労働者のこだま(国内政治)

政治・経済問題を扱っています。筆者は主に横井邦彦です。

元気が出てきたマルクス主義同志会

2008-11-07 01:30:07 | Weblog
 つい先日まで、“歩く劣等感”と化し、この世のありとあらゆる事ごとに対して、品のない悪罵を投げかけることのみを生業(なりわい)としてきたマルクス主義同志会が、最近は元気いっぱいである。

 もちろんそれは彼らの時代がやってきたと彼らが考えているからである。

 資本主義が危急存亡の危機にある現在こそ、“資本主義最後の救世主”である彼らの出番であるというものである。実際、彼らの主張は時代の思想になりつつある。

 今、さかんに言われているような、強欲がいけない、「カジノ資本主義」がいけない、「天国にいたる日は近い、悔い改めよ」等々の道徳経済学こそまさに、彼らマルクス主義同志会が長い間、訴えてきたものである。(もっとも、彼らが本当に時代の救世主となるためには、人を見たらまず悪口を言うという、ぜんぜんよろしくない態度を改めなければならないのだが・・・)

 マルクス主義同志会のいう「グリード(ごう欲)」とは、マルクスにいわせれば「ユダヤ人」のことである。

 (誤解がないように、少し説明を加えると、マルクスが「ユダヤ人」といっているのはヨーロッパの市民、つまりキリスト教徒のことである。

 「キリスト教はユダヤ教から発生した。それはふたたびユダヤ教のなかへ解消した。
 キリスト教徒は、はじめから、理論をこととするユダヤ人であった。ユダヤ人は、だから、実際的なキリスト教徒なのであり、そしてその実際的なキリスト教徒がふたたびユダヤ人となったのである。」(『ユダヤ人問題によせて』、全集第1巻、P413)

 つまり、当時のマルクスはキリスト教とユダヤ教を区別する必要性まったくを感じていないのである。だから、両者を表裏一体のものとして考え、天井に舞い上がったユダヤ教を「キリスト教」とよび、地上に降り立ったキリスト教を「ユダヤ教」といっているにすぎない。

 これはブルーノ・バウアーのような、それこそ本当にユダヤ人に対して偏見を持っている人物が、ユダヤ教の現世的基礎は、実際的な欲望、私利私欲であり、彼らの本当の神は貨幣であると言ったのに対して、マルクスは、それならヨーロッパの市民=キリスト教徒は全部、「嫉妬深いイスラエルの神」=貨幣を崇拝し、その奴隷になっているのだから、実質的なユダヤ教徒ではないか、と答えたのである。

 だから、この論文の最後の「ユダヤ人=現世のキリスト教徒の社会的解放は、『ユダヤ教』(嫉妬深いイスラエルの神を崇拝する宗教)からの社会の解放である」という言葉は、貨幣物神、つまりマルクス主義同志会がいうところの「私利私欲」からの社会の解放を意味する。)

 マルクスがこの『ユダヤ人問題によせて』を書いたとき(1842年)には、まだ8割程度のマルクス主義者でしかなかったが、それでもマルクスは「市民社会はそれ自身の胎内から、たえずユダヤ人を生みだす」といい、「ユダヤ教」の基礎になっている私利私欲やごう欲が市民社会の必然的な発生物であることを見ていた。

 だからマルクスのいう「ユダヤ教からの社会の解放」とは、とりもなおさず、「ユダヤ教」を必然のものとして生みだす市民社会のものを変革しなければならないという見解であった。

 ところが、マルクス主義同志会の諸君たちは、一方において、市民社会(商品生産社会)を均衡の取れた理想的な社会として描きながら、他方において、その理想的な社会を破壊する元凶として「ユダヤ人」の存在、またはユダヤ人化した社会をあげているのであるから、彼らはブルーノ・バウアーのように、「ユダヤ教徒」をキリスト教徒に改宗させることによって、ユダヤ人化した市民社会をキリスト教の精神で再征服しようという見解に落ち着くのである。

 これは、マルクスがいうように「商品生産社会にとっては、抽象的人間(つまり価値=貨幣)に対する礼拝を含むキリスト教、ことにそのブルジョア的発展であるプロテスタント教や理神論などのキリスト教が最も適当な宗教形態である。」(『資本論』、第1巻、大月国民文庫版第1分冊、P146)のだから、商品生産社会それ自体を崇拝の対象とする宗教団体としてのマルクス主義同志会は、必然的に、プロテスタント教に改宗しなければならないのであろう。

 だから、清純なプロテスタント教徒として、マルクス主義同志会はルター以上に「利子生み資本」を憎悪することになる。

 だからつぎにマルクス主義同志会はいう。産業ブルジョアジーは労働者を搾取して剰余価値を取得するから許される(!!!)が「利子生み資本」は労働者を搾取もせずに儲けようとするから許されないのであると。

 「投機とは、基本的に貨幣資本や商業資本とかかわるものであって、資本そのもの、産業資本とは別だからである。こで言う『貨幣資本』とは、利子生み資本(貸し付け資本)のことであって、資本の循環中に現れる貨幣資本のことではない。投機は、『安く買って高く売る』ことにかかわるのであって、基本的に流通部面、信用部面に関係するのである。」(『海つばめ』、第1081号)と。

 「投機による価値増加は、ただ生産的労働を搾取した剰余価値の枠内で、その分け前を争うにすぎない、つまりブルジョアたちの言う『ゼロサム・ゲーム』にすぎず、社会的には、価値も富も全く増加させるのである。」(『海つばめ』、第1081号)と。(いつものことながら、マルクス主義同志会は「利子生み資本」によって神聖な“労働者の搾取”が冒涜されていると感じているので、怒りのあまり我を忘れて「価値も富もまったく増加させない」というべきところを「価値も富も全く増加させる」といってしまっている。)

 あまりにすごいことが書いてあるのでどこから手につけていいのか分からないが、最初に言えば、

 “通貨学派”はマルクス主義同志会と同様に貨幣の価値を高める必要があると感じているが。そのために利子率を高める(高金利にする)ことが必要であると主張していたのである。だから通貨学派”から生まれたマネタリストというのは、基本的に高金利主義者の別称なのであり、マルクスの時代の“通貨学派”は高金利によって儲けようとする銀行家の利益を代弁する理論だった。

 しかし、ルター派であるマルクス主義同志会は「利子生み資本」そのものをあってはならないことと考えている。

 この違いは、同じリカードから生じている二つの流派の違いから生じている。つまり、リカードの誤った“貨幣数量説”→19世紀の“通貨学派”または“通貨主義”→20世紀のマネタリストという流れと、リカードの価値論→リカード派社会主義→プルードン→無政府主義(アナーキズム)がある。不思議なことにマルクス主義同志会はこの二者の混合物であるが、どちらかといえば本来は後者に属していたはずであった。

 もちろんアナーキストたちの個人主義、自由主義とマルクス主義同志会の全体主義的な国家主義はまったく相反するものであるが、これはマルクス主義同志会がマルクス主義を古典派経済学(リカード、およびアダム・スミス)的に解釈することによって生まれたということから説明ができる。

 だから、ここにはリカードの貨幣論もアダム・スミスのキリスト教的道徳経済学も、“通貨主義”も、プルードンの小ブルジョア的な社会主義も、リカード派の社会主義も全部ひっくるめてゴチャゴチャになって入っているのである。

 しかも彼らが生まれたのが、フルシチョフによる“スターリン批判”の頃なので、スターリン主義の残滓(ざんさい)まで入っている。

 この得体の知れない混沌物が腐敗して(精神的、理論的に堕落して)現在のマルクス主義同志会ができているのであるが、最近では、むしろ高利を口汚くののしるルター的なプロテスタント教が強まっている。

 もちろん、マルクス主義同志会が言うように、投機と「利子生み資本」を同一視して、「嫉妬深いイスラエルの神(貨幣)を崇拝している」となじるのはまったく正しくない。

 その理由は彼らが言っているとおりである。「投機による価値増加は、ただ生産的労働を搾取した剰余価値の枠内で、その分け前を争うにすぎない。」この文中の投機を利子と置きかえれば、それは利子生み資本の説明になろう。

 借りた資本で事業をする生産的資本家にとって、総利潤は二つに分かれる、つまり、資本の借り主に支払う利子と自分の手元に残る企業者利得に分かれる。なぜこうなるのか、それは生産的資本家は利子生み資本から資本を借りなければ、生産を行うことができなかったからであり、彼が生産資本家であるためには他人の資本が必要であったからである。

 これに対して、投機はマルクス主義同志会が言うように、「投機は、『安く買って高く売る』ことにかかわるのであって、基本的に流通部面、信用部面に関係するのである」ことであろう。

 だとするならば、投機と利子生み資本を一緒にしていいはずもないではないか?

 ところがマルクス主義同志会はこれをいっしょくたにして、ひたすら嫉妬深い「イスラエルの神(貨幣)」に悪罵を投げかけ、「悔い改めよ、天国は近い」と叫ぶのである。

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