Liner Notes

観たこと、聴いたこと、読んだことを忘れないように印象に残った光景を栞として綴ってみました

§56「関ヶ原」(石田三成) 司馬遼太郎, 1968.

2016-10-31 | Book Reviews
 石田三成が率いる兵馬の幟に画かれたとされる言葉「大一大万大吉」万民は一人のために尽くし、一人が万民のために尽くせば太平の世は訪れるはず。言わば「All for one, One for all.」を意味した石田三成の志だったのかもしれません。

 三献茶の逸話で語り継がれるほど太閤の意を汲んで尽くす率先垂範した忠義をもち、豊臣政権を支える奉行衆の筆頭格で財政能力及び行政手腕は比類なき厳格さ。一方で、盟友・大谷義継や直江兼続とは、利害を越えてお互いが尊重するほどの信義をもつ武将。

 とはいえ、忠義がその志を凌駕する時、豊臣恩顧の者は豊臣家のためのみに尽くし、豊臣家が豊臣恩顧の者のためのみに尽くせば、太平の世は訪れるはずという意味に変わってしまったのかもしれません。

 太閤亡き世、豊臣家への忠義の戦さの筈だった「関ヶ原の役」を豊臣家が石田三成の私戦として扱った結果、豊臣家は「大坂の陣」を招いてしまったような気がします。

初稿 2016/10/31
校正 2020/12/04
写真 大坂城
撮影 2012/12/19
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§55「新史 太閤記」(豊臣秀吉) 司馬遼太郎, 1968.

2016-10-21 | Book Reviews
 「戦わずして勝つことは良将の成すところ。戦は六、七分の勝ちで十分とせよ、故に敵の逃げ道を作っておいてから攻めるべし」

 「人と物争うべからず、人に心を許すべからず。傍に控えるおそろしき奴は、遠くに飛ばす」(太閤 名言より意訳)

 墨俣一夜城や備中 高松城の水攻めは、土木工事を労働集約型産業として戦術にまで高め、その膨大な労働力と資材の調達や監理を担う財務官僚集団を形成しました。

 また、京という大消費地を賄う外港として、瀬戸内海と淀川・琵琶湖の水運の結節点である石山本願寺跡を流通都市 大坂として戦略的に整備しました。

 つまり、領土を拡げ兵馬の動員力によって覇権を争うのではなく、販路を拡げ商品の供給力によって市場を支配することで、天下を統一しようとしたのかもしれません。

 さらに、秀吉は自らを凌駕しうると考えた黒田勘兵衛には大国を与えず、徳川家康には遠国を与えることで、絶対的優位性を確保しようとしたのかもしれません。

 とはいえ、安土桃山時代は中世の封建主義から貨幣経済の黎明期への変曲点として考えられますが、絶対的優位性を確保することだけでは、必ずしも天下統一の十分条件ではないような気がします。

初稿 2016/10/21
校正 2020/12/05
写真 大坂城
撮影 2012/12/19(大阪)
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∫34「東本願寺」 京都, 1602.

2016-10-10 | Architecture
 「南無阿弥陀仏」と唱え、限り無き光を司る阿弥陀の力にすがるのは、自らの覚悟をもってよこしまな考え方や他人を見くびり侮る気持ちを消し去るためなのかも知れません。

 本来なら、自らの覚悟と向き合うべきであるにも関わらず、誰かに救って貰いたいという期待に変わる瞬間には、自らが誰かの支配を受け入れ、犠牲を強いられるのやも知れません。

 浄土真宗、またの名を一向宗と呼ばれた時代において、「一向」とは「ひたすらに」という意味を含み、「南無阿弥陀仏」と唱える門徒による独立国家の様相を呈する程。

 約二六〇年に亘る徳川政権の庇護のもと、京都三大山門とも称される程の東本願寺山門の偉容さは、集合的無意識がその臨界を越え、歴史を繰り返させることなく、集合的無意識をひたすらに鎮め、抑止する暗喩のような気がします。

初稿 2016/10/10
校正 2020/12/06
写真 真宗本廟 御影堂門(浄土真宗 真宗大谷派)
撮影 2016/07/18(京都・烏丸七条)
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§54「国盗り物語」(明智光秀) 司馬遼太郎, 1965.

2016-10-01 | Book Reviews
 「如何ほどに忠義と讃えられようとも、謀反とそしられようとも、人生五十五年、夢から覚めてみれば、自らの信念に忠実であったことに他ならぬ」(明智光秀 辞世の句より意訳)

 美濃守護大名 土岐氏の流れを汲むとされる明智光秀は、美濃守護大名を乗っ取った斎藤道三の正室 小見の方が伯母であり、斎藤道三の娘 濃姫をめとった織田信長は幼き頃からのライバルだったそうです。

 織田家の重臣としての活躍や立身出世とは裏腹に、守護大名の盟主として足利義昭を征夷大将軍に擁立し、戦国の世を鎮めてみせるという信念があったのかもしれません。

 本能寺の変の直前、美濃守護大名 土岐氏の流れを汲む自らが、天下に号令するのは今であることを示唆した明智光秀の一句、

「時は今 雨が下しる 五月哉」

 足利義昭を備中 鞆に匿った毛利家、そして自らの重臣・斎藤利三の縁戚を嫁がせた長宗我部元親は、来るべき再興の為に護らなければならぬ勢力と考えていたのかもしれません。奇しくも本能寺の変により長宗我部討伐軍の派遣を延期させたことは、自らの信念に忠実であったことを示唆しているのかもしれません。

初稿 2016/10/01
校正 2020/12/07
写真 明智光秀公辞世句碑(戒光山 西教寺)
撮影 2016/09/26(滋賀・近江坂本)
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