発展した時代、昭和に生きた若者の徒歩旅日記
+++++++++++++++
世界徒歩大旅行記3万4千キロ
+++++++++++++++
日本、アメリカ、オーストラリア、ニュージーランドの約15,000kmを歩き終わり、1983年10月10日から1985年9月27日まで約2年間シンガポールからポルトガルのヨーロッパ大陸最西端であるリスボン近くのロコ岬まで約19,000km徒歩で横断。
12、シンガポールからヨーロッパまで歩く(タイ)-103
3)タイ編
日記から-67
1月24日 (火曜日) 快晴
今日はタイとミヤンマーとの国境に着くというのが分かっていた。
この道を通りさえすれば、バングラディッシュまで行け、しかもヨーロッパへ通じるのである。
しかし、ミヤンマーは歩いてはいけないことが分かっているので、一度はバンコクに帰り、飛行機で次の旅のバングラディッシュへ行かなくてはいけない。
それでバンコクに何時帰ったら経済的に無駄なく次のバングラディッシュに行けるか考えていた。
バンコクに週末に着くと旅行社が休みで飛行機のチケットを買うのに待たなくては駄目であろう。
バンコクに長く滞在したくないものだ。Chang Raiは宿泊料が安いので、この町で時間を合わせて行こう。
Chang Raiで知り合ったタイの学生に会いたいし、この間、Chang Maiで会えなかったMrs.Thongwit(英語の先生の奥さん)にも会いたい。
朝はご飯を炊き、ミロのような物を飲み、本当にゆっくり出発をする。
今日一回目の休みで、綺麗な女の人がいたので水をもらいに行く。彼女は快く水をくれる。
それだけではなく、サツマイモまでくれる。
フィルムの最後の1枚を彼女のために撮る。(カメラが悪くまともに撮れていなかった。)
しかし、彼女の名前、住所を聞かなかった。
2時30分ごろMae Saiに着く。
ビルマ(ミヤンマー)との国境である。この国には入れないことは分かっていたが、現地の人々と同じように国境を越え入って行く。
しかし、現地の人とは荷物のバックパックが違うので、係員に止められた。
もし、バックパックがなかったら、そのまますんなり越えられていたかもしれない。
だから、英語の出来るビルマ人が日本人だとは思わなかったそうである。国境を越えられなくて残念だ。
――――――――――――――――
一応、シンガポールを出発してマレーシア、タイへと来た旅は一時中断して、バングラディッシュからまた出発する。
――――――――――――――――
今日はMae Saiの西側の山の中に入り山の中腹にテントを張る。
ここからはラオスの方向やビルマの方向も見える。まさにこの辺は麻薬の三角地帯である。
この山は果物を多く作っているところである。この果物畑の持ち主が俺のテントを見つけた。
彼には一日だけテントを張ることを許してもらう。
話は戻るが、昼ごろイチゴ酒を買った時、そのついでにイチゴを摘んだ。日本のように生のイチゴは美味しくなかった。
今、このテントの中で周りの山々を眺めながら、そのイチゴ酒を飲んでいるのだが、まったく酒など入っていない。
それはただのイチゴジュースである。買ったときの話では35度のアルコールが入っていると聞いていたのだが何だ!
タイとミヤンマーの国境を見て、感じたことがある。
日本人の俺達には馴染みがないこの国境を一応アメリカとメキシコ、シンガポールとマレーシア、マレーシアとタイそしてこのタイとミヤンマーと見てきた。
国と国とではどちらも引けない重要な地域である。しかし、人々はそんなことにはおかまいなしに生活のために行き来している。
このタイとミヤンマーの国境は今までよりか、より人々が行き来して忙しそうに感じる。
今までの国境ではタイとマレーシアの国境が一番寂しく冷たく感じた。
ここは社会主義の国との国境であるが、何て賑やかなのであろうか?これは闇市が発達しているせいであろう。
それにしても国境は何時も豊かな国の方には国境近くに余り都市がないが、貧しい方の国には国境のすぐ近くに都市がある。
それは豊かな国の方の人々が安いものを買いに行く観光で出来た都市である。
また、貧しい方の国の人々が生活のために電化製品を買い集める基点として出来た都市であるように思える。
出費49B
================================================================================
筆者は現在、韓国に住んでいて以下の様な韓国とのビジネスサポートをしています。よかったら見てください。
www.shozonkb.com
================================================================================