労働者のこだま(国内政治)

政治・経済問題を扱っています。筆者は主に横井邦彦です。

『日本経済新聞』の心配事

2007-10-30 02:35:00 | 政治
 わが国のブルジョア諸氏は、お行儀がいいから間違っても、「恐れながら、お代官さま」などと、現在の世界秩序であるアメリカの軍事的な優越性にさからったりはしないはずであった。というのは、このアメリカの圧倒的ともいえる軍事的な優越性を基礎とした「世界システム」からもっとも利益をえているのはほかならない日本であるからである。
 
 ところが、アメリカの大統領であるブッシュ氏が第三次世界大戦に言及し始めた頃から、「恐れながら、オスマン・トルコ帝国時代のアルメニア人迫害を今ごろアメリカ議会で非難決議するのはいかがなものでしょうか」とか言い出している。
 
 もっとも、今日(10月29日)の社説では、イラン政府に対して「アメリカ様にさからったら、ただじゃすまないのだから、考え直しなさい」と忠実な子分の役割をかって出て、イランに忍従を説いている。
 
 そして、「向こう数ヶ月が重要な節目である」とももらしている。
 
 しかし、「重要な節目」はすでに通過しており、アメリカはあることを決意しており、その決意を遂行するために諸事は動き始めているのではないのだろうか?
 
 その「あること」というのは、もちろん、ブッシュ氏が言うところの「第三次世界大戦」であり、具体的にはイランに対する戦争である。ブッシュ氏がイランに対する戦争が単にイランに対するのみならず、トルコからパキスタン(ひよっとするとスーダンとインドネシアを含むかも知れない)にいたるまでの広汎なイスラム圏の不安定化と混乱をもたらすかも知れないという危惧を持っているのは、まったく正しい判断といえるが、アメリカのブッシュ氏はそのような政治的な危険性を持った戦争挑発行為であるにもかかわらず、あえてやるというのだから、さすがの日本のブルジョア諸氏も二の足を踏んでいるのである。
 
 このブッシュ氏の決断の背景にあるのは中東の“ベトナム化”である。イラクにおいても、アフガニスタンにおいても、レバノンにおいても、パレスチナにおいても、アメリカの戦略はすでに完全に行き詰まっており出口が見いだせない情況に陥っている。
 
 このようにアメリカの軍事的な介入が成功しないのは、中東各地に強固な反米武装組織が形成されているからで、その武装組織に武器を供給しているのがイランであるとするなら、アメリカが諸戦争に勝利して退却するためには、イランをたたくしかないということになる。
 
 これはベトナム戦争の末期に、「ホーチミンルート」に打撃を与えるという名目で、カンボジア・ラオスをつぎつぎに戦争に巻き込みベトナム戦争をインドシナ戦争に拡大することによって、ベトナムでの敗北を先延ばしにしようとしたことと同じであり、アメリカは今回、イラク、アフガニスタン、レバノン、パレスチナの戦争をイランとの戦争に転化することで各地における決定的な敗北を引き延ばそうとしているのである。
 
 アメリカが想定しているのは、おそらく、イランの主要な軍事施設や原子力開発施設を攻撃するという限定的な、軍事戦略であろうが、はたしてそういうことに収まるのであろうか?まさにそれが問題なのである。
 アメリカとイランは“ホメイニ革命”以来相互に憎み合い、イラ・イラ戦争(イラン・イラク戦争)時も、アメリカはイラクのフセインの支援をしながらも、イランとの直接的な交戦を避けてきた。だからこそ、世界の征服者たらんとするミスター・ブッシュはここで歴史に名前を残すために、あえてイランとの戦争に乗り出そうというのだが、歴代のアメリカの大統領がなぜイランとの直接的な交戦を避けてきたのか考えてみる必要がありそうだ。
 
 そして、それ以上に問題なのは、最近の中近東諸国は政治的に非常に不安定になりつつあり、このアメリカの対イラン戦争は、もしそれが実行されれば、この地域全体を巻き込むような争乱にもなりかねないものがある。
 
 だから、われわれのブログはしばらくの間、日本を離れて、中近東巡りをする必要がありそうだ。(賢明な日本のブルジョア諸氏は分かっていると思うが、アメリカの対イラン征服戦争が、もしそれが本当に敢行され、短期間に終わらなければ、すなわち、アメリカが短期間にイランを屈服させることができなければ、必ずホルムズ海峡は封鎖される。そうなったら、日本資本主義のみならず世界資本主義はおしまいだ。われわれ人類はそういう海域に進みつつある。) 

本当に数えた数か?

2007-10-29 01:06:53 | 政治
 前回、沖縄の県民集会の参加者数について書いたら、何かグチグチとくだらないことを書いてきた人がいましたので、これも削除しました。
 
 何でも、この集会の参加者を数えた奇特な警備会社(??)があるそうで、その人数は18179人だそうです。
 
 しかし、これは数学的に見て、非常におかしな数です。
 
 最初に、われわれは、集会やデモの実際の参加者=主催者発表÷2=警察発表×3という「公式」を提起しました。しかし、これは実際のところ公式などではなく、昔から「経験的」に言われている話を紹介したものにすぎません。
 
 そしてこの式は、変形して、主催者発表÷6=警察発表 と書き直すこともできます。
 
 この式に、主催者発表の11万人を代入すると、この式は11万人÷6=18333人となります。
 
 この数字、何かとよく似ていませんか?そうです、誰かが数えたという18179人と非常によく似ています。
 
 そこで今度は、18179人を18333人で割って、それを100倍して、どれぐらい似ているのか計算してみましょう。すると、18179人÷18333人=99.16%となり、99%以上の確率で一致していることが分かります。
 
 これは、実に不思議なことです。というのは、もともと11万人という数自体が、非常におおざっぱな推定値で、根拠にとぼしく「いいかげんな数」と見なすことが可能だからです。
 
 そして「いいかげんな数」は足したり、引いたり、かけたり、割ったりしても、「いいかげんな数」にしかならないはずです。
 
 ところがその「いいかげんな数」を6で割ると、99%以上の確率で「実際に数えた数」になるというのですから、これは一体どういうことでしょうか?という話になります。
 
 偶然そうなった、とも言えるかも知れませんが、そのような確率は100%-99.16%=0.84%、つまり、ほとんどありません。
 
 圧倒的に言えることは、11万人を6で割った18333人の下3ケタを適当に入れ替えた、すなわち、実際には数えていないということではないでしょうか?
 
 公共事業の入札でも、達成率が99%を越える数は談合があった、もしくは、応札者があらかじめ何らかの方法で入札価格を知っていたということが、強く推定されるでしょう。
 
 これは「意図する数」(入札価格)と「意図せざる数」(応札価格)の間には、連関がないことを前提にしています。そしてこの相互に無関係なはずの数がほぼ一致するという場合、当然、「意図せざる数」は「意図せざる数」ではなく、「意図する数」を前提にした数であると考えられるのです。
 
 この集会の数の場合も、「主催者発表を6で割った数」と「実際に数えた数」の間には、何の連関もないはずですから、本当に数えたというのであれば、「実際に数えた数」は「主催者発表を6で割った数」とはまったく異なった数にならなければ、数学的におかしいのです。ところが、それにもかかわらず一致率が99%以上あるということは、「実際に数えた数」というのは、「主催者発表を6で割った数」をもとにつくられた数であると考えるのが妥当であるとわれわれは考えます。

 最後に、ある特定の政治的な見解をもった人々に、「バカ」という定冠詞をつけたことに対して、抗議のコメントもいくつか寄せられております。

 これは確かに、思い上がった差別的な言辞であって、よくないことでした。今後、このようなことがないように気をつけたいと思います。    

無意味なコメントは削除します

2007-10-26 05:00:15 | Weblog
 沖縄がどうとかいう意味不明のコメントを書いてくる人がいますが、削除しました(2度も!!!)。
 
 われわれはこれまで沖縄の教科書検定問題についてふれたことは一度もありません。どこか他の団体と間違っているのではないかと思いますが非常に不愉快です。
 
 しかもその内容がバカ右翼連中が貧弱な頭脳からようやくひねり出した、9月29日のデモの参加者の数は違うからデマだというものですから笑えます。
 
 今の若い人たちは大きなデモや集会を見たこともないので、集会やデモの参加者の数の数え方も知らないのは無理もないと思いますが、日本式の参加者数公式では、参加者の実数=主催者発表÷2=警察発表×3ということになっています。
 
 バカ右翼の連中がこの警察発表に必死になってしがみついて、いろいろ言っているのは、要するに、彼らがこの集会で衝撃を受けて、動揺しているということをあらわしているだけじゃないですか。
 
 たががこの程度の集会でおびえ、うろたえていたのでは、お先がしれているとしかいいようがありません。
 
 しかもこの集会を主催した県知事さんは、先の知事選では、自民党と公明党の推薦を受けて当選した人でしょうが。何を考えているのか?彼らが「バカ」と定冠詞をつけて呼ばれなければならないのも無理はないと思います。
 
   

なぜ「新給油法」にこだわるのか

2007-10-25 04:35:46 | 政治
 インド洋でのMIO(海上抑止行動)はすでに役割を終えて、一般的な哨戒活動MSO(海上安全行動)になっているのに、アメリカも日本もなぜこの法案にこだわるのか?という質問がありました。
 
 この質問に答える前に、MIO(海上抑止行動)とMSO(海上安全行動)の違いについて考えたいと思いますが、この違いは直接的な準軍事行動(誰何、威嚇射撃、強制停戦、強行乗船、船内調査、船舶の拿捕、麻薬・武器などの禁制品の押収、不審人物の逮捕・連行、逃走船の撃沈など)を含むかどうかによって区別されます。
 
 通常は、つまり、海上封鎖されていない海域では、軍艦がこのような行動を取ることは特別の場合を除いて許されてはいません。ただ「無許可の電波を発信している」、「帰属国を表す国旗を掲げていない」場合等は、「海賊船」と見なして、停船をさせたり、船内検査をすることが許されるだけです。
 
 インド洋はだれによっても海上封鎖されている海域ではないので、MIO(海上抑止行動)自体が国際法を無視した犯罪行為といえます。
 
 ところがこれには抜け道があって、沿岸諸国(パキスタン・イラン・オマーン・イエメン・ソマリア・ジブチ)の地元民が使用するダウ船(小型木造船)は、漁業に使うばあいでも、地域的な海上輸送に使うばあいでも、領海外へ航行する能力を持っているし、国旗を掲げて漁をする漁船もあまりありませんので、MIO(海上抑止行動)参加国の軍艦はこういう船にねらいをつけて、「海賊船」と見なして、追いかけ回し、「臨検」をやっていました。
 
 この中でいくつかの成果があったことは確かです。麻薬や武器を押収した事例がいつくかあります。ただ、アルカイダ関係者と思われる集団を捕縛したという件については、これらの人々がグァンタナモ基地に送られ、その後どうなったかという報告がないので、問題があります。そもそも、疑わしいという理由だけで勝手に人々を捕縛して、裁判も受けさせずに、長期間拘留するということ自体が許されることではありません。
 
 またこのほんの一握りの“成果のかげ”で無数のダウ船の「航行の自由」の侵犯が行われています。(週刊『金曜日』によれば、「現場を通行する不審な船舶に対する無線照会は14万件にのぼり、立ち入り検査は1万1000回以上あった」そうです。)漁業を操業中に武器を携帯して勝手に木造漁船に乗り込んだり、輸送品の梱包を解いたり、艦船で漁網を引っかけて破損させたり、と沿岸諸国の地域人民の生活と安全を脅かしています。
 
 つまり、MIO(海上抑止行動)参加諸国の艦船の“弱いものイジメ”というよりも、無法行為は沿岸諸国(パキスタン・イラン・オマーン・イエメン・ソマリア・ジブチ)の地域海運、地域漁業に大きな打撃を与え、沿岸諸国の人々に大きな苦痛を強いていたのです。
 
 だから、地元ではこれらの活動に対する評判も悪いし、悪いことをする人、つまり、麻薬や武器などの禁制品を運搬したり、「テロリスト」を搬送したりする人は、危険なインド洋を通らないで、内陸部から、「陸の道」を通って移動するようになりました。
 
 現在、イランで人質になった人も、この「陸の道」で麻薬商人に捕まっていますし、アルカイダの幹部が「われわれは自由に移動できるようになった」と豪語しているのも、アフガニスタンからイラクまたは、ロシアのチェチェンにいたる「陸の道」がすでにできていることをあらわしています。
 
 ですから、最近では、さすがのアメリカもこういうことは自制し始めています。その表れがMIO(海上抑止行動)からMSO(海上安全行動)への活動内容の変更になって現れています。
 
 ころが日本政府はこれを認めることができません。なぜならば、インド洋での一般的な哨戒活動とアフガニスタンでのどのような活動とも直接的に結びつけることができない(アフガニスタンのテロはインド洋を通じて拡散しているという事実はない、したがってアメリカはインド洋での海上抑止活動を行っていない)からです。つまり、法案自体がアフガニスタンのテロが拡散することを海上で抑止する活動を支援するものである以上、ありもしないMIO(海上抑止行動)にしがみつかざるをえないからです。
 
 ではなぜアメリカも日本もMIO(海上抑止行動)がMSO(海上安全行動)となり、「臨検」を含まないものになっているのにそれにこだわり続けているのでしょうか?
 
 この疑問に対するわれわれの以前の解答は、“脱走者”をこれ以上出さないためであるというものでした。多くの国々が内心ではMSO(海上安全行動)から足を洗いたいと思っているところで、日本が引けば、他にもやめたいというという国が出てくることを心配しているのではないかと思ったからです。
 
 最近になって分かったのですが、これとは別にもう一つの見解があります。
 
 17日に発表されたアメリカ海軍の海洋戦略「21世紀の海軍力のための共同戦略」では、基本戦略として「米国の死活的利益を守り、地域の安全への米国の誓約が継続していることを友好国や同盟国に保障し、潜在的な敵や(米国に匹敵する)競争者を抑止するため、西太平洋とアラビア湾(ペルシア湾)/インド洋に信頼できる戦闘力を継続的に配備する。」を掲げている。
 
 この目的を達成するための核心的な任務として、
 
 ① 決定的な海軍力を前方展開して、地域紛争を限定する。
 
 ② 大国間の戦争を抑止する。
 
 ③ わが国の諸戦争に勝つ。
 
 ④ 本土防衛に奥深いところから貢献する。
 
 ⑤ より多くの国際パートナーとの協力関係を強化、保持する。
 
 ⑥ 地域的混乱が世界システムに影響をおよぼす前に封じ込める。
 
 の6点をあげています。
 
 さらに具体的な方策として
 
 A 前方プレゼンス
 
 B 抑止
 
 C 海の統制
 
 D 兵力投入
 
 E 海上安全保障
 
 F 人道支援
 
 をあげています。
 
 全体的に見て、アメリカはアラビア湾(ペルシア湾)/インド洋を大西洋とならんで最重要地域と見なしていることが分かります。
 
 その理由として「世界システム」に影響をおよぼさないこと、すなわち、ペルシア湾からインド洋にいたる「石油ロード」をアメリカの海軍力で守る必要があるからであると述べられています。
 
 ここから「海の統制」という概念が生まれてきます。これは日本の高村外相が「シーレーン」の防衛を訴えていることと軌を一にしています。しかし、「新給油法案」は果たしてシーレーンを守るための法案でしょうか?しかも、人類の共有財産である海洋をなぜ特定の国または諸国連合が「統制」できるのでしょうか。これこそ「海洋における帝国主義」というものです。
 
 政府自民党はそのように考えているのであるなら、そのような法案として提出すべきでありましょう。一つの法案がその真意を隠したまま制定されるとしたら、そのようなものは法案として適切ではないといえます。しかもその内容が自国の権益を守るために他国の権利(海洋を航行する船には航行の自由があります)を踏みにじるようなものであるとするなら、断固として廃案にすべきものでありましょう。
 
 また、このアメリカの新海軍戦略には、「より多くの国際パートナーとの協力関係を強化、保持する。」ということで、日本を含む他の国が組み込まれています。
 
 アメリカはその陣形として、前方展開と後方におけるMSO(海上安全行動)を想定しています。後方にそれほど重要な役割を持たせていないのは、このアメリカの新海軍戦略が、アメリカの露骨なイスラム諸国に対する敵対的な性格を持っているがゆえにアメリカ単独ではおこないえないと考えており、「赤信号みんなで渡ればこわくない」とばかりに、共犯者を募っており、この共犯者は単に名目だけでもいいと考えているからです。
 
 もちろん日本の立場は、単に名目上の共犯者ではなく、無料の燃料を供給するという扇の要の役割を持たされています。
 
 ところで、このようなアメリカの新海洋戦略は軍事的に見てどうでしょうか?
 
 前方展開は、桶狭間の時の今川義元や関ヶ原の戦いの徳川軍の陣形です。当然のことながら、今川義元は軍を進めすぎたために、本陣が手薄となり、そこを織田信長に攻め込まれて首を取られました。関ヶ原の戦いでは霧が発生していたために徳川軍は前に進みすぎましたが、敗北しなかったのは包囲していた軍勢の半分ほどが日和見をきめこんだり、寝返ったからです。このように前方展開は想定外の出来事に大きく作用されるのですが、アメリカ軍はどうでしょうか?
 
 それは今後のお楽しみということです。
 

週刊『金曜日』の不思議な分析

2007-10-23 01:56:06 | Weblog
 週刊『金曜日』が「福田“低頭”内閣にだまされるな」というすばらしい特集を組んでいる。
 
 まったくその通りである。福田内閣が存在する唯一の理由は、平身低頭して国民をだますためである。
 
 では、何をどうだまそうというのか?
 
 週刊『金曜日』いわく。
 
 「今や軍事専門家の間にさえ、現在の補給活動の効果には疑問が出ており、たとえ新法で活動を続けたところで米国は喜ばない。そうした状況のなかで『民主党のせいで補給活動ができなくなったと責任転嫁できれば福田政権にとってはプラス』(関係者)との声まで出てきた。
 
 前出の政府関係者も、『政府は補給継続について実は新法も含めて、成立させることに、それほどこだわっていない。ごり押しして、また“数の横暴”だなどと批判されては、今度こそ、おしまい。であれば、ひたすら、低姿勢に徹して、場合によっては成立できなくても構わないといったところが本音なんです』と話す。
 
 それは本音では廃案を喜ぶとされる福田首相にとって、きわめて喜ばしい政治状況といえそうだ。」(『金曜日』10月19日)
 
 ということは、週刊『金曜日』氏によると、ペテン師(小泉純一郎氏ほどのペテン能力はないが)福田康夫氏は、自分が通したくないと思っているという法案を、通そうとしているということなのだろうか?それが国民をだます内容なのだろうか?
 
 ということは、週刊『金曜日』氏のいう、福田康夫氏にだまされないためには、民主党は彼の望んでいない給油新法を制定することに協力してやらなければならないことになるが、これが週刊『金曜日』氏の見解なのだろうか?
 
 逆ではないか?
 
 つまり、本当は福田康夫氏は「新給油法案」を通したくて、通したくて仕方がないのだが、参議院が野党に握られている現状では、それもむずかしいし、最近になって海上自衛隊のイラク戦争への関わりをしめす報道がつぎつぎになされて、この法案がもっている深刻なイラク戦争協力法案としての性格が浮き彫りにされているから、福田康夫氏は、法案を通したくないふりをして、こんな法案たいしたことないのだから、適当に妥協しましょうよ、というのが民主党と国民をだましている内容ではないのだろうか。
 
 だから、イラク戦争との関わりを指摘する共産党の議員に対して、「お前は理解する能力がないのではないか」などと恫喝しているのである。(この場合の理解する能力というのは、もちろんだまされる能力のことである。)
 
 そして最近では、国会で給油量でウソの答弁をしたことをごまかそうとしたが、ごまかしきれずに、その責任を防衛省の事務方に押しつけようとしている。
 
 このように、福田康夫氏は、平身低頭して、なんとか適当に言いつくろって「新給油法案」を通そうとしていたが、その思惑はしだいに破綻しつつある。
 
 そして福田内閣が存在する唯一の理由は国民をだまして「新給油法」を制定することだけにあるのだから、これができなければ、解散総選挙か内閣総辞職かどちらかを選ばなければならない(解散総選挙が選ばれることはほぼ決まっている)であろう。
 
    

社会民主主義から逸脱しつつあるヨーロッパの若者たち

2007-10-22 02:43:25 | 政治
 イタリアの観光名所であるトレビの泉に、何者かが赤い塗料を投げ入れ、トレビの泉は赤く染まった。近くには「灰色のブルジョア社会を赤く染めてやる」というバラがまかれていたそうです。
 
 同じ頃、スイスでは外国人移住者を黒い羊に見立てて排撃を主張する国民党の選挙運動に反対して「極左派」が黒い羊の格好をして警官隊と衝突するという事件が起きています。
 
 また、先のドイツのハイリゲンダム・サミットでは、数千人の若者たちが警察隊の裏をかいて検問を突破しデモ(ピクニック?)をしています。
 
 こういったヨーロッパの若者たちの抗議行動は、ユーモアがあり、どこか1968年当時、世界をおおった学生運動の名残があります。フランスの五月革命やイタリアの学生運動もそうでしたし、日本の大学や高校の全共闘運動も当初はこんなものでした。
 
 しかし、日本では、こういった解放感あふれる学生たちの運動も、新左翼のセクトが運動の指導権を争って醜悪な暗闘を繰り広げる場となり、学生運動が新左翼のセクトの運動になるにつれて、決戦主義ばかりが叫ばれる、悲壮感あふれるものになり、運動に悲壮感が漂うにつれてしだいに、一般学生は離れていき、運動自体が衰退していきました。
 
 われわれはヨーロッパの学生運動の動向を詳しく知っているわけではないので、はっきりとは言えませんが、情況はどこの国でも似たりよったりだと思います。したがってこのヨーロッパの若者たちの運動が成長してそのまま新しい左翼運動を生み出すとは考えにくいと思います。
 
 しかし、確実に言えることは、ヨーロッパ各地でこういう事件が起き始めているということは、ヨーロッパの左翼運動の中核を担っていた社会民主主義が一つの曲がり角を迎えており、多くの若者たちがその社会民主主義の枠の外で自分たちの政治的な意思を表明したいと考え始めているということです。
 
 つまり、“社会主義”(われわれが国家資本主義と呼んでいる体制)が90年代に崩壊して以来、ヨーロッパではそれまでの“共産党”(スターリン主義政党)は社会民主主義に衣替えをして、旧来の資本主義国の社会民主勢力とあいまって社会民主主義の黄金時代を築いてきましたが、最近では、その社会民主主義は右派の挑戦を受けていくつかの国では政権を失ったり、政権獲得のチャンスを逃しています。
 
 右派もいやだし、社会民主主義もいやだが、それしかないという政治的な閉塞状態からの解放を求めて若者たちが突飛な行動に走っているとするなら事態は深刻です。
 
 なぜならこの問題に対する解答を与えている国は、アメリカや日本を含めて、世界のどこにもないからです。
 
 しかし、どこにもないということは、そういった運動はこれから生まれなければならないということを意味しているにすぎません。そしてわれわれの一貫した立場は、社会に必要なものは社会の根底から、キノコのように生え出てくるであろうというものです。      

「給油新法」は廃案に

2007-10-18 01:40:59 | 政治
 1 貧弱な国際法上の根拠
 
 公表された政府原案では「給油新法」の根拠として国連決議の1776と1368と1373をあげている。
 
 1776はあの悪名高い、国連の「謝意」決議である。もちろんいうまでもなく、国連がOEFの「海上抑止活動」と呼ばれるものに「謝意」を表したということは、国連がその活動を承認しているというわけではない。本当に国連がとり組むべき課題であると考えるならそれを規定する決議を採択すべきものであろう。それがないということはOEFの「海上抑止活動」が国連決議に基づくものではないということを再確認するだけである。
 
 さらにこの1776は、テロ関係の国連決議にはめずらしくロシアが特定の国にのみ配慮することは、悪しき前例を残すことになるとして、棄権している。もちろんこの特定の国とは国連決議にOEFの「海上抑止活動」の正当性をもりこもうと画策した日本のことである。
 
 しかし、日本政府のたくらみが奏功せず、OEFの「海上抑止活動」が全文の「謝意」というかたちでしか表現されなかったことは、日本政府の主張とは裏腹に、世界各国がこのようなとりくみ(OEFの「海上抑止活動」)を必ずしも積極的に賛成しているわけではないことを表しているにすぎない。
 
 また国連決議1368は9・11の同時多発テロの翌日に採択されたもので、9・11テロを非難したものである。
 
 1373は国連が各国にテロ資金の規制や出入国管理の厳格化を求めたものである。
 
 政府がこのように、OEFの「海上抑止活動」への給油活動を正当化するのに、どういう関連があるのかわけの分からない国連決議しか出すことができないのは、もちろん、OEFの「海上抑止活動」を規定した国連決議がないからである。政府は国連が国際社会の共同の取り組みとして正式に認めていないものを、さもそのようなものであるかのように取り繕おうとしているからである。
 
 2 実体のない「海上阻止行動」
 
 そもそもこのような給油活動の対象である OEFの「海上抑止活動」とは、何であろうか?不思議なことに、政府は法案を提出するにあたって、OEFの「海上抑止活動」というのはどのような活動なのかということを具体的に説明してはいない。
 
 「テロとの戦い」というが、テロと戦うためにインド洋でどのような活動をしているというのだろうか?
 
 このもっとも基本的なことについて、政府が口を閉ざしているのはOEFの「海上抑止活動」というものはその実体がないからである。
 
 当初、アメリカが想定していたのは、インド洋で「臨検」(船舶への強制的な立ち入り検査)を実施することであったが、「臨検」を行うためには明白な国連決議が必要であるが、国連はインド洋を海上封鎖するという無謀な試みに賛成することはなかった。
 
 そしてこの海域(インド洋)での「臨検」が実施不可能であれば、各国の軍艦にできることは何もないのである。
 
 実際、公海上を航行している船舶に対しては「航行の自由」が与えられているのだから、船を停船させたり、乗り込んで「テロリスト」が乗っているかどうか捜索したり、「テロリストの武器・弾薬」が積んでいないか貨物検査をするということは一切できない。「テロリストの攻撃および人員、武器の輸送を阻止する」といっても、阻止する手段が何も担保されていないのだから、現実問題として、OEFの「海上抑止活動」に参加している艦船が公海上でできることはせいぜい哨戒活動ぐらいのものである。
 
 だから、OEFの「海上抑止活動」は単に名前だけのものであり、参加各国の艦船はあらかじめ指定された海域を定期的にパトロールしているのみである。
 
 3 無意味な活動に各国が固執しているわけ
 
 では、なぜこのような実体のないOEFの「海上抑止活動」にいくつもの国(アメリカ、イギリス、ドイツ、フランス、パキスタン、等)が参加しているのだろうか?
 
 それはいうまでもなく、この活動が無意味かつ無内容であるがゆえに安全であり、「テロリスト」との戦いという煩わしい事件に巻き込まれる可能性は限りなくゼロに近いということである。
 
 そして、なおかつ、自国もOEFに参加していおり、その一翼を担っているという実績をアメリカに示すことができるからである。
 
 協力することによって自国の兵員の犠牲が出ることは望まないが、アメリカに恩を売りたい国、もしくは協力要請を断りにくい国、もしくは協力することによって政治的・経済的な利益を引き出したい国々がこの安全なインド洋の“パトロール艦隊”に艦隊を出しているのである。
 
 そして当のアメリカもこのような意味のない行動を黙認しているのは、アフガニスタンでの戦争をアメリカの戦争ではなく、国際社会の戦争と見せかけたいからである。しかし、戦争の指揮権をアメリカのOEFがもっており、NATO軍が中心になって結成されているISAFがOEFの指揮下にあることはまぎれもなくこのアフガニスタンでの戦争がアメリカの戦争以外の何ものでもないことを表している。
 
 4 日本の給油活動はOEFの「海上抑止活動」より悪質である
 
 小泉内閣は「テロ特措法」を制定し、インド洋でOEFの「海上抑止活動」に参加する艦船に給油活動を行ってきたが、その理由はOEFの「海上抑止活動」に艦船を出している国々の事情と同じである。
 
 アメリカのご機嫌をとるために、アメリカのアフガニスタン侵略戦争を給油活動を通して脇から支えているのだが、その関わり方は他国とは違ったものである。
 
 第一に、日本政府は燃料・水を無償で提供することによって、OEFの「海上抑止活動」に参加する国々の経済的負担の一部を肩代わりしていることである。そういう点では、経済的負担を理由にインド洋の“パトロール艦隊”から脱走しようとする“不埒(ふらち)な軟弱者”から、逃亡の理由を取り上げているともいえよう。つまりアメリカの“囚人たち”(OEFの「海上抑止活動」に参加している国々)の看守としての役割も引き受けているのである。
 
 第二に、OEFの「海上抑止活動」自体はまったく無内容だが、その活動に給油活動を行う日本の活動は、アメリカにとって有益であり、内容豊富なものとなりうる。それはもちろん、この法案の趣旨を逸脱することによってである。
 
 日本の海上自衛隊の給油艦が、アメリカ海軍の艦船に対する給油活動を通して、イラクおよびアフガニスタンの戦争に深く関わってきたし、現在もそうであることはまったく明白な事実である。これはアメリカ軍自体が認めていることでもある。(現在、国会で政府を追及している野党議員の多くがアメリカ軍の各種のホームページに直接アクセスして情報を得ている)
 
 ところが、この明白な事実をおかしなことに政府も自民党も否定している。
 
 共産党の小池議員に対しては福田首相は「理解する気がないんじゃないですか、いくら議論したって賛成とは言わないんでしょ、結局」と答えている。
 
 共産党の小池議員の質問は日本の自衛隊が給油したイオウジマから出撃したハリアー戦闘機がアフガニスタン南部を空爆したというアメリカ軍の「海兵隊ニュース」(06年12月4日号)が事実かどうかの確認を求めたものであったのだが、福田首相の答弁は「お前は『理解』する気がないのだ」というものであった。
 
 この場合の「理解」というのは、「自衛隊が給油した艦船が戦闘行為に参加した事実はない」という政府のウソを本当であると信じろということである。してみると「国民の理解を得たい」という福田首相の言葉は、「お前たちはおれのウソを信じなければならない」という意味ではないか。
 
 あの安部晋三氏の後では、誰が首相になっても天使に見える、というのが事実であるとしても、これはちょっとひどいではないか。ある新聞によると福田首相がまじめに答弁するのは民主党の方々だけだそうであるが、こんな底の浅いことをやっていたのでは、この政権もそんなに長くは持たないだろう。
 
 そして新法案提出者である日本政府のこのぶざまな姿は、新法案も旧「テロ特措法」と同じように、法案自体は無意味であり何の効力を持たないが、法案の趣旨を逸脱することによってはじめて法案が実効的であり、威力を持つような法案なのではないかという疑念を強く抱かせるものである。
 
 実際、旧法案に対するなんらの反省もないとしたら、新法案もまた単に名前を変えただけのものにすぎないであろう。このような法案は国会に提出すべきではないし、提出されたとしても可決されるべきではない。    

「逆ギレ」とは?

2007-10-17 01:05:35 | Weblog
 「逆ギレですか?」といわれれて辞書を引いたが「逆ギレ」という言葉はのっていなかった。
 
 そこで推測するのだが、おそらくこの言葉は、電車のなかで携帯電話でしゃべっているヤクザ者にやめなさいと注意したら、ヤクザ者が「逆ギレして」、「ワレ。ええ根性しとるやないけ」といって正義の人をボコボコにする、というような使い方をするのではないでしょうかか。
 
 そこで「正義の人」だが、果たしてわれわれ「ヤクザ者」は現行犯だったのだろうか?われわれが「拉致家族会は解散した方がいいのではないか」と言ったのはもう何ヶ月も前のことである。
 
 もしわれわれが「何を今更、言うんだ」、とムッとしたのであれば、それはわれわれの傲慢であったのかもしれない。
 
 また、この「正義の人」が「拉致問題」しか関心がない人であったとしても、それはわれわれと立場が違うと言うことで、もう少し謙虚になって世の中にはそういう人もいるかも知れないと寛容でなければならなかったかも知れない。
 
 ところで、この「正義の人」はわれわれに「電車のなかで携帯電話でしゃべっるのは、やめなさいと注意した」のだろうか?つまりわれわれのやっていることが間違っていると注意したのだろうか?
 
 「この正義の人」が何度もわれわれに言うのは、自分は「拉致問題」を忘れない、ということである。そこが問題だが、果たしてわれわれは拉致問題を、「忘れろ」とか「忘れた」とか「どうでもいい」と一度でも言ったのだろうか?
 
 むしろ逆であろう。われわれは「拉致問題」をどうでもいい問題であるとは思っていないから、このブログでも何度も取り上げているのである。
 
 ではなぜ「正義の人」はわれわれが「拉致問題」について敵対的であると考えているのか?
 
 「正義の人」の立場は、かつての横田夫妻の立場でもあるのだが、「北朝鮮は拉致をするようなひどい国家だから許すことができない」というのが「正義の人」と彼らの立場であった。
 
 だから、われわれは彼らに言ったのである。それでは拉致被害者を救出しようとする運動ではなく、北朝鮮の拉致行為に対して報復を要求する運動ではないかと。
 
 そして北朝鮮を経済制裁によって追い込んで、アメリカとの軍事衝突にまで導こうというのが安部晋三政権の戦略でしたから、「拉致家族会」はそういう安部晋三政権の朝鮮半島における戦争政策の道具でした。
 
 だからわれわれは「拉致家族会」に言ったのです。「拉致家族会」は、拉致被害者を救出するという当初の目的を見失って、拉致事件を起こした北朝鮮政府に対する報復に血眼になって朝鮮半島における戦争を画策している勢力と癒着しているとしたら、それは平和を願う日本の労働者階級にとって一つの危険な存在でありうるし、会としても存在する意味がないのではないかと。
 
 そしてわれわれは横田夫妻に、そんなに金正日政権が憎いというのであれば、政府を打倒してもよいのは、その国の国民だけなのだから、北朝鮮に帰化して、その国の労働者階級とともに金正日政権打倒の闘いに参加しなさいと言いました。
 
 これについては、ある人もそれは「暴論」というものではないかと指摘しています。確かに、普通の人にマルクス主義者の信条を押しつけるのは行き過ぎだったのかも知れませんが、われわれが言っていることは一般的に正しいです。アメリカのブッシュはフセインは独裁者だから打倒すべきであるといってイラクに軍事侵攻しましたが、情況はフセインの独裁政治よりももっと、もっと悪くなっています。
 
 同じようなことを人口密集地である北東アジアで行えば、目もあてられない情況になったでしょう。したがってわれわれが朝鮮半島の平和のために闘ったことは、正しかったと思います。
 
 また、われわれはけっして、無前提に「拉致家族会」は解散しろといった覚えはありません。われわれとしては「拉致家族会」に現在の方針を転換せよ、さもなければ諸君たちはここで日本の労働者階級の敵にならなければならないのだと警告をしたつもりです。
 
 「拉致家族会」の方針は転換されたでしょう。彼らから、「北朝鮮政府との交渉」を要求する声は少しずつ増えていったのではないですか。実際、安部晋三政権は拉致問題を最重要課題としながら、北朝鮮政府と何の交渉もしなかったのですから、この点についてもわれわれの指摘は時宜をえていたと考えています。
 
 つまりわれわれのこの間の言動は、「電車のなかで携帯電話でしゃべっる」、つまり、間違ったことをやっているようなものではなかったと思います。
 
 したがって「逆ギレ」という言葉はあてはまらないのではないかと考えます。なお、われわれがヤクザ者で口が汚いのは当分直らないと思いますのでご容赦を願います。


 
  

MSO(海上安全活動)と米艦イオウジマ

2007-10-16 20:26:30 | 政治
 われわれと日本共産党のあいだではMSO(海上安全活動)に対する認識の違いがあるような気がする。
 
 つまりわれわれはアメリカがMIO(海上抑止行動)をMSO(海上安全活動)に切り替えたのは、公海上での「臨検」をあきらめた結果であると考えているのに対して、共産党は概念を拡大してイラクやアフガニスタンでの戦闘行為まで含むようにしたのだという。
 
 共産党はそれを証明する例として米艦イオウジマの活動をあげているが、その考察は後にして、最初にMIO(海上抑止行動)とMSO(海上安全活動)の違いについて考えてみよう。
 
 MIO(海上抑止行動)とMSO(海上安全活動)は両者とも海上(公海上)の治安確保を目的としているが、MIO(海上抑止行動)は「テロリスト」の攻撃および人員・武器の輸送の阻止を目的としている。
 
 「テロリスト」の攻撃および人員・武器の輸送を阻止するためには、海上を警戒して、「テロリスト」が関与していると思われる船舶を停止させて貨物や人員の検査をする必要があるのだが、そういうことが果たして国際法上可能であろうか?
 
 こういう海上での「臨検」をやってみたいという願望をアメリカはかなり前からもっていた。
 
 2002年の12月に、イエメン沖でアメリカとスペインの護衛艦が「不審船」を「臨検」して、北朝鮮からイエメンに送られるスカッド・ミサイルを発見して以来、アメリカはMIO(海上抑止行動)には、公海上の「臨検」が含まれるべきであると考えていた。
 
 しかし、この時、スペインの護衛艦が貨物船を「不審船」と断定したのは、この貨物船が国旗を掲げていなかったためであり、海洋法では国旗を掲げていない船舶は「海賊船」として「臨検」することができるからであった。
 
 そして、この時アメリカはスカッド・ミサイルを押収したといわれているが、それは正しくなく、北朝鮮の貨物船に乗り込んで、「書類上」での船籍確認をしただけで、貨物検査も行っていない。スカッド・ミサイルが積んであるということは、ミサイルが甲板上に設置してあったために貨物船に乗り込んだ乗組員が目視しただけである。つまり、実質的には何もできなかったのである。
 
 では、この北朝鮮の貨物船が北朝鮮の国旗を掲げて航行していたらどうか?もちろん、アメリカの護衛艦もスペインの護衛艦も何もできなかったであろう。
 
 海洋法では公海上を航行する船舶には「航行の自由」が保障されており、特別な場合を除いて、軍艦が停戦させたり、許可なく船舶に乗り込んだり、貨物を検査したりすることは許されていない。
 
 この問題が再浮上したのは、昨年(2006年)の北朝鮮の核実験とそれにともなう国連の経済制裁に関連してであった。
 
 アメリカと日本は当初、この北朝鮮への経済制裁を有効に実施するためには、公海上での「臨検」を実施して貨物検査を行う必要があると考えていた。
 
 しかし、これは結局見送られた。
 
 それはわれわれが指摘したように、「臨検」は「海上封鎖」という概念と密接に結びついており(海上封鎖というのは臨検が実施されている海域を指している)、「海上封鎖」は明白な軍事行動であって、それは国連決議の範囲を超えているからであった。
 
 また「臨検」の対象とされた国の船舶が「航行の自由」をたてに、誰何にも、停戦にも応ぜず、強行乗船に対して武力で反撃してくればそれこそ戦争につながる重大な挑発行為となるため、中国やロシアが反対したからであった。
 
 つまり、MIO(海上抑止行動)が「テロリスト」の攻撃および人員・武器の輸送の阻止を目的としており、その目的を達成するためには公海上での「臨検」が不可欠であるとするなら、そして公海上での「臨検」が国際法上認められない活動でであるため実施不可能であるとするなら、MIO(海上抑止行動)そのものが国際法上の違法行為となる可能性がある。(MIOの活動対象がインド洋全体であるとするなら、インド洋を海上封鎖する特別の国連決議が必要である)
 
 この北朝鮮への経済制裁を実施するために海上封鎖をしようというアメリカの強行派と日本政府の目論み(不思議なことに「臨検」には日本の安部晋三政権がアメリカの強行派より積極的だった)は失敗に終わった。
 
 そこでアメリカは国際法上違法性が高いと思われるMIO(海上抑止行動)をMSO(海上安全活動)に変更したというのがわれわれの見解であるが、実際のところ、アメリカがなぜMIO(海上抑止行動)をMSO(海上安全活動)に変更したかという理由の説明は明確になされていない。
 
 ただ確認できる事実は、インド洋での「臨検」は、国籍不明船をのぞいて、これまで実施されたことはなかったということである。
 
 つぎにMSOと米艦イオウジマについてであるが、最初に『赤旗』を参考にイオウジマの行動を略記しよう。
 
06年6月  ノーフォーク海軍基地を出港
7月     スエズ運河通過、米中央軍の指揮下に
〃      レバノン沖で紛争中のレバノンからの米国人救出活動を支援
8月     東アフリカのジブチで訓練
9月     自衛隊の「ましゅう」が給油
 〃     パキスタン軍と合同演習
 〃     演習と並行して艦載機のハリアーがアフガニスタンを爆撃
 〃     「ましゅう」より2回目の給油
 〃     艦載機ハリアーがイラクのバスラの英軍支援に派遣
10月    イオウジマの海兵隊がイラクのアンバルに派遣される
11月    スエズ運河通過
12月    ノーフォーク帰還  
 
 共産党は当初、06年6月から12月のイオウジマの活動全部がMSO(海上安全活動)であると主張していたが、これは共産党の議員が「ましゅう」からの2回目の給油以降はイオウジマは対イラク作戦に従事していたとして政府を追及したことから事実上修正されている。
 
 したがってMSO(海上安全活動)と見られるのは7月にスエズ運河を通過してから「ましゅう」により2回目の給油を受けるまでの行動であろう。
 
 そしてこの中の「演習と並行して艦載機のハリアーがアフガニスタンを爆撃」したということをMSO(海上安全活動)であるというのは少々無理がある。というのはイオウジマに収容されているハリアー部隊や海兵隊はそれぞれイオウジマの指揮系統とは別個のものであり、内陸部への爆撃を海上での安全を確保するための活動とは見なすことはできないからである。(実際上、ハリアーは海上の安全を確保するためにアフガニスタンを爆撃したのではない。)
 
 だからこの間のMSO(海上安全活動)と見なすことができるのは①自国民救出の海上支援②海上訓練③他国との軍事演習④海洋での哨戒活動一般であろう。
 
 そしてMSO(海上安全活動)がこのようなものであるなら、アフガニスタンにおける「テロとの戦い」とMSO(海上安全活動)はどういう関係にあるのかということが問題になるのである。一般的な海洋哨戒活動とアフガニスタンにおけるテロを封じ込めるという活動は結びつかない。

 これは源頼朝が義経の追補を名目に全国に守護・地頭を置くことを法王に認めさせたようなものであろう。名目が立てば何でもいいというのが福田自民党の立場なのだろうか。
 
      

ウソで塗り固めた意味のない法律

2007-10-16 03:24:18 | 政治
 「テロ特措法」に代わる「給油新法」が国会に提出されようとしている。
 
 しかし、このような法律が存在していたということ自体われわれには驚きである。
 
 この法律(テロ特措法)の正式名称は、「平成13年9月11日のアメリカ合衆国において発生したテロリストによる攻撃等に対応して行われる国際連合憲章の目的達成のための諸外国の活動に対して我が国が実施する措置及び関連する国際連合決議等に基づく人道的措置に関する特別措置法」というものであるがそれがいつの間にか「テロ一般に対する戦い」を規定した法律としてまかり通っている。
 
 この法案が何らかの軍事行動もしくは警察活動を想定している以上、テロ一般に対する戦いという対象がはっきりしないものに対する闘争を支援するという法案自体が法律として意味を持っているのかという疑問がある。
 
 さらにこの法案では、その正当性として国連決議1267、1269、1333をあげているが、1267はタリバン政権に対して、ビン・ラディンの引き渡しとテロリストの保護停止を求めたものであり、1269は国連の全加盟国にテロ行為者の逮捕と引き渡しを求めたものである。(ここでタリバン政権を名指ししていないのは、タリバン政権に対する配慮があったからである。そして1333では、タリバン政権に対して、再度、ビン・ラディンの引き渡しを求めるとともにテロ資金の凍結を決議している。(この時、国連が作成した資金凍結リストには、タリバン政権の幹部の名前があるが、タリバン政権の幹部の口座がなぜテロ資金口座に指定されなければならないという説明は一切なされていない。)
 
 このようにアフガン戦争開戦前になされた国連決議は、アメリカの9・11同時多発テロの実行犯と目されていた(この場合、あくまでも、「目されていた」という推定の範囲を出ていない。最近では、同時多発テロはアメリカの自作自演ではないかという説が広く流布されている)ビン・ラディンおよびアルカイダのメンバーのアメリカへの引き渡しをタリバン政権に求めたものである。
 
 そしてアメリカはこの国連の努力とは別に、「テロとの戦い」は自衛のための戦争であるということでアフガニスタン攻撃に踏み切っている。この場合、アフガニスタンのタリバン政権がアメリカによって攻撃されたのは、テロリストを引き渡さなかったからであり、タリバン政権がそれ自体としてテロリスト集団だからではない。(アメリカはテロリストをかくまうものはテロリストであるというむちゃくちゃな論理を持ち出しているが、当然、テロリストとテロリストをかくまうものは区別されなければならないだろう。)
 
 ところが当初、ビン・ラディンおよびその一味であるアルカイダという非常に限定されていた、この「テロとの戦い」の対象は、次第に拡大していく。それは、アフガニスタンを武力制圧したアフガニスタンでタリバン勢力が勢力を盛り返して反撃を開始したからである。
 
 そこで日本の国連大使の原口は、国連での演説で、日本もアフガニスタンにおけるテロリストとの戦いに参加しているとおおみえを切り、アフガニスタンにおけるテロリストとしてアルカイダとタリバンをあげている。
 
 しかし、原口には法案の趣旨を勝手に変更してよい権限などあるはずもないのだが、いつのまにか「テロとの戦い」のテロリストというのはアルカイダだけではなく、タリバンも指すようになってきた。
 
 しかし、その区別をすることは重要であろう。というのはアフガニスタンでテロ(武装攻撃)を行っているのはアルカイダとタリバンであるが、タリバンの多くは現地の住民によって構成されており、彼らは自分たちの土地に勝手に乗り込んできた外国軍と戦っているのであるし、親兄弟を外国軍によって殺害された報復を行っているからである。そういう点では、タリバンの戦いはますます民族解放闘争の色彩を帯び始めているのである。
 
 このことは重要である。なぜなら、アフガニスタンは過去において、三次にわたってイギリスの侵略軍と戦い、その後はソ連の侵略と戦い、敗北しなかった国だからである。したがって、今回、アメリカとその他の国々が束になってアフガニスタンに襲いかかったからと言って勝利が必ずしも保障されているわけではなく、むしろ、逆の結果、すなわちベトナム戦争の再現になる可能性が高いからである。
 
 さらに、この法案の特徴は直接アフガニスタンのタリバンとアルカイダとの戦争に介入するものではなく、タリバンとアルカイダと闘う外国軍、すなわち、アフガニスタン侵略軍に海洋で燃料や水を供給することで間接的に参加するという形式になっている。
 
 こうすることでこの法案はまったく無意味なものになっている。というのはアメリカと外国軍のアフガニスタン侵略戦争には海洋は使われていないし、タリバンもアル・カイダも海洋を拠点としている海賊ではないからである。
 
 そもそもこの法案では自衛隊は戦闘地域、すなわち、敵対する勢力と味方をする勢力がが交戦するかも知れない場所では活動しないということをうたっており、インド洋は「安全」である、すなわち、敵対勢力が存在しないということを前提にしているのである。
 
 この法案が現実的に意味を持ったのは、皮肉なことに、イラク戦争の開戦時であり、アメリカ軍は日本の自衛隊から給油を受けて、イラク攻撃行っていたのであり、法案の趣旨を完全に逸脱することによってのみ、はじめて実効性をもつような法案というのは、そもそも法律の名に値するのかという問題が起こってくるのではないか。
 
 そこで、政府は海洋での抑止活動に従事する艦船のみに給油するように法案を修正しようとしているがこれはもっとバカげている。
 
 というのは、テロリストの攻撃および人員、武器の輸送を阻止するためのMIO(海上阻止行動)は現在では行われていないからである。すなわち、テロ特措法の根拠となっていた活動そのものがいつの間にか自然消滅しているのである。
 
 これは北朝鮮に対する経済制裁のときにも問題となったが、公海上での「臨検」、すなわち公海上の不審船に対して、誰何し、強制的に乗船して貨物検査や人員検査を行うことは国際法上許容されてはおらず、それを強行すれば当該船舶の「旗国」(その船舶が所属する国)に対する軍事行動と見なされるからである。
 
 いくらアメリカが無法者の国だといっても国際法を無視して、公海上の船舶を「臨検」することはできないので、現在はMIO(海上阻止行動)はMSO(海上治安活動)と名前を変えている。つまり、テロ特措法の根拠となっていたアメリカ海軍の活動そのものがすでに行われなくなっており、代わりにMSO(海上治安活動)という哨戒活動に切りかわっている。
 
 哨戒活動というのは、早い話、敵の襲撃に備えて、見張りをして、警戒することで、「職務質問」の権限のない警官がパトカーに乗って街を巡回し、なにかことがあると現場に駆けつけるというようなものである。このMSO(海上治安活動)には日本の自衛隊も参加しているが、この6年間に日本の海上自衛隊があげた唯一の華々しい戦果は、オマーン湾を航行中の日本国籍のタンカーで発生した急病人を救出したことである。よくやったぞ、海上自衛隊。ところでこのような活動は「テロとの戦い」とどのような関係があるのだろうか。少なくとも海上自衛隊は「テロ特措法」に基づいてインド洋に展開しているのだから、このような活動がテロ特措法の第何条に該当するのか答えられなければ困るのではないか。
 
 自衛隊が現在担当しているのはCFT150とアメリカ中央軍が名付けている地域(紅海、アデン湾、オマーン湾、アラビア海北部、インド洋一帯)で、ここでアメリカに協力するいくつかの国の艦船に自衛隊は給油をしているが、当のアメリカ海軍はこのような無意味な活動からすでに足を洗っている。
 
 残っているのはこのすでに形骸化して内実を喪失している活動の無意味さにこそ利益を見いだしている国々である。つまり、アメリカのご機嫌を取るためにアメリカのアフガニスタン侵略戦争に荷担をしたいが、直接戦争に参加するのはちよっとまずいではないかと考えている国々(この筆頭が日本である)がこの何の意味もない活動に参加することによって、名前だけの“参戦国”の資格をえようというのである。
 
 そしてアメリカがこのような活動をいまだに継続し、日本の海上自衛隊にも継続することを求めているのは、多くのやる気のない国々を引き留めるためであり、一人抜け、二人抜け、そのうちに誰もいなくなったという情況を防ぐためである。
 
 しかし、このやる気のない国々連合によるインド洋パトロールという現実は、多くの国々がこのアメリカのアフガニスタン侵略戦争から足を洗いたいと考え始めているということでもあり、アフガニスタン侵略戦争はすでに転機を迎えているということでもある。

 
 

もういいかげんにしていただきたい

2007-10-15 17:23:46 | 政治
 われわれは、このブログの目的が、日本や世界の政治や経済の現状について一般的な論評を行うということは、何度も明言しているところです。
 
 ところが、いまだにわれわれのことを「拉致問題研究会」であると勘違いしている人があとをたたないのはどういうことでしょうか?
 
 特に、新潟の拉致関係者の現状をこと細かく報告して、どう思うか?などといわれてもわれわれには、地震に見舞われた方々の早急なる復興を念願しておりますとしかいいようがありません。
 
 また拉致関係者がヘンな目で見られているということですが、そういうこととわれわれがどういう関係にあるというのですか?もし彼らが帰国しても、彼らが“浮いた存在”であり続けているとしたら、もう5年もたつのですからそれは彼らの責任ではないですか、昔、敗戦でシベリアに抑留された人々の多くは、ソ連当局に“洗脳”されていて、帰国直後は、日本の市民生活から“浮いた存在”でしたが、その“洗脳”はたいてい一年以内に解けて皆さん普通の市民に戻っていきました。これはオウム真理教でも同じでしょう。95年の強制捜査以来、多くの人がオウム真理教とは手を切り、少数の人が残りました。手を切った人の“洗脳”はもう解けています。だから、“洗脳”などというものが普通の人の精神に与える影響はきわめて限定的だといえます。
 
 拉致帰国者の多くがいまだに“浮いた存在”であるかどうか、われわれは本当のところは知りませんが、もしそうであるならば、それは彼らが“秘匿”すべきものをいまだに抱え続けているということであって、人々が“秘密を抱えている人”を警戒の念で見るのは、ある意味で仕方のないことなのかも知れません。だからこそわれわれは、労働者の信頼をえたいと考えるなら、隠しごとをしながら労働者に接近してはならない、と口をすっぱくして言い続けているわけです。
 
 特に、蓮池薫氏は「この方法(北朝鮮での出来事を何も話さないこと)がまだ帰ってこない拉致被害者を帰国させるいちばん良い方法だと確信している」とまでいっているのですから、われわれのブログにわけの分からないことを書き込んだ人が、こういうことでわれわれにとやかく言うのはどういうことなのか、われわれにはまったく理解することができません。
 
 われわれにどうしろというのですか?「どうして君たちの沈黙が拉致被害者の帰国につながるというのか、いいかげんなことばかり言ってるんじゃないぞ」と彼らを追求してほしいのですか?しかし、何度も言いますが、われわれは「拉致問題研究会」ではありません。政府もマスコミも家族会も「救う会」も当人たちも、そして意味不明なコメントを書き連ねた人も、それでよかれと思ってやっていることについて、拉致問題とは何の関係もないわれわれがゴチャゴチャ言うこと自体が、おかしなことでしょう。
 
 また「拉致家族会」の諸氏に安部晋三政権のもとで「諸君たちがやっているのは、拉致報復運動なのか拉致救済運動なのか」と問うたことをあれこれいう人がいますが、われわれの質問は正しかったのではないですか?もしわれわれがあのような質問をせずに、「拉致家族会」が自分たちのやっていることは「拉致救済運動」であると答えなかったら、「拉致家族会」は今ごろ、拉致問題を利用して金正日政権を武力で転覆しようとしていた安部晋三政権と命運をともにしていたでしょうから、むしろわれわれとしては警鐘を与えたことに対して「拉致家族会」の方々に感謝していただきたいくらいです。
 
 ところが「拉致家族会」の存亡の危機を救ったわれわれにたいして、こういう態度はどういうことでしょうか?非常識にもほどがあるのではないですか。
 
 ついでに、北朝鮮政府および朝鮮労働党の諸氏もわれわれについて大きな誤解をもっているようなのであえていいますが、北朝鮮政府が無謀なミサイルの発射を強行して以来、われわれは安部晋三氏の北朝鮮政策、すなわち、金正日政権を追い込んで、アメリカとともに北朝鮮を武力制圧するという政策が、無謀かつ荒唐無稽であり、現実性がないばかりか、むしろ北東アジアの緊張を高める非常に危険な政策であると批判してきました。
 
 そして、この観点から、われわれは安部晋三政権の北朝鮮政府にたいする経済制裁に一貫して反対してきましたが、これはわれわれが国際紛争は平和的な手段で解決されるべきであると考えているからで、北朝鮮政府と日本政府のあいだには解決すべき国際紛争がないといっているわけではありません。
 
 むしろ逆に、われわれは「拉致問題」が日本政府と北朝鮮政府のあいだに存在する深刻な国際紛争であると考えているからこそ、両国政府の真摯な話し合いで解決せよと要求しているのです。そしてこの要求は、日本の労働者階級と北朝鮮の労働者階級の要求でもあります。
 
 この問題で北朝鮮政府および朝鮮労働党の諸氏が、日本のバカ右翼並みの貧弱な脳みそしか持ちあわせていないとしたら、それは北朝鮮政府および朝鮮労働党の諸氏にとって破滅的な結果をもたらすことでしょう。
 
 もっとはっきりと言わなければならないですか?われわれは北朝鮮政府および朝鮮労働党の諸氏がもし「拉致問題」を何かの取引の材料のように考え、その解決のためには何らかの「対価」が必要であると考えているとしたら、それは正しくないと言っているのです。
 
 この問題は、ことの性質上、北朝鮮政府が責任をもって、「対価」なしに解決すべき問題であり、金正日政権が日朝間に突き刺さっているこのトゲを抜かなければ、日本の政権がどのように変わろうが日本の世論が軟化することはないと言っているのです。以上です。
 
 

姫岡玲治氏の「自己金融」資本主義論

2007-10-13 01:35:56 | 政治
 この人も、林紘義氏の“ご学友”の一人である。
 
 われわれ赤星マルクス研究会が2年前に、「われわれは敢然と過去と決別して、未来に生きる」といった時点から、日本の過去の左翼運動はわれわれにとってあまり意味のないものになっている。
 
 では、なぜわれわれは、われわれがある意味でどうでもよいものと規定している、林紘義氏とその“ご学友”たちに関わり続けているのだろうか?
 
 それは西部氏が、『正論』でいみじくも言ったように、この人たちのあいだでは「鬼籍に入る日が近くなって」、このままでは死んでも死にきれないという満たされない思いが充満しているからであろう。
 
 もともと生きながら「化石」となった人々だから、生にたいする執着心はあまりないと思っていたが、自らの意志で「化石」となった人々の、死ぬ前にどうしても言わなければならない、という「たましいの叫び」を聞くたびに、大きな違和感を感じないわけにはいかないからである。
 
 もちろん、彼らの満たされない思いは、彼らが人生でもっとも輝いていた(と彼ら自身が考えている)時期に行われた彼らの闘争(ブントの60年安保闘争)が実は中身があまりないものであり、彼らの半世紀はその空疎を埋めるために費やされた時間でもあったのだが、埋めようとして埋めきれない満たされない想いだけが彼らには残ったのである。
 
 今回登場した青木昌彦氏(ペンネームは姫岡玲治氏)は、そういうブントの空疎を代表する人物であり、その彼はめずらしく某新聞で当時のことを回顧している。
 
 青木氏の回顧が貴重なのは、彼がまるで他人事のように当時を振り返っているからである。それだけ客観的に当時を振り返ることができるのはこれまであまりいなかった。
 
 特に、印象的だったのは「ブントがつぶれたのは自分が経済理論を知らなかったからだ」と島成朗書記長が語るところである。
 
 その前に、1960年7月(つまり安保闘争直後)の第5回大会の様子が描かれているが、この大会はすでにブントが、プロ通派(『プロレタリア通信』)、革通派(『革命の通達』)戦旗派(『戦旗』)への分裂含みであり、統一した団体ではなくなりつつあることを露呈した大会であり、それこそ青木氏が言うようにヤジと怒号のなかで開かれ、何も決められずに散会したが、その時、島成朗氏が「ブントはおれがつくったと思っていたけど、お前がつくったんだな」と姫岡玲治氏に言ったことを青木氏は書いている。
 
 なかなかいい場面だ。人望はあるが戦略のない指揮官と戦略はあるが人望のない参謀が敗色濃厚な戦況を前になすすべを知らずただ嘆くことすらできないでいるのである。
 
 ところで、島成朗氏が「ブントはおれがつくったと思っていたけど、お前がつくったんだな」と姫岡玲治氏に言ったことは本当だろうか?
 
 もちろん、経済理論を知らないと島成朗氏自身がみとめており、姫岡玲治氏はブントの理論家だったからブントの理論の多くは姫岡氏に負っていたという点で島成朗氏の発言は妥当であろう。また「姫岡国独資論」(姫岡玲治氏の国家独占資本主義論)はブント(共産主義者同盟)の綱領草案でもその基調をなしている。
 
 青木昌彦氏(姫岡玲治氏)の国家独占資本主義論の特徴は独占資本の「自己金融」論であるが、それは国家によって補完されているがゆえに国家独占資本たり得うる。(「この自己金融の蓄積の様式は、租税などによって集中された莫大な社会的資金を、低利長期の国家資金として重要産業部門に供給したり、あるいは内部留保金にたいする免税策や、低金利政策、消費者信用の拡大などの経済政策によって、独占利潤を維持し、もしくは蓄積を促進するなどの国家機関によっの動員によってはじめて可能とせられるものである。」ブントの綱領草案より)
 
 この「自己金融」による蓄積様式を当時の姫岡玲治氏は、「世界史の一段階」を画するものとまでいうが、実は、彼が見ていたのは朝鮮戦争時のほんの数年の日本資本主義でしかなかった。
 
 周知のように、日本資本主義は朝鮮戦争の“特需”によって復活し、拡大再生産軌道に乗っていったが、その最初の頃は、銀行を中心とした財閥が解体し、銀行も戦後復興を遂げたばかりで産業資本に資本を貸し出すだけの余力を持っていたかった。だから、日本の多くの資本は、「自力更生」というか、朝鮮特需でボロ儲けした利益のほとんどを設備投資に回さざるをえなかった。つまり、「自己金融」による蓄積が優勢とならざるをえなかったのは、当時の日本資本主義がまだ若く、社会の蓄積された資本の多くを戦争で失ってしまい、それを回復する過程であったからにすぎなかったのである。
 
 だから、1960年代にはいって本格的な高度成長が始まると、外部資金(銀行の貸し出し)は急増し、オーバー・ローンと呼ばれる貸し出し超過が恒常化、慢性化することになるし、資本が新株発行によって株式市場から資金を調達することも増加してくることになる。
 
 そういう点では青木昌彦氏(姫岡玲治氏)はいいとき(自分の理論が決定的に破産する前)に左翼活動から足を洗ったとも言えるが、彼の理論がブントで重用されたのは、実は、後者の部分、すなわち資本の「自己金融」は国家によって補完されなければならないという部分である。
 
 つまり、国家独占資本主義は高度に発達した資本主義であり資本主義の前夜なのであり「このように国家機構との結合を強めた『公的性格』の強化のなかで、社会主義の物質的準備は、完全に熟し切っている」(ブントの綱領草案より)のであるから、「プロレタリアートの決然たる行動と、政治権力の奪取こそが、すべての可能性をきりひらく」からである。
 
 国家独占資本主義のもとでは、資本は国家と結合し『公的性格」を強めているのであるから、労働者が資本の政府を転覆すれば、そこには社会主義社会が待っているであろうというのは、政府を転覆することがすべてであるという小ブルジョア急進主義の立場そのものであろう。
 
 ところが青木昌彦氏(姫岡玲治氏)は一方で、政府を転覆すれば社会主義になるのだから、安保闘争で岸内閣を倒せばいいのだといいながら、他方で「安保闘争はロシアの1905年ではない。同盟のすべてをかけるのは誤りだ。」というのであるから、何を言っているんだ」ということになる。(政府の転覆がすべてであるといいながら、政府の転覆にすべてをかけるのは誤りだという理屈は誰も理解できない)そういう点では、ブントの安保闘争論を形作ったのは青木昌彦氏(姫岡玲治氏)だが、同時にブントの内紛を準備したのも青木昌彦氏(姫岡玲治氏)なのである。
 
 こうした混乱のなかで青木昌彦氏は姫岡玲治氏であることをやめたのだが、それを「経済学至上主義」の東大系が雲散霧消したのは当然であったと総括する。
 
 われわれがいう林紘義氏とその“ご学友”とは青木昌彦氏のいう“東大系”のことであるが、彼らはむしろ島成朗氏がはっきりと認めているように、「経済学至上主義」を掲げながら、経済学を何も知らなかったがゆえに雲散霧消したといった方が正確であろう。         

「政治警察」との闘争とは?

2007-10-11 02:27:55 | 政治
 われわれが、公然たる政治闘争は公然たる党組織(党内民主主義が担保されている党組織)なしには不可能である、と述べたことに対して、それでは公安(政治警察)との闘争はどうするのか?という質問がありました。
 
 こういう質問の趣旨はよく分かりません。公安(政治警察)なるものがあって、合法、非合法を問わず、やりたい放題のことをやっているということがもし事実であるならば、そういう無法集団と闘争しなければならない(取り締まらなければならない)のは、政治団体ではなく、市民警察なり司法当局の仕事でありましょう。なぜ民間の政治団体が市民警察や司法当局の職務を代行する必要があるのですか?
 
 もし日本で無法者たちがのさばっており、誰もそれを抑止しないというのであれば、それこそ日本の治安政策上の大問題ではないでしょうか?こういう「法の支配」の根幹に関わる問題について日本政府や関連する行政当局があいまいな態度をとっているとしたら、それこそ政府の統治の正当性が問われる問題です。
 
 そもそも、思想信条の自由が認められ、表現の自由が認められ、集会の自由が認められ、結社の自由が認められている社会で、それを取り締まる「政治警察」などというものが存在するということ自体が、完全な概念矛盾であり、ありえないことです。(もし存在するというのであれば、そのような違法機関の構成員は即刻全員逮捕して、法の裁きを受けさせなければならないのですが、本当に日本にそのような違法機関は存在するのですか?)
 
 われわれは日本の法秩序がその存在を認めていないものの存在を議論することが、意味のあることだとは思いません。
 
 また、各都道府県警に設置されている「公安課」についても、われわれは彼らを監視しているわけではありませんので、何をやっているのかは知りませんが、当然、彼らは「公僕」であり、税金を使って仕事をしている以上、業務の内容について主権者である国民が知りうるようなかたちで公開する必要があるのではないですか?
 
 そして「公安課」の予算を決定する国会なり、地方議会なりが、「公安課」の業務内容について、何もしらず、何も知ろうとはせずに、ただいわれるままに予算を配分し、その結果として、「公安警察」が合法、非合法を問わず、やりたい放題のことをやっているというようなことが日本で現実に起こっているとしたら、それはそれを許している国会なり、地方議会の責任であることほど明確なことはないのです。
 
 したがって、われわれは「政治警察」との闘争というテーマが労働者党の課題であるとは考えません。
 
 こういうマルクス主義者と政治警察との戦いはずいぶん前から行われてきたという人もいます。
 
 そこで、1850年の『新ライン新聞、政治経済評論』の書評から、フランスの二人の警察のスパイの著書を取り上げためずらしい書評から見ていこう。
 
 一人は、ド・ラ・オッドともう一人はシュニュである。二人とも、陰謀組織『新季節会』のメンバーであり、ド・ラ・オッドは『新季節会』の中央委員であり、小ブル社会主義者の新聞『レフォルム』の編集者でもあった。『新季節会』のリーダーはアルベールで彼は1848年の革命時には臨時政府の閣内に入っている。また同じ『新季節会』のコシディエールは憲法制定会議の議員であるとともに、パリ警視庁の警視総監になっている。
 
 ド・ラ・オッドとシュニュはコシディエールの部下なのだが、二人とも新季節会の主要メンバーであると同時に警察のスパイでもあった。ド・ラ・オッドは革命後その正体が暴露されて刑務所に放り込まれてしまったので、マルクスは彼のことを「失意の警察官」と呼んでいるが、傑作なのシュニュの方である。
 
 「ロマン系諸国民の陰謀好きと、スペインやイタリアやフランスの近代史で陰謀が演じた役割とは、人も知るとおりである。1820年代のはじめにスペインとイタリアの陰謀家が敗北してからは、リヨンと、ことにパリとが、革命的諸団体の中心地となった。1830年までは自由主義的ブルジョアが自由主義的ブルジョアが王政復古に反対する陰謀団体の先頭に立っていたことは周知のことである。7月革命以後は、共和主義的ブルジョアジーがこれといれかわった。プロレタリアートは、すでに復古王政のもとで陰謀の教育を授けられていたが、共和主義的ブルジョアが効果のない市街戦におどかされて、陰謀から身を引くにつれて、このプロレタリアートが前面に出てきた。バルベやブランキといっしょに1839年の暴動をやった季節会はまったくプロレタリア的なものであった。またこの暴動の敗北後に、アルベールをかしらとし、シュニュ、ド・ラ・オッド、コシディエール、その他を参加者としてつくられた新季節会も同様であった。陰謀団体は、その指導者たちを通じて、『レフォルム』に代表される小ブルジョア分子とたえず連絡していたが、しかし、いつも大きな独立性を保っていた。これらの陰謀団体がけっしてパリ・プロレタリアートの大多数を包括したことがないのは、もちろんのことである。それは、比較的に少数の成員に限られ、その人数はたえず変動していた。成員の一部は、一つの秘密結社からその後継団体へと規則的に引き継がれていく、古くからの、常連の陰謀家たちであり、一部はあらたに獲得された労働者であった
 
 これらの古くからの陰謀家のうちで、シュニュが述べているのは、ほとんどもっぱら、彼自身がその一員である部類、すなわち職業的陰謀家についてだけである。プロレタリア的な陰謀が発達するにつれて、分業が必要になってきた。その成員たちは、臨時の陰謀家、すなわち、別の仕事に従事するかたわらで陰謀を行うだけで、会合に出席したり、指導者の命令で集合場所に出かける用意をととのえたりするだけの労働者たちと、自分の全活動を陰謀にささげ、陰謀で生活していた職業的陰謀家たちとに分かれた。後者は労働者たちと指導者たちとのあいだの中間層をなし、しばしば指導者のあいだにさえもぐりこんだ。
 
 この階級の生活上の地位が、すでにはじめから彼らの全生活を条件づけている。当然のことながら、プロレタリア的陰謀は、ごく限られた、不確かな生存手段しか彼らに提供しない。そこで、彼らは、やむなく、しょっちゅう陰謀資金に手をつけるということになる。彼らの中には、直接にもブルジョア社会一般と衝突を起こして、多少の体裁をつくろいながら軽罪裁判所に出向いたりするものも少なくない。その不安定な、ある場合には自分の活動よりもむしろ偶然によって左右される生活、唯一の決まった宿が酒場――陰謀家たちのたまり場――であるような不規則な生活、あらゆる種類のあいまいな人物との避けがたい交友関係、これらはパリではラ・ポエムとよばれている生活圏に彼らを組み入れる。つまりプロレタリア出身のこれらの民主主義的ボヘミアン――ブルジョア出身の民主主義的ポエムもいる。民主主義的遊民や酒場の常連がそれである――は、仕事を捨てたために生活のくずれた労働者か、またはルンペン・プロレタリアートの出で、この階級のだらしない習慣のすべてを彼らの新しい生活にもちこんでくる連中か、どちらかである。こういう事情だから、どの陰謀裁判でも、前科者の一人二人が関係していないものはほとんどない理由もわかるというものである。
 
 これら職業的陰謀家の全生活は、明確なポエム的性格をおびている。陰謀の募兵下士が、酒場から酒場へとわたりあるき、労働者の脈をひき、兵隊となるものを探しだし、うまいことをいって彼らを陰謀にひきこむ。そのさいにつきものの、空にした酒ビンの勘定は、結社の資金の負担とされるか、または新規の友だちの負担とされる。だいたい、酒場の亭主は陰謀家たちの本当の宿主である。陰謀家たちはたいてい彼のところに泊まりこむ。ここで仲間や、分会員や、新規に徴募すべき相手とおちあう。最後に、ここで支部や支部指導者の秘密の会合がおこなわれる。陰謀家たちは、そうでなくともパリのプロレタリアのだれとも同じように、きわめて陽気な性質なのだが、こういうひっきりなしの居酒屋気分の中で、じきに完全な道楽者になってしまう。秘密会議ではスパルタ式のきびしい道徳を発揮する陰気な陰謀家たちが、突然にうちとけて、酒と女をたいへん愛好するありふれたご常連に変わってしまう。こういう一杯機嫌は、陰謀家が絶え間のない危険にさらされていることによって、いっそうつよめられる。バリケードに呼び出されて、その場で命を落とすかも知れないし、一足ごとに警察がわなをはっていて、それにかかったが最後、刑務所へ、それどころかガリー船へ、連れて行かれるかも知れない。まさにこういう危険が、この仕事の魅力をなしているのである。危険が大きければ大きいほど、陰謀家たちはますます急いで、つかのまの楽しみにひたる。それと同時に、危険に慣れる結果、生命や自由に対して極度に無関心になる。刑務所は、彼らにとって酒場と同じくらい気楽な場所である。毎日、彼らは、攻撃開始の命令を待っている。パリのどの反乱にも現れるすてばちの暴勇は、まさにこれら古くからの職業的陰謀家、突撃兵によってもちこまれる。はじめにバリケードを築き、これを指揮し、抵抗を組織し、兵器店の略奪や、家々からの武器弾薬の徴発を実行し、蜂起の最中には、しばしば政府党を混乱させる、あのがむしゃらな強襲をやってのけるのは、彼らである。ひとことで言えば、彼らは反乱の将校である。
 
 これらの陰謀家が一般に革命的プロレタリアートを組織するだけにとどまらないことは、いうまでもない。彼らの本業は、まさに革命的な発展過程を先回りし、それを人為的に駆り立てて危機を醸成し、革命の条件も存在しないのに即席の革命をつくりだすことにある。彼らにとっては、革命の唯一の条件は、彼らの陰謀が十分に組織されていることである。彼らは革命の錬金術師で、昔の錬金術師の固定観念の思想的錯乱と狭さを完全にともにしている。彼らは、革命的奇跡をおこなうはずの考案に没頭する。焼夷弾、魔術的なはたらきをする破壊機械、合理的な根拠をもたなければもたないほど、ますます奇跡的な、意表外の影響を及ぼすべき暴動、こういうふうのものである。こういう空想計画の作成に没頭している彼らは、現存政府の打倒という当面の目的のほかには、どんな目的ももっておらず、労働者に彼らの階級利害を自覚させるという、より理論的な仕事をひどく軽蔑する。燕尾服人種、つまり、運動のこの理論的方面を代表する、多少とも教養ある人々にたいして、彼らが、プロレタリア的というより、平民的な義憤をいだいているのは、このためである。それでも彼らは、この人々からも、また党の公の代表者たちからも、けっして完全に独立することはできない。燕尾服人種は、ときどき彼らの資金源の役もしなければならないからである。なお、陰謀家たちが、いやがおうでも革命党の発展のあとをついていかなければならないのは、もちろんである。
 
 陰謀家たちの生活の主要な特徴は、警察との闘争である。彼らの警察にたいする関係は、泥棒や売春婦の警察にたいする関係とまったく同じである警察は陰謀団体を大目にみるのは、社会でもっとも暴力的な革命分子が集まる、監視しやすい中心としてであり、フランスでは警察そのものと同じくらい必要な統治手段となっている暴動の製造工場としてであり、最後に、警察自身の政治的密偵の徴募所としてである。もっとも有能な泥棒刑事であるヴィドックとその一党が、高等下等さまざまないかさま師、つまり盗賊や、詐欺師や、いかさま破産者のなかからひろいあげられ、またしばしば元の仕事にまいもどってゆくのと同じに、下級の政治警察は職業的陰謀家のなかから徴募される。陰謀家たちはたえず警察と接触を保っており、しょっちゅう警察と衝突する。彼らが密偵を追いかければ、密偵も彼らを追いかける。スパイは彼らの本業の一つである。だから、貧困や投獄、脅迫や約束に誘導されて、職業的陰謀家からお雇いの警察のスパイへの小飛躍が、しょっちゅう起こるのは、不思議ではない。そのために、陰謀団体のなかにははてしない猜疑の体系が生じ、それが団員を完全にめくらにして、もっともすぐれた人物を密偵とみなしたり、本当の密偵をもっとも信頼すべき人物とみなしたりさせるのである。陰謀家のなかから徴募されたこういうスパイが、たいてい、警察をだませるだろうと本気で考えて、警察とかかりあいをもつのだということ、また、彼らがしばらくはふたまた膏薬(こうやく)をうまくつとめていくが、そのうち、その第一歩から生まれてくる結果にだんだんと落ちこんでゆくのだということ、警察がほんとうに彼らにだまされる場合もしばしばあることは、明らかである。とにかく、こういう陰謀家が警察のわなに陥るかどうかは、純然たる偶然的事情にかかっており、また志操堅固の質的な差異というより、むしろその量的な差異にかかっている。
 
 シュニュがしばしばきわめて生き生きと描いてみせ、ときにはすすんで、ときには心ならずもその性格を記述している陰謀家とは、こういうものである。とにかく、彼自身、ドレセールやマラストの警察との必ずしも明瞭でない結びつきまでふくめて、職業的陰謀家の好個の典型である。
 
 パリのプロレタリアート自身が党として前面に現れてくるにつれて、これらの陰謀家はその指導的影響力を失い、散り散りになり、プロレタリア的秘密結社という危険な競争者をもつようになった。この後者は、直接の反乱をめざさずに、プロレタリアートを組織し発展させることを目的としていた。すでに1839年の反乱が明確なプロレタリア的、共産主義的な性格をおびていた。だが、その後、古くからの陰謀家たちがひどく嘆いている、あの分裂が生じた。分裂は、自分たちの階級敵利害を理解したいという労働者たちの欲求から生まれたもので、一部は旧来の陰謀団体そのもののなかに生じ、一部は新しい宣伝団体のなかにも起こった。1839年のすぐあとでカペーが精力的に開始した共産主義的扇動や、共産党の内部に起こった論争は、じきに陰謀家たちの手にあまるものとなった。二月革命のころには共産主義者が革命的プロレタリアートのもっとも有力な一派であったことを、シュニュもド・ラ・オッドも認めている。陰謀家たちは陰謀家たちは、労働者にたいする影響力を失わないようにし、それとともに、燕尾服人種と張りあってゆけるようにするため、この運動に追随して、社会主義的あるいは共産主義的観念をとりいれないわけにはゆかなかった。こうして、すぐに二月革命以前に、アルベールを代表者とする労働者陰謀団体と『レフォルム』派の人々との対立が生じた。この対立は、その後まもなく臨時政府のなかで再現された。とはいえ、われわれはとこれらの陰謀家とを混同するつもりはない。アルベールが彼の道具であったこの人々にたいして個人的に独立した地位を保つことができ、陰謀を飯のたねとした連中の部類にけっして属さなかったことは、右の両著作から明らかになる。
 
 1847年の爆弾事件は、それまでのどの事件にもみられなかったほど直接に警察が関係した事件であったが、これは、ついに古くからの陰謀家のうちのもっとも頑固な、もっとも片意地の連中を散り散りにして、彼らの在来の諸支部を直接のプロレタリア的な運動に投げ込んだ。
 
 これらの職業的陰謀家たち、彼らの諸支部のもっとも激烈な人々、たいていは自身古くからの陰謀家であったプロレタリア出身の政治犯たち、この人々にわれわれが二月革命後に再会したときには、彼らは、警視庁内の山岳派を構成していた。だが、この仲間全体の中核となっていたのは、陰謀家たちであった。突然に武装されてここに寄せ集められたこの連中は、たいていは彼らの総監や上官たちと心を許しあった仲であってかなりに不穏な一隊とならざるをえなかったのは、たやすく理解できることである。(1848年の)国民議会の山岳党が昔の山岳党のもじりであって、その無能力によって、今日では1793年の古い革命的伝統だけではもはや十分でないことをまざまざと証明したように、昔のサンキュロットの再現である警視庁内の山岳党は、近代の革命では、プロレタリアートのこの部分もまたもはや十分ではなく、全プロレタリアートだけが革命を遂行しうることを、証明したのであった。」(マルクス・エンゲルス全集、第7巻」
 
 マルクスは政治警察と陰謀たちとの関係を生き生きと描き出しているが、こういう職業的陰謀家たちの時代は、マルクスの目の前で終わろうとしていたのである。1848年にすでに、「近代の革命では、全プロレタリアートだけが革命を遂行しうることを、証明した」のであるから、時代は「直接の反乱をめざさずに、プロレタリアートを組織し発展させることを目的」とした労働者の組織への移行を不可避としていたのである。
 
 ではロシア革命ではどうなっているのであろうか?
 
 当時の帝政ロシアにはオフラーナ(ロシア帝国内務省警察部警備局)という政治警察が存在した。そのオフラーナによって何人ものスパイが左翼組織に送り込まれたが、その中でも有名なのはボリシェビキのローマン・マリノフスキーであろう。
 
 彼はレーニンの信任が厚く1912年には中央委員に選出され、第四国会選挙でボリシェビキ派の国会議員として当選したが、1914年に突然、議席を放棄し党を除名になっている。当時から彼はスパイではないかと疑われていたが、その正体が明かされたのは革命後の1918年であり、有罪判決がくだされた日に死刑になっている。
 
 今回、マルクス主義同志会の林紘義氏の『レーニンの言葉』を読んで、何かへんな感じがした。林紘義氏は「マリノフスキーは、レーニンから、人々に忘れられるために、姿を隠すことを勧められた。」というが、レーニンはマリノフスキーの無実を信じていたのであろう?だとするなら、なぜ「人々に忘れられるためにどこかに身を隠す」ように勧める必要があるのか、しかも、彼はロシア帝国の現職の国会議員でボリシェビキ議員団の副団長までしている人物なのであろう。そんな人物が理由も告げずに突然いなくなったら、それこそ元祖安部晋三といわれるのではないか?
              
 また「十月革命後、マリノフスキーはロシアに帰り、革命裁判にかけられた。レーニンは終始この裁判に出席していた。」というのもどうか。裁判が気にかかるというのであれば、一回ぐらいは裁判に顔を出したのかもしれないが、「終始」というのはどう考えてみてもおかしい。1918年のレーニンは超多忙であり、そんな暇もなかったであろうし、彼が個人のために使用できる時間はそれほどなかったはずである。
 
 しかし、もっとおかしいのは「マリノフスキーは多くの人々を破滅させることができ、また実際に破滅させた。しかし党はその重要性を増大し、幾十万の人民にたいする影響を増大したという意味において、偉大な成長をとげた。彼はこの成長を停止することも、支配することも、指導することもできなかった。」というレーニンの引用文である。
 
 林紘義氏は一体何が言いたいのか?政治警察のスパイは多くの党員を破滅させるが、党はそれとは無関係に発展するから大丈夫だ、というのであろうか?しかし、ここで明らかにされなければならないのは、「政治警察のスパイが多くの党員を破滅させる」ということと「党はそれにもかかわらず前進する」ということの連関であろう。それがなければ政治警察のスパイは党を発展させるからウェルカムであるという、意味不明な結論しか出てこないであろう。林紘義氏はまさかこんなことをここで言いたいのであろうか?
 
 実際にはレーニンはこういったのではなかったか?「1912年にスパイのマリノフスキーがボリシェビキ中央委員会にはいったことは、最悪の事態であった。彼は、何十人というもっとも優秀な、もっとも献身的な同志をほろぼし、苦役に送り、彼らのうちの多くのものの死を早めた。彼がそれ以上に害をおよぼさなかったのは、われわれのあいだで合法活動と非合法活動の相互関係が正しく設定されていたためである」と。
 
 ボリシェビキの党員であるということが発覚すれば、逮捕され流刑にされるという政治環境のなかで、ボリシェビキは陰謀組織の組織原則のいくつかを残しており、組織の全体像が秘匿されていたので、マリノフスキーの策動は部分的なものにとどまったとレーニンは言うのであるが、それは他方では、このことは、「貧困や投獄、脅迫や約束に誘導されて、職業的陰謀家からお雇いの警察のスパイへの小飛躍が、しょっちゅう起こるのは、不思議ではない。そのために、陰謀団体のなかにははてしない猜疑の体系が生じ、それが団員を完全にめくらにして、もっともすぐれた人物を密偵とみなしたり、本当の密偵をもっとも信頼すべき人物とみなしたりさせるのである。」というマルクスがいうような雰囲気をボリシェビキのなかに持ち込まなかったであろうか?
 
 レーニンはスターリンほど徹底的にではないが、この「猜疑の体系」に一部感染していたのかも知れないとわれわれは考えている。つまり、林紘義氏は当時のボリシェビキをわれわれが主張しているような「公然化された党」のようなものであると錯覚して、「公然化された党」では人事も諸問題も党員の討議によって決定されるのだから、政治警察のスパイが策動する余地はない、だから政治警察のスパイがいても党は前進するのであると考えているのではないのだろうか?そうであるならそれは正しくない。
 
 こういうことはいいたくないが、マリノフスキーの破壊活動が部分的なものにとどまったのは単なる偶然であり、社会民主党の分裂を促進することが当面の関心事であったオフラーナ(政治警察)と社会民主党内の日和見主義者とは手を切る必要があるというレーニンの指向が一致していたにすぎなかったからである。だからマリノフスキーは社会民主党内の統一派を権力に売りわたしていたといわれている。
 
 オフラーナはエス・エル(社会革命党)にもアゼフというスパイを送り込んでいるが、彼は党首であったゲルシューニが逮捕されると、サヴィンコフと社会革命党戦闘団を結成し党の中央委員に就任して、内相プレーヴェやモスクワ総督のセルゲイ公を暗殺する一方で政治警察のスパイとして仲間をオフラーナに売りわたしたりしている。まさに職業的陰謀家集団としてやりたい放題のことをやっているが、このエス・エル戦闘団は革命後に本当の革命に反対するだけのテロリスト集団になっていく。
 
 政治警察のスパイがこのように暗躍できたのは、まさにエス・エルがまるごと陰謀家集団であったからで、「政治警察との闘争」で問われているのは政治組織のあり方なのだということである。
                   

飛び込み自殺した人について

2007-10-08 02:03:56 | Weblog
 たぶんそうかもしれません。
 
 その人が死んだ直接の原因は、『情況』にマルクスの国家論についての論文を掲載したために、担当教授の怒りを買い、このままでは卒業できないと悲観して身投げをしたと聞いています。
 
 論文が『情況』に掲載されるぐらいだから文章はうまかったと思います。
 
 その論文はわたしも読みましたが、『情況』という雑誌とその内容から、先輩は何を考えているんだろうか?と思いました。
 
 もうだいぶ前の出来事ですし、ご遺族も関係者もまだ生きておられますので、詳しい事情をよく知らないわたしがあまり余計なことをいわない方がいいと考えますので、このへんでかんべんしてください。 

踊り場に立たされている革共同中核派

2007-10-08 01:59:30 | 政治
 中核派が“党の革命”で揺れている(らしい?)。
 
 われわれは単なる“外野”だから詳しいことは分からないし、詮索するつもりもないのだが、ここで闘わされている議論は、日本共産党の1950年代やマルクス主義労働者同盟(社会主義労働者党)の1970年代を想起させるものである。
 
 (残念ながらロシアのボルシェビキはこの“革命政党”いつかはたどらなければならない進化の過程をたどることができなかった。われわれはこれを当時のロシアの情況から避けることができなかった不幸な出来事であると考えている。ボルシェビキは陰謀的秘密組織からいきなり単独の支配政党になってしまったので、労働者党にとって何が必要な資質であり、何が重要なことがらなのか、ということを労働者のなかで自らの行動を通じて学ぶことができなかった。そういう点では、労働者党は、公然たる政治闘争という“塩の海”でゴシゴシと洗われて、鍛えられなければならないものなのかもしれない。スネにキズをもつ者が痛くて逃げ出してしまうような苛酷な環境のなかでこそ、労働者党は真に労働者の党として育っていくのである。)
 
 卑近の例からいうならば、われわれの青春時代、全国社研はマルクス主義労働者同盟に進化し、労働者の政党になろうとして、“社会主義と労働運動の結合”と“公然たる政治闘争への参加”を掲げた。
 
 しかし、誕生したばかりのマルクス主義労働者同盟は、単なる新左翼の元活動家の寄せ集めでしかなかった。だから、まだ“陰謀家集団”により近く、同盟員は自分の名前のほかに“組織名”という一種のペンネームを持っていた。
 
 そして、この“組織名”で国政選挙に参加しようとしていたから、選挙のたびにマスコミと一悶着あった。「なぜ偽名で立候補するのか?」「そういうことは有権者をだます行為ではないか?」「君たちは何かを隠している政党であると有権者に見られてもいいのか」等々という質問というよりも批判があった。はっきり言ってこの場合、われわれよりもマスコミの皆さんの方が正しかった。(特に愛知で立候補した人は「2、4が8朗」というとってつけたような“組織名”だったので、立候補を表明するための記者会見の場はまるで「テロリスト」のつるし上げ会場のようだった。そのとばっちりはこっちまで飛んできて、名前を聞かれたので、「夏に山にいくと樹が繁っているという夏山繁樹」と答えたら、「2、4が8朗」と同じじゃないか、「君たちは遊びのつもりで選挙をやろうとしている」と食ってかかって来た新聞記者がいたので、『大鏡』で話の進行役をやっているおじいさんとおばあさんのうち、昔のことは何でも知っているおじいさんの名前も夏山繁樹というんだよと答えたら、それは何の解答にもなっていないと言われた。)
 
 それで、「それならばいっそ」ということで、われわれは“組織名”を全部廃止することにした。公然たる政治闘争は政治組織の公然化を前提とすると考えたからである。
 
 もちろん、機関紙の読者であるとかシンパや支持者、特別の職業に就いている党員や経験の少ない新しい党員など、名前を秘匿することが正当であると認められる場合はあるにしても、各級機関の指導的な地位にある党員は自分の本名で活動しなければならないとわれわれは考えた。
 
 しかし、こういう簡単なことですら大会では大問題となり、「党の公然化」はマル労同の代議員から評判がよくなく、けんけんがくがくの議論が行われた。
 
 評判があまりよくないにもかかわらずこの決議案が大会を通過したのは、われわれの活動がそれを要請していたからでもある。
 
 われわれが労働組合のなかで活動するにしても、すでに労働組合のなかで支配権を確立している“組合主義者”(この組合主義者のなかには左翼政党を自称する組合主義者もいる)であるならば、それこそ裏で画策したり、秘密裏に組合の“指導会議”(実際には指導というよりも支配という言葉が適切であるが)を開いて、組合の運動方針をあらかじめ策定するということも可能であるが、労働組合のなかで公然と労働者の利益を守るために活動するのであれば、その名前は全組合員に周知されるし、周知されなければおかしいし、そういうことを恐れるのはもっとおかしい。
 
 また駅頭や大衆集会でビラをまいたり、演説したりすることも同様である。「あっ、あの人だ」ということは、風よりも速く周囲に広がるのであり、名前を秘匿して活動することの意味はほとんどなくなる。(もっともわれわれは管理職に昨日お前はどこそこの駅頭でアジ演説をやっていただろうといわれて「はいそうです」などということを推奨しているわけではない。正直に答える義務のない者の質問にまで答えることをわれわれは推奨しているわけではない。)
 
 このように、われわれは“気分は新左翼”だが、すでに実質的には別のものになっていたので比較的小さな動揺で「党の公然化」をなしとげたのに対して、日本共産党の「党の公然化」は、分派闘争と大量の党員の除名、脱落という長く続く大きな苦痛をともなう過程として行われている。
 
 周知のように、日本共産党は1951年の四全協(日本共産党の規約では全国協議会は大会に代わって中央委員会が地方の代表を招集することになっているが、この時は中央委員会の主流派のメンバーのみによる不正規な招集であった。もっとも後日、主流派の徳田球一と国際派の袴田里見はモスクワに呼び出されて、スターリンの前で論争をさせられ、スターリンは主流派の見解を支持したので、袴田里見はその場で自己批判書を書き、その後、反主流派であった国際派全体が主流派に寝返った。したがって、四全協は不当であるという現在の日本共産党の見解は当てはまらない。)以来、日本共産党は「軍事方針」を掲げ、「ストライキの武装化、遊撃隊の組織化、パルチザン人民軍の創設」を基本方針に掲げて、極左冒険主義の時代へと入っていく。この頃の共産党は公然面の指導部と地下で非合法な軍事部門を指導する地下指導部の二重の指導部が存在していた。
 
 しかし、日本共産党の武装闘争は労働者の支持を得ることができず、52年の総選挙では、かつて300万票あった全国での獲得票が89万票にまで激減し、衆議院の議席をすべて失った。53年の「バカヤロウ解散」ではようやく大阪で川上貫一が当選を果たしたが、全国での得票数はさらに減少して65万票にまで落ち込んでしまった。
 
 労働者から完全に見捨てられて日本共産党は政党として存亡の危機のなかにあったのだが、この時ようやくスターリンが3月に、徳田球一が10月に死んでくれた(徳田は53年前半には病気が悪化して党の指導が不可能になっていた)ので、9月に地下指導部の伊藤律を「スパイ・裏切り者」として処分し、以後、日本共産党内では「第二次総点検運動」が提起され、敵のスパイや挑発者、堕落・不純分子の摘発運動が行われた。
 
 党内で密告や告発が奨励され、告発を受けたものには厳しい「査問」が行われた。この「点検運動」は共産党のすべての機関、すべての地方組織で行われたので、全国で共産党の監禁事件、リンチ事件が相次いだ。この時、「査問」を受けて処分された党員は1200人を越えており、その半数近くは共産党の各級機関の中堅党員であった。
 
 このように共産党は1年以上も「党内闘争」に全勢力を傾注した後で、1955年1月1日の『アカハタ』紙上でようやく、極左冒険主義を自己批判し、このような誤りは二度とおかさないと誓っている。
 
 以後、地下活動に従事していた党員が続々と公然面に復帰し、7月には「六全協」が開かれこれまでの軍事方針を正式に放棄したことを決定している。
 
 しかし、話はこれだけでは終わらなかった。というのは翌56年1月に共産党の最高幹部である志田重男が突然、失踪してしまったのである。これは志田重男の党費の使い込みやその党費を使っての頽廃した生活、女性とのスキャンダルなどが発覚しそうになったために、党から逃げ出してしまったのである。
 
 そして志田重男の失跡とともにこの間の共産党の事情も次第に明らかになっていった。
 
 つまり、志田重男は共産党の地下指導部の最高責任者であったが、共産党の極左冒険主義が完全に行き詰まるなかで、方向転換を模索していたが、その方向転換によって自分たち地下指導部が失脚するのを恐れて、「党の公然化」の前提条件作りとして、表の指導部を弱体化させ、自分たち地下指導部が共産党の実権を握った上で、地下指導部を解消して、自分たちが表の指導部と入れ替わることを画策し、そのための「査問活動」であったということである。
 
 ところが、公然面に出てきた志田指導部に対して、一般党員の反発が強く、地下活動時代の自分たちの「悪行」まで暴露されそうになったので、志田はたまらず逃げ出してしまったのである。
 
 こうして志田の権力闘争はまったくの徒労に終わったが、それにしても共産党が「軍事方針」というまったく間違った方針を掲げてから、その間違いを修正するまでになんと5年以上もかかり、この間多くの共産党員が犠牲になったのである。
 
 そして現在、革共同中核派は、不思議なことに、この共産党の四全協から六全協への歩みと同じ道を歩いているように思う。
 
 「不思議なことに」というのは、この四全協から六全協への歩みは日本共産党が典型的なスターリン主義の党であったから起こりえたことであるからだ。ところが革共同中核派は「反スターリン主義」を掲げる政党であったはずだからである。
 
 しかしよく考えてみると、これは不思議なことではないのかも知れない。というのは、この政党のかつての代表者であった本多延嘉氏は昔、こんなことを言っていた。
 
 彼は革命家になる決意で共産党に入ったきっかけは四全協だったそうである。
 
 その彼が共産党の活動に疑問を感じたのは六全協がきっかけであったという。
 
 その後本多氏はハンガリー事件をきっかけに黒田寛一氏と合流し、59年に革命的共産主義者同盟全国委員会を設立しているのだが、本多氏が、四全協に共産党の革命性を見て、六全協に共産党の前衛性、革命性の喪失を見、この前衛性、革命性の喪失をスターリン主義と規定するなら、それは大きな事実誤認があるといわなければならない。
 
 というのは、四全協こそスターリン主義そのものであり、スターリン自らが朝鮮戦争時に、日本共産党に後方攪乱のために武装闘争を行えと指示し、権威にしたがうことしか知らない共産党は、武装闘争のための条件もないところで、武装闘争を行い党を破滅の淵まで持っていったのである。
 
 そしてその誤りの修正のしかたもスターリン主義的なもので、非合法活動時の指導部は極左冒険主義は間違いであるといった後も責任を取らず、むしろ路線転換を決意した後も指導権を維持するために無意味な「査問」活動を党員に強要し、自らの競争相手をあらかじめ「粛清」という卑劣な手段で排除した後で、公然面に登場してかたちだけの自己批判を行い党の指導権を握り続けようとしたのである。
 
 六全協に積極的な意味があるとしたら、それは党の指導部の意向とは違って、党員が六全協を契機にして「党の公然化」を本当に望み、全国各地で志田指導部に対する批判の声が上がったことであろう。
 
 四全協こそ革命の原点であると考えていた本多氏によってつくられた革共同中核派は、組織の全歴史をこの共産党の分裂時代に依存している。すなわち、共産党に起こったと同じことをやらなければならないのである。
 
 革共同中核派はすでにかつて掲げた、革命軍の創設という極左冒険主義的な方針を何年も前から実行できなくなっている。自分たちの掲げた方針が実行できなければ、方針を転換するほかないのだが、スターリン主義的な組織原則をいまだ保持し続けているこの「反スターリン主義の党」は、何ごとも「粛清」なしには変えることができない。
 
 それで大規模な「点検運動」と処分者を排出し、「党の革命」を現在遂行中だが、日本共産党が六全協によって死の淵からかろうじて救われたように、革共同中核派にも六全協がなければ、この先待っているのは垂直に切り立った崖なのだから、諸君たちはあと少しで終わりだ。死の淵というのはそういうものであろう。。