労働者のこだま(国内政治)

政治・経済問題を扱っています。筆者は主に横井邦彦です。

あがけばあがくほどドロ沼に

2010-10-29 01:31:05 | Weblog
 名古屋市の選挙管理委員会がリコールの審査期間を延長したことにより、名古屋のリコール派がもがいている。

 それはこのリコール運動が、市議会解散と市長の辞任による市長選挙と愛知県知事選のトリプル選挙をねらったものであるからだ。

 ところがそのトリプル選挙はリコール審査期間の延長により、事実上、不可能になった。それでありとあらゆる方法で名古屋市の選挙管理委員会を攻撃しているのだが、彼らはそうすることによって自ら墓穴を掘っているのである。

 なぜなら、リコール期間中、リコール派は誰一人としてトリプル選挙をやりたいから名古屋市議会を解散させて欲しいとはいわなかった。つまり、かれらはトリプル選挙というリコール運動の真の目的を隠してリコール運動をやっていたのである。

 これ自体が壮大なる虚偽、つまり詐欺・八百長・ペテンの類であろう。彼らは名古屋市民を愚弄し、ペテンにかけようとしたのである。

 しかし、彼らの社会的な詐欺行為はみごとに破綻し、今では、その後始末をどうするのかという問題が浮上している。

 それはこのまま行けば(リコールが成立した場合)、住民投票は来年の1月か2月に行われ、市議会選挙は3月に行われる予定であるという。

 市議会選挙は来年の4月に行われることが決まっているので、この場合の住民投票は、市議会選挙を数週間前倒しするのか、しないのかをめぐって行われることになるのだが、市議会選挙を数週間ずらすことに、いったいどのような意味があるのだろうか?

 しかもこの住民投票はタダではないのである。数億円もの市税を使い、さらには数百万人の人々を選挙に動員する社会的な負担は決して小さくないのである。

 不思議なことに、リコール派とわれわれとはこの問題では一致している。それは、市税をこのようなくだらないことに使用するべきではないということである。

 ではこの壮大なるムダで派生する費用は誰が払うべきか?当然、受益者、つまり河村たかしとリコール派に負担してもらうほかないであろう。


激昂する“日本ファシズム運動”

2010-10-27 01:15:10 | Weblog
 勝利した名古屋市民がどちらでもいいといっているのに、憤懣やるかたない“リコール派”は、連日のように、名古屋市の選管のもとに徒党を組んで押し寄せている。

 しかし、なんともガラの悪い連中だ。いくらお上品をよそおっても、“お里”は隠せないのだろうか、リコール運動における詐欺・八百長・ペテンだけではもの足りず、選挙管理委員会に対する暴言や恫喝まで飛び出している。

 しょせんファシストは何をやってもファシストでしかないということを証明するような出来事だが、不思議なのは大声を出してわめけば、自分たちの言い分が通るだろうというのは、彼らがいったいどこで“学んできた”“知恵”だろうかということだ。

 しかも、こういうことをやっていれば、普通の市民はますます怖がって逃げていくだけであることが分かっていながらやめられない。

 それは、彼らが最初の“山”をこえられなくて、すべての戦略が狂い始めているからである。

 彼らの運動はマスメディアの全面的な支援を受け、“時代の寵児”ともてはやされ、高い支持率を誇っていながらも、多数派となりえてはいない。これも不思議というほかないが、彼らの運動が非常に限界を持った運動にとどまっているということは、今後の日本の政治にも少なからず影響がでてくるだろう。


勝ったのはわれわれだからどちらでもいい

2010-10-24 17:02:15 | Weblog
 日本のファシズム運動の緒戦として闘われた名古屋の議会リコール運動は、河村市長派が46万人の署名を集めて、勝利したと思われたが、規定通りではない(受任者が空白欄の)署名が11万人分も出て問題になっている。

 この場合、われわれの“票読み”が正しかったのである。われわれは、期間中リコール派が何度か発表した署名数から、最終的にリコール成立に必要な数に少し届かない署名数が集まることを想定し、名古屋の労働者に最後の闘いを呼びかけていたが、最終的にリコール派から提出された名簿はわれわれの予想を大きく越えるものであった。

 どうしてであろうかと疑問に思っていたが、その謎が解けた。

 つまり、菅原文太(どうしてこの男が関わっているのかいまだによく分からない)が、リコール派の活動家を前にして、自分たちは緒戦で戦術をまちがえた、しかし、まだ取り戻せるといったのは、このことだったのである。

 彼らは当初、それこそランダムに署名を集めていたが、それは正規の書式を踏んだものではなかったので、後々問題になるのかも知れない、そう思って、後半にかけて一軒一軒回るやり方に変えたのである。

 ところが選管に提出されたのは、自分たちですらこれはよろしくないのではないかと思う署名を含めた全部の署名であったのだ。

 この11万人分の署名をどうするのかをめぐって現在もめているが、結果がどうなろうと、それはもうどうでもいいものになり始めている。

 それは審査期間が設けられたために、結論が先延ばしになり、住民投票が来年の3月以降になることが確実になったからである。4月に解散することが決まっている議会を解散させるかどうかの住民投票を3月に行うのはまったく意味のないことであろう。

 そして、その結果がどうあろうと(選管がどのように判断しようと)、われわれはこの不当な方法で集められた11万人の署名を認めるつもりはないし、河村たかしは詐欺・八百長・ペテン的なやり方で署名を集めて議会を解散させようとしたという事実は残るし、われわれはそのことを街頭で暴露する。

 つまり、名古屋市民は、リコール運動の正当性を剥脱することによって、首の皮1枚を残して良識を発揮したのである。

 そうであるならば、われわれはその結果にはこだわらないし、こだわる必要もない。どうぞお好きなように。

 もともと、われわれは日本ファシズム勢力こそ“時代の寵児”であり、彼らの勝利は“歴史的な必然性”があるといっていたのだが、心ある人々の静かな“怒り”に突き動かされて参戦しただけであった。

 しかし、その結果は、われわれの予想を超える大勝利だった。(われわれの勝利というより、実際には、彼らの運動が有権者の一定部分をとらえているが、その広がりにかけ、社会の多数勢力にはなりえないという運動の底の浅さが露見しただけであった)

 つまり、日本ファシズム運動はその緒戦においてつまずき、詐欺・八百長・ペテンによってのみ運動を継続できるみすぼらしい政治的存在へとすでに転落しているのである。


お言葉ではありますが

2010-10-22 02:09:51 | Weblog
 われわれが、中国の労働者・学生の反日行動を断固支持するといったら、“ある党派”(日本共産党)が「暴力はいけません」といってきた。

 もちろん、労働者・学生の行動のなかには、労働者・学生の“暴力事件”も含まれているのだから、われわれはそういうものを含めて支持しているのである。

 われわれは暴力革命を公然と掲げてはいないし、政治党派が安易で無原則なテロリズムに傾斜することに対しても反対している。

 しかし、反日行動に参加した労働者・学生は“未来の党派”であっても“現在の党派”ではない。彼らは誰によっても組織されていない群衆であって、群集心理にしたがって行動している。

 また、群衆の中で騒動、つまり暴力事件を引き起こすことが三度のメシより好きな党派もいるので、大きな抗議行動で一部が暴徒化するということはよくあることであるが(現在の中国にはそのような党派は存在しない)、そのような飛び跳ねた行動は抗議活動の意義を薄めはしない。

 また、追いつめられた人々の抗議の声が、激しい暴力となってほとばしることがあるが、それは追いつめられた人の救いを求める声が誰によっても受けとめられないからである。

 暴力ではなく、話し合いでというのは、話し合いの場があるという前提においてのみ正しい。しかし、中国共産党も朝鮮労働党も自国の労働者階級と向き合い彼らと誠実で実りある話し合いをする意思と能力があるのだろうか?

 はっきりいってそういう能力が完全に欠落しているからこそ、こういうことが起きるのだし、これからもこういった“事件”は東アジアで多発するだろう。

 東アジアは不安定化へと向かっているのである。そしてわれわれはどのような場合でもそれぞれの国の労働者階級の側にたつと決めている。


中国の労働者学生の反日行動を断固支持する

2010-10-18 00:42:52 | Weblog
 尖閣諸島をめぐる日本と中国の確執は新たな局面を開きつつある。

 つい先日までの中国資本主義と日本資本主義の醜悪な“夫婦げんか”は、金の卵を産むニワトリをフライドチキンにして食べてしまおうという愚かな試みであり、いわばバカと阿呆が自分で自分の首を絞めて喜んでいるようなものであったのでわれわれも笑って見ていたが、先週の土曜日から内陸部の労働者と学生がこの運動に参加するにおよんでこの運動は急速に変容しつつある。

 中国で許される大衆運動は“愛国運動”だけであるので、あらゆる自発的な運動は、“愛国運動”として現れざるをえない。

 これは1980年のポーランドにおける労働者の闘いが、当時、ポーランドで許容されてきた信仰の自由をめぐる闘争として現れたのと同じである。

 しかし、どの階級闘争も、どのような服装をまとおうとも、その真の性格はすぐにも明らかにならざるをえない。

 そういう意味では、現在の中国の反日・愛国運動も現在の中国資本主義が抱えている矛盾、すなわち国内の不均等発展の結果、内陸部が取り残されている、学生の就職難が深刻化していることの表れであり、それはすぐにでも中国資本主義への労働者の闘争として現れざるをえない。

 中国の労働者の階級闘争は、ベルサイユ条約に反対する北京の学生数千人が1919年5月4日、天安門広場からヴェルサイユ条約反対や親日派要人の罷免などを要求してデモ行進をしたこと(五四運動)から始まった。

 このデモは、日本軍国主義の中国侵略に反対する反日デモとしてはじまったが、この運動はすぐに労働者農民の専制に反対する闘争となり、その結果、中国共産党が生まれた。

 中国共産党は、中国の資本主義的な繁栄に酔いしれて、自分たちの出自すら忘れてしまっているが、すぐにでも現在中国で進行している事態の重大性を思い知ることになるであろう。


残りあとわずか

2010-10-16 01:33:55 | Weblog
 個人的なことであるが、定年までついに365日を切ってしまい、私の人生もついに終わりが見えてきた。

 思えば、16才の時に始めてヘルメットをかぶって新左翼のデモに参加して以来、私の人生は一本道だった。

 一度決めたら♪二度とは変えぬ♪これが自分の生きる道♪

 おかげで仕事は流転に流転を重ねる人生で、職を転々として、生活苦には何度も何度も陥った。

 それでも、80年代には、60才ですべての政治活動から足を洗って、後は、“運動の電気力学”でもやろうと心に決めていたが、なかなか“お仲間”が増えないので、そういうぜいたくはあきらめざるを得なくなった。

 それで当時まだ若かったシンパの希流氏を社労党の愛知県委員長にして、われわれは外野で球拾いになり、“日和見1号”でもやろうかと思っていたが、肝腎の希流氏が逃げてばかりいて、われわれに少しも近寄ってくれないので、結局、この“革命的”な社労党愛知県委員会改造計画は流れてしまった。(この話は本当です)

 そうこうしているうちに、“殿、ご乱心”で、社労党自体がなくなり、気がつけば、もとの“劇団ひとり”に戻ってしまっていた。

 ただ唯一の救いは、“劇団ひとり”を始めた時、「大丈夫、われけわれは、まだ30年は活動できる」と大見得を切っていたが、今では、30年はかからないと思っている。おそらく、あと20年ぐらいで、われわれの事業の目鼻はついてくるだろう。

 人類史の一番いいところが見られなくてこの世界から退場しなければならないのは、残念というほかないが、90年代には、今、われわれが立っている地平自体を想像することが困難であったことを考えると、この5、6年で世界は大きく変わったのだ。

 後、数年すれば、世界はもっともっと変わるだろう。

 若い人が本当にうらやましい。    

『朝日新聞』の無力な闘争

2010-10-15 01:32:14 | Weblog
 少し前まで、日本の政治闘争は「小沢」と「反小沢」をめぐって争われていた。

 このように書くと「政治とカネ」が争点になっていたように思われるが、実際には、小沢氏の「媚中的(中国に媚を売るという意味)な態度」であり、「バラマキ」政策批判であり、「天皇に対する不敬な態度」であり、「永住外国人の参政権付与反対」であり、「消費税による財政再建推進派」であったりする。

 早い話、排外主義的な民族主義者、保守反動派、ネオナチズムといった連中による、昨年奪われた権力の奪還闘争が「反小沢」運動として始まり、これにマスコミが全面的に荷担して、「反小沢」の大きなうねりが生みだされた。

 これに対して、われわれは保守反動派が「反小沢」であるからといって、必ずしも労働者が「小沢」擁護である必要はないといってきた。

 かくして、労働者派抜きの「小沢」は、負けるべくして負けた。

 その結果、現在の日本の政治はほとんど“挙国一致体制”が生まれたが、このような情況に一番、危機感を抱いているのは、実は、「反小沢」の旗を掲げてきた『朝日新聞』である。

 『朝日新聞』は政治闘争の結果、「反小沢」派が勝利したのだから、今度は「反小沢」の中から、排外主義的な民族主義者、保守反動派、ネオナチズムを駆逐して正常な保守主義へ回帰しようというのである。

 しかし残念ながら、事態は『朝日新聞』の思惑とはまったく逆の過程をたどろうとしている。排外主義的な民族主義者、保守反動派、ネオナチズムが自分たちの正体を隠して日本の招来を決定する重要な政治闘争に勝利できたということは、むしろ彼らを勇気づけ、元気づけている。

 だから彼らが自らの闘争の勝利によって得た果実を手放す時は、彼らが敗北した時でしかないであろう。

 また排外主義的な民族主義者、保守反動派、ネオナチズムをそれ以外のものとして描こうという愚劣な試みは決して成功はしないであろう。

 さらに「小沢派」の敗退は、戦後長い間日本の政治を特徴づけていた改革主義的政治の最後の堤防が決壊したことを意味する。

 そういう点でも、「小沢」派と「反小沢」派の政治闘争の帰趨は、後戻りすることができない結果をもたらしつつある。


どういうつもりですか?

2010-10-13 01:07:02 | Weblog
あんたを打倒したい (一般市民)
2010-10-12 09:02:32
こんなブログ作って死ねばいいのに、ゴミクズ公務員


 私は公務員ではありません。そういうことはわれわれのブログを読んでいる人はみんな知っています。

 また公務員はゴミクズではありません。困ったことに、こういう悪意と偏見に充ち満ちた人が世の中にあふれています。

 気分が悪いのでこのコメントは削除します。   

今のままでいいわけがない

2010-10-11 00:56:02 | Weblog
 NHKが派遣労働者を対象にした大規模な調査を行い、派遣労働者の半数が派遣労働の規制に反対しているという結果を公表している。

 確かに、ブルジョアが言うように、『日本経済新聞』がいうように、NHKがいうように、派遣労働者の受け皿をつくらないまま、派遣労働を禁止すれば、現在派遣の仕事をしている多くの労働者は職を失うことになるであろう。

 しかし、このことは、ブルジョアが言うように、『日本経済新聞』がいうように、NHKがいうように、今のままでいいということを絶対に意味しない。

 それは我々が言うように、派遣労働の問題はたんに派遣労働の問題ではなく、労働者階級の総体的な窮乏化の原因ではなく結果であり、日本の労働者階級の“所得”が漸減的に下落して、その下層部分が人間として生活しうる最低水準にまで落ちこんでしまい、その最低部分に派遣労働者に代表される非正規雇用の労働者が密集して、それが年々肥大化していることが問題なのである。

 日本の所得分布にそびえ立つ“二つのエベレスト”(年収200万円以下の非正規労働者の大群と年収300万円以下の一般労働者)は今では社会の“多数派”と呼んでも過言ではないにもかかわらず、政治的には“無”であり、その階級的な利益はどの党派によっても守られていない。

 それどころか、もの言わぬ彼らはブルジョアとその国家によって新たな収奪の対象にされようとしている。

 しかし、財政再建のための消費税導入にせよ、政策的なインフレによる実質的賃金の目減りにせよ、最低の水準にまで落ちこんでいる現在の“所得”をさらに引き下げることは彼らの生活の維持そのものを困難に至らしめる。

 何度も言う、自らが支配する階級を扶養できない支配階級は歴史の表舞台から去らなければならない。これは鉄の必然性である。

 そういう点では、日本は人類史上の偉大な飛躍点をめがけて、一路まい進しているのである。    

了解しました

2010-10-10 19:45:31 | Weblog
 われわれはわれわれの読者を無条件に信頼しておりますので、不真面目なもの、悪意のあるもの以外はそのまま掲載することにしています。

 しかし、なりすましや他人の名前を使うことは、好ましいことではありませんので、お知らせいただけば、すぐにも削除いたします。

 なお、“ブルジョアの作り事普及協会”(マルクス主義同志会)については、内部がどのようになっていようがわれわれの知ったことではないし、この組織をどうこうしようという気も毛頭ありません。誤解なきように。


小林哲夫様へ

2010-10-06 00:56:46 | Weblog
 ジャーナリストの方々の取材には極力応じたいと思います。

 私のメールアドレスは zr8k-yki@asahi-net.or.jpです。

 エッチメールばかりなのでほとんどメールボックスを開かないし、たいていは開かないでまとめて削除していますので、行き違いがあるかも知れませんがお待ちしております。

 当時の高校生運動は、孤立した運動の集合体で、一年に何度か開かれる高校生だけの独自集会だけが一体性をしめすものでした。

 愛知でまとまった活動家がいたのは旭丘高校と瑞陵高校と東海高校で、私が通っていた中村高校では、“私”ともう一人の二人だけでした。この3校にはデモで知り合った友人がいましたが、長い間音信不通で、名前も忘れてしまいました。

 70年3月の卒業式の時、中村高校でも騒動がありました。①卒業証書を代表として受け取る女子高生が卒業生全員の卒業証書を放り投げた。②卒業生の答辞の時、ベトナム戦争に反対である趣旨の発言をしたために保護者が騒ぎ出した。③君が代斉唱の時、卒業生多数がピアノを弾こうとしている教員に向かってスリッパを投げたので、教員が逃げ出した。④生徒指導の教員がスリッパを履いていない者は後で処分するといったので、スリッパを投げた者が自分のスリッパを拾おうとして席を立ったため式場が混乱した。

 後に①から④までを新左翼党派の計画的な犯行ということされていますが、①をやったのは後に赤軍派の活動家になった人で当時はまだノンセクトだったような気がします。②は民青の人ではなかったかと思います。③の中には私も入っていますが、私が扇動したというより、異様な雰囲気の中で誰がはじめるともなく、指揮したともなく自然に起きた行動でした。(ピアノを弾きはじめた先生は好きな先生でしたので、スリッパを投げることにためらいがありました。しかし小学校の玉入れではないですが、式場にはもうスリッパが乱れ飛んでいましたので、自分も先生に当たらないように投げました)④にいたっては生徒指導の教員が言わなくてもいいことをいったために混乱に拍車をかけたものです。

 それでもこれは新左翼の計画的な犯行ということで、女子高生と私が職員会議の懲罰にかけられ、女子高生が圧倒的多数で退学処分となり、私が3票差で処分をまぬがれました。

 愛知の学園紛争というのはたいていはこういう程度のものでした。ただ瑞陵高校は中核派の反戦高協の活動家がいて校内でデモをしたため大量の退学者が出た記憶があります。旭丘高校も卒業式以前にベトナム戦争に反対する全校デモを行いましたが、他校生を入れない、武器(鉄パイプ、火焔ビン等)を持ちこまないという約束の下に教師と生徒が一緒にデモをしたもので、いわゆる“高校生紛争”とは少し違うような気がします。

 むしろ高校生運動を研究するなら、静岡の掛川西高校か東京の青山高校か大阪の何とかいう高校を対象にした方がいいのではないかと思います。

『日本経済新聞』が『赤旗』に反論

2010-10-05 00:04:54 | Weblog
 前回、共産党の機関誌『赤旗』に掲載された年収200万円以下の低所得労働者が労働者階級の4人に1人になったという記事を紹介したが、『日本経済新聞』は本日(10月4日)の社説でさっそく『赤旗』紙に反論している。

 この事実自体が、現在の日本における真の政治闘争が、どこで、誰と誰が、何をめぐって争われているのかを如実に物語っている。

 『日経』紙の反論は「『有期労働』の規制は雇用不安を広げる」という社説の題に集約されている。ゴミのような仕事でも、あるだけありがたいと思え、ゴミのような仕事が法規制によってなくなれば、お前たちは餓死するしかないではないだろう、というのはブルジョアジーのプロレタリアートに対する恫喝である。

 自分の労働力をうることによってしか生活を維持することができない労働者は、つねにこのような資本の恫喝の下でならぬ堪忍を強いられてきた。

 しかし、現在問題になっているのはそういうことではないであろう。

 労働者が自分の労働力を資本に売るのは、賃金によって自分の生活を維持するためのはずなのに、最近の日本では労働力商品が売りたたかれて、一部には、自分の生活を維持することすら困難な状況が生まれているということであり、しかもその人数は年々増加し、“貧困層”に分類されるべき低所得労働者が労働者階級の半数にも達しようとしていることだ。

 しかも『日経』紙から我々が聞くところによれば、財政再建や社会保障に税金が必要であれば、たばこ税でも消費税でもどんどん上げて、貧乏人からふんだくればいいじゃないかという話ばかりである。

 『日経』紙はいったいこの日本の社会を支えているのは誰かという単純な事実すら忘れてしまっている。

 そして社会の主人公が激しい収奪と搾取の対象とされることによって、今ではすっかりやせ衰え、疲れ果ててしまっている。

 日本は社会の主人公を“無辜(むこ)の民”(罪なく人々)にすることによって、すでに“アンシャンレジーム”へと道を踏み入れているのである。

所得構造の変化

2010-10-04 01:39:51 | Weblog
 日本共産党の機関紙『赤旗』が、1面で、年収200万円以下の民間労働者の割合が4人に1人になったと報じている。

 『赤旗』紙はこの理由を、派遣労働者が増加していることに求めているが、それは正しくない。

 現在、日本の社会の深奥で進行している事態は、労働者階級の所得が、一般的に、つまり、広くあまねく進行しており、それが派遣労働者の増加として、低所得労働者層の肥大として、“中間層”の崩壊として現れているのである。

 このような労働者の所得の下降運動をもたらしているのは、いうまでもなく日本経済の停滞であり、大量の失業者の存在である。

 原理的にいえば、所得がゼロの労働者が大量に存在しているために、労働者階級の所得が全体的に下方に引っ張られているのである。

 この問題が深刻なのは、単に一時的な問題ではなく、かなり長い間続いている過程であり、今後もこのような傾向が継続するであろうということもさりながら、この過程が日本の政治過程や社会構造までも変化させつつあるからである。

 自作農民の土地共有を基礎に花開いた古代ギリシャ・ローマの民主制がその基礎である均質な自作農民層が解体するにしたがって変質し、解体していったのと同じ力が現在の資本主義諸国では広がっている。

 もちろん、この過程は古代ローマのように自営農民が貨幣経済の進展とともに没落、解体してプロレタリー(無産市民)となり、支配者から消費手段を供与される寄生的な階級となっていったのとはまったくことなる過程であるが、第二次世界大戦後に世界的な規模で花開いた戦後民主主義は、その基礎となっていた均質な“中間階級”が過去のものになるにしたがって、急速に過去のものになりつつある。

 もちろん資本主義的生産様式にとって、民主主義的な諸制度は必要なものであり、資本主義的生産様式を保ったままでブルジョア民主主義がブルジョア民主主義でなくなることは考えにくい。ヒトラーの“第三帝国”やムッソリーニの“ファシズム国家”ですら、形式的には民主主義制度の外観を保っていた。

 しかし、ブルジョア民主主義の特徴である、その形式性が極度に強められれば、それは本来の民主主義とは正反対のものになる。

 むしろ現在進行しているのは、この種のものであり、民主主義が形式だけのもの、名前だけのものになるというような事態である。

 もちろんこの過程を推進しているのは、没落の危機に瀕した“中間層”であり、基本的に彼らは過去の追想の中にのみ生きている。

 彼らは概して、高学歴で、その学識(?)ゆえに、これまで社会の中で比較的に恵まれた地位にあったのだが、政治的に定見がなく、付和雷同的で、情緒的な性格ゆえに、危機の中で急速に強権を指向しはじめている。

 つまり、日本資本主義が繁栄を謳歌していた過去の追憶と、それを取り戻すための強力な指導者を求めているのである。

 したがって対外的には民族主義的な排外主義と国内的には“改革”を強力に推し進める指導者を求めているのである。(“改革”の結果現在のような“中間層”の崩壊があることを考えると、彼らが“改革”を求めるのはひどく矛盾しているのだが、資本主義的な生産様式から離脱できない彼らにとって、資本主義の危機は資本主義を立て直すことによってしか克服できないと考えているのである)

 その結果、日本では排外主義を煽り、独裁政治を指向する政治が全盛期を迎えようとしている。人々をペテンにかけて独裁的な政治を行いたいという“政治的山師”と“政治的山師”にダマされたいという“中間層”がいて、合い呼応して次第に日本は、ファシズム国家もどきの政治体制へと変質をとげようとしているのだが、考えてみればこれはおかしな話である。

 没落の危機におびえている“中間層”いうよりも、すでに独自の階層としては没落してしまった“中間層”というのは、社会の少数派に転落した勢力ということであり、現実に、この日本で多数派を形成しているのは、所得が300万円未満の貧しい労働者階級である。

 “政治的山師”たちが独裁的な権力を行使してやりたい放題の政治を行う“中間層”の王国は、しょせんは「少数派による、少数派のための、少数派の政治」が支配する国であり、社会の多数派をしめる貧しい人々が、その貧しさからすべての政治生活や公的な生活から排除される社会は、非常にいびつな社会である。

 しかし、社会の多数派は、いずれは、多数派としての地位を要求するであろうし、そのような社会になって行かざるをえない。

 そういうことは数年を待たずして、現実の声として、出現するであろう。われわれの出番は案外近いのかも知れない。      

東アジアの“反省過程”

2010-10-01 00:45:32 | Weblog
 ヘーゲルによれば、“反省”というのは“事象のはね返り”、つまり、“反映”のことらしいが、われらの「労働者のこだま」が労働者階級の声を反映させようと努めているのに対して、東アジアで響きわたっている“こだま”はまさに、頽廃した小ブルジョア民族主義のそれであって、どの国がはじめたのかは知らないが、一つの国が発した排外主義的な民族主義の叫びが、よその国に伝搬し、よその国の絶叫を引き起こし、それが他の国の大絶叫を引き起こすという状態になっている。

 要するに、東アジア全体が、動物園のサル山状態になっており、キーキーキーとうるさくて仕方がない。特に、国会と呼ばれる日本の議会の醜態は、一つの滑稽な見せ物であり、全世界に音声付きの動画を配信するだけの価値はありそうだ。

 どうしてこうなったのか?

 誰かがサル山にエサを投げ込んだのだろうか?

 そうではなくて逆だ。サル山全体のエサが少なくなっているので、エサの取り合いが一部で始まりかけているので、サルたちが騒いでいるのである。

 長い間、世界資本主義の“成長エンジン”であった東アジア全体の地盤沈下が現実の過程として始まろうとしているのである。世界に突出した生産力はいまでは世界に突出した過剰生産力に転化しようとしており、日々少なくなる分け前の取り分をめぐって東アジアの諸国間で熾烈な闘争が始まろうとしているのである。

 しかし、民族主義的な金切り声をあげて、それは解決するのだろうか?もちろん、わめけばわめくだけ体力を消耗するのは目に見えているのだが、小ブルジョアが知っている政治は民族主義だけである以上、キーキーキー泣きわめいて破滅の日を待つことしかできない。

 うっとうしい時代の幕開けである。