しばらくお休みいただきました。
ヨハネ伝解読は、14章からのクライマックスに入ろうとするところまできています。
がここで、鹿嶋はしばらく、京セラ名誉会長・稲盛和夫氏の「哲学」と聖書思想との関係を吟味してみようと思います。
目的は、比較を通して、稲盛思想及び聖書思想の特質を新しい形で把握することにあります。
<盛和塾>
稲盛さんといえば、その思想が「稲盛哲学」として有名です。
盛和塾という、稲盛さんを囲んでその哲学を学ぶ塾は、会員4200人を数えています。
会員の中心は現役の経営者ですが、その支部は日本だけでなく、南米や米国にもある。最近では中国でも稲盛哲学を学ぶ学校が出来ている、ということです。
稲盛さんの思想には、現世を懸命に生き、働いている企業経営者たちにぴったりくるところがあるのです。しかも、学んだ人から多数の成功者が出ているのですが、それはともかく、多くのビジネスマンにぴったり来るところが多い。
対して、聖書の思想は、そのままでは日本人の多くにぴったり来ていないようです。
<鋲留めされた二枚の用紙>
ところが私の見るところ、稲盛思想には聖書の思想に共通したところが多分に存在するのです。
どういったらいいか・・・この二つの思想が、二枚の厚紙に書かれた文字になっているとするならば、肝心なところでは、二枚の紙はぴったり鋲留めされているともいえそうなイメージです。
もちろん、鋲留めされていなくて、二枚の紙がふわふわ離れているところもあります。
稲盛氏自身は聖書神学者ではありませんし、稲盛さんの用紙には「ここは聖書から学んだもの」ということわりの言葉はありません。
稲盛さんは、全面的に物理学や仏教や心霊科学や中国の古典から学んだものをもとに思考し論じていて、聖書は参考にしていません。
ところが、不思議なことに、肝心なところでは、その思想は聖書の紙と鋲留めされているかの如くに一致するのです。
<何処が同じでどこが違うか>
なのに、稲盛思想は多くの日本ビジネスマンに受けて、聖書思想は受けないのか。
何処がどう違うのか。
鹿嶋は、それを吟味してみようと思います。
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