鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.28「中国は道具主義だ!」

2005年12月24日 | 「考える宗教」へ

~~鹿嶋春平太です。

 メリークリスマス!
 みなさま、よきクリスマスと新年をお過ごし下さいますように。


                       


~~斉藤さん、とても考えさせられるコメントありがとうございました。
後にまた、ここにコピーして皆様に読みやすいものにさせて下さい。

 読みやすいといえば、背景をクリスマスのテンプレートにしましたら、読みづらくなりました。それで新しいものに変えてみました。いかがですか?


                  


~~さて、中国と日本、朝鮮との文化意識の比較を続けます。


 前回申しましたことにたいして、ご批判があるかも知れませんね。
 「ここには日本知識人に多い自虐趣味がある!」と。

 最近の流行ですからね。そういう批判は・・・。
実際、戦後日本の知識人として論壇でおしゃべりする人にはその色彩が濃厚でしたしね。マルクス思想をつかって、ただ批判のための批判を繰り返していた。学問の世界でもそれがあって、「批判経営学」なんてのもありましたしね。

+++

 鹿嶋にはそういう意図はありません。
 知識コピー国になったのは、日本民族が知的に怠惰だったからだ、とかそういうことはほとんどありません。歴史というのはそういう風に展開するのです。たまたま、ある国が先進的に文化知識を造ります。すると、隣国はそういう風になるのです。それが一番実用のために効率がいいから。

 そうして結果的にコピー文化の習性が出来ていったにすぎないのです。
 そして、この循環を断ち切る方法もあります。後に機会があればお話しします。


                


 さて前回申しましたことを、もう少し意味深にいうとこうなるのではないでしょうか。人類の歴史では、文化知識を造る国とそれを輸入する国とが出来ます。これはもう、どうしようもない法則のようなものだと思えます。だって、一方が造れば、近隣の国は便利だから、自分で造らずに輸入してしまいますからね。

 そして、造った国ではその知識を蓋然的なものだと自覚している。ところが輸入した国ではそれを100パーセントの絶対法則だとして吸収していく傾向が大きい~~そんなことを申しました。


                  


 鹿嶋の知る中国研究者に、中国への短期訪問をもう20回ちかくしている人がいます。一緒に現地視察を続けていたとき、彼は突然こんなことを叫びました。

 「中国人には、理念とか思想というのは道具にすぎない、この民族は道具主義だ!」

    ~~~耐えきれなくなったかのように、憤然として声を上げました。

 この絶叫ぶりに、彼の長年の観察で蓄積されていった深く強い確信と情念を鹿嶋は感じました。同時に鹿嶋の心にも思い当たることが浮かんできました。

 たとえば今中国は自由市場制度を普及させて経済発展を実現していますよね。その行動様式は資本主義そのものですね。

 でもこの国はついこの間まで共産主義国だったのですよね。毛沢東思想、マルクス思想をかかげてやっていた。それでもって、文化大革命なんてのもやって、たくさんの知識人たちをリンチにかけて、殺したりさえしました。それほど入れ込んでいたわけです。

 だがそのほとぼりも冷めないような短い時期に、こういう理念・思想はあっさり脱ぎ捨ててしまった。そういう信じがたいようなことをやってきています。そしてこの国の人々にはいまや日本以上にドライな資本主義的行動が目立ちます。


                  


 で、少し調べてみますと、毛沢東にとっても共産主義思想は根底のところでは道具だったのでは、というにおいがしてきました。中国の労働者や農民たちをまとめる道具。まとめるには、これが一意番使えそう、という手段ですね。

 中国は第二次世界大戦が終了するまで、西欧列強や日本に浸食され続けていました。あの大きな国で、国民がバラバラでした。これをまとめないことには、外国を追い出すことも、国家の独立もなにもありませんでした。

 政治リーダーになる人は、みな愛国心情の強い人です。若き魯迅も孫文もそうでした。若き毛沢東も、まず願ったのは、中国を外国列強の浸食から救いたい、ということだったでしょう。彼らを追い出して独立国家にしたい、と切望したにちがいありません。

 彼は、若い頃、図書館に職を得たと聞きます。働きながら本が読めるからです。それで、その図書館の本をみんな読んだ、という。その結果として彼は、農民や労働者をまとめるには共産主義思想が一番有効だ、と考えたのではないでしょうか。

 もちろん、勉強したり運動している過程で本人もその思想に入れ込んでいくでしょう。その価値観にも唯物史観にも惚れ込んでいくでしょう。けれども人の心理というのは、層をなしています。意識の底のところでは、道具主義だったのではないでしょうか。


                  


 マルクス思想には、歴史必然の発展法則というのが入っています。史的唯物論というそうですけどね、これは人類の歴史では、全世界は共産社会に収束する。泣いても笑ってもそうなる。100パーセントそうなる・・という理論です。理論といっても、これは絶対法則です。

 だけど、毛沢東は風水オリジナルな国の人です。このあたりは、軽くやり過ごしていたんではないでしょうか。

 まあ、彼は共産主義思想の人として死にはしましたけれどね。外観的には骨の髄まで共産主義の人でしたけどね。

 けれども、その後継者たちが本質を現していきました。トウ小平さんが政治的に浮上して自由市場政策を提唱した。その彼が失脚したり殺されたりしないで、主張が阻止されないで通っていった。そういうところに、道具主義の民族気質が現れていったのではないでしょうか。

 なんと彼は、こんなことも言ったんですね~~

 「白い猫も、黒い猫もネズミを捕るのはいい猫だ」
 
 ~~道具主義そのものですね。理念・思想道具主義・・・。
 経済が発展するなら、共産主義方式だって、資本主義方式だっていいじゃないか、というんですから。


                    


 しかし、こういう姿勢が中国人に「大人(たいじん)」の風格をもたらす源になっているかも知れませんね。「理念なんてものは所詮道具なのだ」と達観して縛られない、という姿勢が彼らに、日本人にも朝鮮人にもない精神的余裕をもたらしているのかも知れません。

         (続きます)
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