湖の子守唄

琵琶湖・湖北での生活、四季おりおりの
風景の移り変わり、旅先でのふれ逢いなど、
つれづれなるままに、語りたい。

石原詢子さま、参る🍒

2016年08月25日 | 詩歌・歳時記
去年の冬に死んだ弟は、若いころ滋賀の中学を終えて、岐阜の工業専門学校へ進学した。つまりは兄妹四人のなかでは、ず抜けて学業優秀であっのだ。

その学校の所在地というものは、岐阜県本巣郡、岐阜市と大垣市の中間の北方に位置していた。かの天下分け目の大戦、関ヶ原の合戦の折り、
タヌキ家康の東軍がたどった道のりとトレースしているのである。

さて、その西側には私が頻繁に通い、至福のひとときを過ごす「池田温泉」があるのである。

ふたたびのさて、であるが・・・おそらく岐阜の町に青春の一時期を送り、やがてフォークソングや歌謡曲の世界に目覚めた弟は、石原詢子が岐阜の揖斐郡池田町の出身と知ったのだろう。

いつだったかの夏、東京から帰省の弟が「兄貴、まぁ、見てくれ!」と
石原詢子のリサイタルのビデオテープをさしだした。演歌にはたいして興味のなかった私だが、ヒット曲の合間にドレス姿で歌った彼女のポップスの歌唱にびっくらこいて、しまった。素晴らしい、の一言だ。
それが石原詢子という歌い手を意識した、始まりであった。

岐阜から滋賀へ、つまりは美濃から近江へ・・・それは、戦国の世に湖北の若武者、浅井長政に嫁いだ織田信長の妹・お市を偲ばせる。そんな訳で詢子を想定して「お市慕情」という歌詞を書いたのがはじまりであった。それらの詩が数編書き留めたゆえ、彼女へ送ろうとして、はたと、困った。
図書館で「芸能人住所録」を探そうか? なんのなんの、スマホで一発!
石原事務所がヒットした。新宿の上落合って、西武線の沿線かしら?

石原詢子と岐阜の池田町で、いみじくも交わり溶け合う弟と私。
レコードが1枚世に出せたなら、
「おとうとよ、瞑ずべし」と祈る。



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