ソーシャルワークの TOMORROW LAND ・・・白澤政和のブログ

ソーシャルワーカーや社会福祉士の今後を、期待をもって綴っていきます。夢のあるソーシャルワークの未来を考えましょう。

2025年の高齢者ケアのあり方(5)

2009年02月28日 | 社会福祉士
 今回を2025年の高齢者ケアのあり方の最終回としたい。そこで、今まで私自身が要介護状態になった場合に、どのような施策を実施したり、社会のあるべき仕組みについて考えてきた。最後に、その際に、私はどのように生きていくのかについての現状での気持ちをまとめておきたい。

 少し古い話になるが、1982年にデンマークは高齢者福祉の3つの理念を作り上げました。これは、現在でも、2025年にも通じるものであると考える。第1が、「自立の支援」であり、高齢者自らが自己決定や自己選択していくよう支援することである。第2は、「残存機能の活用」であり、高齢者自らが有している能力や意欲を最大限に活用するよう支援することである。最後の「ケアの継続性」は、高齢者の様々なニーズに合わせて継ぎ目のない(シームレス)サービスを提供し、さらに高齢者のニーズの変化に合わせて継続的に支援していくことである。

 こうしたことが2025年の高齢者ケアにおいても基本になると思う。ただ、本音を言うと、このような支援では、息が詰まる生活になるのではないかという気持ちをもっている。第1の「自立の支援」については、自己決定・選択ができない状況が起これば大変困るが、こうしたことが選択や決定を基本的に保障されている社会であれば、自らの人生でさほど重要でないことまで、自分で決めなくても良いと思っている。むしろ、他の人に決めてもらった方が楽な部分もある。

 これについて、先日の2月14日に近畿介護支援専門員研究大会が和歌山県田辺市で行われ、そこで鼎談「ケアマネジメント力と“じりつ”支援」を私がコーディネーターとなり行った。鼎談者は、立命館大学大学院先端総合学術研究科の立岩真也先生と愛知淑徳大学医療福祉学部福祉貢献学科の谷口明広先生であったが、立岩先生が「自立は大切であるが、最も大切なことではない」といった発言をされた。この発言は私の気持ちと相通ずるものがある。ただ、その場合には、最も大切にしなければならないものは何かの議論が必要であったのかもしれない。

 第2の残存機能の活用についても、理念的にはその通りである。しかしながら、元来から怠け癖のある私にとっては、常時残存機能を活用する自信がない。努力はしたいが、時には怠けることも認めてくれる2025年であって欲しい。これは、よく要介護者が毎日必死になりリハビリに励み、身体状態が完全に改善された事例をきくと、素晴らしいと感激はするが、私は努力はするが、そこまで必死にやれる自信がないし、必死にやるよう命令されと困ってしまう。

 これら、第1の自立支援や、第2の残存機能の活用についての私の思いは、他の人にはないのだろうか。私だけが、少しはさぼりながら、怠けながら、基本的には、自己決定や残存機能を活用して生きていきたいのであろうか。

 第3のケアの継続性については、今までもブログで書いてきたように、その時その時に必要な支援が得られ、私が変化するにつれて、支援の内容を修正していって欲しい。

 2025年の団塊世代のケアは難しそうである。きめ細かい個別的な支援が求められているといえる。

よく行く近所の温泉

2009年02月27日 | 社会福祉士
 自宅の近くで、よく行く温泉は榊原温泉である。ここには8つ程度の温泉旅館があり、自宅から車で30分ぐらいで行けるため、暇をみつけては行くことにしている。家族で泊まるときには、「湯元榊原館」を、日帰りである場合は、温泉街から少し離れたところにある「猪の倉温泉」を利用させていただく場合が多い。ただ、最近は暇がないのか行っていない。

 ここの温泉は、古くから「七栗の湯」という名称で、平安時代には、清少納言が「枕草子」にて「湯はななくりの湯、有馬の湯、玉造の湯」と謳っており、都で三大名湯として通っていたらしい。榊原温泉は、私が住んでいる伊賀から伊勢への入口にあたり、伊勢神宮にお参りに行く際には、ここに湧く温泉で「湯ごり」をして、身を清めたといわれている。

 現実に、ここの湯質はすばらしい。風呂から上がると、肌がつるつるしており、ほこほこしており、湯冷めがしない。湯は無色透明であるが、榊原温泉のホームページにも、「風呂上がりに肌がつるつるスベスベになる」美肌の湯としている。

 ホームページでのつるつるスベスベになる理由を、以下のように説明している。

科学的に解明されていないが、温泉成分に含まれる重曹成分により古くなった皮膚の角質を崩れ易くし、ナトリウムイオンを多く含む高アルカリ成分が皮脂と温泉の間にせっけんの様な膜をつくる事で、肌につるつるとした効果をもたらせるのではないか。

 榊原温泉は、都会の忙しさを忘れさせ、時々体をやすめるのには、ぴったりで温泉旅館である。時間がある人は是非ご利用いただきたい。リーズナブルな値段で利用でき、それ以上の価値を得られると思う。

感動した温泉旅館(2)

2009年02月26日 | 社会福祉士
 鹿児島県での講演も多いが、ここでは温泉の湯質が良い。とりわけ、鹿児島空港の近くは霧島山系では、白っぽい硫黄系で、粘りのあるお湯が素晴らしい。

 ここで感動した旅館は、飛行場からタクシーでも近い妙見温泉郷にある「雅叙苑」である。温泉の質が硫黄系で良いだけでなく、心を癒すにぴったりの仕掛けが施されている。周りにはニワトリが放し飼いにされており、一室一室が自然とマッチした隠れ家風の設えになっており、それぞれの室に露天風呂があり、いつでも好きな時に露天風呂に入れるのがよい。

 食事については、夕食はいろりを囲んで、地元で取れる素材を使った美味しい料理で、夕食後は皆でいろりを囲んで焼酎が飲める。朝食は、お釜でたくご飯のにおいが部屋にまで漂ってくる雰囲気がある。自然を基調とした旅館である。

 ここには、最初は、大隅町での講演に行った時に利用させて頂いたが、気に入り、妻と二人で行ったり、6年ほど前は、娘の結婚前に、家族旅行でも利用させて頂いた。

 この旅館では、仕事を持ち込むというよりは、ゆっくりそれまでの都会や娑婆のあかを落とすことがぴったりである。雅叙苑ではそうした思いで活用させて頂いている。このあかを落とし、心を癒すにぴったりである。

 是非、時間やタイミングが合えば、尋ねて欲しい旅館である。 

感動した温泉旅館(1)

2009年02月25日 | 社会福祉士
 東京以外の講演等では、主催者側が宿泊先を準備してくれる場合が多く、現実には、会場近くの名の通ったホテルや旅館に泊まることが多い。そこで、2ヶ所ほど感動した旅館を紹介しておく。今日は、石川県の能登半島の和倉温泉にある「加賀屋」である。 

 加賀屋は、言わずとしれた、サービスでは日本一ということで、毎年賞をもらっている旅館であり、誰もが一度は泊まりたい所であろう。先日テレビで、「加賀屋」の女将がサービスとは何かという質問に、お客さんが期待している以上、あるいは期待していないまでのサービスをすることだということを、仰っていた。

 私は加賀屋は三回しか泊まっていないが、初めて泊まった時のことが感動的で、今もその時のことをはっきりと覚えている。この時は、加賀屋に近い石川県中島町からの依頼で、全国に先駆けた調査と高齢者に関するモデル計画策定の委員長をお引き受けをし、最初に中島町に伺った時に泊めて頂いた。 

 その当時、ミネルヴァ書房から刊行された訳書『ケースマネジメントと社会福祉』(ステファン・M・ローズ編、白澤政和、渡部律子、岡田進一監訳、1997年)の最終段階であり、食事をとり、温泉に入った後で、徹夜ででもがんばり、校了したいという思いで、夜遅くまで仕事をしていた。すると、仲居さんが頼んでいたわけではないが、夜の12時頃だったと思うが、フルーツを夜食にいかがですかともってきてくれた。

 驚いたのは、私が仕事をしていることをどうして分かったのかである。さすが加賀屋と感心した。そのフルーツを頂き、最終校正が朝方に終了したことを覚えている。料理のおいしさや温泉も良かったが、加賀屋については、夜遅くフルーツをもってきてくれた期待していなかったサービスが忘れられない。これは、『ケースマネージメントと社会福祉』の訳書を見る度に思い出す。

 その後、妻と金沢の観光と車をレンタルして能登半島を車を一周した時も、まずは加賀屋にいつ泊まるかから、計画を立てたことを覚えている。その時も、妻にとっても好感をもてる旅館となっているようである。その時は、整然としてお出迎えと、おみやげにもらい現在も使っている九谷焼の湯飲みが印象に残っている。

 サービスとは、人に仕えることであるが、その極意は難しいものである。介護保険のサービスもソーシャルワークのサービスも同じである。

東京での宿泊方法

2009年02月24日 | 社会福祉士
 毎日堅い話しが続いており、少し息抜きの話しをしたい。その場合、妻とのラブラブについて書くことが今までであったが、今日から出張の多い私が、どのようにホテルを選んでいるか、また感動した経験について、数回程度紹介したい。

 東京以外の出張は講演が多く、その場合の宿泊は、主催者側が準備して下さるので、どのホテルで泊まるかの決まった基準がない。しかしながら、最も多い東京での宿泊については、一定の法則のもとで、選択している。 

 東京で泊まるパターンは2つある。

 1つのパターンは、夜遅くまで東京で仕事なり皆と飲んで、翌日羽田から大学等に戻る場合なり、最終便で関西国際空港から羽田に来て、翌日朝から東京で仕事をする場合である。その場合は、羽田の飛行場内にある「羽田エクセルホテル東急」か、羽田に近い大鳥居にある「東横イン大鳥居新館」が定宿となる。その時に、ANAに乗ったり乗る場合は、ANAの乗り場に近い「羽田エクセルホテル東急」に
決めている。JALの場合は、「東横イン大鳥居新館」にしている。このホテルに決めているのは、安くて親切であるだけでなく、朝早くから15分おきに飛行場までのシャトルバス、最終の飛行機で来ても、ホテルまでのシャトルバスがこれの15分間隔で運行してくれているからである。

 余談であるが、関西国際空港から羽田への最終便と、羽田から伊丹への始発便の両方はJALであり、現実には、「東横イン大鳥居新館」に泊まることが多くなる。伊丹への始発便は6時30分発であるが、大学での1時間目の授業の9時には十分間に合う。

 もう1つのパターンは当日午後に東京で仕事をし、翌日も仕事がある場合の宿泊方法は、翌日の仕事に近い「東横イン」なり「東急ステイ」を選ぶことにしている。両者ともインターネットが無料で、設備が整っていることに共通点がある。また、どちらも簡単な食事がついている。両者の違いは、「東横イン」は数が多いことで選びやすいこと、「東急ステイ」はフロントとは別のエレベーターがあり、自由感覚が強いことである。 

 東京での仕事で行くところが霞ヶ関、虎ノ門、四谷あたりが多いため、現実には「東急ステイ四谷」、「東横イン溜池山王」、「東横イン後楽園文京区役所前」が定宿となっている。これらのホテルはお勧めである。とりわけ、出張の多い私にとっては、部屋が同じスタイルであったり、親切な職員がおられることで、気が休まることが多い。さらに、東横インの場合は、10泊すれば1泊の無料券が送られてくるため、割安である。

 東横インの西田前社長が障害者用駐車場をなくしたり、廃棄物をホテルの下に埋めたりして、相当悪いことをした。これで友人も東横インを離れていったり、私も一時は止めようと思った。妻からも、そうした忠告を受けたが、職員は西田前社長とは別で、大変親切であることを感心している。

 当分は、この2つのパターンで、東京では宿泊していくことになろう。

2025年の高齢者ケアのあり方(4)

2009年02月23日 | 社会福祉士
 国は、市町村が介護保健事業計画を作成するにあたって、高齢者人口の3.5%程度に介護保険施設、特定施設、グループホームの増床を抑制するよう参酌標準(ガイドライン)を示してきた。それゆえ、各市町村の第1号被保険者の保険料を余り上がらない仕掛けとなっている。同時に、家族の介護力の低い都会では、特に待機ケースの割合が高くなっている。

 2025年には、家族の介護力がさらに低下する以上、この3.5%の参酌基準を維持することが可能であるかという問題がある。この割合を高くするよう発言することには躊躇感がある。その理由は、社会保障財源が大幅に増加することになることを恐れてや、コミュニティ・ケアを否定するかのように思われたくるのではないかと危惧するからである。その意味では、パンドラの箱を開けるといった思いもあり、厚生労働省も研究者もあまり発言をしない。少し発言しているとすれば、業界の代表である日本老人福祉施設協議会ぐらいであろう。

 現実に2025年に向けて、高齢者人口の何%程度の入所型施設を作るべきかの議論をすべき時期にきているのではないだろうか。とりわけ、2025年に向けて消費税をアップさせていこうとしている時期であり、良いタイミングのような気がする。これは決して、コニュニティ・ケアを無視するものではなく、入所施設も地域の資源として位置づけ、入所者も地域との関係をつくることを指向できる。

 現実には、特別養護老人ホームと低額の有料老人ホームでは、利用者の自己負担がさほど大きく変わらない状況が起こっている。一方、高額な有料老人ホームもできており、有料老人ホームは多様化の時代を迎えている。今後、2025年に向けて、特別養護老人ホームだけでなく、多様な有料老人ホーム建設に一層インセンティブが働くようにすることが必要である。

 現状でも相当数の待機ケースがあることも考慮すると、2025年には、高齢者人口の5%程度の入所施設等が必要になっていくのではないうだろうか。この数値には理論的な根拠があるわけではないが、団塊世代の当事者として、安心できる社会になってほしいからである。その意味では、徐々に参酌基準を緩めていってほしいものである。

 同時に、今回の介護保険制度改正の中では、3種類の介護保険施設を介護療養型医療施設を廃止し、2種類に整理した。さらに、2025年に向けては、社会復帰機能を特徴とする老人保健施設と、長期ケアを提供する介護老人福祉施設とを明確に区分化し、利用者が介護保険施設を理解できる体系を整えていくことが必要である。

 一方、20255年に向けて、施設については、できる限り、地域社会との接点を持ち、同時に個々の利用者のプライバシーが保持できる仕組みが一層必要になっていく。とりわけ、団塊の世代は一般に自己主張が強く、個別的である。そのため、グループホームの一層の建設や、旧来の施設では10人程度の利用者をベースに個室と共有スペースを組み合わせることで、1対1の対応がもちやすいユニットケアを促進していくこことが求められている。

2025年の高齢者ケアのあり方(3)

2009年02月21日 | 社会福祉士
 2025年に向けての高齢者ケアの財源について言及してきたが、要介護・支援者はできる限り、住み慣れた地域社会で生活を続けていくことを願っている。これは、国民の調査結果でも、多くの人々は在宅志向が強いことが分かる。この傾向は、おそらく2025年においても基本的には変わらないであろう。

 こうした在宅生活を支援していくことを、コミュニティケアというが、ここでは、介護保険、医療保険、年金保険が充実をしても、それのみでは十分な在宅生活が可能にはならないであろう。2025年に向けて、地域のもっているインフォーマルな支え合いもできる新たに生み出していくことが必要である。結果として、前期高齢者が要介護・支援者を支えていくことにつながっていくであろう。

 これについては、イギリスでは今でも住民が「コモン」という住民共同の場を大切にしていることと関係あるように思う。すなわち、どのように地域でハード面とソフト面の両面で住民の共同性を作り上げていくのかが課題である。これは宇沢弘文さんが言う「コモンズ」も同じ意味であるが、共同体が崩れていく「コモンズの悲劇」が市場経済至上主義のもとで進んでいったという感じが、最近はしてならない(宇沢弘文著『社会的共通資本』、岩波書店、2000年)。このコモンなりコモンズをいかに再生するかが課題である。

 これは、12月16日のブログでも書いた福祉領域での「新たな公共」を作ることとも共通している。具体的には、住民が共同する財(ハード面)や助け合い(ソフト面)を作ることであるが、これは旧来の共同体を再生することではない。ここでは、行政、住民、個人という単位がそれぞれに可能な限りの責任を果たし合い、財や助け合いを作り出していくことである。

 こうしたことができなければ、2025年に要介護高齢者のコミュニティケアは不可能であり、できたとしても味気ないコミュニティ生活を超えることはできないであろう。ここに、ソーシャルワークの仕事が大きく残されている。

 現実には、いわゆる限界集落といわれる高齢者比率が半数を超え、従来から実施してきた地域の共同作業ができなくなる地域が相当数にのぼると思われる。そのため、こうした限界集落で現在行っている工夫等が参考になる。例えば、そうした地域では、前期高齢者が中心になって、後期高齢者の支援をしているのが現実である。こうした事例をNPOを基礎にして数多く存在する。これらの事例をそれぞれの地域で深化させ、同時に日本中に拡げていくことが今後の大きな課題であると言える。そのため、現実の事例を分析することで、具体的な方法を明らかにし、それを他の地域で活用していくことで、2025年に備えることが必要である。

 ソーシャルワークの研究者や実務者よ、2025年に向けて奮起せよ。大きな仕事が残されている。  

2025年の高齢者ケアのあり方(2)

2009年02月20日 | 社会福祉士
 以上のような要介護・支援者の増加に伴い、医療保険だけでなく、介護保険の財源も増加していかざるを得ない。介護保険財源については、既に創設当初から7年間で3.6兆円から7.4兆円と2倍以上も増加している。2025年には、要介護者が2倍になり、家族介護力が低下する以上、自然増だけでも、2倍以上の財源が最低限必要になっていくことになる。



 一方、介護保険制度は創設されて9年になるが、国民の制度に対する評価は高くなってきている。読売新聞の世論調査では、制度設立時の2000年4月では、評価している人の割合は41.7%に過ぎませんでしたが、2001年9月には47.1%に、さらに2003年8月には57.1%、2005年1月には60.1%にまで上昇してきている。
 
 こうした評価を受けて、介護保険制度を持続可能なものとするため、介護予防といったできる限り介護保険制度を使わなくて済むような施策を行っている。こうした施策を実施しても、要介護・支援者が急増していく以上、財源の増加を抑制することには無理がある。そうしたことから、昨年の11月4日に、内閣府に設置された「社会保障国民会議」が最終報告を出し、2025年に向けて、消費税で換算すれば、現状の物価上昇分に合わせれば、医療保険制度の大胆な改革を実施し、さらに介護職の人件費水準を1割アップした場合に、年金保険、医療保険、介護保険等の社会保障財源のために、現状の5%に加えて、8.6%の消費税アップが必要であるとの見通しを示している。消費税のみに頼るとすれば、2025年に向けて、5%から13.6%まで徐々にアップしていくことが求めれれている。

 国民負担率とは、国民の所得での租税や保険料の割合を示しているが、図3のように、日本では現在40.1%である。これを老年人口比率で諸外国と比較してみると、比較的日本の国民負担率の低いことが分かる。このような結果、介護保険についても、国民の負担率が増えていかざるを得ないと言える。



 一方、介護保険でサービスを提供していく介護職員の量的・質的充実が求められている。20044年の介護職員は100万人ですが、2025年には136~168万人程度が必要になると予測されている。ところが、現状では介護職員の離職率は高く、介護現場で人材が集まらない状況が起こっている。これを解決していくためには、介護職員の給与等の待遇を充実し、同時に仕事に意義が見出せるよう研修体制やスーパービジョン体制を確立していくことが不可欠である。同時に、介護の質を高めるために、介護福祉士といった専門職を育成していくことも求められている。

 なお、高齢者介護を他の国の人に頼っている国も多く見られる。アメリカであればヒスパニックの人々、オランダであればトルコの人々、台湾であればフィリッピンの人々となっている。日本においても、経済連携協定のもとで、現在、インドネシアやフィリッピンから介護福祉士になるためにやってきており、現在研修を受けている。こうした中で、2025年の高齢者の介護を誰が担っていくのかが問われている。

 まずは、日本国内でどこまで賄いきれるのかが課題である。同時に、海外の人に
依存した場合に、介護職の待遇を低下させ、ひいてはケアの質を下げることにならないかの懸念がある。さらに、そうした海外の人に依存した場合、そうした人々の家族をも日本の中でケアしていくという課題にも応えていく必要がある。

 そのため、まずは介護職を魅力あるものとし、専門性を高め、同時に給与等の待遇の改善を図ることで、2025年に向かっていくことが肝要である。
 

2025年の高齢者ケアのあり方(1)

2009年02月19日 | 社会福祉士
 団塊世代の私は現在60歳であり、2025年には77歳になっている。この時期には、団塊世代が後期高齢者となり、私自身も要介護高齢者になっている可能性が十分ある。2025年がどのような社会になるのかをイメージし、どのような準備が必要なのかを考えてみたい。

 2025年には、第2次世界大戦後の昭和21年から24年に生まれた団塊の世代と呼ばれる人々が75歳以上の後期高齢者になる。そのため、図1のような人口構成となり、2006年と2025年を比べると、後期高齢者は950万人増えて2倍程度になるが、65歳から75歳未満の前期高齢者は、ほぼ同じ人口数であり、かたや、介護の担い手となる20歳から65歳未満は1100万人減少している。



 また、家族構成も現在とは大きく変化している。世帯主が65歳以上の世帯についてみると、2005年の現状と2025年の推計を比較すると、図2のようになる。今後、高齢者世帯数は1355万世帯から1901万世帯にと一層増加するが、とりわけひとり暮らし世帯は387万世帯から673万世帯に増加し、その割合が28.5%から35.4%に大きく増加する。



 人口構成にあっては、当然のことであるが、要介護・支援の高齢者が急増していく。現在、要介護・支援者は447万人であるが、2025年には750万人と1.7倍に増加すると予想されている。同時に、家族構成からみて、家族内に介護者がいなかったり、老老介護といった状況が増加し、要介護・支援者を支える家族の介護力は現状よりさらに低下していかざるを得ない。

 こうした時代をいかに乗り越えていくのかについて考えてみる。財源問題もあるが、地域社会のあり方も大切である。

20年後の社会福祉学の課題と展望

2009年02月18日 | 社会福祉士
 日本学術会議では、日本の展望ということで、20年先を見つめて、課題を明らかにし、どのように将来に向かって対応していくのかが、様々な観点から議論されている。そこでは、社会全体の課題という視点を縦軸で議論し、一方、それぞれの学問領域での課題と展望を横軸として議論し、全体として20年先に向けての「日本の展望」をまとめるという、大がかりなプロジェクトが進んでいる。

 そこで、私もいくつかの役割を担っているが、横軸の一つである「社会福祉学」の課題と展望についての原案をつくり、社会福祉系の連携会員からのご意見を頂き、成案にしていくことになっている。そこで、私が考える20年後に向けて、社会福祉の学問が進むべき方向についての、私案を披露しておく。

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 社会福祉学での課題と展望

1 中期的な課題
 少子高齢化が一層進むことで、子育て不安や介護問題が一層顕在化していくことや、国民が生活していく上でのニーズが複雑化・多様化していくことに対応して、さらには昨今の世界規模での不況による生活困窮者の急増と格差化が進む中で、社会福祉に関する専門職の水準を高めることが喫急の課題である。同時に、必要な職域と職場にそうした専門職を適切に配置できることが求められる。そのため、理論面での基礎研究や政策や方法に関する応用研究の水準を高め、それをもとに教育の質を高めることと、福祉専門職への社会的承認(social sanction)を拡大していくことが求められている。

共通課題
1 グローバル化への対応
 理論、教育、実践の3つの側面を連動させながら、グローバル化への対応を促進していく。

<理論>共通した研究課題を有しながら、国際的な研究・教育での交流が不可欠であるが、国際的な学会組織が十分でない。一方、個々の研究者や各大学での国際的な交流は進んでおり、国際社会福祉教育学校連盟(IASSW)や国際ソーシャルワーカー連盟(IFSW)とも提携し、ヨーロッパの学会組織とも連携し、国際学会を組織していく。当面は中断しているアジア社会福祉学会の再建を図り、国際間での研究の交流を深めていく。

<教育> 国際社会福祉教育連盟が提唱しているグローバル・スタンダードの水準を一層高め、日本だけでなく、世界全体での教育水準を高め、個々の国での教育の独自性を担保しながら、国際的に共通する核となる教育内容を作り上げていく。

<実践>日本では社会福祉士や精神保健福祉士、さらには介護福祉士といった国家資格があるが、諸外国とは国家資格、認証資格等基本的な仕組みが異なり、当然資格要件も異なる。こうしたことが、相互の交流を弱めている。国際社会福祉教育学校連盟や国際ソーシャルワーカー連盟への働きかけを行い、国際的資格の水準を整え、国を超えた資格制度を確立し、国際的に活躍できる人材を養成していく。

 以上のような国際的な視野をもったソーシャルワーカーの養成については、介護福祉士といったケアワーカー養成においても共通のテーマである。特に、イギリス等は両者を同じ組織のもとで養成しており、日本もグローバル化に対応した理論、教育、実践を推進していく。

2 社会福祉のニーズへの対応
 超少子高齢社会が介護や子育てに関連する深刻な課題を産みだし、他方、人々の価値観が多様化することで、また経済の低迷を迎えて外国人労働者も増加する中で、社会問題が多様化・複雑化していくことが予想される。そうした問題に対処する人材としてのソーシャルワーカーについて、量と質の両面で十分な社会福祉教育が不可欠であり、コア・カリキュラムを確立し、一層の教育改革を進めていかなければならない。ひいては、ソーシャルワークが十分な社会的評価を得ることが求められる。

 具体的には、従来からの職域であった社会福祉領域での、一層の専門職配置の促進を推進していく必要がある。さらには、保健医療領域に加えて、新たに学校現場といった教育領域、受刑者等の社会復帰といった司法領域、多様な人々の就労支援といった労働領域でもソーシャルワーカー人材が求められてきており、こうした職域でのソーシャルワーク機能の定着を確立していくことが求められている。さらには、多様化・複雑化した社会問題、介護や子育てのニーズにも応えられる人材配置にも目配りできることが求められる。

 以上のようなことを推進していくためには、従来のジェネリックな教育に加えてスペシッフィクな教育の展開が不可欠である。同時に、こうした広範囲の領域で研究し教育できる人材の育成が不可欠である。
 
 ケアワークについては、高齢者ならびに要介護者等の増加に伴い、今後一層社会からのニーズが高くなっているにも関わらず、人材養成が円滑に行われていない。このため、社会的評価を高めるべく、教育の深みと広がりを推進していき、ジェネリックな教育の確立とスペシフィックな専門性教育の国際的展開も求められており。そうしたことを教育できる人材育成も不可欠である。

 以上のようなソーシャルワークやケアワークでの人材養成においては、キャリアパスを確立し、専門職としての社会的地位が得られる仕組みを作っていくことが緊急の課題である。

3 これからの人材養成
  以上のような専門性を担保していくためには、学部教育に加えて大学院教育を一層推進していくことで、現場で実践できる人材を養成していくことが不可欠となっている。ここでは、実践と研究をフィードバックできる人材を養成し、実践現場での指導者養成を推進していくことになる。同時に、グローバル化との関係では、国際的に活躍できる人材養成を推進していくことになる。そのため、大学院教育では、研究者養成に加えて、高い実践能力をもった人材養成を進めていく。

 こうした大学院教育を推進していくためには、大学院教育を担う人材の養成も不可欠であり、基礎的な研究とそれを応用する研究にて両面での研究者の育成が求められる。そのためには、教育・実践現場の若手研究者・実務者を含めた多くのプロジェクトを提案し、学術研究費を獲得していくことでもって、先端的な研究を行い、かつ大学院教育を担う人材を育成していく必要がある。

ヘルパーの業務内容として「散歩」の支援

2009年02月17日 | ケアや介護
 昨年年末に亡くなった義理の母が、昼間ひとり暮らしの在宅生活をしていた時期のことである。母親は、自宅で昼間に転倒し、立てなくなり、夜帰ってきた家族に助けられるという事件が数回あり、ひとりで自宅にいることに不安があり、同時に動かないことから、さらに歩行能力が低下していく状態にあった。

 そこで、家内が遠距離介護で平日の昼間介護を担うことを行っていた。同時に、自宅には、手すりをつけて、歩きやすい環境を作った。

 その当時、家内と一緒にケアマネジャーとお会いし、ケアプランについての話を伺いに行った。そのケアマネジャーは私のことを本や講演等で知っており、さぞ緊張なり、いやであったことと思う。その時のケアプランでは、大きな目標が「ひとりで買い物に行けるようになりたい」ということであり、ヘルパーの業務として、「一緒に買い物に行く」という計画が含まれていた。その当時、母親は、杖を使って、100メートル程度歩くのがやっとであることから、買い物などは到底無理であった。

 ケアマネジャーとしては、本当は義理の母の残存機能を活用し、生活リハビリするために、散歩と書きたいところを、そうすれば保険者からクレームがくることを予想して、買い物と記述しているのだろうと、私なりに察した。同時に、利用者である母親が真に必要なことを計画に含めてくれていることに感謝すると同時に、本来必要なことが計画にのせられない制度の矛盾に腹立ちさを覚えたことを記憶している。

 それから数年経つが、今回国会で、参議院の大河原まさ子さん(民主党)が11月18日提出 (質問第91号)の介護保険制度に関する質問主意書で、訪問介護での散歩について質問したが、厚生労働省から自立支援に必要な場合には、利用可能であるとの答弁を得ている。

 具体的に、厚生労働省は「訪問介護員による散歩の同行については、適切なケアマネジメントに基づき、自立支援、日常生活活動の向上の観点から、安全を確保しつつ常時介助できる状態で行うものについては、利用者の自立した生活の支援に資するものと考えられることから、現行制度においても、介護報酬の算定は可能である。」とした。

 社会保障審議会介護給費分科会で委員である沖藤典子さんも、散歩を訪問介護の業務として認めるべきであるとの意見を提出していた。その時は、議事録しか見ていないが、返答がなかった。現実に、訪問介護の散歩については、自治体で考えが異なるが、多くはダメとしている市町村が多いような気がする。まさに、ローカルルールである。

 現実には、利用者の自立に質する散歩もあれば、利用者の楽しみとしての散歩もあり、その境界は不明瞭である。ここでは2つの問題点を指摘しておきたい。第1は、老人ホームでも散歩があるが、これは楽しみとしての側面が強いが、在宅の場合は、なぜ楽しみとしての側面の強い散歩はダメであるのか。在宅中心の介護保険と言われながら、在宅高齢者には不利な状況にあるといえる。

 第2は、自立に質する散歩は訪問介護として認めるとしても、その境界は不明瞭である。そのため、厚生労働省が一定のガイドラインを出す必要があるが、それだけでは判断のつかない事例が多数存在する。そのため、こうした事例こそ専門家としてのケアマネジャーの自由裁量に委ねるべきである。自律性をもってこそ、専門家である。ただ、要支援者のベットのレンタルもそうであるように、サービス担当者会議での承認を得るということにしてはいかがであろうか。 

「敬天愛人」について

2009年02月16日 | 社会福祉士
 私が書いた著書を献本する時に、以前は「恵存」と書いていた。これは、この著書をお手元においていただければ幸甚です、という意味である。ところが、今回の『福祉のアゴラ』を献本する時には、「敬天愛人」という言葉を添えることにした。

 「敬天愛人」は西郷隆盛の人生訓としてよく知られているが、これは「道は天地自然の物にして、人はこれを行うものなれば、天を敬するを目的とす。天は我も同一に愛し給ふゆえ、我を愛する心を以て人を愛する也。」ということである。現代訳としては、「道というのはこの天地のおのずからなるものであり、人はこれにのっとって行うべきものであるから、何よりもまず、天を敬うことを目的とすべきである。天は他人も自分も平等に愛したもうから、自分を愛する心をもって人を愛することが肝要である。」(西郷南洲顕彰会発行・南洲翁遺訓)という意味である。(西郷隆盛のホームページ敬天愛人

 西郷はこの人生訓のもと、幕府軍であり江戸の薩摩屋敷を焼き討ちにした庄内藩を、新政府になった時、西郷は咎めることなく、庄内藩に対して寛大な処置をしたことで有名である。その後、庄内藩は西郷を大切にし、西郷没後に、乞うた教えを「南洲翁遺訓」として刊行している。西郷の思いは「失敗のない者に大事な仕事は任せられない」という思いである。これは西郷隆盛が『人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして、己を尽くし、人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬべし』といった表現をしている。 

 西郷隆盛に対する評価も二分するが、西郷が征韓論を主張し、西南戦争になったと高校時代に習ったが、正確には西郷こそが、韓国に出兵することに慎重であったとも言われている。

 今回、敬天愛人という言葉を添えたのは、この世知辛い世の中にあり、私も含めて皆が、苦しい時代であるが、少々のことについては他者を許し合って、お互い仲良くしていこうということを望んでのことである。とりわけ、このブログ本に書かれている事の裏には、多くのせめぎ合いがあったが、今になっては、同じ目的に向かっての同志でありという気持ちを込めている。

本ブログをもとに『福祉のアゴラ』を刊行

2009年02月14日 | 社会福祉士

 ブログを始めて1年以上が過ぎたが、今まで書いてきたブログの中で、ソーシャルワーク、ケアマネジメント、ケアワークに関するものを取り出して、前半の約6か月分について、中央法規出版から刊行して下さることになった。

 そこで、このブログ本のタイトルについて考えたが『福祉のアゴラ』とさせていただいた。アゴラとは、古代ギリシャの「広場」を意味する言葉で、ここで市民が政治や文化について花を咲かせたと言う。そこため、本著をもとに、福祉に関わる多くの関係者がケンケンガクガクの議論をして欲しいとの思いで命名した。

 そこで、「はじめに」を再掲しておく。

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 この度、今まで書いてきたブログの中から、ソーシャルワーク、ケアマネジメント、ケアワークに関するものを選び出して、刊行することになった。そこで、タイトルについて考えたが、『福祉のアゴラ』とさせていただいた。アゴラとは、古代ギリシャの「広場」を意味する言葉で、ここで市民が政治や文化についての議論に花を咲かせたという。本著をもとに、福祉に関わる多くの人に前向きで、積極的な議論を交わして欲しいとの思いで命名した。なお、副題として、「ソーシャルワーカー、ケアマネジャー、ケアワーカーへの応援歌」と命名した。4月1日に、書いているのが私であるとカミングアウトするまでは、ソーシャルワーカーや社会福祉士の話題が中心であったが、以降はケアマネジャーやケアワーカーにも焦点を広げてきた。その意味では、ソーシャルワーカーの話題に少し偏った内容となっていることをお断りしたい。

 私は、元来目的をもって生きておらず、何かにつけて慎重に欠ける人生を送ってきた。おもむくままに進むので、後から後悔することも多いが、時には無理なことをやって良かったと自己評価することもある。

 このブログも、何となく正月ゆえに時間があり、私が会長を務めている(社)日本社会福祉士養成校協会(社養協)のホームページ内のソーシャルネットワーキングサイトSWaNS(すわんず)に書いたのが始まりである。子ども時代を振り返れば、絵日記は何時も三日坊主であり、何となく始めた以上、続ける意思はさほどなく、何となく終わるであろうと思ってのスタートであった。

 それが、このように続いているのには、自分でも不思議でたまらない。周りにいる人々も同様に思っていると思う。私は、新しがり屋で、飽きっぽく、良い意味では変わり身が早いとも言える。それなのに、なぜ、こんなに長く続いているのであろうか。

 恐らく、二つの理由があると思う。一つは、現在、社養協会長や日本学術会議会員といった重責を担うことで、山積していると思っている様々な課題がよく見え、そこから意見を言っていかなければならないという気持ちが強いのであろう。可能な限りの情報を発信し、それについてのオピニオンリーダーになれればとの思いがある。

 もう一つの理由は、ブログには今までの論文等による研究活動や、大学や大学院での教育にない別の魅力があることが分かったからであろう。それは、社会福祉の実践や教育現場で働いている人にメッセージを伝えることができることである。同時に、論文といった大それたことではなく、その時その時に感じている、そしてほうっておけば、私自身も忘れてしまうかもしれないが、大切な思いを直接伝えることができるからであろう。

 一方で、依頼された原稿や、授業の準備のために、ブログを書く時間を作ることができず、イライラすることもある。正直、たまっている原稿もある中での出版であり、多くの出版社から本来出さなければならないものがあるのでは、とお叱りをうけそうである。

 今回は、6か月分のブログの中から、意義がありそうで、おもしろそうなものを集めての出版であり、それなりに、私が日々感じている思いが通ずる本になったと思っている。ある意味、私の思いは、今まで出してきた学術書よりも明確であるかもしれない。とりわけ、社会福祉士制度改革の渦中のブログであるため、歴史的な意味をもっていると思っている。そのため、この改革についての個人的な思いが、読者の皆さんの実践や研究のヒントに繋ってくれればと願っている。

 私のブログは今後も続けていくつもりであるが、多くの皆さんに買っていただければ、続けて次のブログ本も刊行できると思っている。そのため、是非、多くの実務者や研究者に読んでいただきたいと願っている。

                                              平成21年1月1日
                                                   白澤政和 
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 是非、本屋の店頭で見つけたときには、お買い上げいただきたい。また、中央法規出版のホームページで直接注文できるようにしておきました。アマゾンのアフェリエイトでも注文できるようにしています。『福祉のアゴラ』をクリックしていただければ、買うことができます。

 ブログとは少し違う趣で、読んでいただけると思います。宜しくお願いします。

老いを生きる

2009年02月13日 | 社会福祉士
 60歳を迎え、多くの同期が定年を迎える。私の場合は、大学の定年が63歳であり、停年まで後3年あるが、後進に道を譲るために早く辞めても定年扱いの時期にきている。そのため、老いをどのように生きていくのかを考えることが多い。

 昨日、60歳を超えたため、年金の説明会があり、基礎年金の受給権が発生したということである。現実には、65歳頃から受給することになるのであろうが、こうしたことが重なると、老いをどう生きるのかというテーマに直面せざるを得ない状況にある。

 確かに、体力は落ちており、病気などをすると、以前に比べて、回復力が弱い。一方、年齢的に社会的な仕事が多く、無理をすることも多い。そうした中で、いかに今後を生きていったらいいのかに悩む。

 高齢者の生き方としては、社会との交流をできる限りもった生活を続けていくことが幸福な老いをもたらすという活動理論(activity theory)と、徐々に社会から身を引き、関係を絶っていくことが高齢者にとっても望ましい姿であるとする離脱理論(disengagement theory)の論争が、私の学生時代にあった。その後、継続理論(continuity theory)といった、中年期から高齢期に移行する際には、生活そのものや行動パターンの継続性を保ちつつ変化していくことが望ましいという考え方が示されてきた。こうしたことを考えると、継続性を担保しながらも、徐々に社会から身を引いていくことが良いのかもしれない。そうした環境が与えられるかどうか分からないが、できればこうした視点で次の人生を見つけ出していきたい。

 また、高齢になっても様々な領域で活躍する高齢期を強調するプロダクティブ・エイジング(productive aging)の考え方から、高齢期の心身の低下や喪失感に対処しながら幸福な老いを求めるサクセスフル・エイジング(successful aging )の考え方が追求されてきている。

 
これについては、私は常にその時その時の目標をもって生きることであるように思う。

 理論通りにはいかないであろうが、経験したことになり老いの世界に徐々に入っていくうえで、机上での老いの生き方を考えてみた。老いることは、寂しいことでもあるが、嬉しいことでもある。

スケールメリットにどのように対応するのか(4)

2009年02月12日 | ケアや介護
 スケールメリットの問題は介護事業者だけの問題ではない。大学もしかりである。

 大学間での競争も熾烈である。大学にもほぼ全入の時代を迎え、定員割れを起こしている大学が増えてきている。子どもがさらに減っていく以上、今後一層、定員割れの現象は強くなっていくものと思われる。

 そこでも、名の通った総合大学は基本的に強い。これらの大学では、逆にこの時とばかりに、新学部を作って定員増をしていくところもある。予備校の分析では、学生はブランド志向が強く、専門志向よりも、大学の名前で受験する傾向が強いようである。特にこの傾向は、男性の高校生に多いという。

 このことは、社会福祉の大学にも当てはまる。社会福祉の単科大学なり、数学部しかない小さい大学は、学生集めで苦戦を強いられている。定員割れを起こしている大学もあると聞く。

 ただ、これらの単科大学では、教員が整っていたり、個別的な教育ができていたり、ユニークな教育ができていたり、伝統のある大学も結構多い。そのため、こうした単科大学が再生することを、心から願っているが、なかなかうまくいかない。単科大学が勝ち組になるためには、今まで以上に、高校生の心に届くような仕掛けが必要なのであろう。

 社会福祉養成校協会の立場としては、社会福祉に高校生の人気が集まるよう努力する責任を有している。これについて、側面的な支援しかできないと思うが、単科なり少数の学部の社会福祉系大学が高校生からの評価を高めてくれることに、特に力を入れていくべきであると思っている。名案があれば、誰か教えていただきたい。

 これら総合大学の状況をスケールメリットというのかどうか分からないが、総合大学は単科や少数の学部しかない大学の引き離しにかかっているように思える。世の中は厳しいものであり、容赦はしてくれない。