆パン」がありました!

2019年02月24日 | 紹介

 

 近くのおいしいパン屋さんで、上の写真のようなパンを見つけました。

 仙台等で展開しているパン屋さんの一つのお店です。 「石巻本店で大人気!」とあるので「わたしも食べてみよう!」と思い購入しました。うぐいす豆がたっぷり入っていて味も良く満足感もたっぷりでした。

 でも、値札をよくみてみると、名前が「石巻うぐいす豆パン」となっています。この石巻という名前の由来は

 もしかして、石巻でとれたウグイス豆を使っているからか?それとも石巻で人気があるからなのか?今度行ったら聞いてみたいと思います。

 ちょっと嬉しかったので写真を撮らせてもらいました。そしてこのパンのファンになりました。

 

 ところで、近頃のこちらのニュースによると、以前ブログでお知らせしたことに関連するものが二つほどありました。

 一つは「旧門脇小学校」の震災遺構としての保存についてです。先日、保存の仕方として一部を残すことになったとお知らせしました。

 その後、地元住民の「全体保存を要望する会」が2月18日に独自に行ったアンケートの中間結果を発表しました。

 それによると、回答のあった266件のうち223件(83.8%)が全体保存を支持し、部分保存の26件(9.8%)を大きく上回ったということです。

 アンケートは地元住民101件、卒業生や転出者26件、市内88件、その他5件の回答が寄せられたとのことです。

 自由記述では、「8年もたち気持ちに変化が出ている。」「大切な形が残る」とか、「維持管理費などの関係から市の案の通り」との声もあったそうです。

 要望する会代表の地元町内会長本間英一さんの話している映像がテレビで放映されました。

「全体保存が多いのは住民の考えが変わってきているからだ。自由記述のコメントも多く寄せられ、それぞれの思いが強いのも分かった。」と話したと新聞にも掲載されていました。

 まだ変わっていくのでしょうか?

 私たちが晴れ晴れと卒業したあの新校舎が、あの悲惨な姿で残されるのは複雑な思いもありますが、でも、現実に起こったことから目をそらすわけにはいきませんよね。それだからこそ残す意味があるのでしょう。

 ただ、確かに維持費の問題も現実的なことです。どれくらい見積もられるのでしょうか...?

 

 もう一つは、女川原発2号機の再稼働の是非を問う住民投票条例制定で、条例案に村井知事は賛否を示さなかったというものです。賛否両論で物議をかもしています。

 先日もまた、北海道で大きめの地震がおき、地震の度に「〇〇原発に異常は見られないとのことです。」という説明がつくのも、それだけ危険をはらんでいることの表れと思い心配になります。

 というわけで「石巻うぐいす豆パン」は美味しかったけどいつまでも安心してこのパンを味わえる世の中であってほしいと願ってしまいます。

 

 

 


花と緑の祭典「 とうほく蘭展 & ガーデンフェスタ 2019 」 開催

2019年02月02日 | 紹介

                

 現在、「とうほく蘭展 & ガーデンフェスタ2019 」が「夢メッセみやぎ(仙台市宮城野区)」において1月31日から2月4日まで開催されています。

 今年の特別展示は「ネイチャーアクアリウム水草と熱帯魚が織りなす世界ー」ということで、東北初展示となる巨大ネイチャー水草ウォールがあります。「幅180㎝の巨大水槽の背面から高さ3mの水草の壁が垂直にそそり立ち、水草の中のネイチャーアクアリウムと一体となることで、まるで熱帯雨林の水辺を実際に見るような臨場感を放ちます。」と紹介されています。

 また、来場者を迎える洋蘭大型ディスプレーは「蘇る花々~自然への回帰」がテーマ。

 展示をプロデュースした方はスタッフが2日がかりで制作したとのこと。(いつもの大型ディスプレイをみていると2日でできるのかしら...?と思うほどの大掛かりな仕上がりでした。) 

  それにしても、今まで何度か観賞しましたが、このような「ネイチャーアクアリウム」の展示は初めてです。

 

 以前は、ほぼ毎年開催されていたのですが、(東日本大震災後は一時中止)今年は1~2年ぶり?の開催です。

 スペースを区切っての大掛かりな展示ブースもあり、夢の世界のような華やかさや豪華さがあふれています。

 今年は、私は残念ながら体調不良で鑑賞にいけません。

 今年の様子をあまり紹介できないのが残念なのですが、数年前の会場の写真があったのでそれを紹介したいと思います。

 開催されると、高価な蘭の花がふんだんに使われ、こんなに豪華な花の祭典ができあがるのだということで、想像をたくましくしていただければ幸いです。 

 それから、このようなイベントにはつきものの食事所や物産展の展示即売もあります。

 もちろん、石巻や三陸等、海の幸の食品販売もあり、いろいろ当時のその地方の様子を伺ったりしながら購入してきました。

 開催されるときは、大体この時期になります。機会がありましたら、一度ぜひご覧いただけたらと思います。

  

   

    

 実際はもっと迫力があるのだけど、撮影がいまいちです。

                                

              

 

 これらの写真は2013~2015年頃のものです。

 下の写真は、名前はよくわかりませんが一つひとつが個性豊かで見事です。コンテストでの受賞作品もあります。

         

                 

 

     

 

 ガーデニングのスペースが設けられていたこともありました。(次の写真)

  

 

 以前には、特別展示として、「青い蘭」が暗いブースの中に一点紹介されていたこともありました。とても珍しいもののようでした。行列して鑑賞することができました。 

 

 

  その他、アレンジメント作品もありました。

 面白い遊び心たっぷりの作品も。

   

 

    

 

 

 

  宮城県内の華道連盟のいけ花の展示もありました。(今年はありませんが。)

       

    

  

 

  とにかくいっぱいいっぱいの蘭の花々...。夢メッセは仙台港の方にあり、仙台中心部からはちょっと遠いけど、行ってみる価値はありますよ。

   

    

    

  

 

     

 

 

  最後までみてくれてありがとう。

 

 ところで、

 最近の河北新報によると、「女川再稼働住民投票  有効署名11万1743人」という見出しがありました。

 東北電力女川原発2号機(女川町、石巻市)の再稼働の是非を問う住民投票条例制定で、県は31日、市民団体が集めた有効署名数が11万1743人だと発表したとのことです。

 条例制定の直接請求に必要な県内有権者数の50分の1(3万8841人)を上回ったそうです。一週間意義の申し出がなければ、7日に有効署名数が確定するとのことです。有効署名数は県内有権者数の5.75%にあたり、市民団体は8日、知事に県条例を直接請求するとのことです。知事は議案に意見書を付し、県議会2月定例会に提出する予定だそうです。

 どうなるのでしょうか?

  


2019あけましておめでとうございます! 初投稿ーー「貞山運河」 ーー

2019年01月01日 | 紹介

  明けましておめでとうございます!

 「平成最後のお正月」と言って良いのでしょうか? 4月1日に新元号が発表されるというニュースが載っていましたが、どんな名前になるのかなあ?パソコンのことを心配しています。年月日を選ぶ時、今までのものは平成までしかありません。新元号になったら換算が面倒です。

 ま、できるだけ西暦にしてもらうのが分かりやすいということになるのかなあ?

 そんなことはともあれ、今年が皆様にとって良い年になりますように!とお祈り申し上げます。

 

 遅くなりましたが、本題に入ります。

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 昨年末、友人から昔の新聞記事が届きました。(上)

 貞山堀(ていざんぼり)についての記事です。

 「貞山堀」石巻に住んでいた方は聞き覚えがありますよね。山下の石巻工業高校の脇のあたりは、貞山という地名なのでしょうか?

「貞山小学校」という学校もできています。

 石巻工業高の脇の堀が貞山堀なのかな?ボート部の練習場所でもあったような記憶がありますが...。正しいかな?

 

 今回、友人から送られてきた記事、読めるでしょうか?

 貞山運河(貞山堀)についてのホームページがあります。  

http://teizan-canal.com/teizancanal/meiji/

 貞山運河研究所のものです。

 読んでみると、この運河は日本で一番長いものであること。そして江戸時代に伊達政宗によって作られ当時の木材の運搬などで大いに役立っていたこと等、歴史的価値に触れ、その環境保全等に努め新たな観光地としての価値を生み出そうという構想のもとに活動を持続しているとのことです。

 貞山運河は初めは、名取と仙台を結ぶ水路だったのですが明治になって新たに地域(国)の発展のために野蒜に港を作ったり運河を石巻まで伸ばす計画を、当時の大久保利通も視察に訪れ決定したのだそうです。野蒜築港については「奥松島物語」で私たちの同級生のOさんが詳しく執筆しています。

 今回この貞山運河のホームページを見てから読んでみると、野蒜築港の意味がより理解できました。

 

 観光地化にむけての構想のモデルも示されています。

 

 なるほど...。そんな構想も考えられていることが分かりました。

 昔、石巻の実家に車で帰る時、当時は国道45号線を通ることが多かったのですが、矢本を抜けて赤井のあたりを通る時でしょうか?右手に川?が流れていて、いつも眺めていました。あれが野蒜から石巻に続く貞山運河だったのですね。

 〇十年前からは、そのあたりの道路の脇に漫画に出てくる飛行機の模型のようなものがたっていたように記憶していますが、あれも観光の一環だったのかもしれません。

 でも、それほど強いインパクトは受けなかったように思います。

 

 ホームページによると、観光資源としていくつか示されています。

・ 自然環境の再生

 例えば、津波によって一瞬にして破壊されてしまったものの以前あった砂浜、干潟、塩生湿地。黒松海岸林などの恵まれた自然。

 湿地植物群落や鳥類、魚類などにとってかけがえのないエリア。松並木や防潮林によって形成されていた歴史を物語る景観や干潟と生き物が調和する景観。そのようなものを蘇らせるとともに保全に力を注ぐ必要。

・ 親水性の確保 

  船着き場、釣り場、水辺の散歩道

・ 歴史的遺産としての価値の保存

  修復の際、コンクリートを使わずに昔のような石積み方式を採用する等昔の姿を保つようにして歴史の重みを残す等が望まれる。

  貞山運河沿いにある野蒜築港や石井閘門等の歴史的遺産

 

 また、観光資源としての必要な安全面の配慮や集客のための施設設備等についても触れられています。

 

 なるほど。みなとても良い案だと思いますが、なかなか難しそうですよね。

 でも、多少時間がかかっても実現できたらとても素晴らしい場所になる可能性が感じられます。

 家族連れできてくつろぎながら自然体験をしたり、潮干狩り等で自分の力で貝を収穫するなど達成感なども味わうことができたなら、教育的にも価値がありますよね。

 昔、子どもの頃大曲のあたりを通って潮干狩りにいきましたが、その浜辺に着くまで随分歩きました。でもその歩く行程のその場の景観がそのままそのうち地理や理科の勉強に結びついたように感じます。そんなふうに楽しみながら自然の不思議や仕組みに興味や関心を持つことができるなら、多くの人が訪れるのではないでしょうか。

 一朝一夕には、環境の回復は難しいとは思うのですが少しずつでも進めたら嬉しいことです。

 川沿いの葦の茂みや、今はほとんど見られない堀等水辺の植物「河骨(こうほね)」等が花開いている水場があったら、それは懐かしい豊かな自然です。価値ある観光資源になるような気がします。

   左 河骨(こうほね)の写真です。〇十年前には石巻の堀?のようなところに自生していたそうです。

 その他、地域ごとのお祭りに取り入れる等参加型の活動も良いかもしれません。周りの景観もひと工夫したらもっと見ごたえのあるものになるかも....、と考えるだけならいろいろ浮かぶのですが..、それだけなのが残念です。

 

 何はともあれ、今回は「貞山運河」が何回かに亘って作られ、伊達政宗の法名「瑞巌寺殿貞山禅利大居武」から命名したと伝えられること等様々なことを知ることができました。

 情報ありがとうございます!

 今年も元気で過ごせますように、皆さまのご健康ととご多幸を改めてお祈り申し上げます!! 

 

 

 

 

 


DVD「まだ見ぬまちへ -石巻小さなコミュニティの物語」の映画を見ました

2018年11月17日 | 紹介

 

  

 写真は2015年頃の門脇・南浜町。復興住宅建設中の頃ものです。

 このころ門脇辺りに住んでいる方たちは何を考えどのように暮らしていたのでしょうか?

 

 少し前に届いた「まだ見ぬ町へ -石巻小さなコミュニティの物語」のDVDには、震災直後から数年間にわたる住民の様子等がドキュメンタリー形式で伝えられています。

 どんぐりさんは、ドキュメンタリー形式による制作姿勢によってか物足りなさを感じたとの感想をくれました。そのことや忙しさもあってか私はそんなに大きな期待を抱かずに開いてみたのでした。

 映画はいくつかの項目に分けて描かれています。

 

 初めの映像では昔の街並みや通りの写真があり、子どものころの記憶と重なります。

 

 そこに住む方たちの言葉は石巻弁で(仙台とはちょっと違います。)ぬくもりを感じました。

 

 3.11の時の門脇、その日をその場所で迎えた方々の様子の記録。門脇地区は、本当に日和山のすそのの十数軒しか住めるような建物は残らなかったのですね。

 その中に、私たちの2年上の上級生の本間栄一さんがいました。

 小学校でも中学校でも一緒に学校生活を送ったことのある方です。

 以前どんぐりさんのレポート「本間家の蔵」の持ち主です。

 蔵は二つあり、一つは流されもう一つは津波に耐えて残ったという記事でした。

 県外の方々の募金や寄付があり修復され、現在は以前から収蔵されたいた古文書などと一緒に津波の記録などがおさめられ無料で一般公開されています。

 蔵の壁には、そこにきた津波の高さの印がつけられています。

 

 2階の一部まで水が上がったそうです。

 

 

 さて、映画ではその地でかろうじて住むことのできる何世帯かの方々が震災直後からどのように過ごしてきたか、また何を考えどのような活動が行われてきたかが詳しく記録されたものです。

 145分にわたる長いものなので、2回にわけて視聴しましたがその中で初めて知ることもいくつかありました。

 

 その内の一つとして「北向き地蔵」があります。

 このお地蔵様は昔からあったものだそうです。

 門脇や南浜町に住んでいた方はご存じでしたか?私はその存在を全く知りませんでした。

 

 実は、このお地蔵様は海を見てたっています。

 昔から、聖人堀(しょうにんぼり)より南側は昔から水難事故が多いので「これより南には人は住んではいけない。」その目印として北向き地蔵がたてられたそうです。

 そして、2003年当時のお地蔵様の写真が紹介されています。

 度々水害に見舞われた先人たちが後世の人々のためにたてたものだったのです 

  

 でも、やがてだんだんその南側に人家がたてられたのだそうです。

 どうやら、初めは戦後引揚者のための市営住宅が初めだったようです。でも、その後普通の住宅が建てられ、人が住めば店もでき...ということで広がっていったようだとのことです。

 

 「先人の教え」は、そのようなきっかけがあり、崩れ忘れられてしまったのですね。  

 

 数年前にある方のお宅を訪ねるためその方の住所を見たら「門脇...」と書いてあったので、「ああ、門脇か」と私の知っている地域を思い浮かべていたのですが、見つかりません。よく地図を見ると大街道の海側にその地番があります。聞けばそこも門脇なのだそうです。いつからあったのでしょうか?ちょっと驚いたものです。

 でも、あそこも海に近い。北向き地蔵はなくても大きな津波被害を受けたはず...と心配になりました。

 

 「災害は忘れた頃にやってくる」  北向き地蔵の話でこの言葉を思い出します。

 

 

 その他、津波によって、自然環境の中で起こった良い変化についても知ることができました。

 それについては、機会がありましたらまた記したいと思います。

 

 今日は、このへんで終わりにしたいと思います。

 この映画の中には、自分たちの生活を向上させるために住民が力を合わせて工夫していく過程が記録されていて、人と人の関わりの可能性を感じさせられます。

 青池監督は、このテーマは普段の地域社会づくりに通じる普遍性を持っていると語っています。

 

 

 

 

 

 

 

 


「 いしのまき元気いちば 」   石巻の〝おいしい〟と〝元気〟がいっぱい

2017年11月11日 | 紹介

     

 今年、夏ごろに「いしのまき元気いちば」がオープンしました。

場所は前に「石巻復興マルシェ」があった辺りだと思いますが北上川沿いの所です。

 お店に入ってみました。

 石巻の名物や新鮮な魚介類の販売の他、食堂もあります。食堂はその時は開いてはいませんでしたが、石巻の新鮮な魚介類等を

ふんだんに使用した献立があります。そして、2階なのでどうやら川や景色を眺めながら食事を楽しめるようです。

 1階には、様々なブースがありました。

 例えば、...

 食品としては、始めの写真のような石巻名物?のお菓子。どこかで聞いたことがあるような?名前のお菓子や石巻の漫画の町を思い起こさせるようなパッケージのお菓子等々...。

 また、石巻独自の開発による様々な食材。

 写真の「サバだしラーメン」を買ってみました。

 これは、石巻市飯野川地区の「サバだし文化」から生まれたご当地ラーメンです。麺にはサバ焼成骨が配合されています。スープはアラから取った美味しいスープを使い、サバを用いた具材を付けるということになっています。

 食べてみると、「うん。うん。サバの味が濃くでている...。」という感じでした。結構しっかりした味付けで、魚を食べている感触です。(実際、サバの煮魚をのせるので当たり前といえば当たり前ですが、全体がバランスよくできています。)栄養が取れている感じがします。美味しかったです。

 「サバの五目炊き込みご飯の素」を使った炊き込みご飯も味がしっかりついていて、手軽なのにとてもおいしかったです。

 その他にも、美味しそうなものがたくさん。 

  

 意外なものとしては、こんなものもありました。

 

 陶器の器等のかけらから作ったアクセサリーです。津波によって壊れてしまった美しい模様の器等を磨いてアクセサリーにしたものです。私もお気に入りのお皿の淵が欠けてしまって残念な気持ちになったことがありましたが、こういう方法でその模様を活かすことができるのだとちょっと嬉しくなりました。

 それから、もちろん、新鮮な魚介類。

 

 それから、雄勝石を用いた装飾品もありました。

 

 あっ!それからこんなものもあるのですよ。

 石巻に、こけしを制作して販売するお店ができたようなのですよ。たしか、2~3年前からでしょうか?詳しいことは今書けませんが..、そのこけしです。新しいお土産の一つとして発展?するとよいと思います。素朴でめんこいですね。

  

  「いしのまき元気いちば」についての詳しい情報は、こちらからどうぞ!    http://genki-ishinomaki.com/

 

 


「おのくん」をご存じですか?

2017年08月22日 | 紹介

 「ぼくは、おのくんです。姓は『めんどくしぇい』名は『おのくん』東松島生まれだよ。僕には家族がいっぱい!!隣の写真のようにね。そして、さらに日本全国に広がってるんだ!!」というわけで

今回は、東松島の主婦の方々が製作し、販売?しているおのくんについての紹介です。

 「おのくん」は東松島のお母さんたちに手作りされた、ソックスを材料としたぬいぐるみです。ご覧のように色鮮やかなカラフルな模様がとてもキュートです。

  

 おのくんの里親になるには...

 この「おのくん」は、東松島市の駅前の仮設住宅集会所で里親になることができます。

     (電話0225-98-8821 武田文子さん)  住所  〒981-0301 宮城県東松島市牛網字駅前2-33-1   

 たくさん並んでいるおのくんたちの中から里子を探すことができます。そして、製作中のお母さんにも会えるかもしれません。

 また、直接訪れることができない時は、FAXで注文することもできます。

 FAX 0225-98-8821  サイズ・色柄等と数量、送り先の郵便番号・住所・氏名・電話番号・到着希望日を明記の上、FAXしてくださいとのことです。  (サイズは、ちび《約10cm》・小《約13~20cm》・普通《約20~25cm》・大きい《普通サイズで手足の長いもの》 色・模様等指定はできませんが、好みを言っていただければ。できるだけ対応させていただきますとのことです。)

 また、指定の靴下での製作も受け付けているようです。(完成到着まで何か月かがかかるようです。)

 支援金は1つ1000円(サイズ関係なし)です。送料については特に書いてありませんのでよくわかりません。

  (思い出の靴下等でも良いかもしれませんね。)

 FAXでの注文は到着まで多少時間がかかるようですが、思い出のソックスや自分のイメージにあったおのくんが家にきてくれるなら、楽しみに待てそうですね。

 

 

 靴下と綿の支援を求めています

 また、靴下の支援を求めてもいます。

  靴下 サイズは赤ちゃんのものから大人のものまでOK

  綿  ダイソーの綿が、おのくんの弾力のある手足をつくるのに最適    だそうです。

 おのくんへの支援の殆どは、人形を作る材料・経費以外にも、仮設住民のためのいろいろな費用に当てられているそうです。お茶会やイベント等の費用、住民のためのいろんな勉強会経費等々に使われているそうです。

 

 リボンアートフェスティバルの一環の旧観慶丸での展示の中におのくんのブースを見つけました。

 

 この写真の右側のおのくんは初めの写真のものとは違ってマッチョで逞しい感じですね。様々なバリエーションがあるようです。そして、なんと。絵本も置いてありました。できたんですね。お子さんと一緒に見て楽しみながら防災教育にも触れることができそうです。

 

 おのくんのルーツ

  東日本大震災で壊滅的な被害を被った東松島市の方々。それまでの穏やかな暮らしが一変してしまい、復旧のめども立たない時、あるボランティアの方がソックモンキー(ソックスで作った縫いぐるみ)をプレゼントしてくれたそうです。それを見て「これなら自分たちでも作れそう...。」と思い始めたのがきっかけだそうです。

 でも、縫い方が難しく「めんどくしぇ」といいながら作ったそうです。そんなところから苗字の「めんどくしぇ」がつけられたようです。そして、2012年4月20日におのくんが誕生したのです。震災後、毎日1日も休まずチクチクとお母さんたちが心を込めて作っているそうです。

 そして、作りながら「東松島を知ってほしい。」「東松島にきてほしい」との思いも込めたそうです。

 (ソックスで作るこの縫いぐるみは、アメリカの貧しいお家のお母さんが子どもにプレゼントするためにお父さんの靴下で作ったものが元祖ということです。)

 「めんどくしぇ」から生まれた人と人をつなぐおのくん。あなたもぜひ会って里親になって!と呼び掛けています。

 

 おのくん関係のホームページ等        http://www.excite.co.jp/News/society_g/20170311/Jprime_9223.html

   https://ja-jp.facebook.com/onokunpages/              http://4travel.jp/travelogue/11029860        http://socialimagine.wixsite.com/onokun

  

 

 


「石巻古地図散歩」が「石巻アーカイブ」地図研究会から出版されました

2017年08月18日 | 紹介

 今年5月に「石巻古地図散歩」が「石巻アーカイブ」地図研究会から出版されました。収集した古くからの石巻の地図が掲載されています。

 古くは、江戸時代元禄時代(1697~11年)の絵地図から天保10年頃の北上川中瀬付近の絵地図、明治時代の石巻市街地図並びに女川湾明細図や石巻村、、湊村、門脇村、蛇田村小地図、陸前石巻案内全図、大正時代の石巻市街図、石巻港明細図、昭和に入ってからの石巻市街全図(一戸いっこの商店名もびっしり入っている詳しい地図)職業別明細図等、昭和10年の石巻都市計画図。そして昭和23年の石巻渡波女川新総合地図(私たちの時代になってきました。)そして、昭和33年の港都石巻鳥瞰図(門小があります。湊小も中学校も、パルプ工場も色鮮やかに描かれています。)

 解説もついていて見ごたえがあります。サンプルですが、下記のホームページでそれらの地図を見ることができます。

    http://ishinomaki-archives.com/greeting/

 当時の様子を知る貴重な地図で時代の流れが見えます。

 私たちの親世代の方々も一緒に楽しめる会話が生まれる地図だと思います。

 企画、編集をされた小野寺豊氏(「石巻アーカイブ」地図研究会)は、この企画のきっかけを、次のように語っています。

「 震災後、ある本の編集のため資料探しに邉見先輩を訪ねたところ、『その資料は津波をかぶってダメになった・・』と聞いて愕然としたことを思い出します。震災で自宅の一階にあった資料は、ほぼ全滅だったとのこと。もちろん、今回の震災は、尊い人命や家や街並を無情に奪ったもので、被災地でさまざまな貴重な文化財、資料等も失われ仕方ないとはいえ、とても残念な思いを感じました。

 幸い無事であった資料を見ているうちに、この貴重な資料等でしっかりと後世に伝えられるものができないか、そしてふるさとの歴史や、今住んでいる町に興味をもって語り継ぐ人材を育てられないかと考えはじめたのが、この本の原点です。」

 そして、図らずも全く素人の我々も目にすることができることになったわけです。

 そこには、今はもう見ることのできなくなった私たちの懐かしい時代を思い起こさせる地名や名前がそこここにあふれています。

 この資料は各個人の蔵書であったり、博物館等の施設で保管されていたりと様々な方々の思いによって残されていたものをご協力により1冊の書物として完成したものであるということです。

 震災にあった今、本当に貴重なものとなりました。

 さて、私が小学校時代からしばらく過ごした家の跡地は現在下の写真のようになっています。ここは、ここは33年頃の鳥瞰図には、緑に彩られています。当時野原だったのですね。

 ほかの場所も。その頃はずーっと緑が多くなっています。

 次の写真はパルプ工場の方から、門脇の方の現在の風景です。ここは昭和33年ごろには、色々な建物等が細かく地図に載っています。早くから開けていたのですね。遠くに見えるのは復興住宅でしょうか?新しい建造物が見えます。

 この地図の出版のニュースを聞いて、その内購入しようと思いながらやっと先日、仙台の「ヤマト屋書店」を訪れたところ売り切れたとのことでびっくり!でも金港堂に問い合わせたところ2冊残っているということでラッキーでした。

 でも、これからも購入できます。下記のホームページに入り、注文することができます。

    http://ishinomaki-archives.com/greeting/


「トゥーランドット」石巻市民交響楽団創立40周年記念 第42回定期演奏会  文部科学省復興支援事業

2017年01月05日 | 紹介

 上の写真は、昨年11月20日に石巻で行われた「トゥーランドット」のオペラの一幕です。会場は石巻専修大学体育館です。

 知り合いが、この日に向けて市民合唱団の一人として練習に励んでいました。

 公演の日が近づいてくるにつれて、練習にプロのオペラ歌手の方々の参加もあり、練習会場にいるだけで素晴らしい歌声に魅了されていたようでした。

 「石巻でオペラ」というのは、30年以上も前に、石巻を離れた私にとっては、意外な感じがしました。

 でも、公演のパンフレットを読むと、随分昔から細々とではありますが、音楽活動は根付いていたようです。

 石巻交響楽団は昭和51年に発足したそうですが、前身は石巻管弦楽団で、このころから数えると60年もの歴史を持つ、宮城県で最古の歴史を持つアマチュアオーケストラなのだそうです

 石巻交響楽団は、30周年の時は、「カルメン」を演奏したとのことです。

 そんなわけで40周年には、「ぜひオペラを!」したいと考えていたところに東日本大震災にみまわれてしまい躊躇しているところへ、文部省復興支援事業の「みんなで学ぼう被災地のコミュニティー再生支援事業を考える会実行委員会」の支援により、今回のオペラ「トゥーランドット」の実現が可能になったのです。

 指揮者の佐々木克仁氏は「みんなで学ぼう!被災地の地域コミュニティー再生支援事業を考える会実行委員」の方で主催です。

 佐々木氏は、石巻市大川出身で小・中学校を大川で過ごしました。その後高校を経て音楽の道に進み指揮者として全国で活躍していらっしゃる方です。東日本大震災の文部科学省の復興事業(コミュニティー再生活動)の一環として石巻市大川地区に本部を置き、「歌っこクラブ」という仮説住宅内での歌声グループ、復興祭りの開催や地域でのレクレーション活動等、震災で失われた人々のコミュニティー再生を目指し活動を続けている方です。

 そのような石巻への思いの深い方です。今回の公演を企画するにあたっては、多くの参加者が協力し合い一つのオペラを創り上げることにより、一層の心の復興を目指すというコンセプトに、壮大なスケールと力強さ、美しいメロディーを兼ね備えた「トゥーランドット」はまさに打って付けと考えたそうです。

 甚大な被害を受けた地で困難なオペラに挑戦する底知れぬパワーを持った人々が大勢いることを知り、公演に向けて共に歩んできました。そして当日は客席の方々も一緒に被災地からの力強いメッセージを発信する担い手となって盛り上げてもらえればと思ったのです。出演者・観客の間に生まれた連帯感は、今後何かの形で新たな心の復興へとつながっていくだろうと考えました。

 この公演に際しては、石巻交響楽団の他、心よく引き受けてくだっさたプロのソリストの方々、合唱の方々(石巻合唱連盟・仙台オペラ協会・首都圏3.11・一般参加)児童合唱協力(石巻小学校・釜小学校・石巻中学校)その他、練習中のピアニストの方、そして音響・舞台スタッフ・会場スタッフ・映像スタッフ・DVD制作・衣装協力・衣装担当等々、多くの方々が関わり、衣装等はみんなで手作りをする等、様々な場面で精いっぱいの協力をいただいて公演の実現となったのです。

 無謀ともいわれるような企画だったのですが、だからこそ成功させようというエネルギーが沸きあがり、初めのコンセプトを大事にしながら創りあげることができたのです。

 公演に駆けつけようと出かけた私でしたが、石巻専修大学に行くのは初めてでした。思ったより遠くて時間がかかりました。

 途中仮設住宅が立ち並ぶ様子を横に見ながら、「ああ、これがあの大規模仮設住宅なのかな」と思ったり、この道路が復興マラソンコースなのかなと思いながら通りました。ここに設立された専修大学が大震災の際、こんなに多くの役割を果たすとは、夢にも思わなかっただろうと思い、改めて石巻専修大学が果たした役割の大きさを思いました。

 さて私は、とにかく会場に到着し、公演を観劇することができました。

 生で聞くソリストの声は、、格調高く響き渡り迫力がありました。とても力強く豊かな表現でした。また、子どもたちが混じっての合唱も微笑ましく市民みんなで創っていると感じさせる、気持ちの伝わるものでした。

 石巻で見るオペラは生まれて初めてで、時代の移り変わりを感じました。

 それとともに、この文化の香りが人々の心の中に密かに活力や新たな気力を呼び起こしてくれるのではないかと感じてきました。

 改めて、素晴らしい企画と試みに感謝したいと思いました。

 そして、この公演に協力してくださった石巻以外の方々にも感謝したいと思いました。東京にも、「首都圏3.11」という支援グループ?があるのですね。この公演に行かなければ気づくことはありませんでした。

 

 ところで、話は変わりますが、今年は、日本中で「ポケモンGO」の話題が盛り上がりました。

 そして、昨年秋ごろ?には石巻で「ポケモンGO」のモンスターをさがすイベントがも催されたのです。海岸沿い等で開催されたこのイベントには、県外からの多くの人たちでにぎわい1万人以上が来場しました。レアキャラ等を求め、みな大いに楽しんだようです。

 現代的な支援の仕方に感心です!

 また、最近は(前からあったかも...)(ある程度知名度のある建物に限られるのだと思いますが、)石巻でスマホをかざすと震災前のその場所の建物を見ることができるというものもできたようです。もし、普通の路地や住宅等も見られたらどんなにか懐かしいことでしょう。そして震災直後の様子も見られたら、防災意識を高めるために活用できるかもしれませんね。 

 今回は昨年の話題で恐縮ですが、支援や活動は続いていることをお知らせしたいと思いUPしました。

 今年は、どんなことが行われるのでしょうか?

 石巻市には、現在日本のオリンピックの聖火台が置かれています。そこで?オリンピックの聖火の出発地として立候補しようとしているようです。もし、実現したらそれも素晴らしいことですね。

 ※ 小耳にはさんだところによると、昨年東京で「門中同窓会 関東支部」の集まりがあったそうです。前にお知らせしたように、私たちの同期生のAさんが代表を務めていますが、同期のMさんが役員をしているそうです。その関係で友達(この方も同期で関東在住)が参加申し込みをしなかったけど急きょ参加して、とても楽しかったとか...。参加者が多いことにより、会が豊かになるということです。

 それを聞いたM子さんは、「それなら、仙台周辺の私たちもみんなを誘って参加しよう!」と言い出しました。JRに関係のある?仕事をしているT君に、「まとめて安くツアーを組んで!」と提案。今年の「門中同窓会 関東支部」は、5月20日に予定してあるとか...。

 みんなで押しかける?のも楽しいかもしれません。門中出身の方、そこでお会いしませんか?場所はまだ聞いていませんけど。

   石巻専修大学構内より、望む風景   後ろに見える山の名前は何だったでしょうか? 

 

 

 


「南三陸・ホテル観洋女将 阿部憲子様の講演」町内会開催

2016年12月24日 | 紹介

 

  12月はじめ、私の住んでいる町内会の婦人部研修の一環として震災の語り部阿部憲子さんの講演会が催されました。

 1丁目のイベントということで、1丁目会館に80名ほどの座席を設けての小さな場でしたが、女将は、快く承諾してくださり当日の講演会となりました。

 講演に先立って、インターネットに紹介されている「南三陸町・ホテル女将『町民を救った180日間』」の内容のコピーが配布されました。

 南三陸の「ホテル観洋」の名前は何度も耳にしていて、被災した人たちのお世話をしたことをなんとなく知っていましたが、紙面を見てそのきめの細かさや地域を思う洞察の深さに驚きました。

 ご自身も被災し、ホテルのスタッフも笹かまぼこ1枚をみんなで分け合う状況の中で、3階以上は無事だったホテルを開放し、避難者全員を客としてもてなそうと決めたそうです。

 全てが不足していて、道路も寸断され物資が届かない中、1つのおにぎりを数人で分け合って食べ、ペットボトルの水は、一人キャップ゚一杯ずつという風にして提供したそうです。

 食事の時は避難者は多い時で、1000人がいたということでした。

 そして、驚いたことは、先を見越して援助内容に優先順位を決め、地域の存続を考えた手だてをとったことです。

 「学生と経営者の家庭を優先してお世話します。」

そう言って、5月からは、学生のいる家庭と経営者の家庭の受け入れを優先して申し出たそうです。

 その理由は、「ライフラインが途切れたままでは、人がよその町、都会に流出してしまい、町が消えてしまうと思ったからです。人がいなくなってしまったら町ではありません。子どもは転校してしまったらすぐに戻ってこられない。地元の経営者が立ち上がってくれなければ、雇用が生まれず人が生活できない。だから子どもと経営者が優先だったんです。」とおっしゃっていました。

 600人の被災者を受け入れました。

 また、子どもたちにも目を向け、子どもらしい毎日をおくれるように、学習の場を設け、寺子屋、そろばん教室や英語教室を始め、また、全国から送られてきた本で図書コーナーを作ったそうです。

 そのようにして、そろばん教室で学んだ子どもたちの中から、現在全国大会で優秀な成績を収めたお子さんがいるとのことで、そんなニュースを聞くことは何より嬉しいとおっしゃっていました。当時の苦労が大きく報われた瞬間ですね。

 避難生活においては、避難生活が長引いてもなんとか過ごせるようにと水の使い方の約束を決めたそうです。また、不足する水の調達に来る日も来る日も足を運び、ついには、企業の支援を取り付けるなどし、近隣住民を守り続けたのでした。

 不便を強いられている毎日の中でも、少しでもほっとするひと時を持ってほしいと考え、定期的にお風呂も提供しました。そして、それは、被災者が仮設住宅に移り始めてからも続け、仮設に移った人たちのためにはホテルのバスを動かし各仮設を回るようにしたそうです。そして、仮設に移った人達が、孤立することがないようにお風呂もそれまでのように入れるようにしました。それによって、避難していた時の知り合いと示し合わせて一緒に入浴する約束したりして交流を続けることができたそうです。

 そのような細やかな心遣いをしながら、次々と、必要なことを私費を投じて行った実行力に感嘆する思いでした。

 行政の支援を待っていてもなかなか進まず、1日1日時は過ぎ、悪い方に向かっていってしまう。一刻も早く人が流出しないように手を打たなければと、奔走した女将の気持ちが伝わってきました。

 ちなみに、ご主人は地震が起きた時、気仙沼でお姑さんと会っていたそうですが、道路の状況を見て、とりあえず(女将の)お父様の自宅に避難したそうです。お父様は過去に地元の津波を経験していたので、自宅を高台に建てていて、避難するための屋上も設けていました。しかも近隣住民も避難できるように、家の外に屋上に続く階段を外に設けていたそうです。2人が自宅についた時にはもう近隣の人達が屋上に避難していたそうです。

 そんなことから、海辺に暮らす人たちにはそれなりの備えがあるということを知りました。

 東日本大震災の際、南三陸で犠牲者が多かったのは、海が見える場所ではなく海が見えないところに住んでいる方々だったということです。

 海の近くに住む人々の間には「つなみてんでんこ」の言い伝えがあり、地震が起きてすぐ避難をしたそうです。祖父からいつも聞いていたとか、家族で話題にのっていたからすぐ避難したと語っていたそうです。、津波に備えた意識が育っていことが命を守ったのです。

 「つなみてんでんこ」というのは、人をおいて逃げるのではなく、信頼から成り立っているのだということも話されました。家族はどこにいても、きっとまわりの人たちと一緒にすぐ避難しているに違いない。そう考えて家には戻らない。そこには家族全員が「てんでんこ」の意味をよく理解し、それぞれが自分で自分の命を守ることを信じているからこそのの言葉なのだそうです。

 今回の震災や津波で私たちは気づかせられたことがあったと思います。

 災害の際には、その土地柄が深くかかわるということ。天災にしても事故にしてもそこに伝わる言い伝えや歴史に学ぶことがあるのではないかということです。地名や言い伝え等、住人の方が行政等に携わる人よりもよく知っていることもあるかもしれません。

 責任の所在を追及するだけでなく、これから地域の歴史や言い伝え、その声も聞いて備えをし、必要に応じて修正をしていく姿勢がすべての人々に求められることなのだ..。」と感じました。

 今回女将の話で印象的だったことです。「いざ災害が起こった時には、こうすれば良いという正解はないのです。避難訓練をしていたことによって、助かる可能性は非常に増えるけれども、訓練通りにすれば絶対に助かるとは限らない。災害の度合いによっては更に自分の判断も求められる。」という言葉でした。マニュアルが重んじられる昨今ですがマニュアルだけではダメな時もあるということです。「答えは一つではない」とのことでした。

 実際女将は以前聞いていた中越地震にあった人の話を思い出して、避難場所に指定してあった駐車場から近くの保育所の方に避難誘導したそうです。寒い日だったのでそこにいては体調を崩したり感染症の恐れがあるとの判断からでした。

 その他、「1000年に1度の災害は、1000年に1度の学びの場」とか、聞くほどに当時の混乱に全力で立ち向かったからこその重みのある内容がいっぱいでした。地元を大切に思えばこその行動に頭の下がる思いがしました。

 最後に、女将は、現在の南三陸の復興のための取り組みについて話してくれました。その取り組みから生まれた町のパンフレット「南三陸てん店マップ」は「観光みやぎおもてなし大賞」をいただいたそうです。嬉しい副産物です。

 南三陸のお店等を訪れると1つスタンプがもらえ、何個か集まる度にプレゼントがもらえます。

 支援を受けるだけでなく、訪れる皆さんに楽しんでもらおうというアイディアです。

 女将は、「とにかく足を運んで1軒のお店でも良いから訪れてみてください。」とおっしゃっていました。

 JR気仙沼線が途切れてしまっているのが残念ですが、1度訪れてみたいと思って帰ってきました。パンフレットにアクセスが掲載されていたので、ブログに載せました。(ぼんやりした画像や縦横うまくいかなくてごめんなさい。)

 バスで直通で生けるのですね。車で行くのも億劫なので、行くとしたらバスの方が良いかな?と思っています。

     ホテル内に作った図書コーナーで子どもたちが本を選んでいる様子の写真の紹介

 

 

    子どもたちが避難中にホテル内で学習している様子の写真の紹介

 

       パンフレットの一部より    

  

 

     パンフレットより

   パンフレットより

       パンフレットより

  パンフレットより