Liner Notes

観たこと、聴いたこと、読んだことを忘れないように印象に残った光景を栞として綴ってみました

§167「白夜」ドストエフスキー, 1848.

2023-05-26 | Book Reviews
 「白夜」とは、真夜中であるにも関わらず、真っ暗ではなく薄明かりに照らされた現象。それがそうであるはずにも関わらず、それがそうではないことが分かることを「白夜」という題名が示唆しているような気がします。

 「どうして、あの人があなたではないんでしょう?どうしてあの人は、あなたみたいな人間でないんでしょう?」(p.84)

憧れる〈あの人〉は〈わたし〉であるはずもなく、〈わたし〉と〈あなた〉との対話に〈あの人〉という三人称が介在するとき、〈あなた〉は〈わたし〉に〈あの人〉を投影しているのかもしれません。

 一方、〈わたし〉も〈あの人〉に自らがそうありたい姿を投影し、そんな〈あなた〉を深く知ろうとしていたのかもしれません。

 でも、〈あなた〉が〈あの人〉と結ばれて、「白夜」が忽然と暗闇に変わったとしても、〈あなた〉と〈わたし〉がお互いを知ろうとした時間は永遠に存在し続けるのかもしれません。

「人間の長い一生に比べてすら、それは決して不足のない一瞬ではないか?」(p.115)

初稿 2023/05/26
写真 α28C「アンとミシェル」朝倉響子, 1993.
撮影 2023/01/14(東京・府中の森公園)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

α30C「アン」朝倉響子, 1992.

2023-05-19 | Exhibition Reviews
 朝倉響子が創り出したパブリックアートは、いろんな名前でさまざまな街に設置されています。

 ひとつひとつの作品がもたらす印象もさることながら、ひとつひとつの作品とその名前を繋げて考えると、作者が意図したかどうかは別として、〈わたし〉の物語がそこに存在するような気がします。

 どこで生まれ、どこの学校を卒業して、どこに勤めているとかいう何処ぞの何某ではない、〈わたし〉とはいったい誰なのか?

 誰もが必ず経験する戸惑いや躊躇※1、心配や不安※2、問いかけと共感※3、そんな〈あなた〉を知った〈わたし〉※4が〈わたし〉であるということ。

 眼の前のアンは、そんな〈あなた〉を知った〈わたし〉が椅子から立ち上がり、どのような道を歩むにせよ、しっかり歩むためのブーツをまとってこう言っているような気がします。

"〈わたし〉が〈わたし〉で在り続ければ、なにがあっても大丈夫"

初稿 2023/05/19
写真「アン」朝倉響子, 1992.
撮影 2023/03/03(大阪・松原)
注釈
※1)α26C「セーラ」, 1999.
※2)α27C「ミシェル」, 1993.
※3)α28C「アンとミシェル」, 1993.
※4)α29C「ソフィー」, 1986.
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

α29C「ソフィー」朝倉響子, 1986.

2023-05-13 | Exhibition Reviews
 「ソフィー」とは、知恵や知識を意味するそうですが、その真意は知ることなのかもしれず、ありとしあらゆるものを知ろうとすれば、自ずと〈わたし〉と〈あなた〉と〈それ以外〉の三人称に分かれるような気がします。

 そして、それがそうであることを知るには、それがそうではないことも知る必要があるのかもしれません。

 ところで、躊躇するミシェルと同じような格好やしぐさを装うアンが彼女になりきろうとしているように感じたのは、〈わたし〉が〈あなた〉を知ろうとしている姿だったのかもしれません※。

 ひょっとしたら、眼前に佇む「ソフィー」の凛とした姿からは、そんな〈あなた〉を知った〈わたし〉を物語ろうとしているような気がします。

初稿 2023/05/13
写真 「ソフィー」朝倉響子, 1986.
撮影 2023/02/26(福岡・高宮)
注釈
※)α28C「アンとミシェル」, 1993.
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

α28C「アンとミシェル」朝倉響子, 1993.

2023-05-06 | Exhibition Reviews
 向かって右に腰かけたミシェルが、なにやら思いあぐねたあげく※1、ようやくなにかを決めようとした瞬間なのかもしれません※2。

"ねぇ、どう思う?これで、いいのかな?"

 そう問いかけてほどなく、向かって左に腰かけたアンが、不安そうなミシェルの瞳を見つめて、こう話しかけているかのようです。

"どうしたの?さぁ、言ってごらん。" 

 そんなアンが装うミシェルと同じような格好やしぐさは、ミシェルに寄り添おうとしているというよりも、彼女自らが眼前の彼女になりきろうとしているようにも感じます。

 もしかしたら、〈あなた〉を知ることが、〈わたし〉を知ることなのかもしれないということを物語ろうとしているような気がします。

初稿 2023/05/06
写真「アンとミシェル」朝倉響子, 1993.
撮影 2023/01/14(東京・府中の森公園)
注釈
※1)α26C「セーラ」, 1999.
※2)α27C「ミシェル」, 1993.
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする