Liner Notes

観たこと、聴いたこと、読んだことを忘れないように印象に残った光景を栞として綴ってみました

§157「ハイデガーの思想」 木田元, 1993.

2022-07-31 | Book Reviews
 ハイデガーが「存在と時間」を書くことに至ったのは、第一次世界大戦による惨劇と荒廃した世界を目の当たりにしたからなのかもしれません。

「そういうとき、『存在とは何か』といった、日常的経験のレベルではほとんど無意味としか思われないような単純な問いが発せられ、その問いに人生なり、歴史なりの全体に対する根本的な態度決定が結集されるのであろう」(p.19)

 日頃なんら疑うことなく在るものとして認識していた出来事や物事のかたちやありようが消失したとき、その問いは「世界というもの」を考えるきっかけになるような気がします。

「みずから設定したその視点に身を置くとき、その視界に現れてくるすべてのものが〈存在者〉としてみえてくる」(p.83)

 ひょっとしたら、「世界というもの」は自らの視点を過去・現在・未来のいづれかに定めたときに、その視界に現れる事象を言葉を介して再構築することなのかもしれません。

「ハイデガーの思想とは、結局何だったのであろうか。私は現代を読むための壮大な思考実験だったと思っている」(p.230)
 
初稿 2022/07/31
出典 木田元, 1993. 「ハイデガーの思想」岩波新書
写真 百年前の英国産煉瓦を再利用した庭園
撮影 2018/04/18(大阪・京橋)
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§156「考える人」 池田晶子, 1998.

2022-07-24 | Book Reviews
 人間が科学という言語を介して語る世界観は、観測できる事象を物理的な存在として認識できるはずという考えなのかもしれません。

「自分が考えなくても、ものごとが在ると信じ込んでいるからだ」(p.118)

 一方、観測できる事象であっても確率的な存在としてしか認識できないのではないかという考えも、もう一つの世界観として語られています。

「不確定性原理は、科学が、思惟と存在との奇怪な結託に気づき始めたその皮切り」(p.124)

 ある出来事や物事のかたちやありようについて、それがそこに在るとはいかなることかという問いかけを、人間が言葉という言語を介して語り合うことが大切なのかもしれません。

「言葉と考えとは、誰のものでもなく誰をも巡るものだから」(p.107)

 とはいえ、池田晶子の言葉と考えは、約九十年前の小林秀雄にも相通ずるような気がします。

「人は愛も幸福も、いや嫌悪すら不幸すら自分独りで所有することは出来ない」※(§154)

 ひょっとしたら、ある出来事や物事のかたちやありようという事象そのものについて、関わり合う人々が分かち合える言葉と考えというものが存在の意味と価値なのかもしれません。
 
「人間が言葉を語っているのではない。言葉が存在を語っているのだ」(p.82)

初稿 2022/07/24
出典 池田晶子, 1998. 「考える人ー口伝西洋哲学史」中公文庫
出典※ 小林秀雄, 1962.『Xへの手紙・私小説論』新潮文庫, pp.57-83.「Xへの手紙」p.79
写真「考える人」オーギュスト・ロダン, 1902頃.
撮影 2022/07/10(東京・アーティゾン美術館)
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§155「私小説論」 小林秀雄, 1933.

2022-07-17 | Book Reviews
 一般的に私小説というものは、作者自らの不思議な経験や秘密の願望などを題材として描く物語なのかもしれません。

 とはいえ、いまから約90年前に小林秀雄はこう記しています。

「私小説というものは、人間にとって個人というものが、重大な意味を持つに至るまで、文学史上には現れなかった」(p.113)

 数百年に及ぶ封建制度が瓦解し、急速に進んだ西洋化◦近代化のなかで個人、つまり私なる存在に意味や価値を追求する時代になって百有余年ですが、私小説は不特定多数の人々に共感を与える物語であっても、時代の洗礼を受けて読み継がれる題材を選んだ物語は少ないような気がします。

「現実よりも現実の見方、考え方の方が大切な題材を供給する」(p.137)

 私なる存在に意味や価値を追求する物語を描くには、時代の洗礼を受けた言葉によってしか考えることはできないような気がします。

「どの様に巧みに発明された新語も、長い間人間の脂や汗や血や肉が染みこんで生き続けている言葉の魅力には及ばない」(p.137)

初稿 2022/07/28
出典 小林秀雄, 1962.『Xへの手紙・私小説論』
新潮文庫, pp.112-142.
写真 鎌倉文学館
撮影 2022/06/15(神奈川・鎌倉)
余話 小林秀雄の直筆原稿も展示されています
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#72「もうひとつの感謝状」

2022-07-10 | Liner Notes
 先日、勤続二十五年の感謝状をいただきました。時が経つのは早いものでいろんな事がありましたが、様々な立場で貴重な経験をさせてもらったような気がします。

 とはいえ、この二十五年で仕事に対する価値観は大きく変わったと思います。特にコロナ禍によってリモートワークが定着したおかげで、家族五人が妻の誕生日にあわせて逢えることも貴重な出来事なのかもしれません。

 「ママの誕生日プレゼントなんだけど、子どもたち三人からお花を贈ろうと思うけど、パパはどうかな?」

 大学三年生になる長女の言葉を介して子どもたちの成長の軌跡を感じながら、出逢って二十五年もの間、約十回程の転勤や引越もいとわず僕を支えてくれた妻や子どもたちにもあらためて感謝状を贈りたいと思います。

初稿 2022/07/10
写真 もうひとつの感謝状
撮影 2022/07/06(兵庫・西宮)
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♪54「夏くれば」

2022-07-02 | Season's Greeting
 小林秀雄は「西行」のなかで約八百年前に存在した放浪の詩人についてこう記しています。

「孤独という得体の知れぬものについての言わば言葉なき苦吟を恐らく止めた事はなかったのである」(p91, 1942.)

 そして、数ある詩のなかから幾つかを挙げたなかの一句。

「雲雀あがる おほ野の茅原 夏くれば 涼む木かげを ねがひてぞ行く」(p91, 1942.)

 ひばりが春から夏にかけて羽を休める場を野原から木陰へ移ろうことになぞらえて、環境の変化に応じて生じる出来事や物事のかたちやありようもまた、言葉を介して自らがどう捉えどういう意味を与えるかによって変わりうることを示唆しているのかもしれません。

初稿 2022/07/01
出典 小林秀雄, 1961.『モオツァルト・無常ということ』新潮文庫, pp.77-97.
写真 ちご沢の森で涼む木かげ
撮影 2020/06/07(埼玉・東松山)
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