労働者のこだま(国内政治)

政治・経済問題を扱っています。筆者は主に横井邦彦です。

死んでお詫びをされても・・・

2007-05-30 00:47:41 | 政治
 1945年、日本の敗戦直後、何人もの将軍たちが、毒を飲んだり、腹を切ったり、拳銃で自分の頭を撃ち抜いたりして死んでいる。
 
 彼らは一様に、死んでお詫びをするといって自殺していったのだが、彼らのなかにはアメリカ軍が進駐してきて戦争犯罪者として逮捕されることを恐れて自殺したものが何人もいる。
 
 例えば、名前を出して恐縮だが、満州事変の時、関東軍の司令官をしていて、後に昭和天皇の側近にまでなった本庄繁氏もその一人だ。
 
 もちろん、彼が死を選んだのは、「お詫び」というよりも、アメリカ軍に逮捕され、追求され、満州事変の真実が明るみに出ることを恐れたからである。本庄繁氏が命をかけても守りたかったのは誰か、ということは、もちろん満州事変の首謀者とされている石原完爾氏ではなかったことだけは確かである。

 「死んでお詫びをする」といえば聞こえはいいが、何かを秘匿するために死に逃避するのは無責任な行為そのものであろう。
 
 そして同じことが現在の日本でも起き始めている。
 
 「死んでお詫びをいたします」そのように言われても、たかが経済犯罪ぐらいで死なれては、労働者としては「君は誰をかばって死を選んだのか、そういう選択は人間として卑怯ではないか」と言わざるをえない。
 
 近年、日本では人間の命がだんだんと軽いものになっている。それはいうまでもなく、「国のために死ね」と人々をさんざん煽っている心卑しい人間が内閣総理大臣をやっているからである。
 
 この内閣のもとで、死ななくてもいい人間が何人も死んでおり、そのことだけでもこの内閣の即刻退陣を求めることは労働者にとってにとっての正義である。
 
 日本には自分の政治的な野望を達成するためには、死体の山を築いても、という人間はいらない。
 
 

再度お答えいたします

2007-05-25 17:03:53 | Weblog
 最初に、マルクス主義同志会の憲法にたいする態度ですが、そういう質問はマルクス主義同志会にしてください。われわれはマルクス主義同志会について何の情報も持っていません。

 それから、われわれ赤星マルクス研究会の日本国憲法についてのご質問ですが、これについては、われわれは、以前から、現行の日本国憲法が象徴天皇制と私有財産の不可侵性を認めているという点で、また自由、平等が単なる形式上のみ、権利としてのみ、認められているだけで、必ずしも労働者の搾取を否定するものではなく、むしろ労働者にたいする搾取と収奪の体制、資本主義的な生産様式を美辞麗句で覆い隠す役割を果たしているという点で、日本国憲法は労働者にとって不十分であり、憲法擁護の立場には立たないということははっきりと言っています。

 そして同時に、現在進行している典型的なブルジョア民主主義憲法である日本国憲法を改定しようとする運動は、ブルジョア民主主義を否定して労働者のむき出しの支配に置きかえ、他国を侵略する軍事国家へと転化させる反動的な試みであるがゆえに、許容しえない、このような愚劣な試みとは全力を挙げて闘うともいっているのです。

 この軍国主義反対の闘いでわれわれは日本国憲法擁護ではなく、労働者の民主主義(生産手段の共有に基礎をおく実質的な民主主義)を対置して闘うと言っているのです。

 これは実際的な方法でしょう。

 なぜなら日本国憲法はすでに条文として残っているだけで実質的に死んでいるからです。

 例えば、現在問題になっている「拉致問題」についてですが、この問題が日本と北朝鮮のあいだに横たわっている国際紛争であることはいうまでもないことです。日本国憲法はこのような国際紛争は武力に頼らずに平和的に解決することを世界に向かって約束していますが、日本の政府も日本の国民もこのような憲法の精神を守ろうとは思っていません。

 われわれが、他国の政府を武力で転覆しようとする団体は日本国内では違法である。そんなに北朝鮮政府を転覆したいというのなら、日本国籍を捨てて北朝鮮に行ってやれ、といおうものなら、それこそ、右翼から左翼までどんちゃん騒ぎをやって、赤星マルクス研究会はけしからんという大合唱である。(ハッハッハッ)

 政府も国民もどうでもいいと思っている憲法は改正されようが、改正されまいが、すでに機能を停止しているのではないですか。

 そしてわれわれは、こういうこと、すなわち、日本国憲法が死文化して他のものに転化していくことに対して、それでもいいと言っているのである。なぜならば、日本国憲法が転化しようとしているものは戦前の日本軍国主義であり、21世紀にはまったくそぐわない時代錯誤のしろものであり、遠からず破綻が避けられないものだからである。

 そして、その日本軍国主義が破綻する日こそ、労働者の民主主義は人々にとって大きな意味を持つであろうし、われわれはその日に向かって全勢力を傾注するといっているのです。

 また、中央委員がどうのこうのという話がでできますが、どういうことですか?われわれはスターリン主義的な民主集中制を否定しています。党のあれこれの機関に所属していることが、一つの身分として考えられたり、何か人間として優秀な証拠として考えられているのは、労働者の政党として正しい姿ではありません。

 もちろんわれわれは全国的な政党をめざしていますし、政党が全国的なものになるにしたがって、県委員会なり、中央委員会なり、地区委員会なり、職場細胞なりの組織の“分業化”が進むでしょうが、それは単に役割の異なるところで闘う同志が出てくるというだけの話で、われわれは人の上に人を置くような組織を作る気はまったくありません。

 また“戸籍主義”についてですが、現行の日本の法律では日本人であるためには、日本国籍を取得する必要があるので、日本国籍を取得したらといっているだけです。単に言葉でだけ自分は日本人だと言っても仕方がないわれで、社会的に日本人として認められるためには、現行の法律に則ってそうする必要があるから、便宜的にそういっているだけです。

 ですから、民法上の諸問題や国籍法についての議論はすべて無視しています。

 最後に、いろいろな人から「マル共連」へのお誘いを受けております。大変光栄なことではありますが、いろいろな理由で遠慮させてもらっています。これはわれわれにとっても、「マル共連」にとっても、よい選択だと思います。なにしろ、われわれは言葉の本当の意味で、“歩くトラブルメーカー”ですから、何をしても、何をしなくても、どこからともなく石が飛んできますし、最近はその石がわれわれの近くの人のところにまであたったりして、“歩く近所迷惑”になりつつありますので・・・。


お答えいたします

2007-05-23 16:06:09 | Weblog
 できることならばしばらく“夏眠”または死んだふりをしようと思っていましたが、いろいろ質問が寄せられておりますので、一応お答えしたいと思います。
 
 第一に、赤星マルクス研究会は拉致家族会のことを目障りと思っているのではないのか、というご質問ですが、まったくその通りです。しかし、これは拉致問題の解決にとってという限定つきでかたられています。つまり、われわれは拉致問題の解決にとって「拉致家族会」は妨害物そのものだから、会として解散した方がいいといっているのです。だからここでどうしてマルクスの名前がでてくるのか理解に苦しみます。
 
 マルクスの時代には、他国民を誘拐して洗脳し、自分たちの道具に使おうという国家は存在しませんでしたから、こういう問題をマルクスに聞こうというのはちょっとスジが違うような気がします。
 
 また、拉致問題の解決にとって、なぜ現在の拉致家族会が妨害物そのものであるのかはわれわれは何度も説明をしたと思っています。
 
 そもそも、われわれは拉致家族会の諸君たちに、君たちの運動は拉致被害者救出運動なのか、拉致被害報復運動なのかはっきりさせよと何度も要求しているのに何の解答もありません。
 
 だから勝手に判断するほかなかったので、『諸君』6月号の櫻井よし子氏と横田夫妻の対話を参考にしたのです。この対談を全文引用してもいいのですが、ここで語られているのは北朝鮮にいかに打撃を与えるのかということだけで、北朝鮮でとらわれている人をいかにして救出すべきかということではありません。だからわれわれは拉致家族会の運動は拉致被害報復運動であり、拉致被害者救出運動にとって有害きわまりないと判断したのです。
 
 もちろん彼らは口では拉致被害者の救出を訴えているのですが、例えば、横田めぐみさんについて、日本政府や拉致家族会は横田めぐみさんが現在も確かに生存しているという確か根拠を持っているのだろうか。
 
 『諸君』の6月号では、横田夫妻はこのようにいっている。
 
 「滋 今でこそ次々に矛盾点が明らかになりましたが、当時は政府発表は一点の誤謬もないものと信じていましたから、ショックは大きかったですね。まあ、妻の直感にも根拠はないのですが(笑)。
 
 早紀江 まったくの勘ですわ(笑)。
 
 櫻井 でもね、早紀江さんのあの一言が、流れを変えたと思うんです。あの時、あの一言を発しなかったら、もう本当にめぐみさんは『死亡』とされたまま事態は推移していたかもしれないんですから。早紀江さんは本当はすごい人だなあって、いつも私は思うんです。
 
 早紀江 いえ、私自身には何の力もないんです。皆様に応援していただいて、いつも何か見えない力に突き動かされているような、自分でも不思議な感じがするんですけどね。
 
 櫻井 でも、そのお陰でずいぶんいろいろなことがわかってきたんですよ。政府が『遺骨を出せ』って言ったら北朝鮮はニセモノを出してきたし、診断書や死亡日時、目撃証言等々、整合性のなさがいくつも明らかになりましたでしょう。」
 
 自分の娘の生き死にに関するもっとも重要な部分で夫婦そろって笑って答えている、しかもその内容自体が「勘」であって、何らかの確証があるものではないことを自ら認めている(!)、ということはいかにも不思議としか言いようがないが、そもそもこの部分は自分たちの娘は生きている、よかった、よかった、という会話ではない。
 
 櫻井よし子氏が言う、その後、「いろいろなことがわかってきた」こと、すなわち、「『遺骨を出せ』って言ったら北朝鮮はニセモノを出してきたし、診断書や死亡日時、目撃証言等々」も横田めぐみさんの生死に関わることではなく、北朝鮮政府の説明には、「整合性がない」、つまりこの問題(横田めぐみさんの生死に関わる問題)で北朝鮮政府は何かを秘匿しており、真実を語ることができない立場にあるということを意味しているだけである。
 
 そして3人(横田夫妻と櫻井よし子氏)の言わんとしていることも、横田めぐみさんが生きているから何とかしなければならないというものではない、「横田めぐみ問題」は北朝鮮政府の弱点であり、この問題をついて行けば北朝鮮政府はおおいに困るだろうということを発見し、誰がこの北朝鮮攻撃の決定的「武器」を発見したのかということをお互いに賞賛しあっているのである。
 
 「横田めぐみさんは生きているから横田めぐみさんを返せ」と言い続ければ、それができない北朝鮮政府窮地に陥るだろうからすばらしい戦術だ、なんてかしこい戦術を考えたことか!などというのは、「横田めぐみさんの生存説」に立脚した戦術ではない。(われわれは横田めぐみさんについては死亡しているとも、生存しているとも分からない、分からない以上生存しているという推定のもとに行動すべきだという観点にたっている。)
 
 とにかく北朝鮮は憎いんだと、許し難いのだと、そういう意識ばかり先行して、いかにして北朝鮮政府に打撃を与えるのかということしか考えていないから、肝心なことが抜け落ちてしまっている。これでは北朝鮮に拉致されて現在も生きている人は永遠に帰ることはできないでしょう。
 
 第2に、横井某が21年前の「鴨田小拉致未遂事件」について語っているのは「釣りっぽい」というご指摘ですが、横井某の「鴨田小学校拉致未遂事件」の関連のブログはこのブログから全部削除しました。それがこの問題に対するわれわれの解答です。
 
 第3に、これは右からも左からも評判がよくないのですが、もう一時きちんと説明します。
 
 『共産党宣言』でマルクスは、
 
 「ブルジョアジーにたいするプロレタリアートの闘争は、内容上ではないが、形式上ははじめは一国的である。どの国のプロレタリアートも、当然、まずもって自国の国のブルジョアジーをかたづけなければならない。」といっています。
 
 こういう観点からするなら、日本政府と闘いたいと熱望している在日朝鮮人の同志に、われわれとともに日本政府と闘いたいのであれば、君は日本国籍を取得すべきだと進言する(あくまでも友人としての忠告であり、命令ではない)いうのは当然のことだと思います。(なお、誤解しないでいただきたいが、われわれはすべての在日朝鮮人にそのように呼びかけたのでなく、われわれとともに日本政府と闘いたいと申し出ている在日朝鮮人に対して、そのように言ったのである。)
 
 またわれわれに意見を寄せてくれた「ああ、労働者」なる人物も、自分がプロレタリアートであるという自覚があり、北朝鮮の金正日体制と闘いたいというのであれば、当然北朝鮮籍をとって北朝鮮のプロレタリアートとして自国政府(北朝鮮政府)打倒の闘いに参加すべきでありましょう。北朝鮮の労働者階級は喜んで君を迎え入れてくれるはずだ。
 
 われわれとしてはまったく当たり前のことを言っているつもりだが、こういう当たり前のことがまったく理解されないのは、こういう人たち、すなわち、われわれのこの見解を聞いて憤激する人々はわれわれとはまったく別の観点から問題に接近しているからにほかならない。つまり、単に民族主義的、排外主義的な観点から、金正日倒せ!日本政府を倒せ!といっているだけであり、日本と北朝鮮の戦争を渇望しているにすぎないのだ。だから「ああ、労働者」氏も自分の本当の名前である「大日本帝国万歳」(おそらく、この場合の「万歳」は「漫才」の誤記であろう)氏と改名する必要があるのではないか。
 
 第4に、われわれが国鉄問題で、労働者であるならどこの職場でも同じ、というビラをくばったそうですが、われわれは最初からこういう観点で問題に接近したのではないはずです。国鉄民営化が決まる直前の名古屋の国労全国大会では、われわれ社労党愛知県委員会は、「今こそ断固として闘え!ストライキを組織せよ!」というビラを国鉄労働者に配っています。(実際にこの時はストライキなどの大衆的な実力闘争のみが事態を転換させうる唯一の手段でしたが、国労本部はそうはしなかった。)
 
 われわれがもしこのようなこと(労働者であるならどこの職場でも同じということ)を主張したとするなら、それはすでに国鉄民営化が決定され、実施されるときでしょう。国鉄闘争が敗北し、国鉄労働者一人一人にどうするのかという問題が切実な問題として提起されているときに、出向や広域採用はいやだ、あくまで現地採用でなければ受け入れられないというのは闘争として観念的だ。すでに体勢が決している以上、広域採用に応じて生まれ育った土地を離れることを選択したり、他業種へ転職するという選択肢も考えられると国鉄労働者に述べることはそんなに非難されるべきことだとは思いません。
 
 労働組合は政党ではありません。ですから大きな闘争に決定的に敗北した労働組合の組合員が、生活のために転職したり、意にそわない出向を受け入れたり、見知らぬ遠隔地への異動を受け入れたりすることを裏切り行為だと非難する権利は誰にもありません。
 
 誰がそこまで組合員を追い込んでしまったのかということこそが問われるべき問題ではないですか。もちろんそれは理不尽な民営化を強行した中曽根自民党であり、国鉄経営陣が第一義的に責任を負うべきものでしょうが、われわれはそれだけではないと思っています。  

政治の舞台は第2幕へ

2007-05-21 12:13:05 | Weblog

 参議院選挙がすでに直近に迫っていることから、日本の政治も様変わりしはじめている。
 
 すべてが参議院選挙のために、有権者の支持をかすめとるために、すべての政党が有権者に素顔がみられないようにこってりと厚化粧をほどこしはじめている。
 
 特に、自由民主党と民主党と公明党はありとあらゆる詐欺、ペテンのたぐいの政治戦術を使って、自分たちが何ものであるのか、何をめざしているのかを隠蔽しようとしている。
 
 有権者に自分たちの正体を隠さなければ公然たる政治闘争ができないというのはいかにも情けないことであるが、この自公民の政治のみじめさこそ日本の政治の現状をよく物語っている。
 
 安倍晋三政権によって進められている日本の軍国主義化はすでに規定の事実であるが、それは公認の、すなわち、選挙によって有権者に支持された政権によってなされているものではない。現在の自民党の議席は小泉純一郎のペテン政治の結果であって、小泉から政権を譲り受けた安倍晋三の本当の有権者の信任はこれからだ。
 
 ところがその安倍晋三政権と自由民主党は、民主政治では避けては通れない選挙の洗礼を前にして、自らがこれまで土足で踏みにじってきた有権者の報復におびえ、震え上がっているのである。このことは彼らがこれまでいかに信念のない政治を行ってきたのかという証しでもあるのだが、現状では日本の軍国主義勢力は彼らが破壊しようと思っているブルジョア民主主義の土台をくつがえすまでの力量を持っていないことの表れでもある。
 
 われわれに政治的な力量があれば、この絶好の好機に、安部自民党を徹底的に追い詰めて、二度とくだらない策動を行うことができないように打撃を与えるべく全力を尽くすのだが、まだわれわれは政党として萌芽的な状態にも至っていない現状では、情勢の推移を見守ることぐらいしかできない。
 
 つぎに政治が動くのは参議院選挙後であり、それまでは有権者をペテンにかけるための政党の虚飾のお芝居がえんえんと繰り広げられることになろう。
 
 そういう点では、この政治の第2幕でのわれわれの出番はあまりなさそうである。      

もう拉致家族会は解散の時だ (拉致家族会結成の10年)

2007-05-16 02:21:25 | 政治

 ある人が、われわれ赤星マルクス研究会が拉致家族会は方針を変更するか、解散した方がいいのではないかと問題を提起しながら、結論部分で「勝手にしろ」というのはいかにも傲慢ではないかと言っている。
 
 たしかに、「勝手にしろ」というのは無責任な態度であったのかもしれない。
 
 そこで、今回は『諸君!』6月号に載った横田夫妻の櫻井よしこ氏との対談を読みながら、拉致家族会のことをまじめに考えてみよう。
 
 この文章、前半は横田めぐみさんが拉致されて、消息不明のなかで、北朝鮮に拉致されたことが分かるまでの苦労話でそれなりに理解できるものである。
 
 しかし、後半部分になると、読めば読むほど「?」マークがいくつも浮かんでくる。
 
 なかでも最大のものは、いったいこの人たちは何をやりたいのか、何をしてほしいのかさっぱり分からないことなのだ。
 
 言われているのは、拉致問題の解決に消極的だった人々に対する人々に対する非難と、北朝鮮に対する非難のみで、この会が結成された当初の目的であるはずの拉致された自分たちの家族を取り返すためにはどうすればいいのか、何が必要なのかという観点からの発言はいつの間にかどこかに行ってしまって一切出てこない。
 
 そもそも横田夫妻は横田めぐみさんがもう生きていないと確信しているのではないか?
 
 たとえば横田早紀江氏は最後にこんなことを言っている。
 
 「最近、『教育の荒廃』が叫ばれていますが、命の尊さを大人たちがきちんと教えないことにも原因があるのではないでしょうか。『人の命を軽んずることは許されない』という姿勢をみせて自ら範を垂れ、どんなことでも誠心誠意取り組めば必ず通じるのだと、身をもって伝えたい。ささやかではありますが、拉致問題がお子さんたちに命の尊さを伝える一助になればと、願ってやみません。」
 
 これは金正日は横田めぐみさんの命を軽んじて奪ってしまったから、金正日に報復して、命の尊さを思い知らせてやるのだといっているのと同じであろう。もちろんわれわれは報復や仇討ちが命の尊さを子供たちに伝えるものであるとは絶対に思わないが、ここでここで語られているのはそういう殺人事件の被害者の心境であろう。
 
 そうだとすると拉致家族会運動というのは多くの人々が考えているのとはまったく違ったものである可能性があるということだ。
 
 そういう点を考えながら次のところを読むとある程度納得できる。
 
 「滋 当初は『拉致担当大臣』といっても手足となるスタッフはおらず、とくに情報部門の人材が不足していて、動きたくても動けない状況だったようです。しかし、機構改革で有機的なつながりができたためか、最近の政府の対応は非常にしっかりしており、私どもも不満はございません。
 
 むしろ懸念されるのは、六者協議など外交面での今後の行方です。日本政府は『拉致問題の進展がなければ、対北朝鮮エネルギー支援には応じない』との立場をとっており、私どももこのスタンスには賛成です。しかし報道によると、中国の武大偉外務次官と米国主席代表のヒル国務次官補は『「進展」の定義を明確化せよ』と日本側に求めているそうですね。この背景には、『六者会議で拉致問題は扱いたくない』という意図が透けて見えますし、かといって日本政府が定義を明確化してしまうと、交渉カードを北朝鮮にばらしてしまうことになりますし・・・・。
 
櫻井 そんなもの、日本が応じる必要は金輪際ありません。安倍政権の『進展』の定義は、少なくとも『話し合いに応じる』という程度のものではありません。拉致被害者の方々を全員まとめて傷一つつけずに日本に帰してもらうこと以外、『進展』はないのです。自国民を多数拉致されたにもかかわらずコメや重油を支援しようという発想の方が、よほど道議にもとる行為です。
 
早紀江 そうですよね。日本のみならず世界中から人々を拉致した非道な国家が、拉致してきた国々からぬけぬけと食糧やエネルギーを強奪するなんて、許し難い行為です。」
 
 無前提のまま読めば、実に意味不明な会話である。日本政府は『拉致問題の進展がなければ、対北朝鮮エネルギー支援には応じない』との立場をとって、六カ国協議に臨み、その立場の理解を他国に求めながら、他の国に、「では『進展』の定義は何か」と聞かれて、「これは外交カード(!?!?)だから明らかにすることはできない」といい、さらには「拉致被害者の方々を全員まとめて傷一つつけずに日本に帰してもらうこと以外、『進展』はないのです。」ともいい。最後に「日本のみならず世界中から人々を拉致した非道な国家が、拉致してきた国々からぬけぬけと食糧やエネルギーを強奪するなんて、許し難い行為です。」ともいう。
 
 しかしだ、日本政府と横田夫妻が拉致被害者はもうみんな金正日に殺されてしまっているという観点に立っていると考えると、なぜ『拉致問題の進展』の定義が「外交カード」になるのかわかるであろう。
 
 つまり、日本政府と拉致家族会は「拉致被害者の方々を全員まとめて傷一つつけずに日本に帰してもらうこと以外、『進展』はないのです。」という実行不可能な要求を北朝鮮政府に突きつけて、六カ国協議の合意そのものを妨害しようとしているのである。
 
 だから横田早紀江氏の「日本のみならず世界中から人々を拉致した非道な国家が、拉致してきた国々からぬけぬけと食糧やエネルギーを強奪するなんて、許し難い行為です。」という発言になる。ここではもう拉致被害者をいかに救出するのかという観点はまったくどこかにいってしまっており、いかに北朝鮮政府に打撃を与えるのかというギラギラした憎しみと復讐の感情のみがほとばしり出ている。
 
 そしてこういう憎しみの感情こそ、拉致を口実にして北朝鮮との戦争をたくらんでいる安倍晋三政権にとっておおいに利用価値があるというものである。
 
 だから、横田夫妻はその安倍晋三政権に期待に応えるべく、「拉致問題」の障害になっている「存在」をいくつもあげている。野中広務、田中真紀子、朝日新聞、「左翼系の学者」、社民党、等々である。(われわれ赤星マルクス研究会の名前を出していただけなかったのは残念というほかないし、どういうわけか真っ先に名前が出てくるはずの日本共産党の名前がない。)
 
 これらの「存在」は実は「拉致問題」の障害と言うよりも安倍晋三政権の障害なのであって、このような愚劣なことをぬけぬけというところに彼らの救いようのない堕落が現れている。
 
 日本で「拉致問題」に本当に責任があるのは、長い間、政権与党の地位にあった自由民主党であり、日本の警察である。彼らは自分たちの統治している国で住民が「行方不明」になっていることを放置し続けていた。気づいていたのか、気づかないふりをしていたのかは知らないが、彼ら日本の支配層や政権与党や治安当局がもっと自国民の保護に気を遣っていたら今のような状態にはならなかったのである。
 
 また現在では残念ながら、拉致家族会の存在が「拉致問題」解決の最大の障害になっている。日本政府も拉致家族会も拉致被害者はみんな死んでしまっていると思って北朝鮮への復讐心だけで行動しているが、はたしてそうか?
 
 もちろんわれわれには北朝鮮で誰々が生きているという情報をもっていないが、みんな死んでしまったという確たる証拠もないのであろう。
 
 そして全員死亡という証拠がない以上、生きているという想定の下で活動するしかないであろう。われわれが何度も言うように生きている人を救い出すための活動は、殺された恨みを晴らすための活動とはまったく違うものである。
 
 われわれは昔、社労党(社会主義労働者党)時代に、大分裂を経験したがそのときの論点の一つが在日朝鮮人問題であった。われわれは労働者の政党として民族主義に組することはできないという立場で、在日朝鮮人にわれわれとともに日本政府と闘いたいというのであれば、帰化して日本国籍を取得してすべきであると言った。反対派の人々や在日の人々はわれわれの主張に憤激したが、原則的なわれわれの主張は正しかったと思っているし、その原則に固執して組織を割ってしまったと言うことも仕方のないことであると考えている。
 
 だから横田夫妻が個人的に金正日体制が許し難いという想いを押さえきれないというのであれば、われわれはやはり、あの時のように、横田夫妻には日本国籍を捨てて、北朝鮮籍を取得して北朝鮮の労働者階級とともに金正日独裁政権打倒の闘いに立ち上がることをおすすめする。
 
 ともかく現在の「拉致家族会」の活動は何かにつけて後ろ向きであり、結成当初の理念を見失っているのではないか、ここらあたりで頭を冷やすために解散するのも一つの手である。       

退廃を深める日本のブルジョアジー

2007-05-15 11:32:31 | 政治
 ブルジョアの機関誌『日本経済新聞』が北朝鮮政府に対して「力をみせろ」とわめいている。(5月13日付『日本経済新聞』朝刊、2面「コリア・ファンタジーの怪」、編集委員、伊奈久喜筆を参照)
 
 この新聞、もともとはブルジョア的理性と知性を売り物にしてきた新聞だが、最近では、恥も外聞も捨てて、ひたすら日本軍国主義復活の旗振り役を演じようとしているかのようである。
 
 その軍国主義推進機関誌『日本経済新聞』紙がいうには、リビアが核を放棄したのは、1986年にアメリカがカダフィ邸を空爆したからであるという。
 
 つまり、日本のブルジョアジーは、アメリカがリビアに対して力をみせたから、リビアは核を放棄した。だから、北朝鮮に対しても金正日の自宅を空爆をせよ、交渉はそれからだというのである。
 
 最初にいっておくが、無警告に行われたアメリカのカダフィ邸の空爆ではカダフィは死ななかったがカダフィの家族は死んでいる。これはアメリカによる純然たる国際テロ行為、つまり国家犯罪そのものであり、アメリカもそのことを知っているから、この件については公式の外交文書で触れるわけにはいかないのである。つまり、この行為が国際法上問題があったということをアメリカ政府自身が認めているのである。
 
 また、カダフィが核を放棄したのはアメリカが20年前に空爆したからではない。北アフリカ、アルジェリア、リビア、エジプトの支配者は急進民族主義者であり、彼らのもとで広がりつつあるイスラム原理主義に対抗するためには、欧米との強調が欠かせないと判断しているから、これらの国の支配層は急速に欧米に接近しているのである。特にリビアは産油国で石油や天然ガスの主な輸出先はヨーロッパだから、経済制裁をまぬがれたいという気持ちはより強かったのである。
 
 ところで、いったい誰が、金正日の自宅を空爆するのか、自衛隊のF15戦闘機か?そうではないのである。日本のブルジョア諸氏が望んでいるのは、もちろん、アメリカ軍に金正日の自宅を爆撃してもらうことである。
 
 つまり、日本の軍国主義の対北朝鮮戦争計画は自生的なものではなく、アメリカ合衆国をペテンにかけて、北朝鮮との戦争に引き込み、自分たちは後方でアメリカ軍のお手伝いして、漁夫の利をえようという浅ましいものなのである。
 
 日本のブルジョアジーは、日本の国民もアメリカの国民もバカだから、まさか自分たちの対北朝鮮戦争計画に気がつくようなことはないであろうと思い上がっているが、日本軍国主義の考えていることは、アメリカ合衆国ばかりか、韓国、中国、ロシアにおいても周知の事実である。
 
 他の国が何もいわないのは、自分たちにとって日本資本主義はまだまだ利用価値があると思っているからにほかならない。
 
 そして、こういう日本のブルジョアジーの根拠のない思い上がりこそが、自ら国際的な孤立を深め、破滅の道を選択させているのである。
 
 われわれが主張しているように、新生日本軍国主義の破滅が、たんに政治的な変革にとどまらず、社会変革と結びつかざるをえないのは、この運動の背後には、この社会の支配階級である日本のブルジョアジー自身が、すでに、支配階級としての健全性を喪失して、理性と冷静さを見失いつつあるからであり、これは別の言葉で言えば、ブルジョアジーが統治能力を失いつつあるということでもある。したがって、この日本の軍国主義化運動は日本国憲法の改正を含めて行くところまで行き着かざるをえないのである。
 
 もちろん、もちろんわれわれは日本のブルジョアジーが戦争熱に浮かされて、北朝鮮との戦争を渇望していることは破滅への一里塚だから勝手にやらせておけという傍観的な立場をとるつもりはない。戦争、とりわけ、日本周辺での、日本軍が関わるかたちでの戦争は、労働者にとって不利益であるがゆえに、われわれは明確に戦争に反対するとともに、東アジアで無用な緊張を高め、それをテコに軍国日本を建設しようとするあらゆる試みに反対するであろう。

聞く人が違っている!

2007-05-13 01:46:11 | Weblog

 われらのマルクス主義同志会に気の早いネット右翼が「もうすぐ日本は軍国主義化するのだから、戦争のやり方を教えてください」と教えを請っている。
 
 このバカ右翼はとんでもない非国民だ。日本軍国主義の下僕をやりたいというのであれば、「戦陣訓」を百回読んで暗記せよ。わが帝国陸軍には戦術も軍事学も必要ない。突撃あるのみだ。何も考えるな、国のために銃を持って敵に向かって突っ走れ。
 
 兵隊なんぞは、一銭五厘の赤紙でいくらでも徴収できるのだから、その命はゴミのようなものだ。ゴミにできることはその骸(むくろ)を積み上げて塹壕となす事だけであろう。
 
 軍神乃木希典を愚弄するにもほどがある。そもそも、この何とかいうバカ右翼は、大元帥安倍晋三閣下の「国のために命を捨てよ」という大号令を何も聞いていないではないか、愚か者め。日本国憲法を改正したら一番最初にお前のような愚かな不忠者は軍法会議にかけてみせしめのために死刑にしてくれる。
 
 それにしても笑えるのは、マルクス主義同志会に軍事学を聞く人があるということだ。
 
 マルクス主義同志会の今日の姿はまさに、彼らに戦略的な思考がないからに他ならない。
 
 1990年代の長く、暗いわれわれの“退却の時代”、マルクス主義同志会の代表林紘義氏は、マルクス主義そのものに絶望し、社労党(社会主義労働者党)はちりぢりになってマルクス主義から逃げ出した。
 
 こういう苦しい時代こそ、われわれは隊伍を組んで整然と一歩一歩退却すべきであったが、そうできなかったところに社労党の悲劇の始まりがある。
 
 この悲劇は、マルクス主義同志会がマルクス主義からすっかり足を洗って、リカード主義原理協会、またはブルジョアの作り事普及協会になったところから、本当の悲劇である喜劇へと転化する。
 
 つまり、長く続いた“退却の時代”は、2005年頃に終わり、日本には労働者諸君!退却の時は終わった、今こそ勇気と知恵をもって前進しよう!という声があちこちでこだまするようになったのである。
 
 この声に応えられなければマルクス主義同志会はバスに乗り遅れて、それこそ本当に時代の孤児になってしまうであろう。しかし、それに応えるにはマルクス主義同志会はあまりにもマルクス主義からも、社会主義からも、乖離してしまったのである。
 
 そこで、現在のマルクス主義同志会は、一方では労働者に闘いを呼びかけ、同時に労働者の闘いにつばを吐きかけるという非常に悩ましい、そして、はたから見ると笑えて仕方のない事態となっている。
 
 それもこれも90年代に林紘義氏が時代を読み間違えたことに起因しているのである。
 
 なお、「勇気と知恵をもって前進する」という中身について一言だけいうならば、われわれは「百団大戦」はすべきではないということだけは申し上げておきたい。
 
 1940年に華北地帯には日本軍国主義の監視の目をかいくぐって、「解放区」が深く静かにつくられていたが、朱徳と林彪を指導者とする八路軍115団(連隊)40万人が華北の日本軍国主義に一斉に奇襲攻撃をかけた事件があった。これが世にいう「百団大戦」であったが、これは無謀で意味のない攻撃だった。
 
 確かに、日本軍はこの奇襲攻撃によって大打撃を受けたが、すぐに体勢を立て直して、軍を増強し、「三光作戦」(中国の村々を、殺しつくし、奪いつくし、焼きつくす)という凄惨な掃討作戦を展開している。
 
 凶暴で強大な日本軍国主義に対して、この時、「八路軍ここにあり」ということを見せるだけの作戦がもつ意味はほとんどなかった。むしろ、日本軍国主義は、突如目の前に現れた、自分たちの真の敵に、恐怖し、前後のみさかいのない大虐殺と根こそぎの略奪と放火に乗り出しただけであった。
 
 日本軍国主義は人類共同の敵であり、撃滅し、殲滅(センメツ)しなければならないというのであれば、その力をまず持つべきであり、そのために無用な争いは避けて自分たちの力を蓄積する時期はあるのかもしれないのである。
  

プロレタリア日本革命の現実性について

2007-05-08 02:49:33 | Weblog
 今どき革命について語るのは、時代錯誤か?時代の先駆か?
 
 すばらしい質問だ!もちろんわれわれは単なる部外者であり、しかも現在は、謹慎中というか、逃亡中というか、世をはばかる身なのであってこの質問に正式に答える立場にはない。
 
 しかしだ!残念ながら、われわれの読者はこういう質問をしてくれないし、こういう質問こそ、是非ともわれわれが答えたい質問である。
 
 われわれの答えは、もちろん、ノーであり、イエスだ。
 
 社会革命は日本においては、今日的な問題としては、どういう意味においても浮上してはいない。だから即自的にはノーであろう。
 
 しかしだ!では日本の明日の問題ではないのかといえば、答えは違ってくる。
 
 現在日本で進行しているのは、日本資本主義の急速な軍国主義(ミリタリズム)化である。
 
 それは一見すると、戦前の政治への回帰というかたちで現れているが、その内実は国際政治の舞台で軍事強国として登場したい、民主主義を形骸化させ、それを労働者に対する専制支配ととりかえたいという日本の大資本の渇望である。
 
 したがってこの反動政治は日本資本主義の退廃と結びついているという点で一つの必然性をもっている。だから、このことは至近の政治的な焦点である参議院選挙の結果に左右されないほどの政治的な底流を形成している。(自民党が敗北しても政界の再編成というかたちでこの傾向は貫徹される)
 
 そしてそれ以上に、必然的なことは、日本資本主義の急速な軍国主義(ミリタリズム)化という政治テーマは、後醍醐天皇の「建武の新政」や水野忠邦の「天保の改革」ほどの現実性も持ちえない政治テーマであるということである。
 
 したがって今から20年後にこのような政治体制が存在する確率は完全にゼロと見てよいであろう。このようなあまりにも時代錯誤的な体制は、対外的にも、対内的にも矛盾を深めるだけで早晩行き詰まるしかないのである。
 
 したがって現在の日本資本主義の急速な軍国主義(ミリタリズム)化は、その破綻とセットで語られるべき政治的なテーマであるということだ。
 
 そしてここで注意すべきは、日本資本主義の急速な軍国主義(ミリタリズム)化とその急速な破綻という政治的なテーマはそれだけでは決して終わらないという点であろう。つまり、「水の出て(水野忠邦が失脚して)もとの田沼に戻りけり(もとの金権政治に回帰する)」ということにはならないことである。
 
 「天保の改革」の失敗が徳川幕府の終わりの始まりであったように、日本資本主義の急速な軍国主義(ミリタリズム)化が戦後民主主義の破壊をともなって行われているということは、新日本軍国主義の破綻したあとに、われわれは「軍国主義の廃墟」ばかりではなく、「戦後民主主義の廃墟」という二つの廃墟を同時にもつことになるのである。
 
 戦後民主主義が自らの展開によって、その否定物である軍国主義に転化し、軍国主義が自らの論理によってその否定物に転化するとするなら、それは「否定の否定」であり、決して即自的な「肯定」と同じではない。
 
 だから、軍国主義の否定物である民主主義に回帰するにしても、弁証法的に、すなわち、螺旋(らせん)的に回帰するのであり、もとのブルジョア民主主義に戻るわけではない。
 
 そういう点では、われわれの旗である「労働者の民主主義」(生産手段の共有に基づく“生産者”の実質的な民主主義)は今こそ、高く掲げられなければならない。
 
 われわれは昨年以来、社会に対して、何度も、何度も、ここでブルジョア民主主義と決別するということは、歴史的に決別する(後戻りできないかたちで決別する)ことを意味するのだが、それでもいいのかと問い続けてきた。
 
 もちろんわれわれは誰からも明確な回答をもらったわけではないが、第一の「帰れない川」をわたってしまった以上、日本資本主義が帰るべきところはもうないのである。
 
 こういう事情を一番よく知っているのは、「最後の資本主義の弁護人」を自認しているわれらのマルクス主義同志会で、彼らは最近、さかんに、「愛国主義」にもいい愛国主義と悪い愛国主義があるなどと言い出しはじめている。
 
 資本主義的生産様式の変更を含むような変革は何としても阻止しなければならないと考えている彼らは、その破綻がセットになって保証されている軍国主義的「愛国主義」ではなく、もっと害の少ないブルジョア民主主義的「愛国主義」を推奨して、何とか現在の「歴史的必然性」から逃れようと、必死になってもがいている。
 
 しかしだ。安倍晋三政権はすでにブルジョア民主主義に深刻な打撃を与えて、傷をつけてしまった。「玉にきず」というか、「覆水盆に戻らず」というか、何というか、すでにそういうたぐいの話であろう。
 
 

労働者の“絶対的窮乏化”とは?

2007-05-04 03:02:51 | Weblog
*申し訳ありません、経済版のブログのパスワードを忘れてしまったために、管理画面に入れなくなってしまいましたので、仕方なくこちらに載せることになりました。



 マルクス主義同志会が、労働者の“絶対的窮乏化”について語っている。
 
 しかし、この組織の場合、「マルクス主義」というのは単に名前だけのものであり、その内容は、つねに、リカードやアダム・スミスといった古典派経済学のそれであり、この組織の理論がそれ以上のものになることは逆立ちしてもありえないことなのである。
 
 したがってマルクス主義同志会もまた、労働者の“絶対的窮乏化”の原因をリカードやアダム・スミスのように資本の本性そのものに求めている。
 
 すなわち、リカードにしても、アダム・スミスにしても、商品の価値はV(賃金に支払われる部分)+M(資本家の利潤)なのであるから、V(賃金に支払われる部分)が少なければ少ないほど、資本家の利益は増えるということになる。
 
 だからこの古典派経済学の継承者(俗流経済学者たち)は、資本に最大限の利益を保障してやるために、あれやこれやの理論を編み出している。
 
 マルクスの時代のプルードンはリカードに立脚して、労働者に賃金闘争をしてはならない、賃金闘争は資本にとって破滅的であるとお説教をたれていた。
 
 もう少し、時代が新しくなると、ラサールの“賃金鉄則”というのがあり、ここでは労働者の賃金が最低限に抑えられるのは“鉄の必然性”があるといわれている。
 
 マルクス主義同志会の賃金論もラサールの“賃金鉄則”ようなものであるが、ここではマルクスの再生産論によって理由づけされている。つまり、労働者の賃金部分は、貨幣によって媒介されているように見えるが、それは単なる仮象で、実体は、資本家によって再生産のために労働者に現物(穀物などの生活必需品)があてがわれるだけであるという。
 
 つまり、マルクス主義同志会によれば、労働者の賃金というのは、奴隷に食べさせる食糧や牛や馬などの家畜、または車のガソリンのような生産のためのコストにすぎないのだから、つねに最低限に抑えられなければならないし、抑えられるというものである。
 
 もちろんこのような議論は、労働者に賃金闘争をあきらめさせることによって、資本家に最大限の利潤を保障してやるためのものであり、このような理論はこの組織が全体として資本主義の永続化のためにのみ活動していることを示しているだけである。
 
 したがって現在、労働者がこの腐りはてた組織の存在とその主張をまったく無視し、自分たち生活を守るために、団結を深めようとしているのはまったく正しい態度といわなければならない。
 
 では、マルクスのいう意味での労働者の“絶対的窮乏化”というのは何であろうか? 
 
 マルクスはその説明を「労賃」のところではなく、「資本の蓄積過程」(剰余価値の資本への転化)のところで説明している。
 
 ① 資本の発展は資本の有機的な構成の高度化(可変資本に比べての不変資本の増加)、つまり資本のうち、設備や機械に投資される部分が増えていく、同じ大きさの資本でも雇用される労働者の数は相対的に減少する。
 
 ② 資本の蓄積につれて、労働者が工場、職場から駆逐されるようになり、労働人口の相対的過剰が生み出される。
 
 ③ この労働者の相対的過剰人口は、いろいろな産業予備軍を累積的に蓄積する。(失業者ばかりではなく、パート、アルバイト、派遣といった不正規雇用の労働者もこの産業予備軍に含まれる)
 
 ④ この産業予備軍の形成は、労働者の間に競争をもたらし、一方において就業労働者に過度労働や資本の命令への強制と他方においての不就業部分の生活困窮をもたらす。
 
 ⑤ このような産業予備軍の存在は労賃を引き下げる圧力ともなっており、生活苦からどのような労働条件でも、どのような低賃金でも働かなければならない人々と、過重労働にあえぐもう一方の人々を生み出すのである。
 
 だからマルクスは
 
 「資本主義的体制のもとでは労働の社会的生産力を高くするための方法はすべて個々の労働者の犠牲において行われるということ、生産の発展のための手段は、すべて、生産者を支配し搾取するための手段に一変し、労働者を不具にして部分人間となし、彼を機械の付属物に引き下げ、彼の労働の苦痛で労働の内容を破壊し、独立の力としての科学が労働過程に合体されるにつれて労働過程の精神的な諸力を彼から疎外するということ、これらの手段は彼が労働するための諸条件をゆがめ、労働過程では彼を狭量陰険きわまる専制に服従させ、彼の生活時間を労働時間にしてしまい、彼の妻子をジャガーノート車の下に投げ込むということ、これらのことをわれわれは知ったのである。しかし、剰余価値を生産するための方法はすべて同時に蓄積の方法なのであって、蓄積の拡大はすべてまたかの諸方法の発展の手段となるのである。だから、資本が蓄積されるにつれて、労働者の状態は、彼の受け取る支払いがどうであろうと、高かろうと安かろうと、悪化せざるをえないということになるのである。」といって資本の蓄積の敵対的な性格を告発している。
 
 マルクス主義同志会がこのような観点に立つことができないのは、この蓄積法則が労働力商品の需要と供給、労働者間の競争という価値法則を媒介にしていることである。
 
 なんどもいっているがマルクス主義同志会にとって価値は物質でなければならない。そして価値が物質であるということは、それが不変な一定量であることを前提にしているのである。だから、需要と供給で商品の価格が変化するということは絶対に認められないのである。
 
 「それだからこそ、労働者たちが、自分たちより多く労働し、より多く他人の富を生産し、自分たちの労働の生産力が増進するにつれて、自分たちにとっては資本の価値増殖手段としての自分の機能までがますます不安定になるというのは、いったいどうしてなのか、という秘密を見抜いてしまうやいなや、また彼らが、彼ら自身のあいだの競争の強さの程度はまったくただ相対的人口の圧力によって左右されるものだということを発見するやいなや、したがってまた、彼らが労働組合などによって就業者と失業者との計画的協力を組織して、かの資本主義的生産の自然法則が彼らの階級に与える破滅的な結果を克服または緩和しようとするやいなや、資本とその追従者である経済学者とは、『永遠な』いわば『神聖な』需要供給の法則(価値法則)の侵害について叫びたてるのである。すなわち、就業者と失業者との連結は、すべて、かの法則の『純粋な』働きをかき乱すからである。」
 
 いまでは資本主義の最後の弁護人にまでなりはてたマルクス主義同志会がなぜ、目の色を変えて労働者の賃上げ闘争に反対するのかこれでおわかりであろう。