ソーシャルワークの TOMORROW LAND ・・・白澤政和のブログ

ソーシャルワーカーや社会福祉士の今後を、期待をもって綴っていきます。夢のあるソーシャルワークの未来を考えましょう。

春休みをとらせていただきます

2009年03月27日 | 社会福祉士
 12月30日に喉が痛くなり、正月には食事も摂れないぐらいの状態になった。そこから持病である慢性気管支炎が始まった。4年前にひどい状況になり、完全に直るのに半年以上かかったが、今回は3ヶ月目であるが、朝起きた時に少し痰が断続的にでていたが、その咳も少なくなり、ほぼ回復した。このように長期に亘る咳や痰で体力が消耗し、疲れがひどかった。逆に、4年前に比べると、回復が早く、体力がついたのかとプラスで考えられることもある。

 この間、1月の終わりには授業も終わり、声を出す講義をしなくて済むようになったことは助かったが、それでも多くの原稿に追われ、以前から約束した講演もあり、60歳を迎えての病身の身にはそれなりに堪えた。また、社会的な立場としては、(社)日本社会福祉士養成校協会として今年の4月から始めたいと考えていた「スクールソーシャルワーカー養成課程認定事業」が11月の臨時総会で完全には承認されなかったことで、会員校が次年度からスタートできないのではといった不安、また3分の1の補助事業になることでの、市町村や都道府県の教育委員会に対して本事業を働きかけることができないことでストレスとなっていた。このことも病気には堪えたように思う。3月7日の臨時総会で承認を得て、やっと4月スタートで始められることででき、病気の回復にもプラスに作用してくれたであろう。

 こうした状態で、ブログを書くのが億劫になることもあったが、何とか持続できた。それも、3月の終わりには春休みをとるとして、そこを目標にしてきたから、咳と痰でエネルギーを使い果たしなかでも、がんばれたと思っている。

 3月28日から4月7日までの10日間、春休みをとらせていただきます。この間、大学も春休みで、私と妻が還暦を迎えることで、息子と娘夫婦が、私達を温泉に一泊旅行で連れて行ってくれるようである。また、そのお返しとして、孫をどこかの遊園地に連れて行くことも考えなくてはならないのではないかと思っている。

 また、この間に親戚や後輩の結婚式が2回あり、楽しい春休みであるが、3月末日の社会福祉士の国家試験結果が気になっている。試験方式も若干変わり、合格率が上がっていることを期待したい。そして、次年度から始まる新たな試験システムへの合格率アップの弾みになって欲しいと願っている。

 4月8日に、リフレッシュして再登場しますので、ご期待下さい。既に、準備を始めている、ケアマネジメントとソーシャルワークのあるべき関係について、不定期の連載をしたいと思っている。また、司法領域や学校領域での社会福祉士について、新聞等のマスコミも取り上げてくれることも多くなったが、普及のための今後の戦略についても、この休みの間にじっくりと考え、ブログに書く準備に入りたいと思っている。

スクールソーシャルワークへの期待

2009年03月26日 | 社会福祉士
 3月7日の(社)日本社会福祉士養成校協会の総会で、やっと「スクールソーシャルワーカー養成課程認定事業」を認めていただき、4月からスタートすることができた。難産での成立であったが、今後の発展の可能性に期待をもっている。

 学校という現場において、教諭という専門職が中心であることは間違いないが、生徒の心理的な問題にアプローチするカウンセラーや生活問題に対応するソーシャルワーカーが配置されることで、生徒の様々な問題に対して複眼的な視点で対応ができることになる。

 その意味で、次年度からスクールソーシャルワーク事業は国が10分の10を出す事業から、3分の1の補助事業に変更され、都道府県や市町村の意欲によることになるが、間違いなく学校現場においてスクールソーシャルワーカーは必要不可欠な存在になっていくことができると考えている。なぜなら、学校現場では、生徒への虐待・放棄、非行、経済的問題、閉じこもり等が増えてきており、これらの問題に対して、スクールソーシャルワーカーは生徒本人や家族、さらには地域を含めて問題の解決を図っていく能力を基本的に有しているからである。
 
 今後は、「スクールソーシャルワーカー養成課程認定事業」により、スクールソーシャルワークについて相当な知識や能力を有した人材が輩出されることになり、そうした認定を取得した人材に期待していただきたい。ただ、この事業は、学生向けであり、一方で重要なことは、現在働いているスクールソーシャルワーカーの水準を高めていくことで、これには(社)日本社会福祉士会が、そうした人に継続研修を受講(受講内容についてはアクレリデーション)することで、「認定スクールソーシャルワーカー」を養成していくことを期待したいと、思っている。その際に、当然のことであるが、(社)日本社会福祉養成校協会が作った、「スクールソーシャルワーカー養成課程認定事業」と連動させ、そうした認定を受けた学生が学校現場で何年間働いた場合にも、「認定スクールソーシャルワーカー」資格が取得してくれる制度にしていただきたいと思っている。

 このようにして、養成教育現場と実践現場を連動させ、ソーシャルワーカーの実践のレベルアップを図り、それを社会から認証される制度を、スクールソーシャルワークだけでなく、他領域でも作り上げていく必要があると考える。

 以上は一個人の意見であるが、専門職の職能団体や養成団体は、利用者や専門職のニーズに敏感に応えていくことが使命であると考える。



義理の母の死を振り返ってー死の教育について

2009年03月25日 | 社会福祉士
 先日まで、義理の母親の死を振り返ってきたが、もう一つ、気になったことがある。それは、息子や娘に対するだけでなく、孫に対する死の教育についてである。

 死の準備教育については、今年から関西学院大学に移ってこられたアルフォンス・デーケン先生の講演や本で多くのことを学んでいた。そこから、死に接することは、子どもたちに、生物同様に、人間にも必ず死があるしたことを自覚させ、そこから、限りある人間に対する優しさをもつことができるということを、教えられてきた。

 そのため、義理の母の死に接して、息子や娘にとっては、今回がおじいさんやおばあさんにあたる人の初めての葬儀であり、多くのことを学ぶことができたと思う。人生には限りがあり、できる限り精一杯生きることの大切さを学んでくれたであろう。また、もっと話しをしておくべきだったといった思いから、他の人には精一杯慈しみをもって接しようとも思ったであろう。

 ただ、孫について、娘から、義理の母の死に顔を見せるべきかどうかを問われた時は、正直少し躊躇した。五歳に近い孫は、死の二週間ほど前に見舞いに行った時に、義理の母のベットの上での衰えた姿に、少し絶句した雰囲気があったことを聞いていた。

 このベットでの姿を見てきただけに、人間は死ぬことをきちっと見届けることは良いのではないかと思い、「しっかりと、お別れをさせてあげれば良いのではないか」、と応えておいた。

 実際に、孫もしっかりとお別れの対面をしたが、このことは、今後孫が生きていく上でプラスにつながってくれるものと思っている。ただ、孫にとっても死ぬ前にもっと会っていれば、もっと死の教育になったのではないかと思った。

 

私も「四行教授」

2009年03月24日 | 社会福祉士
 日本学術会議の前会長の黒川清さんが、なぜ東京大学教授にノーベル賞学者が出てこないかについての考えを、朝日新聞に書いておられた。小柴昌俊さんのみが東大教授であり、それ以外は東大卒であっても、他大学や海外で活躍された方々である。余談であるが、南部陽一郎さんは我が大阪市立大学で一時期仕事をされ、その後アメリカのシカゴ大学で活躍され、本来であればもっと早くノーベル賞を受賞されるべき人であったが、今回の受賞となっている。

 黒川さんが言うのは、研究者は様々な他流試合を経て、学者として育っていくことを、自らの海外での経験もふまえて、書かれている。研究での他流試合をすることが、自らを高めるものであり、東大だけで育った者はか弱く、ノーベル賞に届かないということである。そう言えば、小柴さんが大阪市大で講演していただいた時に、よく長期にわたり市大にもこられ、研究について議論されたことを聞いたが、東大にあって、多くの人々と他流試合をしていると言える。

 そこで、「東京大学卒業、東京大学大学院修了、東京大学助手、講師、助教授を経て教授」という肩書きの教授のことを、履歴書に四行程度しか学歴・経歴を書かないため、「四行教授」と呼び、競争心の弱い研究者としている。

 実は、私も、「大阪市立大学卒業、大阪市立大学大学院修了、大阪市立大学助手、講師、助教授を経て教授」という東大とは比べることはできないが、一応「四行教授」の一人である。師の岡村重夫からは、履歴書での経歴はできる限りシンプルな方が、教育者としては良いと言われてき、それを守ってきた者からすると、黒川さんの論評にはショックを受けると共に、考えさせられた。

 確かに、同じ大学で学生時代から通算すると、18歳から60歳までの40数年間、すなわち人生の3分の2以上を大阪市大に在籍していたわけであるから、ある意味異常であり、研究での他流試合の経験も他の先生に比べると弱いと反省する次第である。さらには、他の先生との交流が弱いため、結構偏差値の高い学生に助けられ、我流の学生教育になっていたのではないかと危惧する。

 反省することも多いが、自らの過去をやり返すことは不可能であり、定年の間近に控え、他流試合をこなす環境を自ら作り出し、自らの能力をできる限り引き出していきたいと考えている。そうすれば、ノーベル賞とまでは到底いかないが、もう少しインパクトを与えられる論文が書け、学生の意欲を引き出す教育ができるかもしれない。心がけます。


要介護認定制度そのものの再考

2009年03月23日 | 社会福祉士
 要介護認定の理論的な課題について書いてきたが、要介護認定制度そのものの問題点を指摘し、その改善方法について提案したい。要介護認定には多大な経費がかかる。まずは、調査員への人件費、は第2次の認定調査会の委員手当、調査員や委員会委員への研修費、さらにはデータ算出での経費等である。

 現在、在宅の要介護者の平均利用額は、支給限度額の45%程度であると言われている。確かに、ごく一部の利用者は限度額を超えている場合もあるが、これはひとり暮らしや老老介護・認認介護で多くを占めることになろう。また、ケアマネジャーが利用者のニーズを明らかにし、それに合わせてサービスつ繋いでいる限りにおいては、本来無茶な利用は考えられない。

 そのため、在宅の要介護者には、詳細に認定区分を分けるよりは、基本的に介護保険サービス利用者になるかどうかの認定程度の簡単な方法に留めておくことの方が有効ではないのか。

 そこ結果、認定作業を量的に減らすことができる。1回の要介護認定にかかる経費が、ある市の報告では2万5千円程度であるという。このような経費を低く抑えることができれば、介護保険財源にも効果が大きい。同時に、必要以上の介護保険サービスを使おうとする利用者に対しては、ケアマネジャーが適切な支援ができ、そのケアマネジャーを地域包括支援センターがサポートできる体制を作ることの方が有効であると考える。

 介護保険制度に関わる人々は、一度ケアマネジャーに信頼を置いてはどうか。同時に、全てのケアマネジャーも社会からの期待に応えていく決意をしてはどうか。ある意味、ケアマネジャーへの信頼を置き、それにケアマネジャーが応えることができれば、要介護認定の作業を軽微にし、介護保険財源の抑制に貢献できるといえる。

「要介護認定方法」で厚生労働省は「解釈の明確化」

2009年03月21日 | 社会福祉士
 3月12日に「介護保険を維持・発展するための1000万人の輪」が厚生労働省に要望書(具体的な内容は3月14日のブログ)を出したが、それ以降、要介護認定方法がにわかに雲行きが怪しくなってきた。これは、3月9日の認知症の人と家族の会が「2009年4月実施予定の要介護認定方式についての意見」や、予算委員会での国会審議を受けて、厚生労働省の表現を使えば、解釈の明確化をすることになった。

 その経過を説明すると、厚生労働省は、「介護保険最新情報Vol.66」で、「介助が行われていない場合には、当初案では「自立(介助なし)」と取り扱っていましたが、一般の方々からの意見を踏まえ、「介助されていない」に改める予定です」ということを示した。

 一方、NHKは3月17日朝のニュースで「要介護認定基準の修正」という報道を、具体的な内容まで踏み込んで行った。

 このニュースを受けて、17日に厚生労働省は、再度「介護保険最新情報Vol.67」を出し、要介護認定に関する報道についてコメントを行った。具体的には「3月17日の朝に、「認定調査方法を見直す」との報道がありました。本件については、要介護認定の見直しの基本方針を変更するのではなく、テキストにおける認定調査項目の選択肢の選び方について、誤解が生じかねないとのご意見が利用者等から寄せられており、そうした声を受けて、解釈の明確化を行うこととしております。」という見解であった。

 具体的な内容として、寝たきりであれば、「移乗」は「自立(介助なし)」とされるおそれがあり、褥瘡防止の体位変換やシーツ交換がなされていれば「全介助」にすることになった。また、「買い物」で、「買い物の適切さについては問わない」とし、「自立(介助なし)」についても、認知症の人で後で品物やお金を返すといった場合には、「一部介助」にすることになった。これを受けて、17日の夕刊や18日の朝刊が、いっせいに一部修正の記事を流した。ここでは、認知症の人の「金銭管理」についても基準の修正が追加されていた。

 今回の報道は例示であり、認定調査項目の明確化を行った通知やテキストについては、最終的に3月下旬に発出予定としている。厚生労働省が、4月からのスタートを控え、誤解を招く部分の修正に入ったことは高く評価できるが、これら誤解を招くことになったのは、前のブログでも書いたように要介護認定の基本的枠組が揺らいでいることに起因しており、次の要介護認定改正では、「介護の必要性」の根本に戻って議論して欲しいものである。

 もう一方、気になることは、このような「全介助」等の調査結果のデータを修正して、システムの変更まで行わないと、表面上の繕いに過ぎず、より正確な介護の必要時間が推計できない。是非、コンピュータのプログラムにまで遡っての、修正をお願いしたい。

今回の要介護認定システムの基本的な問題

2009年03月20日 | 社会福祉士
 「介護認定調査員テキスト2009」を拝見すると、今回の要介護認定調査システムの改定の目的は、認定のバラツキを防ぎ、同時に調査の簡素化にあるという。これは確かに重要な課題であり、そうした工夫は多く見られる。その意味では評価できる部分もある。

 しかしながら、今回の改正で混乱を生み出した最も大きな原因は、「心身の能力」、「障害や現象(行為)の有無」、「介助の方法」の3つの評価軸に分けたことにあると考える。

 従来は、調査項目は、昨日のブログで示したように「心身の能力」や「障害や現象の有無」でもって、すなわち、利用者の身体機能状態と心理行動状況でもって(社会環境状況を除外して)、介護の時間を推計していた。ところが今回は、従来は能力等で捉えていた16項目について「介助の方法」という軸で捉えるように変更したが、これは別個の調査項目に相当し、同じ軸で評価することが理論的に無理ではないかと思う。

 「心身の能力」の18項目や「障害や現象の有無」の21項目も「介助の方法」に収斂させた調査項目にするか、逆に、従来通り「介助の方法」の項目を能力として捉えるのであれば、このような新たな混乱を引き出さなかったと思う。前者にするとたいそうであり、個々の「介護の方法」について身体機能状況、心理行動状況、社会環境状況で介護の程度を捉えることになる。

 具体的な例として、「介助の方法」として「洗身」を取り上げると、この介助には、利用者の身体機能状態、精神心理状態、社会環境状況が影響して生じているため、調査員ハンドブックでも説明が加わることになるが、単に洗身する能力だけでなく、ひとり暮らしや福祉用具活用の有無等の社会環境要因や意欲といった心理的要因により影響を受けることになる。この介助の方法は、ある意味、身体機能状態、心理行動状況、社会環境状況が連動し合い生じたものであり、「心身の能力」や「障害や現象の有無」とは別個の次元のものであり、同時に両者をミックスすると、「心身の方法」と「障害や現象の有無」は2重にカウント部分が出てくる。

 ただ、「心身の能力」や「障害や現象の有無」の項目を「介護の方法」に転換できれば、最終的には、心理行動的要因や社会環境的要因が含まれた、私の考えに近い要介護認定システムになると考える。その意味では、すべての項目を「介護の方法」に転換していく過渡期での混乱であるとすれば、少しはやむを得ないのかもしれない。

 ただ、それぞれの「介護の方法」を軸にすると、家族介護をその要素に位置づけざるえなくなり、当然家族の介護力が弱ければ、介護ニーズが高くなるという結果になる。このことは、要介護認定において、従来から言われてきた、家族の介護力については、認定に含めないという原則が崩れることになる。

 そのため、具体的に、「洗身」について家族をどのように扱っているかを「認定調査員ハンドブック」でみてみると、「常時、介助を提供する者がいない場合、不足となっている介助に基づいて基本調査の選択を行う。」としている。これは、明らかに家族の介護力をベースにした判断が行われることを意味しており、認定調査において大転換をしていると考える。

 ただ、このように書かれると、次の疑問が生じる。すなわち、家族の介護力がある場合には、どのように基本調査に書くのかについての言及が必要である。これは認定での最も根本的な問題を提起しており、一定の方向を示さなければ、さらに認定でのバラツキを生み出すのではないかと危惧する。

「要介護認定」算定の枠組

2009年03月19日 | 社会福祉士
 4月からの要介護認定システムを改定することで混乱が生じており、「要介護認定 認定調査員テキスト2009」と「要介護認定 介護認定調査会委員テキスト2009」を読んでみたが、ここから分かってきたことについてのコメントは次のブログに譲るとして、今日は、要介護認定の本質を最初に述べておきたい。

 要介護認定は、介護時間調査をベースにしていることからも、個々の利用者に対してどの程度精神的・身体的な介護に時間を費やしているかを明らかにし、時間を規定している要因を明らかにすることである。この結果、利用者の様々な要因について調査すれば、介護時間が予測され、要介護度が決定されることである。

 次の、要介護の時間を規定する要因としては、利用者の病気、ADL、IADLといった身体機能的な要因、利用者の意欲、精神・行動症状(BPSD)といった心理行動的な要因、介護者の有無や近隣との関係、住環境といった社会環境的な要因、が考えられる。これらの要因が関連して、様々な身体的・精神的介護状況が生じてくる。これら様々な介護状況についての時間の総和が介護時間になる。

 これを図にすると、以下のようになる。



 そのため、介護を必要とする時間をカウントする場合は、2つの方法が可能である。第1は、利用者の様々な身体機能的要因、心理行動的要因、社会環境的要因について調査し、それぞれの要因について重みづけ(ウエイトづけ)を行って、時間を算定する方法である。第2の方法は、第1の結果導き出される様々な介護内容について、それぞれ必要な時間を総和する方法である。

 これら両方の方法には、それぞれ難点がある。第1の方法については、要因が多様であり、そうした要因を引き出すことが難しく、同時に多くの要因を尋ねなければ、介護時間が算定できなくなることである。第2の方法については、現実に実施している介護内容が適切であるのかどうかの妥当性が検証されていないことがある。また両方の調査の難は、調査で明らかになった介護時間が適切なものであるかどうかである。場合によっては、ミニマムの介護であり、他方は過剰な介護である場合もある。

 現在の要介護認定は、第1の方法を採用しているが、その際に、身体機能的要因に重点が置かれているといえる。さらに、現在の元になった調査は施設入所者に限定されたものであり、一定の社会環境状況の下で行われたものであり、在宅では大きく異なる社会環境要因が除外されることで、在宅での本当の意味での介護時間の必要度は算定できないという問題をもっている。

 さらに、来年度からの認定調査の変更については、第1の方法(申請者の能力、障害や現象(行動)の有無)と第2の方法(介護の方法)に分け、ミックスしてしまったことに抜本的な問題を生み出していると考える。問題はあるが、従来通りの第1の方法のみで認定を貫徹していれば、混乱や問題が生じなかったのではないかと考える。

若干矛盾する自らの立場―「加算」議論をめぐって

2009年03月18日 | 社会福祉士
 私は利用者サイドに立った介護保険制度に関する研究者という位置と、(社)日本社会福祉士養成校協会の会長として社会福祉士の社会的な地位を高めていこうとする位置が、少々矛盾することを感じている。

 研究者の立場からは、介護報酬改正で、加算を作ることを真正面から否定はしていないが、今回の介護報酬改正で40を超える加算制度を作り、複雑な制度になったことで、負担する利用者には分かりづらい制度になったこと、一方、事業者は加算をいかにとるかにエネルギーが注がれ、その根底に質の高いケアをすることで加算が得られてという本質を見失いがちである。

 一方、社養協の会長としては、今回の介護報酬改正で、介護福祉士が一定の比率以上配属している場合に、多くのサービスで加算が付いたが、社会福祉士については全く出てこなかったことから、ある意味、介護福祉士がうらやましかった。

 そこで、会長としては、次の三年先の報酬改正に向けて、社会福祉士という言葉が報酬の中に加えられるよう戦略を練りたいと思っている。例えば、介護保険施設の相談職員が社会福祉士資格をもっていれば、加算せよとのことは思っていないし、そんなことでは加算は取れない。また、政治力等でとったとしても、利用者や事業主から評価が得られず、加算は直ぐに消えていく運命にある。

 そのため、利用者からは質の高い生活が出来るようになったという評価を得、事業主からは、チームワークができ、職員の離職率が低くなったという評価を得、さらに利用者や事業者の両者から退所者が増えたことを評価される、社会福祉士を作ることで、加算を獲得したいと考えている。このためには、様々な仕掛けを作り、様々な団体への根回しをし、その上で、現状の社会福祉士の再教育を徹底して行っていくしか道がない。

 社会福祉士に対するこのような思いを進めていきたいが、加算を作ることで、制度を複雑にするという基本的な部分では矛盾している部分がある。ただ、本当に利用者に有効な場合には、やむお得ないと考えており、研究者としての考えと会長としての思いが、かすかな糸でつながっていると思っている。


「要介護認定」の本来の意味

2009年03月16日 | ケアや介護
 新たに要介護認定システムを4月から導入するとのことで、その内容が明らかになり、批判が高まってきた。そこで、要介護認定のあるべき姿についての私の思いを、数回にわたり披露してみたい。

 介護保険制度ができる際に、厚生労働省は、当時通称委員長の名前をとって井形委員会という厚生省高齢者ケアサービス体制整備検討委員会で、介護保険制度の具体的な枠組を検討してきた。その委員会のメンバーの一人であり、ここで要介護認定の枠組についても議論され、基本的な方向が決められていった。随分昔の話しを持ち出したのは、「要介護認定項目」についても、この委員会で現行の元となる内容が議論されたからである。

 委員会で発言した「要介護認定」項目についての私の考えは、今も変わっていない。当時どのような発言をしたか、発言内容そのものうる覚えであるが、以下のような内容であった。

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 要介護認定は、利用者がどの程度の介護を必要としているかを測ることであり、認定項目には、利用者の身体的な機能不全やADLといった身体機能面だけでなく、家族構成や住環境も要介護度に影響を与える以上、そうした社会的な要因を認定項目に含むべきではないのか。例えば、住環境で、トイレが室内でバリアフリーになっている人と、自宅の外にトイレがある人では、要介護度は変わることになる。

 さらに言えば、後者の自宅の外に出なければトイレができない人の場合には、概して所得の低いことが多く、所得の低い人ほど、要介護ニーズが高いのに、要介護度が上がらないのは、問題ではないのか。さらに言えば、介護保険制度も、利用者の所得の再分配制度に貢献するものであるとするならば、要介護度認定は、所得の逆再分配制度になるのではないか。

 そのため、何点かの社会環境的要素を要介護認定項目に追加すべきでないのか。

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 このような発言に対して、事務局を含め委員会全体が沈黙し、ひとり浮いている感がしたことがある。その後、現在の要介護認定項目が作られていったが、「在宅」の要介護者の認定には、このような認定項目が必要であるとの考えは、今も変わっていない。

 WHOでも、古くは1980年に障害の考え方としてICIDHを提唱し、その中で、障害に影響するものとして、ハンディキャップ(社会的不利)ということが含まれ、社会的な側面の重要性が指摘された。その後、介護保険制度が始まった翌年の2001年には、ICFの考え方が出され、社会的な側面が一層強調されてきた。

 以上のような状況にあり、現状の要介護認定は旧来からある「医学モデル」であり、とりわけ「在宅」の高齢者には、社会環境的な項目を入れた「生活モデル」の考え方に転換すべきであるという信念は、今も変わってはいない。

 それで思い出したが、その委員会での議論となったが、当時認定のための調査を行い、それを委員会で議論していたが、施設入所者の介護時間調査の結果から、要介護認定項目が抽出されてきた。その時に、在宅の要援護者についても調査したが、要介護認定項目が抽出できなかったとして、在宅調査の結果を含むことができなかった。

 そのため、要介護認定項目は、一定の社会的環境が制御された場合の、利用者の身体機能状況から生じる要介護の水準を測ったものであると考えている。そのため、多様な社会的環境にいる在宅高齢者にとっては、現在の要介護認定項目は適切でないというように思っているし、そのようなことをいくつもに論文にも書いてきてきた。

 ただし、「生活モデル」による要介護認定項目について、調査研究を介して対案をだすことが研究者の責任であると思っているが、そこまではできておらず、生活モデルを思想とする研究者は、是非こうした研究に実務者と一緒に取り組んでもらいたい。

「介護保険を持続・発展させる1000万人の輪」 の要望書

2009年03月14日 | 社会福祉士
 3月12日に、樋口恵子さん(高齢社会をよくする女性の会 代表)と高見国生さん(認知症の人と家族の会 代表理事)とご一緒に共同代表をさせていただいている「介護保険を持続・発展させる1000万人の輪」が、厚生労働省に、今回の介護報酬改定と、4月から始めようとしている要介護認定システムについて、以下のような要望書を提出し、マスコミの皆さんに対して記者会見をしてきた。

 この「介護保険を持続・発展させる1000万人の輪」については、12月22日のブログで紹介している。

 今日は、要望書の内容をご報告し、明日以降は、最も大きな問題になりつつある「要介護認定」の本来のあり方について、私の意見を述べてみたい。

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 厚生労働大臣 舛添要一殿

                            【 要望書 】
               「平成21年度介護報酬改定」および「要介護認定システム」変更について      

                                         介護保険を持続・発展させる1000万人の輪

                                                      共同代表
                                                       樋口恵子
                                                       白澤政和
                                                       高見国生

Ⅰ 介護報酬改定について

 今回の介護報酬3%引き上げは、これまでの2回のマイナス改定後、初のプラス改定であり、改定の柱の一つが、介護保険サービスの充実と質の向上を図る介護人材の確保と、介護従事者の処遇改善に重点がおかれていたことについては一定の評価ができる。

 しかし、この改定により利用者が受ける介護サービスの充実と、事業の活性化による介護職員の処遇改善が行われなければ、介護報酬に税による予算を投入した国民の期待が損なわれるものとなる。

 私たちは今回の改定について、介護保険を持続・発展させる立場から、次のとおり見解を表明するものである。

●3%の改定幅では、これまで2回のマイナス改定による損益の補填にしかならず、しかも改定内容は加算(新加算は40種)が中心であり、全体的な底上げとはなっていないことから、介護従事者の賃金引上げに反映される保証がないことが危惧される。            

●また、改定のたびに介護報酬が複雑になり、利用者・家族、サービス提供者にもわかりにくい仕組みになっていることから、介護報酬体系を見直し、シンプルで透明性のある報酬の仕組みにすべきである。

1.「人材確保・処遇改善」を謳いながらも、加算取得には様々な要件があり、これでは介護従事者の処遇改善に反映される保証はないこと。

2.「地域区分」の報酬単価の上乗せ割合の見直しをしたが、訪問介護では一定の改善が見込まれるが、グループホーム等では逆に都市部で減収になっているなど、大義との不整合があること。

3.報酬アップに伴った支給限度額の引き上げがなかったため、利用者にとっては単価が上がれば受けられるサービスが減る、または利用料の負担増で利用抑制という状況が危惧されること。

4.認知症については、重点柱のひとつとして全体的に配慮され、新しい評価もいくつかみられたが、中・重度への配慮がある一方で、軽度への対応が十分に行われていないこと。

5.加算要件の見直しと新たな加算が設けられたことによって、書類作成や事務に係る負担が増え、過重な労働が発生する恐れがある。介護従事者の負担を軽減し定着を図るためにも、事務手続きや書類の簡素化の検討を再度行うべきである。

6.給付費分科会の議論が「財源論」と「最初に3%ありき」の配分に終始したかのように見られ、24時間365日の在宅ケアを強化する基本的な議論や将来的議論がされず、今後に大きな課題を残していること。

7.介護従事者のなお一層の処遇改善に結びつけるためには、全体的な基本報酬の引き上げを早急に検討すべきである。


Ⅱ 「要介護認定システム」変更について

●21年4月から変更される要介護認定の仕組みについては、多くの要介護高齢者がサービス給付から外されるという危惧がある。変更については充分な国民への説明責任をまず果たされ、国民が納得しうるまで一旦、凍結するよう求める。

●次回、制度改正の際には、介護保険を国民にわかりやすい仕組みにするために、認定方法の再検討と、家族同居の有無や介護力にかかわらず本人の状態により個人単位で自立支援のサービスが受けられるよう、認定のしくみや、認定のスピード化と透明性を図られたい。
 
1.厚生労働省資料によれば、モデル事業では現行ソフトと新ソフトを使った1次判定結果の一致率は57.6%であり、軽度に下がったものが19.8%、重度に判定されたものが22.6%、2次判定でも一致率は63.2%であり、軽度化は20.1%、重度化は16.7%とされているが、この結果、新ソフトの妥当性、信頼性はどのように検証されているのかについて、国民への説明が必要であり、情報を公開すべきである。

2.認定にかかわる「調査員テキスト」の「介護の判断基準」は今回、大きく変更され、3つの評価軸として「能力」「介助」「有無」のどれかを利用するとされている。しかしこれが、「介護の手間にかかる時間」を正確に反映するものになっているかという疑問も出されている。また、認知症が正しく反映されず、人間本来の尊厳を否定するような文言の部分も多いという現場の声もある。これらを見直すこともふくめ、新ソフトの4月からの使用をいったん凍結されたい。

3.新しい基準で認定が難しくなったり、新しい判断基準で軽度認定に拍車がかかれば、サービス利用への抑制がかかり、介護保険が本来有している利用者の権利性の発揮が損なわれることになる。

義理の親の死を振り返る(3)

2009年03月13日 | 社会福祉士
 先日刊行したブログ本『福祉のアゴラ』にも、義理の母親の介護について書いてあるが、率直に、亡くなって義理の親の偉大さや妻と兄の絆の強さを感じた。これについて書くことで、母親の死についての振り返りの最後にしたい。
 
 義理の母親は年金生活を送っていたため、さほど財産を残して亡くなったわけではない。ただ、驚いたことは、昨日書いた、内孫の姪っ子と、外孫の息子の二人に対して、「結婚お祝い」のために相当多額のお金を別個に貯金してあったとのことである。義理の母親としては、この二人が結婚すれば、全ての孫が所帯をもつことになり、それが楽しみであったことは想像できるが、別個に貯金をされていたとは、たいしたものである。

 良く知っているひとり暮らしの高齢の女性が、いつ急病で入院するかもしれないため、入院の際にもっていく荷物を風呂敷に包んで、玄関のトランクに入れていることを聞いたことがある。その女性は、入院だけでなく、亡くなった時の処分については、当然遺書を弁護士に作ってもらっているという。このように万が一に備えて、準備されていたが、母親も同じ思いで準備していたのであろう。すごいものである。

 結婚を間近に控えた息子には、財産の整理と共に、母親からのお祝いを兄から頂いてきたが、有り難かったという気持ちだけでなく、もう少し元気でいて、結婚式に出たかったであろうという無念の思いと、最期には、息子が結婚することを知って亡くなってくれたことでのホッとする気持ちが入り交じり、複雑な心境になった。

 ただ、いずれの親も子どもや孫のことを常に思いながら、生きている。義理の母のように、それを形にまで残して、一生を終えることができたことの偉大さに敬服する。こうした人生を歩むためには、常に将来を予測し、予測したことに準備を整え、生きていくことが必要なように思っている。そんなことが、私にはできるであろうか、心配である。

 また、さほで財産があったわけではないが、その遺産相続にしても、兄と妻の二人がどちらもいらないといった気持ちでもって、きれいな相続の手続きをしていた。テレビや小説等では、相続での家族のいやらしさを見ているだけに、横から見ていて、両親を失い、兄弟の絆が一層強くなったような気がした。

 これは、親の介護については、兄弟で連携するため、介護で気になることをお互い連絡するため、ベットにノートを置いて、毎日書き込むことを行っていたが、そうした中でも、兄弟のお互いの信頼を作っていったような気がする。これが、遺産分けにも反映しているように思えた。

 いずれにしても、親の死は大きく、そのことが多くの人々の生き方に影響をすごく与えることになることを知った。このような良い影響を与える死であった母親は、偉大であった。

義理の親の死を振り返る(2)

2009年03月12日 | 社会福祉士
 12月の義理の母のお葬式やお通夜に、内孫にあたる姪っ子の旦那となるフィアンセにもお参り頂いた。また、外孫にあたる私の息子のフィアンセにも同じくお参りして頂いた。

 確かに偶然のことではあるが、お通夜の後の親族の食事で、姪っ子と息子の2人がそれぞれフィアンセを親戚の皆さんにご紹介することになった。義理の母親に申し訳ないような気もしたが、両家にとっては、親戚にフィアンセを紹介するグッド・タイミングの場となった。食事の場は、悲しみが詰まったものではあったが、一抹の光が差し込む気分であった。

 ここに、親から子へ、子から孫へと世代が交代していく光景を見たような気がした。逆に、次の世代に引き継ぐ形で、母はすべての孫が結婚まで漕ぎ着けたことを見届け、そのことを安心して、天国に飛びたったようにも思えた。二人の孫は、亡くなる前に、おばあさんに安心してもらうために、彼や彼女を連れて、見舞いに行っていたことも、今になっては良かったなと思う。

 その意味では、世代をつないでくれたお葬式になったことは、悲しみの中での光陰であるように思った。後を引き継ぐことになった息子や姪っ子には幸せな家庭を築いていただき、さらに次の世代へと引き継いでいって頂きたい。

 
 

義理の親の死を振り返る(1)

2009年03月11日 | 社会福祉士
 12月に義理の母親が亡くなり、四十九日の満中陰も既に終わり、少し冷静に亡くなったことを振り返ることができる時期がきたように思う。
 
 妻は母親への信頼と、色んなことで母親に依存していたこともあり、昔は常に電話で相談していたので、相当落ち込むのではないかと心配をしていた。ところが、混乱することもなく、「死を素直に受け入れている」のは意外であった。現在は、自宅のピアノの上に「母親の遺景」を置いている以外には、今までとさほど変わらない日常の生活が続いている。

 その理由を考えると、数年にわたり往復4時間もかけての遠距離介護(飛行機の場合が遠距離介護とすれば、電車の場合は中距離介護とも言えるが)を心をこめてやったことでの、親に対する責任を果たしたことへの自己の気持ちの整理ができたのではないかと思う。介護の間に、何度も「近々危ないのではないか」という事態に遭遇してきたことも、徐々に死を受けいれる準備をしていったのではないかと思った。

 これについては、何回かにわたって、ラブラブというタイトルで妻の介護奮闘記を綴ってきた。余談であるが、妻はブログが本になった『福祉のアゴラ』は読んだらしく、「私よりも、兄が毎日仕事から帰ってから欠かさず介護をしてくれたことを書いてほしかった」と感想をもらしていた。

 介護を介して、母親との関係だけでなく、兄弟の関係についても再確認できたのであろう。相当な時間と体力、さらには神経を使うことで、大変であったであろうが、そこから妻が得たことは大きかったのではないかと思う。

 そこで、親の介護で得たものは何か尋ねてみたが、「またブログの材料集めですか」との反応で、本人は「考えておく」と言っただけである。

 申し訳なかったが、私は知らなかったのであるが、母親が何かの時はやっていた、好きな「お茶断ち」を、妻は介護に行き始めてから、好物の「紅茶断ち」をやっていたらしい。満中陰が終わり、息子や娘に「もう紅茶でも飲んで下さい」と勧められていたので、私は始めて知ったが、こうしたことも母の死を受け入れられる要素であったのかもしれない。

 介護の領域では、介護の負担感と満足感の関係につての研究があるが、こうした研究は、介護をしているある時点での研究であり、両者のアンビバレトな感情を解き明かそうとするものが多い。介護の経験から言うと、同時に大切な研究は、介護者の時間的な変化に合わせて、負担感と満足感がどのように変化していくのかの研究が必要であると思う。

 これは、1年前に私の後期博士課程の学生が「家族介護者の「認知的介護評価」の肯定・否定両側面に関する研究」をテーマにして博士(学術)の学位を得たが、その時の公聴会でも、時系列的な変化に着目した研究が今後は大事であるという指摘を得たことを思い出した。また、社会福祉方法論の有名な研究者である窪田暁子先生が書かれた『小春日和の午後に―ケアの思想を読む』(ドメス出版)の中で、親の介護を終えての振り返りとして、すがすがしさを覚えたことを、お書きになられていたことを思い出した。

 即時的な介護の満足感と負担感という軸だけでなく、介護をしていた時期とその後を振り返っての満足感の変化ということも重要な視点であると思う。

 再度、妻と義理の兄にも「ご苦労さんでした」、そして母には、「天国でゆっくりとおやすみ下さい」と言いたい。

介護の雑誌も勝ち組・負け組が決まる時期(下)休刊の辞

2009年03月10日 | ケアや介護
 『介護支援専門員』が休刊になるため、最終号に編集委員を代表して、「休刊の辞」を載せてもらうことにした。ここには、率直な無念さを書かせていただき、同時にある意味で編集委員としての責任を果たし得なかったことを、読者にお詫びするものとなった。  

 これは、最終号となる3月号に掲載される文章であるが、最終ランの第11巻2号を是非ご購読いただき、有終の美を飾らせてあげたいと願っている。

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                         休刊の辞

 『介護支援専門員』という文字通りケアマネジャー向けの専門誌である本誌が休刊になる。介護保険制度が始まる2000年4月より遡ること1年前の1999年5月に創刊号が出されて以来,編集委員のひとりとして関わってきた者にとっては,至極残念でならない。

 この雑誌は,今回でもって休刊となるが,通巻で60号となり,この11年間,介護保険制度でのケアマネジャーの姿を追い続けてきた。現実に,休刊に至った理由はどこにあるのかを編集委員として考えると,大きく2点あるように思う。

 第1は,ケアマネジャーの多様化に応えることができなかったのではないかという反省である。この雑誌の特徴は,ムック的に,その時その時の課題に合わせた,より適切なテーマを決め,それにふさわしい著者を決めていくことにあった。ところが,介護保険創設当時は,ほとんどケアマネジャーは同じレベルであり,一定のレベルの底上げを狙いにするだけでよかった。しかしながら,毎年輩出されてくるケアマネジャーにより,新人からベテランまで多様になっていった。同時に,ケアマネジャーも居宅介護支援事業所だけでなく,介護保険施設からグループホーム,小規模多機能型生活介護,さらには地域包括支援センターにまで広がっていった。こうした多様化に伴って,毎回単一のテーマ設定だけでは,多くのケアマネジャーのニーズに応えきれなかったことが原因しているのではないかと反省している。

 第2に,読者数を増やせなかった理由は,二度におけるマイナスの介護報酬改正と,特に居宅介護支援事業者の慢性的な赤字状況が影響を及ぼしたと考えている。ケアマネジャーの場合は,確かに個人購読が多いことも事実であるが,介護事業者経営実態調査でも明らかであるとおり,事業者の経営が悪化していたのと同時に,個々のケアマネジャーの給与も低くなっている。こうした介護保険制度の環境が休刊に至る上で大きかったと考える。

 そのため,編集者から休刊するか否かの相談を受けたときには,今回の介護報酬改正で,居宅介護支援事業者の収支が黒字になる事業者も多くなることが見込まれるため,多様なケアマネジャーを意識して編集することで,もう1年様子をみることができないかと提案させていただいたが,それでも上司からよい返事をもらうことができなかったようである。

 ケアマネジャーが学ぶことができる専門誌がひとつ減ることが残念でならないが,あえて言うなら,休刊であり,廃刊でないことに一抹の希望を見いだしたい。同時に,愛読いただいたケアマネジャーには他の専門雑誌等を活用し,今後も研鑽に励んでいただきたい。

 最後に,この雑誌の60号すべてをひとりで切り盛りしてきた編集担当者の走り仁さんに,「ご苦労さんでした」という言葉を添えて,休刊の辞としたい。


                           『介護支援専門員』  編集委員  代表 白澤政和