ソーシャルワークの TOMORROW LAND ・・・白澤政和のブログ

ソーシャルワーカーや社会福祉士の今後を、期待をもって綴っていきます。夢のあるソーシャルワークの未来を考えましょう。

義理の親の死を振り返る(1)

2009年03月11日 | 社会福祉士
 12月に義理の母親が亡くなり、四十九日の満中陰も既に終わり、少し冷静に亡くなったことを振り返ることができる時期がきたように思う。
 
 妻は母親への信頼と、色んなことで母親に依存していたこともあり、昔は常に電話で相談していたので、相当落ち込むのではないかと心配をしていた。ところが、混乱することもなく、「死を素直に受け入れている」のは意外であった。現在は、自宅のピアノの上に「母親の遺景」を置いている以外には、今までとさほど変わらない日常の生活が続いている。

 その理由を考えると、数年にわたり往復4時間もかけての遠距離介護(飛行機の場合が遠距離介護とすれば、電車の場合は中距離介護とも言えるが)を心をこめてやったことでの、親に対する責任を果たしたことへの自己の気持ちの整理ができたのではないかと思う。介護の間に、何度も「近々危ないのではないか」という事態に遭遇してきたことも、徐々に死を受けいれる準備をしていったのではないかと思った。

 これについては、何回かにわたって、ラブラブというタイトルで妻の介護奮闘記を綴ってきた。余談であるが、妻はブログが本になった『福祉のアゴラ』は読んだらしく、「私よりも、兄が毎日仕事から帰ってから欠かさず介護をしてくれたことを書いてほしかった」と感想をもらしていた。

 介護を介して、母親との関係だけでなく、兄弟の関係についても再確認できたのであろう。相当な時間と体力、さらには神経を使うことで、大変であったであろうが、そこから妻が得たことは大きかったのではないかと思う。

 そこで、親の介護で得たものは何か尋ねてみたが、「またブログの材料集めですか」との反応で、本人は「考えておく」と言っただけである。

 申し訳なかったが、私は知らなかったのであるが、母親が何かの時はやっていた、好きな「お茶断ち」を、妻は介護に行き始めてから、好物の「紅茶断ち」をやっていたらしい。満中陰が終わり、息子や娘に「もう紅茶でも飲んで下さい」と勧められていたので、私は始めて知ったが、こうしたことも母の死を受け入れられる要素であったのかもしれない。

 介護の領域では、介護の負担感と満足感の関係につての研究があるが、こうした研究は、介護をしているある時点での研究であり、両者のアンビバレトな感情を解き明かそうとするものが多い。介護の経験から言うと、同時に大切な研究は、介護者の時間的な変化に合わせて、負担感と満足感がどのように変化していくのかの研究が必要であると思う。

 これは、1年前に私の後期博士課程の学生が「家族介護者の「認知的介護評価」の肯定・否定両側面に関する研究」をテーマにして博士(学術)の学位を得たが、その時の公聴会でも、時系列的な変化に着目した研究が今後は大事であるという指摘を得たことを思い出した。また、社会福祉方法論の有名な研究者である窪田暁子先生が書かれた『小春日和の午後に―ケアの思想を読む』(ドメス出版)の中で、親の介護を終えての振り返りとして、すがすがしさを覚えたことを、お書きになられていたことを思い出した。

 即時的な介護の満足感と負担感という軸だけでなく、介護をしていた時期とその後を振り返っての満足感の変化ということも重要な視点であると思う。

 再度、妻と義理の兄にも「ご苦労さんでした」、そして母には、「天国でゆっくりとおやすみ下さい」と言いたい。