自然のシャワーを浴びながら:パート2

定年後の主人と晴歩雨読の日々。同じタイトルのニフティのブログ の続きです。

茶色い粘土

2017-03-08 | 陶芸
7月に配布された茶色の粘土だったが、7月から手首骨折の為ずっと陶芸を休んでいたので、製作も遅くなってこの度ようやく焼きあがって来た。
何を作ろうかと粘土をこねまわしているうちに、花瓶のような形になった。
私はみんなのようにきれいな形の皿とか壺ができないので、逆手にとって自分のイメージで好きなように作っている。
まだ粘土が柔らかいうちにちょっと模様を入れたりして、素焼きに出し、素焼きが終わっていつものようにサンドペーパーで表面を滑らかに磨いていたら、通りかかった先生がそのままの方がワイルドな感じでいいと。
それでちょっとゴツゴツしたまま、松灰の釉薬をかけて本焼きしたのがこの作品。
もう1点も同じ茶色の粘土で今までワイングラス風のばかり作ってきたので、今度はブランデーグラス風に作ってみた。
釉薬は同じ。
ちょっと渋いかな。
でも庭の沈丁花の花を切り花にして飾って見たら意外といいじゃない?
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羽村探訪

2017-03-08 | 日記
中国語サークルには個性的なメンバーがいるのですが、中でも羽村生まれで羽村育ちのN氏は物知りで、特に歴史、地理に精通している。
彼は小学4年生の時終戦を迎えたそうだが、未だに車も運転するし中国語も熱心で話すのも上手い。
この度サークルのメンバー6人で彼のリーダーの下、朝9時半から羽村探訪にでかけた。
私も実は40年近く住んでいるのだが、知らないことだらけで恥かしい1日だった。
今日歩くコースをちゃんとプリントして配ってくれてさすが。
まず小作駅の古井戸・懐古の井戸から講義が始まったのでした。
そもそも青梅線ができたのは?なんて聞かれても……。
明治27年に立川青梅間の電車が開通したのだそうだ。
実は私の昇降する駅が小作駅なのだが、古井戸の説明文など読んだこともなかった。
懐古の井戸は下田伊左衛門なる人が190円50銭で造ったと記してあった。
このようにして彼による羽村の歴史・史跡を巡るウォーキング開始。
昔は桑畑だらけだったそうだが、今は少なくなった桑の木。
羽村に多い姓が羽村、小作、下田、石川、田村など。
その下田という姓にまつわる話が、松本神社の説明に書かれていた。
なんでも鎌倉時代に伊豆下田から移り住んで小作村を作った人がいて、下田となったそうだ。
道すがらミツマタの花と下田糸吉という人の墓発見。
大正時代まで吊り橋があったという小作の渡しが、今では水道橋という橋になっていた。
多摩川に出てからは川沿いに歩いたが、子供の頃この多摩川で泳いで遊んだという話を聞いた。
鉄道ができるまでは多摩川をいかだ流しで、材木を深川まで運んでいたという話も聞きながら。
羽村取水堰。
ここからトンネルで狭山湖へ水を送っているのだとか。
途中には同級生の家があったり、彼の産まれた家にも立ち寄った。今は本家が住んでいるという話。
東京都指定有形文化財の阿蘇神社。
お参りをした後、彼に言われて初めて気が付いたのがこの写真の立て札のようなもの。
これはお百度札と言って、お百度参りの時何回目か分からなくならぬように、1から100まである番号札をその都度裏返して使ったのだそうだ。
今まで何回もお参りに来ていたのに、存在すら知らなかった。
また境内には東京都天然記念物の椎の木もあった。940年に藤原秀郷お手植えだそう。
多摩川の土手近くには河津桜があり満開できれいだった。
多摩川の河口から約50キロ付近の林の中に、三田雅楽之助らの墓がひっそりと。
三田氏にまつわる説明も聞いたが、本当によくいろんなことを知ってると感心するばかりだった。
玉川苑でランチタイム。
外へ出たら雨が降り出していたので、残りはカットして帰ることに。
でも途中禅林寺に立ち寄った。
というのは「大菩薩峠」で有名な中里介山の墓があるからだった。
墓までの道は竹林があって、ちょっと京都のような雰囲気。
羽村の水車小屋で生まれで羽村で亡くなったという中里介山・本名弥之助。
まだまだ多摩川周辺には史跡などがあります。
これから根がらみ水田のチューリップ畑が賑わいを見せることでしょう。
今度は相棒と一緒にこのコースを物知り博士のような顔をして歩こう。


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