ソーシャルワークの TOMORROW LAND ・・・白澤政和のブログ

ソーシャルワーカーや社会福祉士の今後を、期待をもって綴っていきます。夢のあるソーシャルワークの未来を考えましょう。

「ネガティブ・ケーパビリティ」の大切さ

2008年09月30日 | 社会福祉士
 昨日は阿部先生がおっしゃってられる「ネガティブ・ケーパビリティ」について書いたが、ソーシャルワークやケアワークといった仕事では、個人と環境の不調整の背景をつかむことが難しく、このことを強調しておく必要があると思った。医学でも、医師が診断できない時にどうするかが問題であるといったが、それ以上に生活モデルでは背景の理解が難しい。

 そのため、先日ある事例に対してコメントした内容から、その重要性を指摘しておきたい。

 その事例は、介護老人福祉施設に入所しているAさんに対するケアについてであったが、入所当初、夜中に生活相談員を呼べと要求し、それが難しいことから、夜勤の職員に暴言・暴力行為がある認知症者である。こうした場合には、職員は、どのような対応をすればよいのか。ある職員は、Aさんに対して生活相談員がいないことの説明を繰り返すかもしれない。別の職員は、暴言や暴力を制止し、叱るかもしれない。さらに、別の職員は、話をそらすために、Aさんが関心ありそうなことに話し向けるかもしれない。

 このような職員の行為の根底には、Aさんを「やっかいな者」「わけの分からない者」「暴言・暴力をふるう者」とレッテルを貼り、できる限り関わりをもちたくないといった気持ちになりかねない。こうした気持ちでは、利用者への尊厳あるケアとは決していえない。

 誰もがかけがいのない、代わることにない存在として、一人一人の尊厳を保持するケアをすることの必要性を分かりながら、コミュニケーションがもてなかったり、職員の意に反する行為や態度を示す利用者に対しては、尊厳あるケアが難しい状況になる。そうした場合に、このネガティブ・ケーパビリティが特に大切である。

 この利用者への関わりの第一段階は、本事例では初め暴言・暴力が多いが、職員にはその理由なり背景は分からない。けれども、Aさんは何かを伝えようとしているのであろうという気持ちを受けいれる。これが「受容」であるが、この事例では、添い寝をしながら話を聞いたり、話し相手になって根気よく付き添うことを行っていた。こうした受容の過程が最期まで続いていくであろうが、この時点では分からないことにじっと耐えることである。これがまさにネガティブ・ケーパビリティである。

 第二段階では、受容を続けながら、なぜそうした行為が起こすのかを、Aさんの気持ちを分析していくことである。これは、一般にアセスメントと呼ばれるものであるが、その背景になることを、利用者のしぐさや表情、さらには資料をもとにして、推測し、分析してみる。現在の心理的な状態に関する情報、また生活歴や家族関係についての情報を得ていく中で、そのような行為がAさんの中でなぜ起こっているのかを理解するよう努力する。特に、認知症高齢者の場合は、覚えられないことや忘れてしまうことからの不安や怒りといったことが生じることも重要な視点である。

 第三段階では、背景と考えられることを試行錯誤的な側面もあるが、Aさんと一緒に実施してみることになる。この事例では、第三段階でもって、暴力や暴言がなくなり、情緒的な安定が得られていった。

 しかしながら、全ての方が必ずしも第三段階に至って初めて情緒の安定が得られるわけではなく、第一段階であって、第二段階や第三段階に進めなかったとしても、受容といった態度で接することで情緒の安定が図られることも多い。

 なお、こうした流れのそれぞれの段階で、全ての職員が共通した視点で関わり、お互いの理解を深めるためには、チームアプローチが不可欠である。ネガティブ・ケーパビリティも、仲間と共に支えあうことが大切であろう。

『人と社会―福祉の心と哲学の丘』に感激

2008年09月29日 | 社会福祉士
 社会福祉の良心として日本の社会福祉を導いていただいた阿部志郎先生と厚生労働省官僚から大学教授に華麗に転身された河幹夫先生が書かれた『人と社会―福祉の心と哲学の丘』(中央法規出版)を読んだので、感動したことを書きとめておきたい。

 阿部先生の福祉に対する思いをいつもの先生の口調で綴られており、何とも言いようのない感動が起こる内容である。また、河先生の書かれたであろう部分も、官僚臭さが全くなく、多様性でもって、個人でもって社会を作っていくことの大切さを強調されていた。

 余りにも広範囲に及ぶ内容なので、全体について言及できないが、特に最後近くで書かれており、感銘したことについて書き留めておく。

 それは、ジョン・キース(John Keats)の言葉を引用しての「ネガティブ・ケーパビリティ」(negative capability)である(187頁)。これは、分からないことに耐える力のことであるが、ソーシャルワーカーは利用者との関わりにおいても、何故そうしたことが起こったのか、行為をするのか、分からないことに出くわす。そこでは耐えて、葛藤の中から新しい道を見いだしていくことがソーシャルワーカーの素養であるという。

 その時、ソーシャルワーカーが耐えるとは、具体的にどのようにすることかを考えさせられた。例えば、認知症の方が暴力を振るう場合に、何故か分からない。その時に、ソーシャルワーカーが耐えることとは、そうした行為をせざる得ない気持ちにあるその人その者を受け入れることであろうか。さらに、何とかして、その人との関わりを深めていくことで、また支援している仲間との話し合いをしながら、何故かを求めていくことになる。これを、最近よく言われる用語がクリティカル・シンキング(critical thinking)である。これは、憶測ではなく、事実なり証拠に基づいて判断をしていくことである。こうした姿勢がソーシャルワーカーには求められる。この結果、エビデンスとなる判断の論拠ができることもあるが、なおかつ分からないこともある。前者の場合でも後者の場合でも、継続して、そうしたことをせざる得ない気持ちを受け容れ続けることになる。

 現在、医師の教育においても、患者の病名が診断できない状態になった場合に、どのように対応するのかの教育が不十分であったとの反省がある。ソーシャルワークは医学と比べようがないほど、分からないことが多い。そのため、この本に書いてあるように、分からないことに、五感を使って耐え、掴み取っていくことが求められるが、そうしたできないことの教育を十分できてこなかったことを反省した。


人と社会―福祉の心と哲学の丘
阿部 志郎,河 幹夫
中央法規出版

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ケアマネジメントを必要とする人と必要としない人の基準

2008年09月27日 | ケアや介護
 3年前の介護保険制度の改正で、特定高齢者までケアプランを作成することになり、仰天した。世界の国々は、逆にできる限りケアマネメントの対象者を減らしていく動向にある。例えば、イギリスでは、軽度者はケアマネジメントの対象から除外し、その人たちには情報提供(information and referral services)で対応することとしている。

 要支援者や要介護者でもケアマネジメントを必要としていない人がおり、一方、一般高齢者でもケアマネジメントを必要としている人がいるというのが、私の持論である。それでは、ケアマネジメントを必要とする人と必要としない人を分離する基準は何なのかは気になっていた。

 この度、介護保険のコンピューターソフト業界でシェア第1と言われるワイズマンと第3の日立、さらにライフケアパートナーという3社にスポンサーになって貰い、「ケアマネジメントを必要としている人と必要としない人を分離する基準」について、ケアマネジメント現場の人4名と、私を含めて3名の研究者で研究会を行ってきた。今回、そのまとめをすることができ、『ケアマネジメントのあり方~ケアマネジャーの必要な人、そうでない人に焦点をあてて~』という報告書が刊行できるまでになった。

 そこで事例研究をする中で分かったことは、両者を分けている基準は、本人や家族が有している「アセスメント力」と「コーディネーション力」であることが分かった。「アセスメント力」の内容としては、①目標を決定する力,②現状を把握する力、③課題(ニーズ)を明確化する力、④モニタリングする力、に分けられた。一方、「コーディネーション力」の内容としては、①方法を選択する力、②資源を選択する力、③手続きする力、④評価する力、⑤資源充足に向けた働きかけ(アドボケイト(advocate))する力、に分けられる。これらを整理すると、図のようになる。

【アセスメント力とコーディネーション力のマトリクス】



 但し、これは介護保険の特定高齢者、要支援者、要介護者の場合に限ってのことであり、これら2つの基準は利用者や家族の「問題解決力」の程度を示すことであると考えている。研究会では強く発言しなかったが、同時に、そこで出会う問題が強力で解決困難なものであればあるほど、「問題解決力」は弱くなると言える。そのため、もう一方、今後研究していかなくてはならないことは、利用者が有している問題(ニーズ)の強力度(解決できる程度)についても基準となる軸を作っていく必要があると思っている。

 私は、大学では、若手の研究者や大学院生と一緒に共通テーマでもって共同で研究しているが、一方現場の人々と一緒に研究をすることも大好きである。後者の研究は、極めて実践的であると同時に実用的であるからである。

 今年度は予算も消化し、早々と報告書を作成できるまでになったが、来年もこの研究会は続けていきたいと思っている。

訪問介護の使命

2008年09月26日 | 社会福祉士
 現在使われているホームヘルパーという用語は日本語として、昔は家庭奉仕員と呼び、現在は訪問介護員と呼んでいる。これについて、資格の観点からは、この仕事を国家資格でもって行っている者を介護福祉士、ホームヘルパー資格取得の研修を受けて資格を得た者を、1級のホームヘルパー、2級のホームヘルパー、3級のホームヘルパーと呼んでいる。

 日本は、歴史的にこの制度をアメリカからではなく、イギリスから取り入れた。イギリスでもホームヘルパーと呼ばれ、日本に移入されたことが分かる。1960年代前半にホームヘルプ制度が市町村の独自事業として始まったが、その内の大阪市では、当時の児童課長(高齢者も担当していた)であった池川清氏がイギリスに派遣され、それをもとに大阪市で始めたものであると聞いたことがある。

 当時は、女性の就労支援としての要素が強かったが、イギリスのホームヘルパーの業務は、昨日の身体介護と生活援助を一体的に行うものであり、介護保険にしても、それを踏襲していることになる。ただし、その時に、理論的に身体介護と生活援助の関係は、利用者のニーズにより捉えられるものであり、生活援助を減じて、身体介護に純化するものではない。

 これに比べて、アメリカの制度は、このホームヘルパーの制度を二分して、実施している。身体介護の部分はヘルス・エイドと呼ばれる職員が、生活援助部分はホームメーカーという職員が行っている。

 日本の訪問介護は、イギリスから入ってきたものであり、身体介護と生活援助を一体にした業務として位置づけられといたことから、徐々に分離の方向に進んでいるように思う。ホームヘルパーの業務が分離していくことになれば、生活援助は低く見られ、本来は一体的な中で専門性が高められるにもかかわらず、生活援助は単に家政婦的な機能になっていくようようになるのではないかと危惧する。 

介護保険改正前後での訪問介護利用単位数の変化

2008年09月25日 | ケアや介護
 2年半前の平成18年4月からの介護報酬の改正で、訪問介護の「身体介護」「身体介護+生活援助」「生活援助」の三種類がどう変化したのかを、「介護給付費実態調査月報」から見てみたい。ご存じのように、「生活介護」は家事援助と呼ばれるものである。

 改正により、軽度とされる要支援者については、週に1回か2回かの回数制限が加わり、1か月の包括払いとなった。同時に、訪問介護での生活援助は、厚生労働省が通達を出しても、未だ地域によっては、利用対象者を「一人暮らし」に限定している保険者もある。

 その結果が、図の通りであるが、介護報酬の改正で、「生活援助」の利用が激減した。このことをどのように解釈するかで、介護保険制度に対する見方が異なるように思う。

 一方の人々は、ケアマネジャーの適正化が進み、要支援者が適切なサービスを利用するようになったと評価するであろう。さらに言えば、18年度以前は、不必要なサービスを使っていたことが証明されたとまで言うであろう。

 もう一方の人々は、適正化という名称でのサービス利用の抑制が進められ、要支援者は必要なサービスが利用できなくなったことを表していると主張するであろう。さらに言えば、多くの要支援者はサービス利用ができなくなることで、十分に対応できない家族の負担が増加し、利用者自身は要介護になる時期が早く来ると予測する。

 真実はどちらにあるのであろうか。これには、介護保険制度は何を目的にしているかにより、意見が二分すると考える。前者は、介護保険は利用者に対して介護に限定して提供するものであり、後者は介護保険でもって利用者の生活を支えると考えているものである。当然、私は後者の本人や家族の生活を支えるものであるべきと考えており、そのことこそが斬新で有効であると思っている。この保険があってこそ、医療では覆えない利用者の生活を支えるサービスや仕組みが作れたと思っている。

 確かに、行き過ぎのサービス提供がごく一部あったことは否定しないが、この図は後者の必要な人にサービスが提供できなくなり、要支援者やその家族は生活が困難になってきていると考えている。同時に、利用者の介護予防とは逆に作用している可能性が高いと推測している。これは、要支援者が利用しないことで、生活の範囲を狭めている場合が多いと思っているからである。

 あなたは、どのように考えるのであろうか。これこそが、高齢者を中心とした被保険者に意見を求めるべきであろう。

「更生保護でのケアマネジメント」(2)

2008年09月24日 | 論説等の原稿(既発表)
保護観察対象者へのケアマネジメント
 保護観察対象者が地域での生活を行う上では、多くの生活ニーズを満たすことが求められる。それらのニーズは個々の保護観察対象者によって異なることがあるが、主に以下のようなことが必要である。

①経済的な安定を得ること
②心身の健康を得ること
③就労や学習機会を得ること
①家族や地域での安心した生活を得ること
⑤居住の場を得ること
⑥文化や娯楽の機会を得ること

 これらのニーズは一例であり、保護観察対象者により個別的であり、人によっては親戚との関係で悩んでいたり、友人との新たな関係づくりに苦慮している場合もあろう。

 こうしたことが満たされないで困っており、ニーズを有している保護観察対象者に対して、それぞれのニーズについて公的なサービスや地域の支援を得られるよう結びつけていくことである。ここで活用されるサービスや支援を社会資源と呼んでいる。

 社会資源は、制度的な各種サービスと、制度となっていない地域での支援に分けられる。前者には、経済面での年金や生活保護の制度、医療面での医療保険制度、さらには教育や就労支援でのハローワーク、居住面での公営住宅、介護や家事面での福祉サービス等、多様な社会資源がある。

 他方、保護観察対象者に直接かかわるインフォーマルな社会資源としては、家族・親戚や友人、近隣といった者に加えて、保護観察対象者に特化した資源ともいえるボランティアとして活動されている保護司や職場を提供してくれる協力雇用主等がいる。さらに、保護観察対象者に直接かかわることはそう多くないが、そうした人々が地域で安心して生活できる基盤づくりを行っているボランティアとして、更生保護女性会やBBS会の活動がある。

 以上のような各種の社会資源に結びつけることで、保護観察対象者の生活課題を解決し、安心した地域生活を支えることになる。

 ここでは、具体的な仮想ケアマネジメント事例を示すことで、多くのネットワークでいかに地域生活を支援するかを説明してみる。

 Aさん(22歳)は仮釈放で保護観察となったが、保護観察官との相談の結果、①親家族が受け容れてくれるかどうか不安であった。さらには、②以前勤めていた工務店で再度雇用して欲しいという希望をもっていた。同時に、③今後の生活での不安に対して、必要なときに誰かに相談にのって欲しいとの希望を持っていた。

 そこで、①については、仮釈放前に家族との調整を行い、住居を得た。②については、工務店社長と調整したが不景気でダメとなり、協力雇用主であるB工務店に就職することとなった。③については、担当の保護司が定期的あるいは随時に相談機会をもつことになった。この結果、Aさんは、保護観察官、家族、B工務店、保護司といったネットワークの下で、新しい人生を再スタートすることができた。

まとめ
 ケアマネジメントを実施していくためには、保護観察対象者と保護観察官や保護司、あるいは保護観察所職員との信頼関係を作っていくことが必要である。そのため、ケアマネジャーになる者は、保護観察対象者と一緒になり、「何とか安心して地域で生活したい」という願いを共有し、相手の思いに耳を傾け、受容していく姿勢が求められる。さらには、生活課題についても、また利用する社会資源についても、保護観察対象者自身の自己決定の下で進めていくことが原則である。同時に、こうしたニーズを理解するためには、保護観察対象者との時間をかけた話合いが必要である。

 こうしたケアマネジメントを可能にしていくためには、保護観察官や保護司を中心にした地域での様々な社会資源との常日ごろからの連携が求められる。

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 いかがであろうか。社会福祉士が雇用されることで、このようなことが常態化することを強く期待したい。

「更生保護でのケアマネジメント」 (1)

2008年09月23日 | 論説等の原稿(既発表)
 約2年半前に、「更生保護でのケアマネジメント」というタイトルで『更生保護』に依頼され、原稿を書いた。そこでは、出所者の社会復帰をケアマネジメントの手法を使って支援することを提案するものであった。

 その当時は、実現するのには、高いハードルがあり、実現するには相当時間がかかるであろうと思っていた。ところが、今回の概算要求が実現すれば、原稿の内容の実現が間近になっていると思い、2回に分けて再掲することとした。

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はじめに
 山田洋次監督・高倉健主演の「幸福の黄色いハンカチ」というタイトルで映画化された、ピート・ハミル原作の短編「黄色いリボン」を御存じだろうか。刑期を終えて出所する主人公は妻に手紙で、迎えてくれる場合は、家の樫の古木に黄色いリボンを結びつけてくれるよう約束をしていた。バスで故郷に向かう主人公は不安でたまらなく弱気になり、運転手に見に行ってくれるよう頼むが、樫の木には数百の黄色いリボンが結びつけられており、それが燃え立つ陽炎のように映っていたというストーリーである。

 受刑者は、保護観察なり刑を終え社会復帰していく際には、家族だけでなく社会全体が受け容れてくれるかどうかの大きな不安をもっている。こうした不安に対して保護観察官や保護司等、さらには更生保護施設の補導主任・補導員といった職員には、安心して地域生活のスタートがきれて、そうした生活が継続できるよう支援していくことが求められる。

ケアマネジメントとは何か
 ケアマネジメントとは、人々が地域社会で生活が続けられるよう支援していく方法である。1970年代後半にアメリカで精神障害者が病院を退院し、在宅生活を始めるに当たって活用されたのが最初である。この方法は精神障害者だけでなく、要援護高齢者、心身障害者、虐待を受けている子ども等にも活用され、また世界の国々で普及していった。日本では、特に2000年に始まった介護保険制度の下、ケアマネジャー(介護支援専門員)は、要援護高齢者に対して様々なサービス等を提供することでできる限り長く在宅生活が続けられるよう、支援を行っている。
 
 ケアマネジャーの仕事は、個々の利用者に対して、地域生活をする上で生じている課題やニーズを満たすために、利用者に制度となっている各種サービスや、近隣といった制度化されていない地域の支援を結びつけることである。その結果、個々の利用者に対してネットワーク(網の目)ができ、多くの「支え棒」を得て、セーフティ・ネット(安全網)の下、安全で安心した地域生活がスタートでき、継続できることになる。利用者だけでは、必要とするサービスや支援を得ることができず、在宅生活が崩壊し、病院や施設に再入院・入所することが多いため、こうした支援方法が開発されてきた。
 
 保護観察対象者に対してもケアマネジメントの方法を使って、不安な社会生活の再出発を支援し、さらには地域の中で住居、職業、所得を得て、安心して生活が継続できる支援が必要である。こうした業務は、場合によっては、保護観察官と保護司が協力して実施することも、保護観察所の職員が行うことも可能である。
 
 保護観察官は保護司との協働態勢の下で、「保護観察に付された者の指導監督及び補導援護」、さらに「刑務所在監者・少年院在院者の環境調整」を行うことを主な業務としているが、これはある意味では、ケアマネジメントを実施することとも説明可能である。前者は保護観察に付された時点での、後者は保護観察に付される前の、ケアマネジメントである。また、更生保護施設においては現状でも、早期自立を目指して、関係機関との連携を図っており、入所者の能力開発を含めたケアマネジメント業務を実施していると説明可能である。


概算要求で司法分野での社会福祉士活用に注目

2008年09月22日 | 社会福祉士
 先日、2009年度の概算要求で、刑務所を出所した人の更正施設での高齢者や障害者の福祉サービス利用を支援するため、社会福祉士等を新規に配置するという内容の毎日新聞の記事も含めたブログを、9月5日に出した。その後明らかになったことは、福祉新聞(9月8日発行)に詳しく掲載されていたので、正確に書いておきたいと思う。それによれば、毎日新聞の記事はごく一部の内容であり、厚生労働省と法務省が連携して、多様な場面で社会福祉士等を介して、出所者の社会復帰を図っていく枠組が作られた。

 法務省の概算要求は、刑務所の中での社会復帰支援(施設内処遇)と出所後の社会復帰支援(社会内処遇)に分けることができる。それは局が異なり、社会福祉士はごく一部施設内処遇の一部で昨年度から採用されていた。

 施設内処遇では、今まで8カ所の刑務所に1名の社会福祉士または精神保健福祉士が配置されていたが、78カ所の全刑務所の内で未設置の施設に社会福祉士が配置されることになっている。また、全国で52ある少年院の内の、3施設で社会福祉士、2つの医療少年院に精神保健福祉士の配置が計画されている。ここでは、社会福祉士等が刑務所内で受刑者の社会復帰支援を行っていくことになる。

 社会内処遇としては、全国に101カ所ある更生保護施設に57名の社会福祉士や精神保健福祉士を配置することになっている。ここでの社会福祉士は、出所した障害者や高齢者を社会福祉施設等の入所や在宅支援をすることで、3か月程度で退所してもらうよう支援する退所計画の作成・実施を行うことになる。

 以上は法務省の概算要求であり、社会福祉士等を雇用することで、体系的な社会復帰体系を作り上げようとしている。

 さらに厚生労働省の社会・援護局の概算要求では、刑務所出所者等の地域生活定着支援として、刑務所入所中から、出所後直ちに福祉サービス(障害者手帳の発給、年金受給など)につなげるための準備を支援するために、各都道府県に1か所「地域生活定着支援センター」(仮称)を設置することになっている。このセンターは社会福祉法人やNPOに委託し、3人程度の職員で運営するとしており、職員の資格は未定としているが、医療・福祉制度に熟知したソーシャルワーカーになりそうだと書かれている。

 まだ概算要求の段階であり、今後の状況を見守っていく必要があるが、これらの社会からの要請に、社会福祉士教育は応えていくことができるであろうか。新カリキュラムのもとでは、「更生保護」が新設の科目にもなり、司法領域にも多数の実践能力のある人材を送り出していきたいものである。

 こんなことで、社会福祉士に展望が開けてきた時に、一昨年法務省が発行している「更生保護」という雑誌に書いた原稿を皆さんに見ていただきたくなった。それで、この雑誌を刊行している日本更生保護協会からの了解が得られしだい、二回に分けて、その時に書いた原稿を転載することとする。書いた時は、まだまだ夢のように思っていたことが、現在実現しそうであるからである。
 

健全な在宅サービス事業者を支える介護保険制度に

2008年09月20日 | 社会福祉士
 民間の介護サービス事業者の20周年記念パーティーにお招きを頂き、参加させていただいた。社長は作業療法士の出身で、老人福祉施設での在宅サービスを行っておられ、そこで一層在宅を進めたいとの思いから、仲間を募って始められたという。

 私とは、20数年前に、地域のネットワークづくりのシンポジウムでスピーカーとしてご一緒させて頂いた以降、直接お会いすることがなかったが、当時熱心に在宅ケアの大切さをシンポジウムで語られておれれたことだけが、記憶に強く残っている。

 介護保険制度が創設された時には、多くの事業者が立ち上がったが、介護保険制度以前に立ち上げた事業主は、私の知る限りでは、在宅サービスを高めたいという思いや熱意が筋金入りである。おそらく、介護保険が始まるまでの12年間は経営的にも苦しかったであろうと想像するが、社長は楽しく過ごせてきたとおっしゃっていた。さらに、2005年の介護保険制度改正で、また財源が苦しく、さらに人材難という二重の苦しみがあるものと察する。しかし、社長は、苦し時があれば、また楽なときもやってくると、楽天的である。

 この間に18の事業所をもつまでになっているが、パーティーに参加されている200名程度の職員は明るく、現場で働いている多くの15年選手や10年選手が表彰されていたが、こうした長く働ける職場であることが嬉しかった。

 この企業の理念は、利用者と家族の幸せを一緒に作ることであるういう。社長も、挨拶でそのことを強く強調し、さらに職員の幸せなくして、利用者の幸せがやってこないという。

 パーティーに参加させていただき、このような介護サービス事業者が希望を持って仕事をできるような介護保険制度にしていくべきであると強く思った。

中国やロシアでのソーシャルワークの発展

2008年09月19日 | 社会福祉士
 現在、大阪・上海国際学術交流の一環として、上海にある同済大学の蔡教授が2週間私のところに研究で来られている。研究のテーマは、ソーシャルワーク教育と介護保険制度について研究したいとのことである。また、四川での大地震があってか、震災時での高齢者ケアについてである。

 中国では、現在210校の大学が社会福祉を教育しており、今年から、国家資格として「社会工作員」という名称でソーシャルワーカーの養成を始めている。この社会福祉教育について、蔡教授が言うには、ソーシャルワークといった方法論が教えられる先生が少ないという。社会福祉制度の教育が中心であり、ソーシャルワーク教育を充実していくことが目的で、私の大学に来られたという。

 昨年も私は海外からのソーシャルワークの先生をお引き受けした。大阪市立大学は、ロシアのサンクト・ペテルブルグ大学と国際学術交流を行っており、サンクト・ペテルブルグ大学社会学部に所属するソーシャルワーク研究をしているオルガ准教授を20日程滞在していただいた。殆どお世話できなかったが、彼女は「文化とソーシャルワーク」に関心があり、日本のソーシャルワークについて少々はレクチャーをさせていただいた。彼女自身はアメリカで勉強をしてきており、殆どソーシャルワークを教える先生がいないことを嘆いていた。ロシアの中でもソーシャルワーク教育を行っている大学はごく僅かであるとのことであった。 

 実は、私たちの学生時代は学生運動が盛んな頃で、社会事業は資本主義制度が生み出す必然であることを本から学んだ。資本主義社会では、労使関係により下部構造として労働者側に貧困問題が生じ、上部構造して労働者側に離婚問題や非行問題が生じるとし、下部構造が上部構造を規定していることを学んだ。この下部構造に対しては社会政策が対応し、上部構造については社会事業が対応することということで、社会事業は資本主義社会を温存させる犯罪的なものであるといったことを学習したものである。

 そこで、お二人とも、(修正)社会主義の国からの来日であり、社会主義国にソーシャルワークは必要なのかの本質的なことを聞きたくなった。昨年オルガ先生には直接尋ねたが、彼女が言うには、資本主義・社会主義のどこの国であろうと、人々が生活をしていく上で問題が生じる以上、ソーシャルワークはどこの国でも必要であるが、ロシアでは最近になって始めてその必要性が言われるようになったとのことであった。そのため、ソーシャルワークは社会学の一部として教育されているが、まだ多くの大学では教育されていないとのことであった。

 蔡先生にも早速尋ねてみたが、中国のソーシャルワークの教科書には、社会主義の計画経済の時代にはソーシャルワークは不要であったが、市場経済を導入したため、ソーシャルワークが必要になったと書いてあるそうである。傍でそれを聞いていた中国からの留学生は怪訝そうな顔をしていた。

 なかなか真は何かつかめない。こうした国で計画された内容は経済的視点が強く、社会保障の側面が弱くはないのか、さらに計画通りいかない場合もある。そうしたことを考えると、ソーシャルワークはいずれの国にも普遍的に必要なものではないのだろうか。


北東アジアのソーシャルワーカーは共通の課題

2008年09月18日 | 社会福祉士
 「第4回社会保障・社会福祉国際学術会議in 日本福祉大学」が日本福祉大学の美浜キャンパスで行われたが、これは日本、韓国、中国の3ヶ国の研究者による国際会議である。「社会福祉専門職教育と福祉教育」というセッションの司会をお引き受けしていたため。出席させていただいたが、大変盛況であった。

 私が司会のセッションでは、日本側は大橋謙策先生、韓国は賢都社会福祉大学(Kkottongnae Hyundo University of Social Welfare)の李(Tae Soo Lee)先生、中国の南升大学(Nankai University)のゴアン(Guan)教授がスピーカーであったが、東アジアのこの3ヶ国は、国が資格を出すこと、さらに、いずれの国も試験があること(韓国の場合は、1級のみ)での共通点をもっている。アメリカやイギリスのように、独立した団体が大学を認証し、その大学や大学院を定められた科目を履修し修了した場合に、ソーシャルワーカーの資格を得るのとは大きく異なる。

 中国は、今年から「社会工作員」という名称で国家資格ができた段階であるが、日本では1988年に、韓国は2003年に試験制度を導入したが、両国は量から質を高めることが必要な状況に移行している。そのために、資格取得者の生涯学習システムを一層充実していくこと、社会福祉士をジェネリックな資格とし、領域等をもとにしたスペシフィックな資格について検討していくこと、の必要性に共通した課題をもっていると思った。韓国では、今年社会福祉士の補修教育が法律が制度化された。

 今年の日本社会福祉学会は、10月11日と12日に岡山で開催されるが、2日目に日本と韓国の社会福祉教育の課題についての国際シンポジウムが企画されており、コーディネーターをお引き受けしている。今回の議論を踏まえて、さらに深めたいと思っている。その日韓国際シンポでの成果をもとに、社会福祉士制度の一層の改革に活かしていきたいものである。同時に、北東アジアで、共同してソーシャルワーカーの水準を高めていきたいものである。

アメリカのソーシャルワーク専門職の起源

2008年09月17日 | 社会福祉士
 アメリカの教科書を読んでいてうらやましく思うことは、実践家や研究者自らがソーシャルワークを育て、専門職に作り上げていったことである。どこかの国のように、国が中心に専門職を作った分けではない。何も、日本ではそのような専門職として作り上げようとする努力が大学や現場で全くなかったと言っているのでは決してないが、弱かったことは否定できないのではないか。その証拠に、この20年間社会福祉士についても改革がほとんどなされてこなかったのではないかと自省している。

 そのアメリカの教科書の傾向も、この10数年で大きく変わったと思う。ケースワーク、グループワーク、コミュニティワークの3分類でソーシャルワークを説明することは完全に姿を消している。ソーシャルワークを分類することがあるとすれば、ミクロ、メゾ、マクロにソーシャルワークを分けており、ミクロは個人、メゾは家族や団体といった組織、マクロは地域ということになり、組織と地域を含めてマクロと称している場合もある。

 ただし、ソーシャルワーク過程や目的は、これらの対象に共通することが多く、クライエント・システムという名称で総称し、展開している。そのため、できる限り、クライエント・システムに対するソーシャルワークでの共通性に強調点が置かれ、そこを基点にしてクライエント・システムのサイズ別での対応での違いを整理している傾向が強い。

 20年ぶりの日本の社会福祉士教育の改革に当たって、ソーシャルワークの教科書でも、こういした視点は考えなければならないことである。但し、教科書での理論と現実の実践とを摺り合わせながら、かつ国際的な動向にもついていける教科書づくりが必要なように思える。

 もう一つのアメリカの教科書の傾向は、ソーシャルワークの目的は個人と社会とのインターフェース(接触面)に焦点を、歴史的には個人と社会の間の振り子のもとで、個人か社会のどちらかに重点を置いてきたように思う。今までは、振り子 個人に重点が置かれてきたが、最近の教科書では両者が対等に強調されており、ソーシャルワークの目的は、以前はやや個人の成長にウエイトが置かれていたきらいがあるが、現在は社会の改革にも対等に協調されている。

 この個人の変化と社会の変化についての両者の起源は、アメリカでは、個人ではケースワークの母であるメアリー・リッチモンド、社会についてはシカゴのハルハウスを作り運営したノーベル平和賞受賞者ジェーン・アダムスの両人の貢献が計り知れない。

 ここでは、『Generalist Social Work Practice: A Strengths-based Problem Solving Approach』Elizabeth M. Timberlake , Michaela L. Zajicek-Farber, Christine Anlauf Sabatinoから借用して、2人の女性のすばらしい写真を添付しておきたい。

メアリー・リッチモンド     ジェーン・アダムス

そして、こんな立派な人が日本からも多数でてきて欲しいものである。

保健・医療・福祉・介護専門職に共通する「人間像」(3)

2008年09月16日 | 社会福祉士
<残存機能の活用>
 利用者の生活ニーズが明らかにされ、サービスが提供される際に、利用者がどの程度実施可能性を有しているかのセルフケアについてアセスメントを行う。すべての人々はセルフケアとそれを補うインフォーマルケアとフォーマルケアを活用して生活しているといえる。そのため、具体的には、利用者の有しているセルフケアを先ずは捉え、このセルフケアを高めることを目的にしながら、同時に生活上で欠落している部分を補うために、インフォーマルケアやフォーマルケアを活用していくことになる。このような、セルフケアを高めることが「残存機能の活用」と呼ばれるものである。これは、施設であろうと、在宅も同じであり、自ら実施できるセルフケアをできる限り活用することを前提にして、インフォーマルケアやフォーマルケアが提供されることになる。同時に、セルフケアを活用できていない場合には、活用するようことを目的にして外的なケアが提供されることになる。

 残存機能を活用するためには、セルフケアの内容や、できる限りセルフケアを活用できる方法について明らかにしておく必要がある。セルフケアとは、個々の利用者が有している「歩ける」や「立てる」といった能力である。しかしながら、現実の利用者は、その人が有している適正なセルフケアを遂行できていない場合もあれば、時には過剰にセルフケアを実行している場合もある。こうした際に、前者であれば適正なセルフケアとなるよう広げていく支援をしていく必要がある。一方、後者であれば、適正なセルフケアになるよう、セルフケアを縮小していくサービスを実施していくことになる。

 この適正なセルフケアとなるよう支援していくためには、利用者の適正なセルフケアについてアセスメント資料を収集する必要がある。すなわち、アセスメントで「歩けるのに歩いていない」や「立てるのに自分で立っていない」ことが示されれば、適正なセルフケアを可能にしていく「外出したい」「マージャンをしたい」といった利用者の精神心理的な意欲・嗜好についてのアセスメントが不可欠となる。同時に、「近所に世話してくれる友人がいる」や「室内がバリアフリーになっている」といった社会環境面についてのアセスメントも不可欠である。すなわち、利用者の精神・心理面と社会環境面のアセスメントを行い、それを活用することで、適正なセルフケアに向けた支援としていく。このギャップを埋めるためには、利用者が徐々に自らのセルフケアを理解しながら、そこに向けて進んでいくよう自己決定や自己選択していく支援をしていくことになる。

 しかしながら、利用者の意欲を高めるために介護福祉士が配慮しなければならないことは、ささいなことから自己決定・選択できるよう対応したり、意欲や嗜好を話せる雰囲気づくりを作ることである。このような支援でもって、適正にセルフケアが遂行できるよう支援していく。
 
 利用者の身体面、心理面、社会面を捉えて生活問題なり生活ニーズを明らかにしていく際に、これが3つの側面の問題状況といったマイナス面だけを捉えがちになる。しかしながら、個々の利用者の有している心理面での意欲や積極性、嗜好・願望・抱負、また身体面での治癒力や快復力といった能力や可能性といったプラス面も把握し、生活問題の解決に活用していくことが重要である。さらには、利用者が独自に有している社会資源についても理解することが重要である。具体的には、「ゴミ出をしてくれる近隣がいる」、「入浴の介助をしてくれる友人がいる」といったことである。これらの身体面、心理面、社会面を合わせたプラス面を合わせてストレングス(強さ)と呼んでいる。こうしたプラス面を活用して支援していくことをストレングス・モデルといが、いずれの利用者であれ、マイナス面だけでなくプラス面ももっており、こうした視点で利用者を捉えることの根底には、問題をもった人としてではなく、問題と同時に可能性や意欲や能力をもった存在として、利用者を捉えることになる。

 こうしたストレングスを理解するためには、利用者に対する尊厳という意識から形成される信頼関係に基づく対話を通じた利用者の理解を継続して実施していくことが不可欠であり、その過程でストレングスを理解することになる。同時に、こうしたストレングスを導き出すためには、利用者との対等な援助関係を構築していくことも必要である。

 この利用者のストレングスを活用するという考え方は、WHO(世界保健機関)が2001年にICF(国際生活機能分類)の考え方と、極めて類似している。WHOは1980年にはICIDH(国際障害分類)を示したが、それを変更したのがICFの考え方である。この考え方は、従来のような「疾病・変調」「機能障害」「能力障害」「社会的不利」というマイナス面で障害を捉えたことから、それぞれ「健康」「心身機能・構造」「活動」「参加」という中立的な用語に置き換え、生活者はマイナス面と同時にブラス面をもっているとの考え方に修正された。このことは、利用者のストレングスに着目するということと同じことを意味している。
また、前節で述べたセルフケアとされる利用者の能力も、それを引き出していくべく意欲や嗜好もストレングスであり、これらを活用することで、残存能力の活用が可能になることを示した。ここに、ストレングスを活用することで、セルフケアといった本人のできることは、できる限り自分でやるといったことが実現する支援ができる。

 このセルフケアが実現することこそが、利用者が他問題を自らの力で解決していけるエンパワメント(empowerment)支援となる。具体的には、利用者の能力が活用できるようになることから、生活範囲が広がり、他の生活問題が生じた場合にも、自らの力で解決していけるようになる。このような力を利用者がつけることがエンパワメントである。

 こうした自立の過程を経ることによって、利用者は、力のない状態から自らに対する自信や社会からの信頼を獲得し、生活ニーズの解決に立ち向かっていくことになる。このような利用者が身体面、心理面的、社会面での力を主体的に獲得していくことをエンパワメントと呼び、それには、利用者のもっているストレングスを理解し、それを活かした支援を進めていくことが前提である。

保健・医療・福祉・介護専門職に共通する「人間像」(2)

2008年09月15日 | 社会福祉士
<生活の継続性>
 利用者の全人的な捉え方である「生活の継続性」(continuous of care)の考え方から、利用者をどのように捉えるかについて説明する。
「生活の継続性」には、利用者の空間的な生活の連続性と、もう一つは利用者の時間的な生活の連続性があるといえる。利用者の空間的な連続性とは、利用者に対して、ある時点で、利用者のニーズに合わせて、各種のケアが隙間なく連続して提供されていることである。後者の時間的な連続性とは、利用者のニーズに合わせて、必要なケアがサービスの開始時から終結時まで、連続して中断することなく提供されていることである。

①利用者の空間的な生活の連続性の視点
 第一の連続性である利用者の空間的な生活の連続性とは、利用者に対するある時点での空間的なサービス提供の連なりでもって、利用者の生活が支えられていることを意味する。すなわち、利用者の持つさまざまなニーズが充足されるよう、連続的にサービスの利用を可能とすることである。その実現によって、個々の利用者に対して、保健・医療・福祉などの諸サービスが連携して提供されることとなる。さらには、家族や近隣といったインフォーマルケアも、連続して一体的に提供されていることになる。このことは、利用者がある時点での生活上で生じた各種のニーズを過不足なく充足させていることである。供給主体の観点から見れば、セルフケア、インフォーマルケア、フォーマルケアが連続していることである。ニーズへの対応という観点から見れば、利用者の生活上の様々なニーズである保健・医療・福祉・介護・住宅・経済・社会参加等のニーズに、一瞬一種の時点で対応できていることである。

 一般的には、公的なサービスやインフォーマルケアが断片的(fragmental)に、あるいは縦割りのシステムのなかで提供されることによって、利用者に必要なものが総合的に提供できていないことも往々にしてある。利用者のこうした空間的な生活の連続性を支援する視点で利用者を捉え、介護福祉士もそうしたサービスの一角を担うことになる。
 
 介護保険制度のもとで考えてみると、利用者の生活における空間的な連続性を考える場合には、介護保険制度の給付サービスといった公助のほかに、利用者自らの内的資源である自助や地域における助け合い活動などの互助のサービスが、それぞれの特徴を発揮しながらバランスよく連携して提供されていることを意味する。そうした生活の連続性をつくりだし維持していくために、個々のサービスやサポートを提供する専門職の間でのチームワークが不可欠となる。
 
 その際には、すべての支援する人が利用者やその家族への支援目標を共有化し、それぞれのサービス事業者が相互の役割分担を理解し合いながら、決められた業務を実施していくこととなる。利用者の生活の連続性を支援していくにあたり、利用者本人や家族、そして個々のサービス提供者との間で、ケアプランや支援目標の共有化にむけての業務が重要となる。

②利用者の時間的な生活の連続性の視点
 第2の連続性は、時間的なものであり、利用者に対して、開始時から終結時まで、時系列的に連続して生活が支援されることになる。その際に、利用者の持つ過去・現在・未来という時間の経過を継続して支援していくことである。具体的には、個々の利用者の持つニーズの継続的な変化に対して、敏感に対応していくことである。その際には、利用者の過去の価値観や文化を尊重しながら、現在の生活を支えることを目指す。さらには、将来的に目指している目標に向けて、現在の生活の状況をとらえていくことにもなる。

 このような利用者が有する時間的な経過のなかでの支援から考えれば、在宅から施設へ、あるいは施設から在宅へと生活の場を移行する際にも、継続した支援が必要である。施設に入所する場合でも、施設や病院から在宅に復帰する場合でも、利用者のニーズに合ったフォーマルケアやインフォーマルケアが今まで通り提供され、かつ利用者がそれまで有していた価値観や文化が継承できるものでなければならない。そのため、高齢であれ障害を持っていようと、「利用者は自らの自己実現に向けて常に発達していく」といった考えを持つことが大切であり、そうした視点のもとで、個々の利用者に対して生涯にわたり必要なサービスが継続的に提供していくことが求められる。

 以上に挙げた二つの連続性という観点から、利用者は、“シームレス・サービス”(seamless service:縫い目のないサービス)が提供されることになる。すなわち、現時点でも、利用者のニーズに合ったサービスやサポートが連続して縫い目なく準備されており、さらにサービス利用開始時から終結時まで途切れることなく、時間的に縫い目がなく必要なサービスやサポートが提供されていることである。介護福祉士は利用者の生活の全体像をとらえて支援していく。このことは、利用者の置かれている状況を、現在の空間に時間の過程を加えた四次元の全体像としてとらえ、適切な支援を行っていくことを意味する。


保健・医療・福祉・介護専門職に共通する「人間像」(1)

2008年09月14日 | 社会福祉士
 「介護福祉士が捉える人間像」という原稿を書いたが、その内容を社会福祉士や理学療法士の教育でも重要なことが多いことに気づいた。そこで、保健・医療・福祉・介護に携わる人々が共通に捉える「人間像」について整理しておきたくなった。

 介護保険法や社会福祉法で、人間の尊厳の保持が言われ、その具体的中身が「人間像」とは何かと言うことであろう。今回は、古くなるが1979年にデンマークが尊厳あるお年寄りの生き方を支えてる高齢者ケアの基本哲学である「自己決定権」「生活の継続性」「残存能力の活用」の三原則でもって人間像を整理しておきたい。

<自己決定権>
 介護保険法も社会福祉法も、「人間の尊厳の保持」を旨として支援することが述べられている。介護保険法では、第1条で、社会福祉法では第三条で書かれている。

 この「尊厳」とは、辞書では、「尊くおごそかで侵しがたいこと」(大辞泉)と書かれている。このことは、個々の人間はそれ自体が代わることのできない存在であり、他の何物も侵しがたい不可欠な存在であることを意味している。こうした価値観でもって、保健・医療・福祉の専門職は個々の利用者に対応していくことになる。
 この利用者の尊厳の保持することとは、利用者の自立を支援することにつながっていく。「社会福祉士及び介護福祉士法」第44条の第2項では、「個人の尊厳を保持し、その有する能力及び適性に応じ自立した日常生活を営むことができるよう、常にその者の立場に立って、誠実にその業務を行わなければならない」としており、尊厳の連続のもとで自立の支援が位置づけられている。

 利用者の“自立”(independent)については、①ADLなどの“身辺的自立”、②金銭や財産の面からとらえた“経済的自立”、③自分のことは自分で決めていくという“人格的自立”の三つの自立が考えられる。

 当然、これら三つの側面について利用者が自立していくよう支援を行っていくことが大切であるが、最終的な自立の目標は③の人格的自立であり、利用者が主体的に生きていくことを支援するものである。このことは、利用者の尊厳の維持を支援することであり、同情や憐れみを持って支援するものではないことを意味する。すなわち、その根底に利用者を含めてすべての人々はできるかぎり自分のことは自分で決めていく、“自立的”でありたいといった願いを持っているという思想を有し、こうした考え方を日々の実践の中で押し進めていくことになる。
 
 一方で、こうした自立の考え方は、現状ではあいまいに使用されている場合が多い。自立には、自己選択、自己管理、個人の自由、個人のプライバシーといった意味が内包されている。つまり、自立とは、自己決定に関する多くのことを含む広い概念であると理解できる。そのなかで、保健・医療・福祉の専門職は、長期的な支援目標の設定や生活ニーズの解決に向けた優先順位や態度の決定について、利用者が自らの責任のもと自己決定や自己選択することを支援していくことであり、結果的には、一人ひとりの利用者の“生き方”を支えることにある。
 
 それゆえ、自立とは、利用者が自らの行動に対して他からの統制や介入といった影響を受けないことを意味する。また、「自立とは自己を律すること」(自律:autonomy)とされているように、当然のことながら社会に対して自己責任を伴うことになる。利用者が自立することは、自己決定について自らが責任を持つことであり、その自己決定の内容が社会からまったく遊離したものとして存続することはありえないといえる。具体的には、利用者が自らの存在や社会環境状況との関係を考えながら自己決定していくことが自立であり、保健・医療・福祉の専門職はそうした方向に向けて利用者を支援していくことになる。
 
 利用者の自立を支援するということからすれば、利用者が自己決定できるよう支援していくことが求められる。“自己決定”という用語は、“自己選択”という言葉に置き換えられる場合もあるが、その前提には、すべての人間は自分の生き方を自らが決定・選択して生活していくことを望んでいるという自立に対する考え方がある。それゆえに、決定や選択は利用者の自由権を保障する権利である一方で、“自己責任”という義務も伴うことになる。保健・医療・福祉の専門職は、こうした考え方を尊重して、利用者を捉えていかなければならない。
 
 それゆえに、利用者が自ら自己決定できるよう、可能な限りのさまざまな情報を利用者に提供ししていくことになる。ちなみに、この段階で提供される情報には、サービスの内容についてのみでなく、そうしたサービスがどうして必要になるのかといった背景となる情報や、サービスを受けることでどのような状況になるのかを予測できる情報などが含まれる。それらを詳しくかつやさしく説明することで、利用者は自己決定を容易にしていくことになる。そのうえで、決定した事柄について、文書により利用者から了解を得ていくことになる。このことは、詳しく説明し、了解を得たり、選択して貰うことから、“インフォームド・コンセント”(informed consent)ないしは“インフォームド・チョイス”(informed choice)と呼ばれる。在宅では、利用者と居宅サービス事業者や訪問介護事業者との間での個別援助計画の契約のもとで、利用者の自己決定が尊重されることになる。施設では、利用者と施設側が施設の個別援助計画(ケアプラン)についての契約やその後の契約更新に際して、入所者の自己決定が実施されることになる。