労働者のこだま(国内政治)

政治・経済問題を扱っています。筆者は主に横井邦彦です。

二番底

2009-02-27 00:43:36 | Weblog
 現在の世界経済は一つの踊り場にさしかかっている。もちろん、この踊り場というのはコロコロと坂を転げ落ちてきた巨大な石が平らな場所にさしかかって速度が少し減少しているという意味でそうなのであるが、それでもこの踊り場は非常に危うい。

 というのは確かに落下速度は減少しているが、すでに資本とその国家の危機対応力が問題となりはじめているからである。

 すでに世界ではいくつもの超有名な企業や銀行が巨額の赤字を計上して市場から退出をせまられている(もはや資本として機能できないのでは?という深刻な最後通牒を突きつけられている)。

 アメリカも欧米もすでに経済政策の限界が見えはじめている。

 日本では、“天下り”根絶であり、公務員の給料引き下げであり、議員定数の削減であり、福祉・教育サービスの切り下げであり、“政局”である。(ハッ、ハッ、ハッ、日本は本当におもしろい国だ。)

 残念ながら、この巨大な岩は、止められそうにない。

 だとするなら、三番底をめざすしかないのだが、つぎの舞台の“3月危機”はかなり厳しいものになることを覚悟する必要がありそうだ。      

応援ありがとうございます

2009-02-24 11:46:17 | Weblog
 われわれのブログに応援のコメントを寄せていただきありがとうございました。

 しかし、まことに申し訳ありませんが、コメントは削除させていただきました。

 われわれは“陰謀団体”ではありませんので、隠すべきことは何もありませんが、われわれを支援してくださる方々を守る責任がわれわれにはあります。

 その辺のところを是非ともご了承たまわりますようにお願い申し上げます。

すでに“毒まんじゅう”を食べてしまった小沢民主党

2009-02-23 01:45:08 | Weblog
 世論調査のたびに低下する内閣支持率、内閣支持率の低下とともに高まる自民党内で高まる反麻生の声、これらは自民党がすでに政権政党としての自壊の道を歩み始めていることを表している。

 だから、最大野党として小沢民主党は待ってさえいれば、熟し柿が落ちるように、政権が転がり込んでくるはずであった。

 しかし、政権亡者となった民主党は、柿が落ちるのを待ちきれなくて柿の木を揺すり始めた。

 つまり、小沢民主党は自民党内の“反乱軍”(われわれがいうところの“日本ファシズム運動”、正確には“ボナパルチズム”)に手を貸す道を選んだのだ。

 これは、1930年代初頭のドイツ共産党と同じである。当時、大恐慌のなかで勢力を伸ばしていたドイツ共産党は、悪名高い「社会ファシズム論」を掲げて、ヒトラーのナチス党と闘うことよりも、ナチス党と闘っているドイツ社会民主党と闘う道を選んだ。これは権力亡者となったドイツ共産党が自分たちの競争相手であるドイツ社会民主党を追い落として権力を獲得することを第1の戦略目標に選び、そのためにヒトラーのナチス党との闘いを第二義的なものとしたためであった。

 もちろん、ドイツ共産党とヒトラーのナチス党は協定を結んで統一戦線を組んだわけではないのだが、ヒトラーのナチス党とともに、ドイツ社会民主党を攻撃することは、事実上の“統一戦線”を組むのと同じ結果をもたらした。

 つまり、ドイツの労働者はドイツ共産党とヒトラーのナチス党の“共同闘争”を見て、ヒトラーのナチス党は何ら危険な政党ではないと思い、結果としてヒトラーのナチス党の選挙での躍進をもたらしたからである。

 選挙で勝利して政権を獲得した後、ヒトラーのナチス党は“国会炎上事件”を利用してドイツ共産党を非合法化し、ドイツ共産党は壊滅状態となった。

 “日本ファシズム運動”を甘く見ている小沢民主党も、今後、ドイツ共産党がたどったと同じ道を歩む可能性が大きくなっている。

 というのは、現在、小泉純一郎氏に代表される“日本ファシズム運動”はテレビなどのマスメディアによって何百倍もに拡大されて見えるのだが、その実体はすみぼらしいものであり、本当に、多くの人々の支持をえているものではない。

 だからこそ、彼らは小沢民主党に秋波を送り、政治休戦を呼びかけ、共闘を呼びかけているのだが、自民党の“反乱軍”とは闘わないで、彼らと“一緒”になって麻生内閣を攻撃している姿を見て、多くの労働者は小沢民主党に幻滅を感じている。


われわれには関係のない話だが・・・

2009-02-22 19:05:54 | Weblog
 われわれはすでに2月18日に、戦場からの退却を宣言し、現在、わが軍は、武具・馬具を投げ捨て、名前も分からない山のなかを敗走中である。(ハッ、ハッ、ハッ)

 だから、もう、何の関係もないことがらなのだが、漏れ聞くところによると、自民党の山崎拓氏が、「小泉純一郎氏は何をするか分からない人物だから、あまり刺激しないように」と言ったそうである。

 こういう重要な話は、もっと前にするべきで、すでに手遅れの部類の話であろう。

 小泉純一郎氏は、「人格攻撃」(?)をする“敵”に対して、怒りのあまりわれを忘れて、“帰れない河”に一歩踏み出してしまったのである。

 しかもだ、その“敵”というのは、公的な部面で名前を出したとたんにブルジョア社会の名誉ある地位から放逐されるという“敵”なのだから、仕方なく、その敵を「アソウ」と呼んでいるが、そうすることで自民党は収拾のつかない混乱に陥っている。

 そもそもが、何の目算もなく、怒りにまかせて、おめおめと“敵”の挑発に乗り、一歩を踏み出してしまったこと自体が、間違いのもとで、この時点で、小泉純一郎氏は帰ることもできず、進むこともできないところに自分を追いやってしまったのである。


非課税無利子国債について

2009-02-22 00:08:36 | Weblog
 竹中平蔵氏、中川秀直氏、そして民主党の前原誠司氏といったあやしげな面々が、経済危機を打開するために、非課税無利子国債を大量に(40兆円あまり)発行するように主張している。

 これが「改革」の中味だそうだが、なぜ彼らは赤字国債の発行ではなく、非課税無利子国債といったものに固執するのであろうか?

 要するに、赤字国債の発行は国家財政を圧迫するが、非課税無利子国債は利子を生まないから財政を圧迫しない(?)からだそうである。

 ところで、国債、というよりも債務関係を表している証書は一般的に、その債権者(債務証書の保持者)に一定分量の利子を支払うことを約束している証書である。

 たとえば、額面100万円の国債の場合、現実の資本(国債を売って得た資金)は国家によって消費され、F15の尾翼の一部なり、生活保護給付金なり、高速道路の案内板に姿を変えてしまうが、その債務証書(国債)は利子を生む証書として残る。

 この利子(貨幣)を生む証書という特性が、貨幣資本の運動(G―G+ΔG)と似ていることから、これらの債務証書は架空資本もしくは擬制資本と呼ばれる。

 そして、これらの証書が商品として売買されるようになると、その利子が貨幣資本(マニイド・キャピタル)の価格となる。

 ところが非課税無利子国債は、無利子(利子率がゼロ)なのだから、いわゆる貨幣資本(マニイド・キャピタル)ではない。またその価格もゼロなのだから、商品として売買されることもない。

 つまり非課税無利子国債は厳密な意味での、貨幣資本(マニイド・キャピタル)ではない。これは、非課税、すなわち保有していても課税されないというところに特徴があり、個人なり、企業に税金逃れのために保有・蓄蔵されるために発行されるのである。

 債務証書等の架空資本が、信用関係を媒介にして売買され、その持ち手を変えることから信用貨幣といわれるのにたいして、非課税無利子国債は、むしろ、退蔵貨幣の代替物、もしくは退蔵貨幣の価値章標として機能するものである。

 国債などの債務証書が大量に発行され、金融機関によってストック・マーケット(資本市場)で大量に売買されても、インフレにならないのは、それがマニイド・キャピタル(貨幣資本)独自の運動として、流通手段としての貨幣の流通とは区別された部面での運動となっているからであるが、退蔵貨幣の代替物、もしくは退蔵貨幣の価値章標としての非課税無利子国債はそうではない。

 貨幣は流通のあらゆるところで、流通から脱落して退蔵される。銀行預金もしくは金庫で眠っている札束等々の姿で存在しているこれらの蓄蔵貨幣は貨幣としては“眠っている貨幣”であり、貨幣流通量には入らない。

 この“眠っている貨幣”を非課税無利子国債と置きかえ、国家のために活用しようというのが非課税無利子国債発行論者の言い分であるのだが、これは非常に問題がある。

 というのは、たとえば40万立方メートルの貯水量があるダムに容積40万立方メートルの石を投入したらどうなるのか?当然、それまで水が占めていた空間を石が占有するようになるのだから、水はダムからあふれるであろう。

 同じように、40兆円の“眠っている貨幣”を40兆円の額面の非課税無利子国債で置きかえれば、“眠っている貨幣”は眠りから覚めて、流通手段として市中にあふれることになる。

 今、日本の流通に必要な“通貨”(価値章標としての紙幣)の総額が80兆円として、これに退蔵されていた40兆円が加われば、120兆円となり、日本の流通手段としての“通貨”(価値章標としての紙幣)の総額は、流通に必要な紙幣の総額の1.5倍(2分の3倍)となる。

 この場合、“紙幣流通の法則”により、紙幣1枚が代理する金量は以前の3分の2となり、以前の3分の2となった“ものさし”(紙幣)によって測定される、諸商品の価格は以前の1.5倍(2分の3倍)となる。

 もちろん、現実はような単純な計算通りにはいかないのだろうが、紙幣の急激な増大は20%、30%といった二桁のインフレを引き起こさずには置かないだろう。

 この国と国民に何の恨みがあるのか知らないが、社会を破滅させるためにのみ存在している連中にとって、この非課税無利子国債の大量発行による強烈なインフレは、確かに、日本資本主義を破滅させるためには、もっとも有効な方策ではあるであろう。
  

ロシアからの遠吠え

2009-02-18 22:25:55 | Weblog
 小泉ブーランジェ将軍さまが、亡命予定先のロシアから何やら吠えている。

 ロシアは遠いところだから、あまりよく聞こえないのだが、何でも、現在の自民党の議席はどのようにして獲得されたものであるのか、よく考えろ、というものだそうだ。

 これは実に、簡単にして、明確な質問だ。

 われわれが選挙直後にいったように、それは小泉純一郎が、有権者をペテンにかけて議席を盗んだものだ。

 郵政を民営化すればすべてがよくなるなどというありもしない約束をして、現在、その約束はどうなっているのか?日本の現状を見よ!郵政の現場を見よ!

 もっと悪いことには、小泉のペテン政治が長く続いたおかげで、日本では、マスメディアをつかって人を欺くことが、政治なのだという、まったく許しがたい風潮が広まってしまったことだ。

 労働者をなめたタワゴトをほざいていると、本当に日本に帰れなくなるかも知れないことをお忘れなく。


戦線を離脱するとき

2009-02-18 04:08:50 | Weblog
 現在、日本では、非常にするどい政治闘争が行われており、どういうわけか、われわれもその渦中にある。

 大衆迎合主義的で(彼らが依存しようとしている“大衆”というのは、もっとも遅れており、卑俗な意味での“大衆”である)、独裁的な政治を指向する勢力(われわれはこれを“日本ファシズム運動”と呼んだが、この規定は“ボナパルチズム”といった方が正確なのかも知れない)の闘争は一つの臨界点に達していた。

 というのは、彼らの一部はもう“決起”してしまったために、勝利しなければ自らが破滅するという段階に達していたのである。

 だから、われわれとしてもここで一気に勝負に出て“日本ファシズム運動”を政治的に破滅させてやりたかったのだが、われわれの敵は、今では、われわれと闘うためなら何でもやる決意である。

 われわれが「極東の某国では、“大酒飲み”という風評がある人物が、“大過なく”(?)財務相を務めているらしいから、財務長官などだれでもいいといえば、いい」といえば、われわれが、わざわざクエスチョンマークをつけているにもかかわらず、朝から晩まで“極東某国の財務相”の醜態をテレビや新聞で報道し、本当に“大過なく”やっているのか?などと突っ込んでくる。

 敵は、どんな敵でも一番弱いところから攻めてくるということは分かりきったことだが、“敵”の総攻撃の前に、無防備な“中川昭一砦”はあっさりと陥落である。

 後、“麻生城”は本丸を残すのみだが、麻生内閣はまたもやギリギリのところまで追い込まれた。

 事態はもはや明白である。

 “麻生城”は、自民党の“反乱軍”とそれに付随する極悪マスコミと民主党と民主党に追随する他の野党に包囲されてもうすぐ陥落し、総選挙に突入するであろう。これこそが“日本ファシズム運動”が生きのびる唯一の道であるにもかかわらずである。

 もちろんわれわれは党内の反乱にさらされている自民党の友軍でも、民主党の友軍でもないのだから、倒閣運動には加わらないし、倒閣に反対する運動にも加わらない。つまり、われわれには、これ以上、戦線にとどまる理由がなくなったのである。

 われわれは“正規軍”ではないのだから、好きなときに攻撃し、好きなときに退却する権利を持っている。

 だからここはひとまず退却して、戦略を練り直す時期に来ているのだろう。

“小泉劇場”第2幕の開幕は日本の“階級戦争”時代の幕開け

2009-02-15 01:55:10 | Weblog
 多くの人が“小泉劇場”の第2幕の幕が開くのかどうか、固唾(かたず)をのんで見守っている。

 当の小泉ブーランジェ将軍さまは、現在、クーデター失敗→海外逃亡の予行演習中である。それは彼にとって必要な訓練なのかもしれないが、政治は現在流動化しつつあり、不安定さをましている。

 そしてこの現在の日本の政治の混乱から見えてきたものは、“事件”はすでに当事者たちの思惑を越えて一人歩きはじめているということである。

 ここには大きな力が働いている。

 まず一つは、経済的な危機の深化である。間違いなく日本資本主義は現在、深刻な危機のなかにある。

 第2は、旧来のブルジョア政党である自民党の趨勢的な弱体化である。つまり、戦後長い間、政権党であった自民党の政権担当能力がすでに喪失しつつあるということ。

 こういう情況のなかで中産階級が危機感を深めている。彼らはその階級的な立場からして、大資本にたいして敵対的であるが、同時に、労働者の闘いに対しても敵対的である。

 その彼らが、自民党の少数派(自称、“改革派”)に接近して、彼らを押し上げているのである。

 また、最大野党である民主党もまた、党のある部分はすでに自民党の少数派(自称、“改革派”)と同じ立場に立ちつつある。

 だから、総選挙が行われて、自民党が少数派に転落しても、選挙後にできる政権は自民党の少数派(自称、“改革派”)の政権か、民主党と自民党の少数派(自称、“改革派”)の連立政権か、または民主党が分裂して、その分派の一部が自民党少数派(自称、“改革派”)と合流してできる新党である可能性が高くなっている。つまり、小泉ブーランジェ将軍さまの“決起”はあっても、なくてもその後の政権に何らかの影響を残すことは確実であるように思える。

 しかし、問題はそれからだ。自民党の少数派(自称、“改革派”)の経済認識、政治認識は決定的に間違っており、その間違った経済認識から生じる、間違った経済政策は、日本の社会を不安定化させ、日本の社会は各階級が争闘を繰り広げる本当の混乱期へと入っていくことになるだろう。

 彼らは“構造改革”があったからこそ、日本経済は復活したと考えているが、実は、逆なのだ。21世紀に入って日本経済が停滞から回復したからこそ、“構造改革”政策のようなデタラメな政策を実施することができたのであり、だからこそ経済が下降局面に入ればたちまちその“弊害”を問題にせざるをえなくなるのである。

 しかも、現在の経済の下降は鋭角的であり、日本資本主義は深刻な打撃を受けている。こういうときにこれを財政再建の名のもとに放置するという政策は、状況をさらに悪化させることはあっても、改善させる方策ではない。

 現在、日本の労働者階級はこの経済危機の影響をもろに受けており、腹を空かせている。だから実際に労働者階級に“パン”を与えられる政治のみが労働者の受け入れられる政治であるにもにも関わらず、“パン”はありませんが代わりに“見せ物”ではいかがでしょうか、などという政治は話にはならない。労働者はたんに欺されるために存在しているわけではない。生きるために欺されたふりもしようが、生きられないということになれば、それこそ決死の闘いに立ち上がらざるをえないではないか。

 そういう点では、大きな階級闘争の高揚期がこようとしているのだが、自民党の少数派(自称、“改革派”)の勝利はそれを促進する作用をもたらすであろう。

 これこそわれわれの待ち望んでいた時代であるという党派もいるかもしれないし、それは避けられないことであるという党派もあるかも知れない。

 しかし、われわれはこのような事態にたじろぐものではないが、今でも、労働者階級はすでに社会の多数派なのだから、凄惨で血なまぐさい、むき出しの階級闘争よりも、社会の多数派として、ふさわしい闘い方があると信じている。

政治がおもしろくなってきた

2009-02-13 01:53:18 | Weblog
 郵政民営化の見直しをめぐって政治が流動化しはじめている。

 おかしな話だが、この郵政民営化をめぐる議論を自民党も民主党も社民党も避けたがっている。つまり、麻生首相は郵政民営化の見直しという問題をもちだした罪で告発されているのだが、この見直し自体は郵政民営化法案そのものに3年後に見直すと規定しているのだから、「見直す」ということ自体が問題ではないであろう。

 ところが、自民党も民主党も社民党も郵政民営化を“不磨の大典”(というよりも、“臭いものにフタ”)にしてしまっている。

 しかし、「かんぽの宿」の問題が浮上している以上、あれでよかったのか、という議論はあってしかるべきであろう。しかも「郵政民営化」と「4社分割」が一体であるなどとだれがいったのか?この二つは、全然、違うことではないか。

 民主党と自民党がこの問題についてふれることができないのは、ふれれば両党とも収拾することのない不毛な議論のドロ沼に落ちこんでしまって、党が分裂してしまうからである。

 この一連のゴタゴタによって、とうとう小泉純一郎氏が動き出した。

 世の中には、赤星マルクス研究会と小泉純一郎派の激闘を是非とも見てみたいという人もいるのだが、そうなるのかどうかはまだわからない。一部のマスコミは、ついに小泉氏が決起した、平成維新が始まると歓喜の声を上げているが、例えそうであっても、それはフランスのブーランジェ事件(19世紀末のブーランジェによるクーデター未遂計画)やヒトラーのミュンヘン一揆程度のもので終わる可能性が高い。

 小泉純一郎氏や、中川秀直氏や、小池百合子氏には、ここで自民党を割るまでの決意はまったくない。それだけの根性があれば、これまで何度も、絶好の機会があったのだから、その時にそうしていたはずである。それもできずに、追いつめられ、追いつめられたあげくの蜂起では、勝利はおぼつかない。(われわれも、彼らに、「ここがロードス島だ、ここで跳べ」と二度ほど、助言申し上げたが、彼らはその度にそうしなかったし、できなかった)それに、彼らが求めているのは、ただ自民党内で自分たちの生存権を認めてもらうことだけであり、あわよくば自民党内で主導権を握りたいというかなわぬ願いだけなのだから、その闘いはきわめて限定されたものにならざるをえないのである。

 しかし、今回の小泉氏の暴発が予期せぬ出来事であったように、麻生氏が池に投げ込んだ石(郵政民営化の見直し)は、波紋となって広がり、次第に政界にいろいろな予測不能な影響をおよぼしはじめている。


「朝日新聞」の背中の“良識”が泣いている。

2009-02-11 14:25:49 | Weblog
 かつて「朝日新聞」は、“良識”の看板を背負っている新聞社であったが、情けないことに現在では、ファシズムの提灯(ちょうちん)持ち新聞にまで落ちぶれている。

 しかも、「朝日新聞」が現在引き受けようとしている“お仕事”は、去年までは名前は忘れたが、“左翼ぶりっ子”(左翼のふり)をしているある“ネット右翼”氏がやっていたことである。この“ネット右翼”氏は、奮闘むなしく、“スリー・バント”に失敗して、お役ご免になってしまったで、代わりに引っ張り出されてきたのが、「朝日新聞」氏というわけである。

 彼らの“お仕事”というのは、いうまでもなく、日本のファシズム運動のもう一つの旗手である大阪の橋下知事を誉めたたえることである。取り巻きに絶えず賞賛されていなければ、自己の体面を保つことができないというのは、独裁者の悲しい性(さが)なのだが、落ちぶれた「朝日新聞」氏は、そういう取り巻きの一人に加えてもらうことによって、何とか生きのびようというのである。

 そこで「朝日新聞」氏は2月10日の社説で、橋下大阪府知事の「直轄負担金」の支払拒否宣言を勇気ある行動であると絶賛し、他の知事たちにもこの日本ファシズム運動に加わるようにそそのかしている。

 「朝日新聞」氏によれば、「橋下知事の不払いに理」があるというのであるが、それならば、なぜ他の地方自治体は橋下知事に追随しないのだろうか?

 その理由を「朝日新聞」氏は、他の地方自治体の首長たちには、自分の「政策や信念、選挙」に自信がないからであると説明している。

 そこで「朝日新聞」氏におたずねしたいのだが、たとえば、給食がまずいからといって、子どもの給食費を払わないという人は認められるのだろうか、また交通違反をして違反切符を切られた人が、後になって、あんなところで交通違反の取締りをしている警官が悪いといって反則金を払わないということは認められるのだろうか?

 「朝日新聞」氏は、当然、そういうことは勇気ある正義の行為なのだから、もっと、他の人がまねをすべきであり、「理」=正義のない日本の法秩序総体は破壊され、独裁者の意思に置きかえられなければならないというキャンペーンを新聞社をあげてするべきであろう。

 何しろ、「朝日新聞」氏は自分たちの新聞の社説で、「理」があれば、法律違反を行ってもかまわないのだし、そういう勇気ある正義の行為はもっと多くの人がまねをすべきであるというのだから、当然、そういうべきであろう。

  橋下知事はこの問題で「朝日新聞」氏よりも、もっとはっきりと言っている。「今の霞ヶ関の支持率はゼロ%。役人は法律違反というだろうが、何の支持も受けていない役人の意思に従う必要はない。」と。

 橋下知事は、直轄負担金の支払い(国が計画、実施する道路やダムなどの建設費や維持管理費の一定割合を地方が負担すること)を拒否することが地方財政法に違反する行為であることを認識している。それを承知の上でなお、霞ヶ関の役人は誰の支持もえていないのだから、それに従う必要がない、といっているのである。

 もちろん、地方財政法は「霞ヶ関の役人」がつくったものではなく、国会で制定された法律であり、「地方公共団体は、前項の通知を受けた場合において負担金の予定額に不服があるときは、総務大臣を経由して、内閣に対し意見を申し出ることができる。」(地方財政法、第17条2の3)という規定もある。

 つまり、大阪府は「総務大臣を経由して、内閣にたいして不服を申し立てる」ことも、他の自治体がそうであるように、国にたいして「地方財政法」を改正して、直轄負担金制度を見直したり、廃止したりするように、要望することもできた(36の知事がこの直轄負担金制度の見直しを要望している)のであるが、大阪府はこれをせず、「何の支持もえていない役人の意思(!)に従う必要がない」と一方的に不払い宣言をした。

 そして「朝日新聞」氏はこれを勇気ある行動であるとして賞賛し、他の自治体にも政府や国会に法律の改正を請願するなどという「合法主義」ではなく、法律を無視した直接行動に決起するように訴えるのである。

 民主主義が、ルールにもとづいた話し合いによってものごとを決めていくという制度であるのなら、そういう意味での、民主主義は「朝日新聞」によって絞殺されようとしている。            

すでにファシズムはわれわれの隣りにある

2009-02-10 02:23:21 | Weblog
 単なる右翼の一政党であるヒトラーのナチス党(国家社会主義労働者党)が本当にその勢力を伸ばしたのは、1929年の世界恐慌以後であった。

 ドイツの没落の危機におびえる中産階級がナチスになびいていったのは、ナチスのユダヤ人排撃の思想ゆえだった。

 もちろん世界大恐慌と“ユダヤ人”は何の関連もないのだから、いくら“ユダヤ人”を排撃しても、なにがどうなるというものでもないのだが、ドイツの中産階級はナチスのユダヤ人が諸悪の根源であるという主張に共鳴し、ナチスがその“悪”にたいして戦いを挑むことに拍手喝采を送り、ナチスがユダヤ人を棍棒で打ちすえる姿に溜飲を下げたのである。そういう点では、“ユダヤ人”の迫害はドイツのファシズム運動の本質的なものであった。

 後に政権を獲得したヒトラーは、自分たちがつくりだし、自分たちを政権党にまで高めた“おとぎ話”(ユダヤ人が諸悪の根源であり、ユダヤ人を根絶すれば世の中がよくなるという根拠のない作り話)に政権獲得後も拘泥(こうでい)されて、とうとうそれを実践しなければならなくなった。つまりナチスを政権党まで高めた幻想によってナチスは滅びていったのである。

 現在の日本でいうなら、“ユダヤ人”とは“公務員”のことである。経済危機のなかで没落の危機におびえる日本の中産階級は“荒ぶる神”を鎮めるための“生け贄”を欲している。もちろんその“生け贄”というのは“諸悪の根源”である“公務員”のことであり、日本の中産階級はファシズム勢力の“公務員攻撃”に熱烈な拍手喝采を送っている。

 もちろん、「天下り」を根絶したり、“公務員”の給料を削減しても、日本の中産階級を不安におとしいれている現在の経済危機がどうなるというものでもないが、日本の中産階級にとっては、ナチスの“ユダヤ人迫害”と同様に、自分が陥っている没落の不安を少しのあいだだけ忘れさせてくれる快感なのである。

 こういう現象は去年もあった。だからこそ“犬の敵討ち事件”が起こったのである。しかしながら、この事件が厚生省事務次官夫妻殺害事件、つまり“公務員”に対するテロ事件としてではなく、“犬の敵討ち”とされているように、“公務員”に対するテロの社会的な条件はまだ十分に整っていなかったのである。

 しかし、まだ半年もたっていないのに、経済情勢は急速に悪化しており、中産階級の不安はつのっている。つまり、現在の日本では、ウソでもいいからファシストにだまされて一時の心の安息をえたいという階層が急速に膨れあがっているのである。

 しかも、ブルジョア社会のイデオロギー機関としてのマスコミを形成している“知識階級”もまた、社会の分類上は中産階級に含まれており、彼らのある部分はすでにこういうファシズム勢力の一角を担っている。

 ところが不思議なことに、ファシズムの温床があり、事実上のファシズム勢力は存在するのだが、一部の確信犯的な右翼を除けば、このファシズム勢力の政治的な指導部は存在しない。

 もちろん、こういった勢力は師と仰ぐ小泉純一郎氏、中川秀直氏、小池百合子氏等々の面々に、「今こそ、決起を!」と訴えているのであるが、おそらくこの3人のうち誰も「平成維新、つまり、日本ファシズム革命のための決起」には呼応しないであろう。人にはいろいろ事情というものがあるのである。

 そういう点では、まだ情勢は固まっていないとみるべきなのだろうが、不思議なのはこの日本に芽生えはじめたファシズムに対する民主党の態度である。

 民主党は基本的にこの問題を自民党内の“内輪もめ”程度にしか考えておらず、自民党の“内紛”によって自分たちに政権が転がり込んでくる可能性が高まったと判断して静観を決め込んでいるようだが、認識が甘いとしかいいようがない。

 現在行われているのは日本の未来をめぐる、一つの政治的な“決戦”が行われているのである。“天王山”であれ、“関ヶ原”であれ、つぎの時代をめぐって争われる戦いに参加しないものには、つぎの時代の指導的な役割は回ってこない。   

日立の株価

2009-02-07 02:40:45 | Weblog
 よくも悪くも日立の株価は日本資本主義の現況を映し出している。

 80年代後半のバブル経済期に、その先鞭をつけたのが日立の株であった。時代の先駆けとして日立株がもてはやされ、連日のように株価が、高値を更新して、あれよ、あれよという間に1000円を突破したとき、人々(というより“株屋”)は来るべき時代の姿を見たのである。

 その日立が、7000億円もの最終赤字を計上するという衝撃的なニュースを受けて、2月2日には売りが殺到して、239円という29年ぶりの安値をつけている。

 幸いなことに、日立株はその後少し持ち直したが、まだ300円を回復していない。

 株価が200円を割れば、再建そのものが危ぶまれる危険水域への突入ということになるのだが、板子一枚を残して日立はかろうじて踏みとどまっている。

 これを見て、人は来るべき世界の姿を何と見るのだろうか?

 日立の株がこれほど注目されるのは、資本主義的生産様式の歴史的使命は生産力を極大にまで発展させて新しい社会を準備することにあるが、資本は生産力を発展させるために科学技術の全面的な発展と産業への応用を不可欠の条件としている。

 そういう点では、資本は科学技術の集積体でもあるのだが、科学技術の集積体としての日立資本は日本資本主義の一つのモデルでもあったからであろう。

 現在、日本資本主義は大量の失業者の発生とか、輸出の不振とか、円高とかいろいろな痛みが重複して襲っているので、とにかく身体のあちこちが痛くて仕方がないという状態なのでよくわからないのだが、ひよっとして背骨にヒビが入ってしまったのではないかという恐れもある。

 日立資本の苦境はそんな懸念を抱かせるものである。    

コメントは控えます

2009-02-05 23:00:38 | Weblog
 名古屋市長選が近づいて、今度の選挙についてどう考えるのか、とたずねられることがあるが、この件についてはなにもコメントはありません。

 第1に、赤星村は確かに名古屋市に含まれてはいるが、西のはずれで名古屋市に所属しているということの意味はあまりないから。

 第2に、現在問題になっているのは、民主党名古屋のゴタゴタであり、われわれにはあまり関係がない。それに立候補を予定しているのは民主党系の候補者ばかりではないし、民主党が選挙に勝てるという保証はどこにもない。民主党名古屋がそのように考えているとしたら、それこそごう慢というものであろう。

 名古屋市民は、共産党が単独推薦した本山前市長をも、その人柄を信頼して当選させたこともあるのである。

 また、成人し公民権が停止されていない名古屋市民であれば、だれでも、供託金ウン百万円を積み立てることができれば、被選挙人(立候補者)になる権利があるのだから、千客万来、どなたでも立候補されればいいのではないでしょうか。

 第3に、われわれは一部の無責任な悪徳マスコミとつるんでいる反動的政治家との闘争方法を変更することにした。

 われわれはこの一年間で、ひがみ根性だけで生きているこういったカスのような連中にたいして、真正面から挑戦するのは、逆効果であり、われわれが批判すればするほど、ムキになって“自説”に固執というより妄執するだけであるということを学んだ。

 たとえば今度の市長選に立候補の意欲を見せている衆議院議員のX氏について、「なんだあいつは、名古屋の恥そのものじゃないか」とでもいえば、それこそ悪徳マスコミが、寄ってたかってX氏を持ち上げ、連日、どんちゃん騒ぎでX氏の動向を報道し、マスコミの注目を浴びることでX氏の支持が伸びるということになるかもしれないのである。

 もしそういうことにでもなれば、われわれは善良な名古屋市民のみなさんに、おわびするだけではすまないことになる。

 そもそも、われわれの存在自体が許せず、われわれが左へといえば右に行き、上といえば下を向くことを心に固く決めているような人々と闘うには、われわれも“北風政策”から“太陽政策”へ転換するほうがいいのではないか。

 つまり、お好きなように、ただし、結果についてはきちんと責任を取ってもらわなければ困ります、というやり方の方が、むやみに挑発的に刺激して意固地にしてしまうよりも賢明なのではないかと考えるようになったしだいです。 

麻生首相の粘り腰

2009-02-05 20:19:27 | Weblog
 国会で支持率低迷にあえいでいる麻生首相が粘り腰を見せている。

 人はやはり外見やうわさではわからないもので、土俵際に追いつめられてもなお粘っている麻生首相の姿は意外だ。

 土俵際に追いつめられてもなお、粘れる人間は強い。困難のなかにおける人間的な強さというのは、政治家の重要な資質であろう。

 そういう点では、彼は日本軍国主義の嵐と戦後の荒廃期を生きのびてきた故吉田茂氏から、ブルジョア自由主義的政治家の資質を受けついでいるのである。

 このままいけば、日本の大部分の人が信じて疑わない次回の総選挙での自民党の敗北もないのかもしれない。そうなれば大番狂わせということになるが、このままではそういうことも大いにありうる。


不思議な話

2009-02-01 00:11:28 | Weblog
 最近、ちょっと判断に迷うことがいくつか起こっている。

 一つは、巷では「ドル崩壊」とか「ドル暴落」といったおどろおどろしい言葉が飛びかっているが、現実にはむしろドル安ではなく、ドル高が進行していること。

 しかも、その値動きが非常に、不自然であり、意図的なものを感じるのである。(ドルが暴落した1月22日には、10分程度で2円50銭近くも回復している。等々)

 二つ目は、ガイトナー氏の「ドル高はアメリカの利益」という言葉、われわれは、当初、これを率直にアメリカがドル高政策をとると理解していたので、それは現実的ではない、と述べたが、どうも違うような気がする。

 三つ目は、今なお“ドル不足”という報道である。確かに、去年10月の“リーマン・ショック”直後には、信用の急速な収縮によりドルの“流動性”が極端に不足する(誰もが自分たちのもっている諸商品を国際通貨であるドルと換金しようとしたため市場からドルが姿を消す)という事態が起こっていたが、以後、各国の中央銀行は積極的に市場にドルを供給して、年末にはドル資金の残高は1兆ドル(日銀は1227億ドル=約11兆円を供給)に達している。これにともない銀行のドル資金調達の上乗せ金利も下落して“リーマン・ショック”以前の水準にまで低下している。

 またドル流動性の危機をもたらした、諸商品の換金売りも一巡したので、“ドル不足”というのは理解しにくい。

 また、“ドル不足”の理由として説明されている二つの理由、つまり、①信用不安が続いているため銀行が貸し渋りをしている。②海外の日本企業がその国ではなく日本国内でドルを調達したがっているというのも納得がいかない。

 もちろん①のように信用不安があって銀行を貸し渋りしているというのは事実であろうが、それは違うことであろう。つまり、日本の銀行が中小企業にたいして貸し渋りをしているから、中小企業が事業に必要な資金を手に入れることができないということと、通貨としての「円」が不足しているということは違うことである。前者は信用の問題(通貨としての円はありあまっているのに、借り手の信用力が不足しているので、それが必要とされるところには供給されないという問題)であるのにたいして、後者は「通貨」自身の問題(信用の崩壊がドル不足=“貨幣飢饉”として現象しているという問題)であろう。

 また海外に展開している日本企業がその国ではなく、日本本国でドルを調達したいと考えているのは、「安いドル」ではなく「高いドル」を求めているからであろう。

 これは一つ目の疑問とも重なるが、なぜ日本の企業が自国で「高いドル」を調達できるのかといえば、日本の銀行が積極的に円を売ってドルやユーロを買っているからである。

 つまり、日本の金融機関が積極的に円を売ってドルを買っているために、ドル需要の増大として現象し、ドル高・円安が相対的に進行している。または、円を売ってユーロを買い、手に入れたユーロを売ってドルを買っているので、円安・ユーロ高とユーロ安・ドル高が同時に進行しているのである。

 この問題についていえば、日本の金融機関がドル買うだけでは、それこそ日本中にドルがあふれかえってしまうだけであるが、銀行は手に入れたドルを日銀で円と交換し、日銀はFRB(アメリカの中央銀行)とスワップ(交換)でドルと円を交換する。

 つまり、ドルは市場→日本の銀行→日銀→FRB→市場と、ただグルグルと循環しているだけなのだが、日本の銀行と日銀(日本の中央銀行)、日銀(日本の中央銀行)とFRB(アメリカの中央銀行)の取引は非市場的取引なので通貨の交換比率の形成には関わらない。通貨の交換比率に関わっているのは、日本の銀行によって、ドルが買われている、または、ユーロを買って、ユーロでドルを買っているという部分だけであるので、あたかもドルに対する大きな需要がある(ドルが不足している)かのような仮象(見かけ上の現象)が発生しているのである。

 そして、アメリカの財務長官ガイトナー氏の「ドル高容認」という発言は、政府と日銀と日本の銀行が一体となったドルの買い支えを、アメリカの利益に合致するものとして容認する発言だったのである。

 当事国であるアメリカがいいといえば、それでいいのではないかということなのだろうが、ここには大きな誤解と危険が潜んでいる。

 誤解というのは、日本資本主義がドル高によって、輸出の拡大とそれによる日本の景気回復がもたらされるというのは正しくない。むしろアメリカの景気が回復しても輸出はもうそれほど伸びない可能性の方が高いのである。

 また、日銀の白川総裁は「円キャリー・トレード」の巻き返しが円高を生んだというが、そうだからといって「円キャリー・トレード」を復活させることにより、円安を誘導してもいいということにはならない。

 危険というのは、いうまでもなくこのような不自然な通貨の交換比率の形成は、ドルの雪崩(なだ)れを誘発するかもしれないからである。

 実際にはドルは世界的に過剰であるが、それがドルの暴落となっていないのは、その多くが不胎化して(貨幣資本として機能していないで)凍りづけになっているからである。氷河期には陸地に万年雪や万年氷河のかたちで水が堆積してそれらが地球の水の循環にはほとんど加わらないように、銀行の金庫や預金、個人のタンスのなかで静かに眠っているドルは、通貨の循環には加わらない。

 しかし、温度が上がってくれば(ドル高がトレンドとして定着し、為替差益が得やすくなれば)これらの眠っているドルはふたたび資本としての生命をえて動き出す。この過程が徐々にであればゆるやかなドル安として現象するだけだが、急激に進めば、雪崩れや雪解けの洪水となって押し寄せることになろう。そうなった場合、それをくい止める術(すべ)はない。世界中の中央銀行が束になってもそれは無理であろう。