Liner Notes

観たこと、聴いたこと、読んだことを忘れないように印象に残った光景を栞として綴ってみました

§12「ビジネスマンの父より娘への25通の手紙」 キングスレイ・ウォード(城山三郎 訳), 1989.

2013-04-20 | Book Reviews
 男性であれ、女性であれ人間として併せ持つべき母性というものの大切さを語りかけているような気がします。

 とかく、あるべき姿を追い求めるべきという処世術の本が多いなか、もらうより与えるほうがよいと伝え、与えるためには誠実でなければならないと説く。

 誠実とは相手の鼓動を感じるがごとく察することなのかもしれません。

 太陽の光があまねく照らし出すとき、花が太陽に向かって伸びやかに咲くように、そのありのままの姿こそが尊くもあり、愛しくもあり、生きるうえでの力なんだと語りかけているような気がします。

追伸 娘だけでなく息子にも読んでみてほしい作品のひとつです。

初稿 2013/04/20
校正 2021/03/17
写真 伸びやかに咲く姿
撮影 2009/05/10
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§11「ビジネスマンの父より息子への30通の手紙」 キングスレイ・ウォード(城山三郎 訳), 1985.

2013-04-20 | Book Reviews
 大学時代の先輩が将来、息子が生まれ大きくなった時に贈る本だと紹介してくれた作品。10歳になる息子を持つようになった今、あらためて読み返してみました。

 父としての在り方を見つめ直す機会にもなりますが、 とてもシンプルなことを気づかされます。それは、決して息子を否定しない。 でも、全てを肯定するわけではないということを。

 息子の言動や行動、考え方に理解に苦しむような時も、自らの経験に基づいた常識で、決して指導するのではなく、決して教えるのでもなく、ちょっとだけ勇気を与えるように、ちょっとだけ肩を押すかのように、「どうしたんだい?!おまえらしくないじゃないか」と言えるようになりたい。

 いつかは、父の椅子に座る時が来るだろう。だからこそ、「自らに誇りをもってほしい。父がおまえを誇りに思っているように」ということを語りかけているような気がします。

追伸 息子がいくつになったら贈ろうかな。

初稿 2013/04/20
校正 2020/07/22
写真 息子が父の椅子に座る時
撮影 2012/09/03(鳥取・三朝温泉)
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§10「沈黙」 遠藤周作, 1966.

2013-04-12 | Book Reviews
 数多の宣教師達が国外追放され、信徒が迫害されたキリスト教弾圧の時代。自らの信仰を確信し、日本に残された信徒を護るために、殉教を覚悟して潜入するポルトガルの司祭。

 その司祭は神の加護だけを期待するのでなく、神を疑うことなく、ただ一途に信じて布教を続けた結果、殉教する人々と棄教する人々、そして沈黙し続ける神という存在。

 貧しい信徒達が迫害される真の理由とは。司祭が棄教した真の理由とは。そして、神が沈黙する真の理由とは。彼は信徒達が迫害される理由が司祭としての自らの存在であることを知り、迫害される人々を助けるために教会を背き棄教しました。

 でも、神は沈黙し続けたまま。ただ、彼が踏絵に足をかけた時に神なるものが沈黙する意味を悟ります。

「信ずれど、期待せず」

 命懸けの人々を守った自らの選択を信じた時、その行動は誰も否定できないこと。ましてや、神なるものが存在しているとしたら、その神なるものという存在でさえも沈黙せざるを得ないということを問うているような気がします。

初稿 2013/04/12
校正 2020/07/15
写真 沈黙の空
撮影 2013/02/03(旅客機からの眺め)
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§9「留学」 遠藤周作, 1968.

2013-04-11 | Book Reviews
 期待に胸膨らませて留学した三人の物語を綴った短編集です。

 太平洋戦争後、最初のフランスへの留学生の物語。胸膨らませた期待がいつの間にか廻りからの期待に沿うように生きた時にもたらされる不安や悩みと葛藤を描いた「ルーアンの夏」

 自らの信仰を信じて、司祭になるべく渡欧した最初の留学生の物語。司祭となった彼が日本で待ち構えていたのは根付きつつあったキリスト教を絶やさないよう欧州から潜入する司祭達と殉教する人々の姿を描いた「留学生」
 
 自らの出世や地位を得ることを信じて留学したものの、なぜ日本人が仏文学者を志すのか?との問いに答えることが出来ない大学講師の姿を描いた「爾も、また」

 司祭になることや仏文学者になることは、自らの目標や役割を与えることであるものの、実は目的ではないのかもしれません。

 自らが誰であるかということよりも、自らがなにを成すべきかという琴線に触れたとき、目的が明らかになり、その目的を達成するために尽くしうるあらゆる行動を自らが信じた時にこそ、自らの存在の意味が明らかになることを示唆しているような気がします。

初稿 2013/04/11
校正 2021/03/19
写真 同志社大学 クラーク記念館
撮影 2013/03/19(京都・今出川)
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§8「海と毒薬」 遠藤周作, 1958.

2013-04-09 | Book Reviews
 時は太平洋戦争末期。とある大学病院における生体解剖実験に携わった人々の心理を描いたノンフィクションと見間違えるほどのフィクション。

 当時、読んだ時にはキリスト教と比較した日本人の倫理観の欠如を問うているかと思っていましたが、約二十年ぶりに読み返すと、信じることと期待することの違いとは何かということを問うているような気がします。

 自らの良心を実感できず、あえて呵責を感じるがために、その実験への参加を選んだとある医師。空襲でひとが亡くなる閉塞感のなか、その実験への参加を断ることを選べなかったもうひとりの医師。想いを寄せる医師のそばに寄り添いたいがために、その実験への参加を選ばざるを得なかった看護士。

 いづれにしても、何かを信じたのではなく、おのおのがそれぞれに、何かを期待して自らの行動を選んだような気がします。

 「海」とは河が流れ込むように、誰しもが抗えない運命なのかもしれず、「毒薬」とは何かを信じることなく、期待だけで行動したときの因果なのかもしれません。
 
 遠藤周作が示唆した暗喩は、続編として位置付けられる「留学」や「沈黙」という作品に連なっているような気がします。

初校 2013/04/09
校正 2020/07/08
撮影 2013/02/03
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