日々史跡めぐり

日本のあちこちの史跡、神社仏閣を巡っています

岡崎の浄瑠璃姫伝説(6)岡崎公園の浄瑠璃姫の墓

2019-08-30 | 

国道一号線沿いの岡崎公園大手門に入る手前の左側にも「浄瑠璃姫の墓」が残っています。

 

なぜここにも?
 




岡崎城天守閣の北に、浄瑠璃姫が幽閉されたとというところがあるそうなのです。

そこが現在どこに当たるのかわかりませでしたが。

また、浄瑠璃姫の墓の前には、三河国額田郡生まれの歌舞伎役者「初代市川団蔵の碑」があります。


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岡崎の浄瑠璃姫伝説(5)成就院の浄瑠璃姫の墓

2019-08-19 | 
浄瑠璃姫の菩提を弔うために、侍女の十五夜は、冷泉という尼になり、浄瑠璃姫が身を投げた淵の川岸に庵室を結び、冷泉寺としました。

後にこの地に竜沢永源が、浄瑠璃姫の供養のため、創立したのが成就院とされています。



境内の墓地には浄瑠璃姫の墓、 侍女・冷泉の墓、穴観音、足跡岩があります。











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岡崎めぐり(8)大樹寺 松平八代墓

2019-06-26 | 

松平八代墓




元和元年(1615)徳川家康は、先祖松平八代廟所を寺内に建立しました。




元和3年には家康の一周忌が営まれ、現在の墓の姿が整ったとされます。

昭和44年には岡崎市民が家康の徳を顕彰して遺品を納めて墓と碑を建立しました。

徳川家康の墓

 

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谷中めぐり(5)瑞輪寺 その弐 大久保主水の墓

2019-04-24 | 

瑞輪寺の墓地には、江戸水道の開設者である大久保主水の墓があります。


 

大久保主水墓(都旧跡)

台東区谷中4丁目2番5号 瑞輪寺

名は忠行、または藤五郎と称す。三河国の武士で、徳川家康に仕え三百石を給されていた。一向一揆のときに足を負傷してから戦列に加われず、餅菓子を作る特技を生かし、以降、家康に菓子を献じたという。天正18年(1590)家康は江戸に入り町づくりを始める。用水事業を命ぜられた忠行は、武蔵野最大の湧水地である井の頭池、善福寺池を源に、それぞれの池から流れる河流を利用して、江戸城ならびに市中の引水に成功した。これを神田上水といい、江戸の水道の始まりであり、また我が国水道のさきがけであった。この功により、家康から「主水」の名を賜り、水は濁らざるを尊しとして「モント」と読むべしと言ったという。以来、子孫は代々主水と称し、幕府用達の菓子司を務めた。元和3年(1617)没。なお、墓への通路脇にある八角形の井戸「大久保主水忠記の井戸」は、天保6年(1835)十代目忠記が、忠行の業績を顕彰したものである。平成23年に台東区有形文化財として台東区区民文化財台帳に登載された。

平成27年3月

台東区教育委員会


また、大沼枕山の墓もあるそうですが、見逃してしまったので、台東区HPより画像をお借りします。

 大沼枕山の墓の画像(台東区HPより)

 大沼枕山墓(台東区史跡)

台東区谷中4丁目2番5号 瑞輪寺

大沼枕山は、幕末から明治時代前期にかけて活躍した漢詩人。代表作に『枕山詩鈔』があり、江戸時代最後の漢詩人といわれる。日本漢詩史上重要な人物である。文政元年(1818)、下谷三枚橋付近に生まれる(現在の地下鉄仲御徒町駅付近)。父の死後、10歳の枕山は尾張(今の愛知県)に身を寄せたが、天保6年(1835)江戸に戻った。漢詩の大家、梁川星厳に出会い、才能が開花する。弘化2年(1845)星厳が江戸を離れたあと、枕山は下谷三枚橋に「下谷吟社」を開き、江戸詩壇の中心となった。枕山は明治維新後も活躍したが、明治24年10月、74歳で死去した。瑞輪寺が墓所に選ばれたのは、晩年に枕山が住んだ下谷花園町(現、池之端)に近かったからといわれる。墓石は安山岩で、高さ145センチ、表面に「枕山大沼先生之墓」と大書され、枕山の門人の手で建てられたものである。現在の台東区内に生まれ、住み、不忍池の蓮や、隅田川の月など、江戸の四季折々の風物を詠み続けた枕山の墓は、台東区の歴史を知る上で貴重な文化財である。平成5年に台東区史跡として台東区区民文化財台帳に登載された。

平成21年12月

台東区教育委員会


鐘楼堂

元禄年間(1700年頃)徳川三代将軍・徳川家光の寄進により建立されました。


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大谷吉継の首塚(米原)

2019-01-21 | 

米原にある大谷吉継の首塚を訪ねて来ました。

JR米原駅から徒歩約15分。

米原郵便局を目印に進み、下多良神社の脇の道を通り過ぎて行くと、

IMG_8756 下多良

IMG_8760 吉継

畑の真ん中に祠が見えてきます。

IMG_8762 吉継

大谷吉継は、豊臣秀吉の小姓として信任を得、奉行となって越前敦賀で5万石を拝領。

朝鮮の役に石田三成らとともに参加。

秀吉没後、慶長5 (1600) 年関ヶ原の戦いで西軍石田方として参戦。
小早川秀秋の裏切りによって、西軍の敗北を悟った吉継が、敵に首を渡さないよう、湯浅五助の介錯で自刃。
家臣・三浦喜太夫が袋に包んで吉継の甥の僧・祐玄に持たせ、敦賀の逃亡の途中に、この地に埋め隠したといわれています。
吉継の自害後、喜太夫は追腹を切り、五助は藤堂隊に駆け行って討ち死にしました。

Ōtani_Yoshitsugu

IMG_8764 吉継

IMG_8765 吉継

吉継の首については、諸説あり、自害した吉継の首は側近である湯浅五助の手により関ヶ原に埋められ(『常山紀談』)、東軍側に発見されることはなかったとも。

IMG_8767 吉継

吉継の首塚は、綺麗に整備されていて、今も地元の人に大切に祀られているのがわかりました。 

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