労働者のこだま(国内政治)

政治・経済問題を扱っています。筆者は主に横井邦彦です。

学力テストは中止するしかない

2008-11-30 00:20:17 | Weblog
 学力テストはもともとは全国的な教育内容の達成度を測定するという名目で導入されたのだが、根強い反対論に留意して、不生産的な競争を排除する配慮が約束されていたはずである。

 ところが数年をへずして、政府・文科省の約束は反故にされている。

 大阪府の成績がかんばしくないということから、大阪府では学力テストの成績をあげるために、なりふり構わないことが行われようとしている。

 この問題が深刻なのは、“大阪の狂気”を、一部のマスコミがおもしろおかしくとりあげ、“平成維新”などと賛美していることだ。

 たしかに、法律では地方公共団体に競輪・競馬・競艇を開催することを許容しているが、自分の自治体の住民が“損”をしないように、自治体が住民を対象に競馬必勝講座等を無料で開催して、勝ちそうな馬を内緒で教えることまで許容はしていない。

 “受験競争”と呼ばれる、進学のための選抜競争は、公的なものである(選抜試験の成績が優秀なものから入学を許可するというのは、希望者全員が希望する学校に入学できるという状態にないかぎり、多少の合理的な根拠がある)が、その競争に勝ち抜くための努力は私的なものであるし、あり続けなければならない。それでなければ試験の公平性が保たれない。

 ならば、いっそすべての都道府県が大阪のまねをすればいいというが、テスト(全教科ではなく、算数や国語といった特定の教科)でいい成績を取るということは、個人もしくは子どもの保護者の目的であっても、けっして教育をする側の目的ではないのである。

 ましてや、大阪府の成績がふるわないことを“ダメ教師”のせいにして、大阪府知事の逸脱行為に荷担しない、つまり、偏った詰め込み教育政策に賛同しない教師を職場から排除しようなどというのは狂気の沙汰であろう。

 学力テストをめぐる騒動がここまで大きくなった以上、現行の学力テストは今年かぎりで中止するほかないであろう。

警視庁に出頭してきた襲撃犯

2008-11-23 14:22:19 | Weblog
 世間を騒がせてきた元厚労省の事務次官襲撃犯人が出頭してきた。

 何でもその原因は「「今回の決起は年金テロではない!今回の決起は34年前、保健所に家族を殺された仇討(あだう)ちである!」そうである。

 この場合、犯人自身がそういうのであるから、そうとするほかないであろう。

 戦後日本の歴史の中でも、政治的な個人テロはいくつもあるが、実行犯からその背後組織にたどり着いた例はほとんどない。

 もしそうであるならケネディー暗殺事件のように、背後組織は口封じのために、実行犯を殺害し、実行犯を殺害した実行犯を殺害するという非常にむずかしいことになる。

 だから、“鉄砲玉”(テロの実行犯)は、そこで捜査の糸が切れるような人物を第一条件として選定されるのだから、背後組織を引き出すのは非常にむずかしいといえる。

 ただ、今回の事件に関していえば、われわれは、小泉氏が「テロは許せません」と言ったときから、このブログで“無実”の小泉純一郎氏を、あることないことボコボコにたたけば、実行犯は出てこざるをえないであろうという確信があった。

ますます不可解

2008-11-22 01:53:22 | Weblog
 そもそもが、中川秀直氏といえば、先の総裁選で、謀反(むほん)をたくらんだ罪により“派閥内で終生飼い殺しの刑”を申し渡されて服役中の身ではなかったか?

 また、共犯の小泉純一郎氏は、自分の息子を人質に出すことで、罪一等を減じられて、お役ご免のご隠居様の身分ではなかったか?

 要するに、政治的には、とうの昔に終わっているはずご老体が、悪徳マスコミを引き連れて、裸踊りを踊っているさまはいかがなものでございましょうか。

 何でも、“悪徳マスコミ”紙によれば、これは麻生氏が日本郵政グループの金融2社(ゆうちょ銀行とかんぽ生命保険)の政府保有株の売却を“凍結”するように示唆したからであるという。

 これは“反改革派”を勢いづかせる結果となったがゆえに許されざる行為であるというのである。

 しかし、この金融2社の株を、政府が保有しようが、民間が保有しようが、株式によって構成されている資本という意味では、すでにこの2社は民間会社なのであって、その経営形態に影響を与えるものではない。

 それでは「民営化で生まれた果実を国民に還元するため」というのが彼らの言い分であるのだが、そうだとするなら彼らは麻生氏の株式の売却の延期を支持するべきであろう。

 実際、「政府保有株の売却は株式市場や民営化企業の経営状態を見極めて決めるべきだ。市場が低迷しているときに無理して株式を売っても政府に入る売却収入は低水準にとどまり、民営化で生まれた果実を十分に国民に還元できない。新たな売り圧力として市況にも影響が及ぶ。」とまでいうのであれば、なおのことそうであろう。

 笑えるのは、この悪徳マスコミはこのような正論をはいた後で、突然、前言をひるがえして、「一年以上の株式市場の予測ができるわけがない」と言い出すからである。

 株式は高いときに売るべきだが、この先の株式市場の予測はつかないというのであれば、当然、政府に売買時期のフリーハンドを与えるべきだという見解になるはずのだが、この悪徳マスコミ氏の見解はそうではなく「株価なんかどうでもいいから、予定どおりに売れ」ということだというから、どういうことでしょうか?という話にならざるをえないであろう。

 これに対する悪徳マスコミの見解は「政府の信用を盾に巨額の資金を国民から吸い上げた郵政事業は、資金の出口となる財政投融資も肥大化させた。この仕組みを解消し、国民の金融資産を民間が有効に活用することは経済活性化に必要だ」というものである。

 財投融資を肥大化させたのはもちろん歴代の自民党政権が第一義的に責任を負うべきことがらだが、株を民間に売却しなければ「国民の金融資産を民間が有効に活用することはできない」というのはどういうことなのであろうか。

 現在、民間銀行に蓄積された金融資産が膨大な規模にのぼっているのは、投機熱が消滅し、経済が停滞しているために「有効な活用先」がないからであろう。郵政2社も金融機関である以上このことに関しては他の金融機関と変わりがない。

 それが郵政2社の株を民間に売却すれば、「有効に活用できる」とはどのような場合であろうか?

 それはもちろん、売り出された株を一行もしくは複数の金融機関が買い占めて経営権を握り、リスクや採算を度外視して、投資や投機を行うばあいのみであろう。

 しかし、これはハゲタカ金融機関が、郵政2社に蓄積されている「国民の金融資産」を食い物にするということ以外の何ものでもないであろう。

 民営化の「果実」はハゲタカが独り占めにし、郵政2社に預金した国民の資産はその価値を必ずしも担保されないというのでは、郵政の民営化というのはそういうことなのか?という話になる。これでは「民営化」ではなく、国家とハゲタカ金融機関の癒着という意味において、最悪の国家資本主義であろう。

 この悪徳マスコミ紙は大阪のバカ知事のまねをしてさかんに「文句があるなら」もう一度、「郵政選挙をやれ」と国民を挑発している。

 望むところだ。麻生でダメだというのであれば、小泉純一郎にでも、中川秀直にでも、小池百合子にでも、総裁の首をすげ替えて「郵政選挙」をやれよ。労働者はいつでも受けて立ってやるよ。

 それにしても今ごろになって、どうしてこういうくだらないことが問題となるのか?
   

不可解

2008-11-21 04:49:38 | Weblog
 突如(とつじょ)として、小泉純一郎氏が「テロは民主主義国家では許されない」うんぬん、と声明を発表している。

 よく考えてみると、この文言は自民党の加藤氏宅が右翼に放火されたときと同じである。

 あの時は、政府が右翼の放火テロに対して、しばらく沈黙を守っていたので、われわれが「なぜ沈黙しているのか、そういう態度は統治責任者としてどうなのか。これではテロを容認していると受け取られても仕方がない」とこのブログで警告をした後で、ようやくだした声明だった。

 しかし、今回、彼は、自ら進んで、それを行っている。

 しかし、現在の小泉純一郎氏にこのような発言をわざわざする必要があるのだろうか?彼はもう日本国の“統治責任者”ではないし、もうすぐ国会議員を引退する身ではないか?

 「障害者自立支援法」や「後期老齢医療制度」といった自分の行ってきた厚生行政、もしくは、福祉の破壊には、一切口を閉ざしているくせに、こういう頼まれもしないことに、わざわざ「そんなの関係ねえ」などという必要はないであろう。

 誰かが、狙われた二人の厚生事務次官は二人とも小泉純一郎氏が厚生大臣をしていたときの部下であったのだから、小泉純一郎氏が「容疑者第1号」であるなどということをいったのか?

 そんな人間などいるはずもないし、われわれもそんなことは言っていない。(第一、この二人の元厚生事務次官が年金局長と年金課長にあった85年から小泉氏が厚生大臣になる88年の12月まで厚生大臣は何人も変わっている。)

 先日のわれわれのブログで小泉純一郎氏に言及したのはただの一個所だけである。

 「小泉政権のもとで、右翼と自民党は蜜月時代を築いてきた。右翼は自民党に接近し、自民党の国会議員の一部は右翼思想に共鳴して、両者の融合は進んだ。」

という部分であるが、これは単に歴史的な事実を述べただけだ。事実、20日の『日本経済新聞』には、田母神氏が統合幕僚学校長時代(2003年ごろ)の講師の名前が発表されているが、このうち何人かは「新しい歴史教科書をつくる会」のメンバーが含まれている。

 もちろん、統合幕僚学校という自衛隊の中枢部にまでふだつきのチンピラ右翼が進出できたのは、右翼と政権政党である自民党の融合なくして不可能であったのだが、この時の“統治責任者”、つまり、内閣総理大臣は一体誰なんだ?

 しかし、それにしてもだ。われわれはただ事実を事実として述べているだけなのに、それと今回のテロを結びつけて、「オレはやっていない」などとわざわざいうのは少しおかしくありませんか。

 また、これは関係ない話だが、われわれのブログをとりあげて、今回の事件で“戦犯”といった右翼はいない、とわざわざテレビで言った人もいたが、どういうわけかその人は今回の事件の早い段階で、これは“天誅”(てんちゅう=天に代わって罪ある者を攻め討つ)であるといった右翼がいたことを忘れている。

 いずれにせよ犯人が逮捕されれば、すべてが明らかになることだ。


石原東京都知事、逃亡す

2008-11-20 22:28:46 | Weblog
 新東京銀行への資本導入をめぐる問題で、国会から参考人招致を求められていた、石原東京都知事が、「公務」(?!)を理由に国会招致を断ったそうである。

 それで石原東京都知事はこの腐った銀行(新東京銀行)をどうするつもりなのか?

 この銀行には今春、都の税金400億円が資本注入されたばかりである。

 この時、石原都知事は、都議会で400億円の資本注入を行えばこの腐った銀行(新東京銀行)を立ち直らせることができると大見得をきったのだが、その後の融資をめぐる数々の不正やら、公明党議員による融資の口利き疑惑やら、その膿(う)んだ体質がつぎつぎにさらけ出され、さらには、現在の金融危機の中で再度経営危機に陥って、今度は国に資本注入を求めている。

 これは一体どういうことなのか?石原都知事はこの腐った銀行をどうしたいのか?どうするつもりなのか?こういったことに答えることこそが、現在、石原東京都知事が行うべき最重要の「公務」であろう。

 われわれはこの問題は重要であると考えている。というのは、現在の既成政党全部、すなわち、自民党から共産党までが銀行の貸し渋りに反対して、中小企業に対する融資条件を緩和するように主張しているからだ。

 資本力のない、中小の資本は融資しなければ倒産するというのは真実である。しかし、返済能力を無視してこれらの弱小の資本に融資するということは、諸銀行の「新東京銀行化」をもたらすことにならないか。

 縁故融資や融資の手数料を取る銀行員、融資の口利きによって利権をむさぼる政治家、果てしのない銀行の財務内容の悪化、どうせ経営に行き詰まれば税金でおぎなえばいいと言う安易な“お役所意識”、こういったモラルハザードをどうするのかという問題を「新東京銀行」は突きつけているからである。

 そういう点では、銀行への政治の介入・支援という国家資本主義(スターリン主義者や社会民主主義者のいう“社会主義”)は決して両手放しで歓迎されるものではない。

 歴史的に見ても、国家資本主義(国家と資本主義の癒着もしくは資本主義の国家的統制)は経済の停滞と社会の腐敗を随伴物としてきた。

 だからこそ、北欧の福祉国家なり、“社会主義”(旧ソ連や東欧の体制)なり、日本の“革新自治体”なりは「新自由主義」に取って代わられたのである

 もちろん、「新自由主義」は完全に国家資本主義を否定するものではないが、国家資本主義がもたらした「経済の停滞と社会の腐敗」に対する抗議という点では、一定の積極的な意義をもっていたのである。(もちろん、その積極的意義というのは、資本主義的発展という歴史的に制限された観点でしかないが・・・)

 そういう点で、単に、昔にもどればいいという話ではないのである。
 

 日本で何が起きているか?

2008-11-19 13:30:32 | Weblog
 麻生政権が誕生して以来、意味不明な事件が続いている。

 “まともな人間”にとっては意味不明でも、“日本の再軍国主義化計画”のようなものがあって、その計画が頓挫したために、いろいろなところでその担い手たちが自暴自棄になって“暴発”しているのであるといういう仮定を立てるなら、もろもろの事件はすべて一つのものとしてつながってくる。

 彼らの“計画”の歯車が狂いはじめたのは、先の参議院選挙で自民党が敗北したからであり、自民党が選挙に敗北したのは当時発覚した5000万人の年金未記載問題であったとするなら、その“戦犯”はそれを遂行した“厚生官僚”であり、そういった“国賊”を討伐することは“天誅”ということになるであろう。実際、この事件を“天誅”であるという右翼もいる。

 小泉政権のもとで、右翼と自民党は蜜月時代を築いてきた。右翼は自民党に接近し、自民党の国会議員の一部は右翼思想に共鳴して、両者の融合は進んだ。

 ここから自民党政権を利用して、日本の政治を右傾化させ、日本を再軍国主義化しようという右翼の大戦略が出てくるのだが、彼らの戦略は参議院選挙での敗北と安部晋三政権の“夜逃げ”にも等しい政権投げ出しで完全に頓挫した。

 安倍内閣のつぎの福田政権のもとでは、彼ら(右翼なのか自民党員なのか区別が判然としない国会議員)はしだいに政権の脇に追いやられ、捲土重来を期した麻生内閣のもとでも、彼らに再浮上の場はなかった。

 われわれは何度も指摘しているのだが、彼らの主張全体が、現在の情勢と人々の意識から完全に乖離しているために、やることも言うこともひどく場違いであり、何をやっているのか分からないという現状になっている。

 そしてこのことが彼らをいらだたせて、各種の“暴発”へと導いている。

 しかし、今回の事件は殺人事件であり、すでに二人の人間が殺害されている。このことの政治的な意義は彼らが思っている以上に重大である。

 この結果の重大さが、彼らをさらなる“暴発”へと導くのであれば、日本資本主義とその上部構造であるブルジョア民主主義そのものが破綻の第一歩を踏み出すことになろう。

 

はっきりいって、よく分からない

2008-11-17 22:37:06 | Weblog
 最近、よく「カジノ」がどうしたのか、投機がどうしたのか、という話を聞く。

 要するに、投機を規制せよ、ということなのだろうが、投機現象というのは、どこにあるのだろうか?

 それは確かに、今年の7月までは存在したが、現在、それはそれ自身の論理によって崩壊した。

 投機の対象となっていた株は暴落し、国際商品指数もほぼ半分近くまで暴落しており、各種の市場に流れ込んでいた投機資本は、外為市場のそれを除いて、事実上、消滅した。

 それは現在、投機の失敗による損失の穴埋めのために資本価値が著しく減価されているか、資本価値そのものが喪失(破壊)されており、かろうじて生き残った貨幣資本は、銀行の金庫の中で“蛹(さなぎ)”、つまり、“不胎化した貨幣資本”となっており、いつ醒めるとも知れない眠りの床に入っている。

 投機がないのに、投機を規制せよ、というのはよく分からないし、それ以上によく分からないのは、このような人たちが主張しているのが中小企業向けの融資を増やせ、ということである。

 現在、多くの中小企業が“貸し渋り”にあっているのは、客観的にいって、これらの企業の信用力に「?」マークがついている、すなわち、金を貸しても返してもらえるのか、もらえないのか分からないからであろう。

 ところが、こういう人々は、そういった企業にまで銀行は金を貸すべきであるというのであるから、こういう人たちは本当に、「カジノ資本主義」なり、「投機資本主義」なり、に反対しているのか疑問に思われる。実際、返してもらえるのか、もらえるのかという確率が五分五分であるとするなら、そのような経済行為は丁半バクチと同様の「カジノ資本主義」以外の何ものでもないのではないだろうか。


中国の古典から学ぶ“田母神問題”の解決法

2008-11-14 02:23:32 | Weblog
 今、世界は破滅の淵(ふち)に立っており、各国政府は目の色を変えて、行く方を見守っているが、日本だけはまことにのどか平和な別天地となっている。

 そんな日本で、現在、焦眉(しょうび)の問題となっているのは、景気対策に関係しているとも思われない税金のバラマキ方と“田母神問題”である。このオッサン本当に困ったものだが、自衛隊の中で“困っている人”はこの人だけではないということが次第に明らかになり、このことが海外で報道されるなかで、“不思議の国、ニッポン”という印象はますます強まるばかりだ。

 われわれは“田母神問題”などというくだらない問題にはあまり関与したくはなかったのだが、これほど大きな問題になってしまえば、なにか言わざるをえないであろう。

 そこで中国の古典から問題の解決法を探ってみよう。

 ① 司馬遷の『史記』、列伝第五、「孫子、呉起列伝」より、 

 孫子――孫武は、斉(さい)の人である。兵法にすぐれていることで呉王コウリョに謁見(えっけん)した。その時、呉王コウリョが言った。

「そなたの著した十三篇の書は、ことごとく読んだ。ちょっと試しに実際に練兵してみせてくれるか」
「結構です」
「兵は婦人でもいいか」
「はい」

 そこで、呉王コウリョは練兵をおこなわせることにして、宮中の美女180人をかりだした。孫子はそれを2隊に分け、王の寵愛(ちょうあい)している姫二人をそれぞれ隊長とし、一同にホコをもたせて、命令していった。

「お前たちは、自分の胸と左右の手と背とを知っているか」
「知っております」
「前と命じたら胸を、左と命じたら左手を、右と命じたら右手を、後ろと命じたら背を見なさい」
「わかりました」

 こうして、軍令が定まると、それを違反する者を罰するマサカリをととのえて、数回くりかえして丁寧に軍令を説明してから、太鼓を打って〈右〉と号令した。婦人たちは大いに笑うのみであった。

 孫子は、
「軍令が明らかではなく、申し渡しが部隊にゆきわたらないのは、将たる者の罪だ」

 と言って、また三たび軍令を言いきかせて、五たび説明してから、太鼓を打って〈左〉と号令した。婦人たちは、ふたたび大いに笑うのみであった。

 孫子は言った。
「軍令が明らかではなく、申し渡しが部隊にゆきわたらないのは将たるものの罪だが、すでに軍令が明らかであるのに、兵が規定どおりに動かないのは、隊長の罪だ」

 そこで、左右の隊長を切ろうとした。呉王は台上から見物していたが、自分の寵愛している姫を孫子が切ろうとするのを見て大いに驚き、あわてて使者を送って孫子に命じた。

「わしはもう将軍が用兵にすぐれていることをさとった。わしはこの二人の姫がいてくれなければ、食事をしてもうまい味がわからないほどなのだ。どうか、二人を斬らないでくれ」

 しかし、孫子は
「臣はすでに君命を受けて将となっております。将たるものが軍中にある場合には、君命であってもお受けしないことがあります」

 と言って、ついに隊長二人を斬ってみせしめにし、呉王がその次に寵愛している姫を隊長にした。

 こうして、また太鼓を打って号令をくだした。婦人たちは、左といえば左、右といえば右、前といえば前、後ろと言えば後ろ、ひざまずくのも立つのもみな法則どおりで、笑うどころか声を出すものもなく、整然と行動した。こうして孫子は伝令を出して、王に、

「部隊はすでにととのいました。王には、代をおりておためしください。王のおぼしめしとあれば、この兵たちは水火の中にでも喜んでおもむきます」

 と報告したが呉王は言った。

「将軍は練兵をやめて宿舎で休め、わしは、おりていって試そうとは思わない」

 孫子は言った。

「王は、ただ、兵法についての議論はお好きであるが、兵法を実地になされることはできない」

 うんぬん

 ここには兵法についての本質的なことが語られている。

 第一に、「兵(戦争)は死地なり」、すなわち、戦争は命がけのものでありということを孫子もよく知っていることだ。

 兵器がどのように現代化されようとも、戦争が集団による殺し合いであるという本質は変わらない。このことをよく知っているものはむやみやたらと兵について、語らないし、ましてや戦争をむやみに行おうとも思わない。

 そして、厳密に言えば、日本国憲法は兵(戦力)の保持も行使も禁止しているのだから、現代の日本には兵は存在しないし、存在してはならない、というのがわれわれの立場だ。だから、今回の“事件”も笑って見ていることができるし、勝手にやってくれというのがわれわれの立場でもある。ただし、そのような日本の雇用対策のために存在している集団に何兆円もの税金を使うのは非常にムダではないのかという気はする。財政難の折から、三分の一ぐらいにしてもいいのではないか。

 また、本当の兵(軍隊)においては、軍令は“命”によってのみ保たれている。新撰組の『局中法度』でも軍令違反には慚死(ざんし)と切腹しかないし、たいていの軍隊では重大な軍令違反は死刑しかない。これは殺すか殺されるかというギリギリのところで戦っている以上、集団全体を危険に陥らせる重大な行為は絶対に許容できないからだ。

 そういう点で、内戦中に逃亡した指揮官を銃殺にしたトロツキーは正しかったのである。(われわれがトロツキーを批判しているのは、彼が一般将兵、つまり、労働者を銃殺したからである。孫子はここで「軍令が明らかであるのに、兵が規定どおりに動かないのは、隊長の罪」といった当然のことをトロツキーが無視したからである)

 そして、もし、自衛隊が兵(戦力)であると主張するものがいたら、われわれは、当然のこととして、現在の情況のもとでは、自衛隊をもし兵(戦力)にしたいというのであれば、陸海空の左官以上のものを“皆殺し”にする必要があるというしかない。自衛隊に入るときに日本国憲法を遵守すると誓約しながら、それを実行しないのは、軍令以上の罪であるのだから、自分の命で、その罪を償ってもらわなければならないだろう。

 その② 泣いて馬ショクを斬る

 馬ショクは蜀の軍人で諸葛孔明によって取り立てられた。

 諸葛孔明は馬ショクを非常に重く用いたが、「街亭の戦い」の責任を取らされて、諸葛孔明自身によって軍令違反の罪で首を切られている。二人は親子同然の親しい間柄であったので、大軍師孔明は泣きながら馬ショクを斬ったことからことわざになっている。

 しかし、ここにはいくつかの問題点がある。

 第1に、蜀の王、劉備は死に際して「馬ショク、言、その実を過(す)ぐ、大いには用(もち)う可(べ)からず、君、それを察せよ」(馬ショクは言うことは立派だが、実力がともなっていない、だから重要な役職につけるべきではない、君[諸葛孔明]はそういうことを理解しなければならない)という遺言を残していた。

 つまり、諸葛孔明は君命(劉備の遺言)に背いて馬ショクを重用したのだが、これもまた重大な誤りであるからだ。

 第2に、諸葛孔明の第一次北伐のとき、彼は戦略的に要衝である祁山(ぎざん)を攻略にここを拠点に渭水(いすい)をたどって魏の首都である長安を攻めるという戦略を持っていた。

 諸葛孔明は祁山(ぎざん)の攻略には成功したが、魏の将軍張コウ(ちょうこう)が背後から蜀軍を突こうとしたので、諸葛孔明は馬ショクに街亭に防衛戦を築いて張コウ軍から渭水(いすい)の両岸を防衛せよ、と命じたのである。

 ところが、馬ショクは兵書には「高きところより攻めよ」と書いてある(確かにそのように兵法書には書いてある)といって、水路の防衛を主張した部下の言葉も聞かず、水路を捨て、近くの山の上に陣取った。

 蜀軍のこの陣形を見た戦(いくさ)上手の張コウは「バカほど高いところに登りたがる」と言ったかどうかは知らないが、たちまち水路を断ち、山の上の馬ショク軍を包囲した。馬ショク軍は水路を断たれたので、たちまち補給が途絶し、水も手に入らなかったので、馬ショク軍は衰弱し、糧食を断たれて衰弱したところを張コウに攻められたので、馬ショクは張コウ軍に粉砕されてしまった。

 祁山(ぎざん)を攻略した諸葛孔明であったが、背後の街亭が陥落してしまったので、全軍引き上げざるをえなくなり、ここに諸葛孔明の第一次北伐は失敗した。

 ここで問題なのは、馬ショクの軍律(命令)違反うんぬんの前に、馬ショクが自分のなすべきことを理解していないことだ。諸葛孔明が馬ショクに街亭に防衛戦を築いてそこで張コウ軍を向かい打て、と命令したのは、馬ショク軍をおとりにして張コウ軍を街亭に引き寄せて、自分が張コウ軍の背後に回り込んで挟み撃ちにするつもりだったからである。

 ところがそのような諸葛孔明の戦略を馬ショクは知らず、張コウ軍と決戦するつもりで山に登ったのである。つまり、馬ショクは魏軍と蜀軍による街亭の攻防戦を、防衛戦としてではなく、攻撃戦として戦おうとしたのである。

 しかも、馬ショクは諸葛孔明がなぜ街亭にこだわって「そこを防衛せよ」と命じたのかということすら理解していない。諸葛孔明が街亭にこだわったのはそこが渭水(いすい)の両岸にあり、渭水(いすい)をたどって魏の都長安を陥れるという諸葛孔明の大戦略の実行にとって欠かせない場所であったからだ。だから馬ショク軍は何が何でも水路の確保が至上命令でなければならなかったのであるが、馬ショクはこの諸葛孔明の戦略を理解していなかった。

 諸葛孔明にすれば、頭のいい馬ショクであれば、街亭に防衛戦を築いてそこで張コウ軍を向かい撃てと言えば、馬ショクはすべて理解すると思ったのだろうが、思いこみは禁物である。

 先の『史記』では、孫子は「軍令が明らかではなく、申し渡しが部隊にゆきわたらないのは、将たる者の罪だ」というだけではなく、「三たび軍令を言いきかせて、五たび説明」したのである。

 そういう点からするなら、馬ショク軍の敗北には「将たるもの」(この場合は諸葛孔明)の軍令の説明不足という第2の誤りがあるのである。

 今回の“田母神問題”では、「将たるもの」(この場合は防衛大臣)が「自衛隊ではバカを放し飼いにしている」と非難されているが、果たしてこの「将たるもの」は「三たび軍令を言いきかせて、五たび説明する」という努力をしたのだろうか?

 していなかったとするなら、「軍令が明らかではなく、申し渡しが部隊にゆきわたらないのは、将たる者の罪だ」という孫子の指摘は正しいのではないか?

 その③、再度「兵は死地である」について

 この言葉は、趙(ちょう)のチョウシャが息子の括(かつ)について語った言葉である。彼は戦国時代の趙(ちょう)の恵文王の元で有能な将軍であったが、恵文王が死に、息子の孝成王の時代に秦軍が進入してきたので、孝成王は再度チョウシャに出陣を求めた。あいにくチョウシャは病床にあったために、その息子の括(かつ)を将軍にするという話が持ち上がった。その時、チョウシャは

「兵は死地なり、しかるに、括(かつ)は易(やす)くこれを言う。趙(ちょう)をして括(かつ)を将とせざししめばすなわち、已(や)む。もし必ずこれを将とせば、趙(ちょう)の軍を破る者はかならず括(かつ)ならん」(戦いは命がけのものだ、だのに括は安易な気持ちでそれを論じる。趙(ちょう)が括を将軍にしないようなら結構なことだが、どうしても将軍にするということにでもなったら、趙(ちょう)の軍を敗退させるのはきっと括であろう)

といった。

 しかし不幸なことにチョウシャの願いは聞き届けられず、括は将軍になってしまった。

 出陣が近くなると今度は括の母親が

「夫は下賜品(かしひん)がありますと、みな部下の方々に分かち与え、出陣のおりには家事はいっさいかえりみませんでした。ところが括は頂戴(ちょうだい)した金品は自分の家にしまい込み、田地や家屋敷など、手ごろな出物があると、そんなものを買っております。父と子では心がまえがまるで違うのです。どうぞ、あの子をおつかわしなりませんように」と上書したがそれも却下された。

 その結果、括は“長平の戦い”で秦軍に退路を断たれて大敗し、大将軍括は戦死、部隊は壊滅、生き残ったものは秦軍によりことごとく生き埋めにされ、趙(ちょう)の45万の兵は消滅して、チョウシャの言葉どおり趙(ちょう)は滅び去った。

 括は進むことは知っていたが、退くことも戦いの重要な局面であることを知らなかったために、退路を断たれて包囲センメツされてしまったのである。

 括の両親が本当の息子である括のことをよく知っていたので、心を鬼にして、頭がいいことだけがとりえの括を将にしないために努力したが、息子のようにかわいがっていた馬ショクを泣いて斬った諸葛孔明は、ある意味で、情に流されて馬ショクの本当の実力を見抜けなかったのであろう。

 そういう点では、諸葛孔明は戦国時代の孫子やチョウシャに劣るのだが、中国の人は昔から、そういう人間味あふれる諸葛孔明の方が好かれており、今でも「レッド・クリフ」(三国志)が好まれている。(日本でも、「三国志」のファンは結構いる)


すでに世界は四分五裂

2008-11-11 00:47:28 | Weblog
 15日のG20サミットを前に、世界はその分裂した姿をさらしはじめている。

 まず、第一に、この会議には次期大統領に選出されたオバマ氏が参加しない。したがって、この会議で話し合われたことにアメリカは12月31日までは責任を持つだろうが、それ以後のことについては、アメリカは責任を持たないということになる。

 これは、現在の管理通貨制度が発足した1944年のブレトン・ウッズ会談での、イギリスの「ケインズ案」とアメリカの「ホワイト案」の対立の形を変えた再現に過ぎない。

 つまり、IMF(国際通貨基金)を“信用創造機能”(不換紙幣を発行しうる機能)をもった世界中央銀行のようなものにしようとした「ケインズ案」と貸し付けのみに制限し、“通貨”と金を何らかのかたちでリンクさせて為替の安定をはかろうとした「ホワイト案」の対立が、現在も形を変えて進行しているのである。

 これはヨーロッパが何らかの国際的決済機関を作ることによって、“通貨価値”に拘束されないで、野放図なケインズ政策(インフレ政策)を採用したい、または基軸通貨国であるアメリカの野放図なドル散布に歯止めをかけたいと考えているのに対して、ドルの基軸通貨としての特権を保持し続けたいというアメリカの思惑が完全にずれているからである。

 アメリカの次期大統領オバマ氏は、現在自分はまだ大統領になっていないという口実で、そのようなヨーロッパや新興国のIMFの“改革”に背をむけている。

 もちろん、IMFの改革にしても、新興国とヨーロッパではぜんぜんそのめざす方向が違っている。ヨーロッパは国際的な信用機関を作って不換紙幣の無制限な発行をしたいと思っているのに対して、外資の流出に苦しむ新興国はIMFの貸し出し制限の拡大もしくは撤廃を要求している。

 もちろん、こういった新興国の要求には債権国であるヨーロッパとアメリカはこぞって反対である。

 またヨーロッパではこれに先立って、EU内部でヨーロッパ決済銀行のようなものをつくろうとしたがドイツなどの反対で実現はしなかった。

 これは今回の世界的な金融危機の中で、イギリスがバクチに失敗してもっとも大きなダメージを被っているのに対してドイツは為替の変動による実体経済の悪化を問題にしているからである。

 だから、同じEUのなかでも足並みはそろっていない。

 ここに世界の過剰生産力を代表している中国と日本が加わる。

 中国は自分の置かれている立場をよく理解しているので、本日、2010年までに57兆円の景気刺激を行って内需の拡大に努めると約束した。もちろんこれは単なる“約束”以上のものではない。実際、今年度中の支出分は1兆4000億円にとどまるというのであるから、この全額はおそらく無理であろう。

 もちろんこれは中国がアメリカに向けたメッセージであり、中国はオバマ次期政権に譲歩の用意があり、個別交渉の余地があるというメッセージを裏に託しているのである。

 これに対して、日本はナッシングである。つまり日本資本主義は現在の事態は雨が降っているようなものであり、晴れない雨はないのだから、そのうち雨がやんですべてはもとに戻るだろうと高(たか)をくくっているのである。

 そういう点では、今度のG20は1960年代終わりにただ一度だけ開かれた全国全共闘の大会のようなものでしかないのかもしれない。もともと各セクトや各全共闘の野合の産物であった全国全共闘は始まった日が終わりの日となるしかなかったのである。


元気が出てきたマルクス主義同志会

2008-11-07 01:30:07 | Weblog
 つい先日まで、“歩く劣等感”と化し、この世のありとあらゆる事ごとに対して、品のない悪罵を投げかけることのみを生業(なりわい)としてきたマルクス主義同志会が、最近は元気いっぱいである。

 もちろんそれは彼らの時代がやってきたと彼らが考えているからである。

 資本主義が危急存亡の危機にある現在こそ、“資本主義最後の救世主”である彼らの出番であるというものである。実際、彼らの主張は時代の思想になりつつある。

 今、さかんに言われているような、強欲がいけない、「カジノ資本主義」がいけない、「天国にいたる日は近い、悔い改めよ」等々の道徳経済学こそまさに、彼らマルクス主義同志会が長い間、訴えてきたものである。(もっとも、彼らが本当に時代の救世主となるためには、人を見たらまず悪口を言うという、ぜんぜんよろしくない態度を改めなければならないのだが・・・)

 マルクス主義同志会のいう「グリード(ごう欲)」とは、マルクスにいわせれば「ユダヤ人」のことである。

 (誤解がないように、少し説明を加えると、マルクスが「ユダヤ人」といっているのはヨーロッパの市民、つまりキリスト教徒のことである。

 「キリスト教はユダヤ教から発生した。それはふたたびユダヤ教のなかへ解消した。
 キリスト教徒は、はじめから、理論をこととするユダヤ人であった。ユダヤ人は、だから、実際的なキリスト教徒なのであり、そしてその実際的なキリスト教徒がふたたびユダヤ人となったのである。」(『ユダヤ人問題によせて』、全集第1巻、P413)

 つまり、当時のマルクスはキリスト教とユダヤ教を区別する必要性まったくを感じていないのである。だから、両者を表裏一体のものとして考え、天井に舞い上がったユダヤ教を「キリスト教」とよび、地上に降り立ったキリスト教を「ユダヤ教」といっているにすぎない。

 これはブルーノ・バウアーのような、それこそ本当にユダヤ人に対して偏見を持っている人物が、ユダヤ教の現世的基礎は、実際的な欲望、私利私欲であり、彼らの本当の神は貨幣であると言ったのに対して、マルクスは、それならヨーロッパの市民=キリスト教徒は全部、「嫉妬深いイスラエルの神」=貨幣を崇拝し、その奴隷になっているのだから、実質的なユダヤ教徒ではないか、と答えたのである。

 だから、この論文の最後の「ユダヤ人=現世のキリスト教徒の社会的解放は、『ユダヤ教』(嫉妬深いイスラエルの神を崇拝する宗教)からの社会の解放である」という言葉は、貨幣物神、つまりマルクス主義同志会がいうところの「私利私欲」からの社会の解放を意味する。)

 マルクスがこの『ユダヤ人問題によせて』を書いたとき(1842年)には、まだ8割程度のマルクス主義者でしかなかったが、それでもマルクスは「市民社会はそれ自身の胎内から、たえずユダヤ人を生みだす」といい、「ユダヤ教」の基礎になっている私利私欲やごう欲が市民社会の必然的な発生物であることを見ていた。

 だからマルクスのいう「ユダヤ教からの社会の解放」とは、とりもなおさず、「ユダヤ教」を必然のものとして生みだす市民社会のものを変革しなければならないという見解であった。

 ところが、マルクス主義同志会の諸君たちは、一方において、市民社会(商品生産社会)を均衡の取れた理想的な社会として描きながら、他方において、その理想的な社会を破壊する元凶として「ユダヤ人」の存在、またはユダヤ人化した社会をあげているのであるから、彼らはブルーノ・バウアーのように、「ユダヤ教徒」をキリスト教徒に改宗させることによって、ユダヤ人化した市民社会をキリスト教の精神で再征服しようという見解に落ち着くのである。

 これは、マルクスがいうように「商品生産社会にとっては、抽象的人間(つまり価値=貨幣)に対する礼拝を含むキリスト教、ことにそのブルジョア的発展であるプロテスタント教や理神論などのキリスト教が最も適当な宗教形態である。」(『資本論』、第1巻、大月国民文庫版第1分冊、P146)のだから、商品生産社会それ自体を崇拝の対象とする宗教団体としてのマルクス主義同志会は、必然的に、プロテスタント教に改宗しなければならないのであろう。

 だから、清純なプロテスタント教徒として、マルクス主義同志会はルター以上に「利子生み資本」を憎悪することになる。

 だからつぎにマルクス主義同志会はいう。産業ブルジョアジーは労働者を搾取して剰余価値を取得するから許される(!!!)が「利子生み資本」は労働者を搾取もせずに儲けようとするから許されないのであると。

 「投機とは、基本的に貨幣資本や商業資本とかかわるものであって、資本そのもの、産業資本とは別だからである。こで言う『貨幣資本』とは、利子生み資本(貸し付け資本)のことであって、資本の循環中に現れる貨幣資本のことではない。投機は、『安く買って高く売る』ことにかかわるのであって、基本的に流通部面、信用部面に関係するのである。」(『海つばめ』、第1081号)と。

 「投機による価値増加は、ただ生産的労働を搾取した剰余価値の枠内で、その分け前を争うにすぎない、つまりブルジョアたちの言う『ゼロサム・ゲーム』にすぎず、社会的には、価値も富も全く増加させるのである。」(『海つばめ』、第1081号)と。(いつものことながら、マルクス主義同志会は「利子生み資本」によって神聖な“労働者の搾取”が冒涜されていると感じているので、怒りのあまり我を忘れて「価値も富もまったく増加させない」というべきところを「価値も富も全く増加させる」といってしまっている。)

 あまりにすごいことが書いてあるのでどこから手につけていいのか分からないが、最初に言えば、

 “通貨学派”はマルクス主義同志会と同様に貨幣の価値を高める必要があると感じているが。そのために利子率を高める(高金利にする)ことが必要であると主張していたのである。だから通貨学派”から生まれたマネタリストというのは、基本的に高金利主義者の別称なのであり、マルクスの時代の“通貨学派”は高金利によって儲けようとする銀行家の利益を代弁する理論だった。

 しかし、ルター派であるマルクス主義同志会は「利子生み資本」そのものをあってはならないことと考えている。

 この違いは、同じリカードから生じている二つの流派の違いから生じている。つまり、リカードの誤った“貨幣数量説”→19世紀の“通貨学派”または“通貨主義”→20世紀のマネタリストという流れと、リカードの価値論→リカード派社会主義→プルードン→無政府主義(アナーキズム)がある。不思議なことにマルクス主義同志会はこの二者の混合物であるが、どちらかといえば本来は後者に属していたはずであった。

 もちろんアナーキストたちの個人主義、自由主義とマルクス主義同志会の全体主義的な国家主義はまったく相反するものであるが、これはマルクス主義同志会がマルクス主義を古典派経済学(リカード、およびアダム・スミス)的に解釈することによって生まれたということから説明ができる。

 だから、ここにはリカードの貨幣論もアダム・スミスのキリスト教的道徳経済学も、“通貨主義”も、プルードンの小ブルジョア的な社会主義も、リカード派の社会主義も全部ひっくるめてゴチャゴチャになって入っているのである。

 しかも彼らが生まれたのが、フルシチョフによる“スターリン批判”の頃なので、スターリン主義の残滓(ざんさい)まで入っている。

 この得体の知れない混沌物が腐敗して(精神的、理論的に堕落して)現在のマルクス主義同志会ができているのであるが、最近では、むしろ高利を口汚くののしるルター的なプロテスタント教が強まっている。

 もちろん、マルクス主義同志会が言うように、投機と「利子生み資本」を同一視して、「嫉妬深いイスラエルの神(貨幣)を崇拝している」となじるのはまったく正しくない。

 その理由は彼らが言っているとおりである。「投機による価値増加は、ただ生産的労働を搾取した剰余価値の枠内で、その分け前を争うにすぎない。」この文中の投機を利子と置きかえれば、それは利子生み資本の説明になろう。

 借りた資本で事業をする生産的資本家にとって、総利潤は二つに分かれる、つまり、資本の借り主に支払う利子と自分の手元に残る企業者利得に分かれる。なぜこうなるのか、それは生産的資本家は利子生み資本から資本を借りなければ、生産を行うことができなかったからであり、彼が生産資本家であるためには他人の資本が必要であったからである。

 これに対して、投機はマルクス主義同志会が言うように、「投機は、『安く買って高く売る』ことにかかわるのであって、基本的に流通部面、信用部面に関係するのである」ことであろう。

 だとするならば、投機と利子生み資本を一緒にしていいはずもないではないか?

 ところがマルクス主義同志会はこれをいっしょくたにして、ひたすら嫉妬深い「イスラエルの神(貨幣)」に悪罵を投げかけ、「悔い改めよ、天国は近い」と叫ぶのである。

何で、また???

2008-11-06 01:32:10 | Weblog
 オバマ氏の当選により、突如、浮上してきたボルカー氏の名前を聞いて、世界の株式市場が震え上がっている。

 この人、79年にカーター大統領の下で、FRBの議長になった人だが、翌年当選したレーガン大統領のもとでもFRBの議長を二期8年務めた人で、レーガノミックスとボルカーの名前は分かちがたく結びついている。

 経済学的には、「マネタリスト」というか、「サプライサイダー・エコノミックス」というか、もっと端的に言えば「しぶちんボルカー」というか、アメリカ版マルクス主義同志会=現代版リカード主義=新型の“通貨学派”というか、そういう人である。

 レーガンが一方において、大規模な軍事拡張路線や減税などのインフレ政策を採用し、他方、金融の面ではボルカーが、インフレを抑制するために金利を上げて、“通貨”の供給量を抑制するというアクセルとブレーキを両方一緒に踏んでいた。

 その結果として、ドルは異常なまでの高騰をし、他の国も自国の通貨を守るために、一斉に高金利の壁を築きはじめたので、対外債務の多い開発途上国の中から、ブラジルやメキシコなどのようなデフォルト(債務不履行)におちいる国がでてきた。

 だから、80年代は累積債務問題が大きな問題となった時代であり、結果として、東欧諸国や旧ソ連の崩壊につながっていったときでもあった。

 また、ドル高はアメリカの商品の国際競争力を喪失させ、アメリカの資本がつぎつぎに生産拠点を海外に移したために産業の空洞化が進み、アメリカの失業問題が大きな社会問題になっていった時だし、この時日本が円安を利用して資本の商品を大量にアメリカに輸出したので日米経済摩擦が大きな問題になっていったときでもある。

 この行きすぎたドル高は85年のプラザ合意を契機にして、ドル安の方向にふれて行ったが、金利高が続いたので、アメリカの株式市場が不安定となり、何度も暴落を重ねて、87年の“ブラック・マンデー”をむかえることになる。

 ここでミスター“アメリカ版マルクス主義同志会”に80年代と同じことをやられれば、おそらく、世界経済はパンクするだろうが、おそらく、そのようなことはないであろう。

 しかし、ここでボルカーの名前が出てきたことは、少なくとも、二つのことを意味している。

 一つは、アメリカ資本主義が、この先、ドル暴落、もしくはドル全面安の局面が来るのは避けられないと考えていることであり、ボルカー氏はその時のための布石であるということだ。

 もう一つは、オバマ大統領が、イランのアハマディネジャド氏やロシアのメドベージェフ氏のような、どちらかという“お飾り”の大統領で、実質は“アメリカの民主党”の大統領になる可能性があるということだ。この辺はオバマ氏の政治的な実力次第であるのだが、アメリカのブルジョア諸氏はマケイン氏がいったように、「あの男は信用できない」というのを、ある程度共有しているために、“お目付役”を政権の中に入れる必要があると考えているのであろう。 

田中角栄氏の池の鯉

2008-11-03 00:55:04 | Weblog
 その昔、田中角栄氏が“闇将軍”と呼ばれていた頃、彼に呼ばれたある政治家(名前は忘れた)がこんな話を聞かされた。

 何でも田中角栄氏の池の鯉は元気がよくて、ときどき池から飛び出すそうで、そのうち何匹かは池に戻れず、日干しになって死んでしまうそうである。

 どういうわけか、その政治家はその後しばらくして自殺してしまった。

 これも不思議なことだが、現在の日本の支配階級は、“田中角栄氏の池”のようになっている。

 ときどき“鯉”が池から飛び出してきて、口をぱくぱくやって、バタバタしたかと思うと、そのまま日干しになってしまうのである。

 水の中にあってこそ、鯉は鯉なのだが、そういう単純なことすらできないということは、彼らの池の中で、彼らにとってがまんならない何かが起こっているということであろう。

 このがまんならないものというのは、おそらく、現実の水と彼らが“水”と考えているものの不一致なのであろう。

 しかし、池の中の多くの鯉は、何の苦痛も感じずにスイスイと泳いでいるのだから、この場合、不一致を引き起こしているのは、池から飛び出す鯉の“水”に対する意識の方に不適応があると考えるのが自然であろう。

 田中角栄氏の池の鯉は一匹、ウン百万円もしたそうで、要するに、鯉のエリートなのだが、エリートの鯉はそれなりの育てられ方をしている。

 さしずめ、政治家ならば、東京大学の法学部を卒業して、国会議員になり、「先生」、「先生」とちやほやされて、当選を重ね、やがて大臣になってというようなものであろうし、帝国軍人であるならば、防衛大学を卒業して、すぐに指揮官となり、やがては幕僚長にでもなるのであろう。

 チヤホヤされて、世間の風を知らず、仲間内のくだらない話ばかり聞かされ、それを真実と思いこみ、やがては、“国士”にでもなったつもりで、場所をわきまえず、仲間内のくだらない話を披露しだすのだが、実は、そうすることは自分の住んでいた池から飛び出すことである、という単純な真実すらわからない。

 しかし、池を飛び出せば、待っているのは、もうすぐ冬の訪れをつげるような晩秋の風である。しまったと思ったところで、池を飛び出してしまった以上、もうもどる術(すべ)はない。

 こうして、今日も、明日も一匹と、エリート鯉の日干しが生産されていくのだが、日本の上流階級が田中角栄氏の池のような状態になっているとしたら、それはこの国の社会体制そのものが、フランス革命前の“アンシャン・レジーム”と呼ばれたような、頽廃を深め、生命力を喪失し、自然死をまつだけのような社会に向かっていることの一つの表れであるかもしれない。


今度はアフリカから

2008-11-02 02:25:00 | Weblog
 かつて世界資本主義と呼ばれた、アメリカ資本主義を極とする体制は、今回の世界的な経済危機の中で、いくつかのパーツに分解しようとしている。

 それを今回はアフリカ、特にコンゴ民主共和国の問題を考えることによって考えてみたい。

 コンゴ民主共和国は現在、内戦の前夜にある。

 話し始めると長くなるので、直近の歴史からしか始められないが、この国は97年以来、アフリカの多くの国を巻き込む内戦が続いていた。

 現カビラ大統領の父親が暗殺され、その息子が政権の座についたときに、カビラが最初にしたことは、アメリカに行き、誕生したばかりのブッシュに忠誠を誓い、内戦集結の“嘆願”をすることだった。

 カビラ大統領の“嘆願”が聞き入れられたかどうかは定かではないが、その後、コンゴの内戦はアメリカを中心とする英米諸国の“仲介”によって、一時的に終息していった。

 それが、今、再燃しようとしているのは、アメリカの和平案を“ヨーロッパ派”(特に、イギリスとフランス)が気に入らなかったからである。

 つまり、アメリカの和平案の眼目はカビラ政権を丸ごと取り込み、地下資源の豊富なコンゴを帝国主義諸国の共同“植民地”とすることにあったが、これはそれまでコンゴの反政府勢力を支援してカビラ政権に敵対してきた欧米諸国の大きな方針転換であった。

 それがブッシュ政権の終末とともに、イギリスとフランスは再度、方向転換をして、反政府勢力にコンゴ東部の中心地ゴマを占領させて、再度、コンゴ分割に乗り出そうとしているのである。

 つまり、世界のアメリカ派とヨーロッパ派の分裂は、世界の勢力範囲の暴力的な再編成をともなうものであることが次第に明らかになりつつある。

 イギリスとフランスを中心とするヨーロッパ派が、アメリカのアフリカ政策に反対しはじめたのは、アメリカの勢力圏内では“自由競争”が一般的に行われ、一次産品や地下資源の利権がより高い金を出す国によって落札されるからである。

 このアメリカの自由入札制によって、漁夫の利を得たのは資金力が豊富な中国資本主義であり、この間、中国資本主義は札束にものをいわせてアフリカの資源を買いあさっていた。

 これは“旧植民地宗主国”の特権を生かして、安い価格でアフリカの一次産品や地下資源を買いたたいていたヨーロッパ派の経済的な地位をおびやかすものである。

 だから、ヨーロッパ派の隠された本当の意図はアフリカから中国資本主義を排除することにある。もちろん、この過程はイギリスやフランスを中心とするヨーロッパ派によるアフリカの資源の独占化、つまり、アフリカの再植民地化を意味する。

 先日も、日本における代表的なヨーロッパ派である「報道ステーション」がガポンにおける中国資本主義の“侵略”を攻撃する特集をやっていたが、これは単に、ガポンだけではなく、アフリカ全体の問題になりつつある。

 実際、コンゴにおける反政府勢力は“蜂起”の理由として、コンゴのカビラ政権が中国に対して30億ドルでレアメタルの採掘権を認めたことをあげている。

 この問題、コンゴの反政府勢力にルアンダがつき、コンゴ政府がアンゴラ政府に救援を求め、さらにイギリスとフランスが直接介入を画策し始めたことから、大きな国際紛争になる可能性をもっている。

 脅威の中心になっているゴマの住民は現地に滞在している、国連の平和維持軍が反政府派の住民襲撃を逃しているとデモを行い、危機がさしせまったゴマからすでに避難を開始している。

 ここで誤解がないように断っておきたいが、われわれは日本共産党全体がヨーロッパ派であるとは思っていないし、そのようにも言っていない。

 われわれは共産党内のヨーロッパ派を日本共産党『赤旗派』と呼んでいることをお忘れなく。もっと正確に言えば、かつて『新日和見主義』と呼ばれ、今では悔い改めて、『赤旗』を中心に活動している人々であり、ヨーロッパのブルジョア民主主義に深く帰依している人々のことである。

 そのヨーロッパが今回の経済危機の中で帝国主義政治へと回帰していくなかで、共産党中央と『赤旗派』の確執の先鋭化は避けられそうもない。これはよその党のことだからわれわれがとやかく言う問題ではないが、われわれがはっきりといいうるのは、日本の労働者階級はアフリカ人民の変わることのない友であり、アフリカの人々を自分たちの利権のために戦渦に巻き込もうとする勢力とは断固として闘うということである。