労働者のこだま(国内政治)

政治・経済問題を扱っています。筆者は主に横井邦彦です。

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マルクス主義同志会の資本主義否定論

2011-02-21 01:08:27 | Weblog
 1、不徹底に終わった「第一回会戦」

 資本主義的生産様式が他の生産様式と区別されるのは、労働能力が資本によって商品として買われることによってである。

 そうであるとすれば資本主義的生産様式が持っている敵対的な性格に目を閉ざそうとする資本主義的生産様式の弁護論者にとって、この事実(労働能力が資本によって商品として買われるという事実)を覆い隠すことは避けて通れない。

 したがってマルクス主義同志会(その真実の名前はブルジョアの作り事普及協会)も過去においてこの資本主義的生産様式の根幹に対して攻撃を試みている。

 もっとも8年ほど前に行われた第一回の攻撃はあまり成功したとも思えない。

 それはマルクス主義同志会が、直接的に『資本論』の第一巻を攻撃したからで、多くのマルクス主義同志会の会員がとまどったからである。

 そこで今回は主戦場を『資本論』の第2巻に設定して、マルクス主義攻撃に乗り出そうというのだが、はっきりいって『資本論』を問題とするかぎり、『資本論』のどこを問題としても結果は明らかである。

 そして8年前と現在とでは『資本論』をめぐる環境も大きく変わっている。8年前には『資本論』は死にかけていたが、現在では、死の床から抜け出して蘇生した。

 われわれは燃え尽きた灰のなかからでも、社会にとって必要なものはよみがえるのであることを、身をもって証明した。これはわれわれの誇りとするところである。

 2 若干の補足説明

 本題に入る前に、少し背景を説明する必要があるだろう。というのは、現在、マルクス主義に興味を持ってくれている若い人々は廃墟の跡に燃え出でた新芽であって、滅び去った古い世界とは無縁な人が多いからである。

 マルクス主義同志会は大谷氏を共産党の御用学者と呼んでいるが、実際には、共産党の御用学者といわれている人々は月刊誌『経済』に登場している人々で、その『経済』は数年前に「新MEGA」(「新マルクス=エンゲルス全集」の編集作業に携わるマルクス経済学者の論文を直前になって「自分たちの雑誌の趣旨に会わない」という理由で掲載を見送っている。

 そういう点では、日本MEGA編集委員会代表をやっている大谷禎之介氏を共産党の御用学者とかスターリン主義者というのはマルクス主義同志会の悪質なデマゴギーである。

 マルクスの残した『資本論草稿』をそのまま編集しようという試みは、さきにこの草稿を編集したエンゲルスとかなりの部分で食い違っており、それがいろいろと物議を引き起こしているが、日本共産党の基本的な立場はエンゲルス擁護であって、マルクスの草稿はエンゲルスの編集したものと違っているという日本MEGA編集委員会の研究を苦々しく思っている。

 われわれは彼らの研究をどうこう言う立場にはないが、彼らの論文は読んでいておもしろいし、『資本論』の理解にとって非常に参考になることも事実である。

 3 賃金は資本家の労働者への前貸?

 マルクス主義同志会はいう。

 「マルクスが強調するのは、資本家の手にある可変資本は、資本として労働力と交換されるのではなく、単なる貨幣として機能するにすぎないということ、したがってまたその貨幣は労働者にとっては単なる収入に転化するということであるにすぎない。」と。

 ここでマルクス主義同志会は資本家は労働者の収入を保障するために貨幣を機能させるのだという。

 この「貨幣として機能させる」という言葉を善意に解釈すれば、資本家と労働者の間で「売買」が行われるということであるが、残念ながら、マルクス主義同志会はこういうことを否定している。

 そこでマルクス主義同志会は、今度は「資本家は反対に、まず可変資本を貨幣として労働者に『前貸』するのであり、“事後的に”その貨幣を回収するのである」という。

 マルクス主義同志会によれば、資本には不変資本と可変資本があって、可変資本は本来、労働者の取り分なのだが、資本家は労働者に「可変資本分」を前貸し、商品を労働者に売ることによってその貨幣を回収するというのである。

 しかし、資本家と労働者は生産物を分け合う関係にはない。資本主義的生産様式をそのように捉えることは決定的に間違っている。

 4 マルクス主義同志会は何を恐れているのか

 不思議なことに、マルクス主義同志会は賃金は労働者の取り分を前貸しするのだといった後、再び労働力商品の売買へと立ち返っている。

 「労働力と交換される貨幣は、確かに可変資本としての貨幣であるが(資本家にとって)、可変資本として『運動』する貨幣、そのものとして自己増殖する貨幣ではない。」

 「労働力への可変資本の転化、つまり可変資本としての貨幣のよる労働力の購買は、その形態においても、内容においても、資本としての契機を全く持っておらず、単純な商品と貨幣の関係であるし、また労働者の消費手段の購買もまた、そうである。」

 今度はあれほど否定した労働力商品の売買という観点にこっそりとたちもどって、この売買は貨幣で商品を売ったり買ったりするだけのものであると強調する。

 もちろんこれはマルクス主義同志会が、労働力商品の売買が持つ“資本としての契機”を死ぬほど恐れているからである。

 しかし、労働力の売買によって資本の手の下にあった貨幣は労働力に姿を変えているのだから、資本は生産要素(生産手段と労働力)へと形態を変化させたのであり、このことによってのみ資本の生産過程がはじまるのではなかったか?

 そして生産が継続的であるのであれば、労働力商品の売買もくりかえして行われなければならない。

 そういう点では、「賃労働は、資本形成の必然的な条件なのであり、資本主義的生産の恒常的な必然的な前提なのである。それゆえ、第一の過程、貨幣と労働能力との交換、すなわち労働能力の売りは、そのものとしては、直接的生産過程にははいらないにもかかわらず、全関係の生産にははいるのである。」(『直接的生産過程の諸結果』)というマルクスの指摘はあたっているだろう。

 ここでマルクスがいう「全関係の生産」とは、賃労働と資本と核心とする資本主義的生産様式を資本主義的生産様式たらしめている社会的な関係であり、資本主義的諸関係とわれわれが呼んでいるものである。

 興味深いのは、この部分には、「これによって、人々は、たとえばF・バスティアが賃金制度を資本主義的生産にとって外的などうでもよい形式的なことだと断言して、『報酬の形式が彼(労働者)にとってこの従属関係をつくりだすのではないということ』(『経済的調和』)を発見するとき、資本主義的生産の本質をなにと考えているか、を推論できる」という注をつけている。

 資本主義の不都合な現実を隠蔽することによって、資本主義の不都合そのものをなくしてしまおうという試みはマルクス主義同志会の本当の理論、すなわち「毒食えば皿まで」論によって極限まで拡大される。

 5 再生産なき再生産論

 「『再生産表式』についての理論は、そのもの自体としては、基本的に、『総過程』の一部、『W’-G’・G-W』の部分に関係しているのであって、『総過程』全体の理論、まして資本の社会的総再生産過程の理論そのものではない。この反省は、きわめて重要である。」

 マルクス主義同志会は、ついに再生産過程は「資本の社会的総再生産過程の理論」ではなく単なる商品と貨幣の交換過程のみに関係しているのであり再生産(生産過程)を含まないと言い出す。

 資本主義的生産過程(これは剰余価値の生産過程でもある)がなければ搾取という忌まわしいこともなくなるであろう。(これは真実である)

 しかし、第2巻ではマルクスは社会的再生産過程を分析しているのであって、その考察のためには流通過程を含まなければならないといっているのである。

 それは「一方の形態では直接的生産過程が流通過程の媒介として現れ、他方の形態では流通過程の媒介として現れている」からであろう。

 6 マルクス主義同志会の奇妙な再生産論

 ①「商品資本しての可変資本の『循環』(補填)が、商品資本としての不変資本のそれと違っているのは一見して明らかである。
 不変資本はただ直接に貨幣資本に(そして生産資本に)形態転化を遂げるにすぎないが、他方、可変資本は、貨幣(賃金)として労働者に支払われ(可変資本の“前貸”として)、労働者にとっての収入となる。そして労働者が、その貨幣を第Ⅱ部門の資本家の生活手段(商品資本)と交換する限りで、資本家の手に還流する。これは、不変資本が貨幣形態へと転化し、さらに生産資本に転化する場合とは違っている。」

 ②「資本家が労働者と交換に手渡す貨幣が、可変資本としての貨幣であって、資本家としては、ただ『前貸』もしくは『前払』するものにすぎないことは、例えば、第Ⅰ部門の資本家が、可変資本としての商品を第Ⅱ部門の資本家にそれを売って貨幣形態(貨幣形態の可変資本)に転化し、その貨幣でもって労働力を買うという形を考えてみれば明らかになるだろう。ここでは、第Ⅰ部門の資本家は、労働力の購買のために、可変資本としての貨幣を『前貸』する必要ない、というのは、すでに彼は、(可変資本としての)商品資本を(可変資本としての)貨幣資本に転化しているからである。そして第Ⅰ部門の資本家が、自らの可変資本としての商品資本部分(素材的には生産手段)を、第Ⅱ部門の資本家に直接に売って悪いということは何も存在しないであろう。」

 これは実に不思議な話だ。

 ①についていえば、パン屋がパンを売ってえた貨幣はパン屋に環流するのみであり、パン焼き釜を製造している資本には環流しない。パン焼き釜製造資本に貨幣が環流するのはパン焼き釜をパン屋に売った時のみであろう。

 ②について言えば、「第Ⅰ部門の資本家(生産手段を生産する部門の資本家)は、労働力の購買のために、可変資本としての貨幣を『前貸』する必要がない」というのはどういうことだろうか?第Ⅰ部門の資本家は労働力を購買するために、労働者から借金をするということなのだろうか?

 ②についてさらに言えば、パン焼き釜製造資本が工業用パン焼き釜をパン屋に直接売らないとするなら、だれに売ればいいのだろうか?

 7 マルクス主義同志会に資本主義は救済できるのか?

 かくしてマルクス主義同志会は、彼らの頭のなかだけで資本主義的生産様式をわけの分からないものに改造してしまったのだが、これによってマルクス主義の本来の目的である資本主義の救済は可能なのだろうか?

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