労働者のこだま(国内政治)

政治・経済問題を扱っています。筆者は主に横井邦彦です。

マルクス主義同志会への警告

2008-06-26 21:51:41 | Weblog
 最近、何のにおいをかぎつけているのかは知らないが、マルクス主義同志会の周囲に正体不明の連中が集まりだしている。
 
 昔はこういうことはなかった。
 
 つまりこの正体不明な連中は人一倍危険予知能力が発達しているために、下手なものに手を出してパクリと噛まれ、それが毒ヘビだったりしたら、たちまち毒が体に回ってもだえ死んでしまうかもしれないということを知っているからである。
 
 要するに、社労党(社会主義労働者党)関係者はそういう“危険動物”として、社会的に認知されていたために、社労党の“社会的孤立化”が、すべての政治団体の共通するテーマであった。
 
 ところが今、正体不明の連中がマルクス主義同志会の周囲に集まりだしているのは、すでにマルクス主義同志会は社労党時代にもっていた“毒”が抜けているということを彼らが認知しているのかも知れない。
 
 彼らはマルクス主義同志会の周りに集まり心地よい林紘義氏の賛歌をかなでる。林紘義氏はまったくすばらしい、しかし、この辺のところをもう少し変えるともっとよくなるのだが・・・そういってさりげなく自説を売り込む。その自説というのが宇野経済学だったり、元RG(エル・ゲー=ローテ・ゲバルト=赤い暴力)の榎原均氏のヘーゲル的(すなわち観念的)経済学だったり、何とかいう近代経済学くずれだったり、その他の新左翼くずれ(彼らは事実上、反共右翼の立場に転落している)だったりするのだが、マルクス主義同志会の諸君たちはこういう連中に足もとを見られはじめているのである。
 
 こういうことが起こっていること自体、もうすぐマルクス主義同志会に何かが起こるのではないかということを彼らが期待していることを示している。
 
 それが何かということは今はいわない。 

上野動物園はパンダを辞退せよ

2008-06-26 18:28:49 | Weblog
 今日テレビを見ていたら、名古屋の東山動物園にパンダを招致したらどうかという議論を名古屋の市議会でやっていた。
 
 これは東京の中国ぎらいで有名な何とかいうバカ知事が「パンダなんかいるか!」と吠えていたことを受けての話だそうである。
 
 つまりパンダは東京の上野動物園に寄贈されるはずだったが、その東京都知事がいらないというのであるから、当然、上野動物園は辞退すべきであろう。(名古屋の東山動物園が引き取るには上野動物園の辞退が前提条件になっている)
 
 何でも東京都は400億円もの税金をドブに捨てるほどの税金がある(破産同然の新銀行東京に融資するのは税金をドブに捨てるのと同じであろう)のに、パンダに食わせる竹の葉を買うお金はないそうで、中国政府から寄贈されたパンダがエサももらえず毎日、「シナネコ」など呼ばれて、足蹴にされ、いじめられ、虐待されれば、それこそ日本軍国主義の悪逆非道ぶりを世界の子どもたちに知らしめるものとなろう。(そういう点では、上野動物園自体が閉園した方がいいのかも知れない。上野動物園の動物を引き取ってくれる動物園はいくらでもあるのだから、閉園して自衛隊の練兵場かパトリオット3の基地にでもした方がこのバカ知事の趣味に合っているし、上野動物園の汚名を広く世界に残すこともないというものである。)
 
 名古屋の子どもたちはパンダを待っている。動物は愛されかわいがってもらえるところで飼われるのがしあわせというものであろう。 

全国被害者団体(あすの会)は「死に神」

2008-06-26 12:53:49 | Weblog
 最初に断っておくが、われわれは無神論者だから、「死に神」なるものも、本当の「神」なるものについても、その実在性について信じているわけではない。

 しかしそれでもこういった宗教的用語について議論しなければならないのは、この「死に神」なる言葉が日本の流行語になりつつあるからだ。

 ところで「死に神」というのは「広辞苑」によれば「人を死に誘うという神」なのだそうである。

 そしてこの「死に神」という言葉をめぐって「全国犯罪被害者団体(あすの会)」が朝日新聞に抗議をしたという。(朝日新聞に法務大臣のことを「死に神」と揶揄(やゆ)したコラムが掲載されたから)

 この「全国犯罪被害者団体(あすの会)の代表幹事(岡村勲弁護士)は朝日新聞に抗議した理由を次のように述べている。

 「死刑確定者の執行を待ち望んでいた遺族も法相同様に死に神になると受け取った」「遺族にどんな気持ちを起こさせるのか考えなかったのか」

 人の死を待ち望む者を「死に神」というのであれば、「死刑確定者の執行を待ち望んでいる遺族」もまた「死に神」そのものであろう。「死に神」を「死に神」と呼んで何が悪いのか。

 ところがこの弁護士はさらに続ける、「死に神」という言葉は「死刑確定者の執行を待ち望んでいた遺族」の気持ちを傷つけると。

 自分が「死に神」と呼ばれるところまで精神的に落ちぶれている(実際、どのようなものであれ、人の死を願う人間の精神は健常なそれからはかなりかけ離れており、病んでいる)にもかかわらず、それを指摘する人間は許しがたく、糾弾に値する、というのはもっと精神的に病んでいるのではないか。むしろ人の不幸を喜んでおり、それを政治的に利用しようという腐った根性が見え隠れする。

 この会、「あすの会」という名前がついているが、この会の名前が過去ばかり見るのではなく、未来に向かって犯罪被害者が生きていく会にしようということでつけられているのであれば、それは会の本旨からはかなりかけ離れているといわなければならないだろう。

 


nezさんへ

2008-06-25 17:21:46 | Weblog
 いつもブログを見ていただき感謝しております。

 たまには林紘義氏をほめてやったらどうか?ということですけが、われわれは林紘義氏にたいして、ブント(共産主義者同盟)の後継者にして偉大なブント活動家であると最大限のほめ言葉を贈っています。(“北の将軍様”ならぬ“東の将軍様”と林紘義氏の正式称号を使わなかったのがいけなかったのでしょうか?)

 またマルクス主義同志会についても、尊敬の念を込めて、共産同(共産主義者同盟)マルクス主義同志会派と正式名称で呼んでいます。(それともわれわれが「マルクス主義同志会の会員は、全員赤ヘルと鉄パイプを持参して洞爺湖に集結せよ」といわなかったのがいけなかったのでしょうか?)

 そういう点では、われわれはなぜ叱られなければならないのかよく分かりません。

マルクス主義同志会の『公開質問状』

2008-06-20 17:00:00 | Weblog
 マルクス主義同志会とは何か?という根源的な内容を問うような出来事が起こっている。
 
 それはマルクス主義同志会の指導機関である「代表委員会」が、マルクス主義同志会の名前を使って、60年の安保闘争の指導者たちに「公開質問状」を送っているからである。
 
 彼ら(代表委員会)は、「これは我々だけの質問ではなく、かつて六〇年安保闘争を真剣に闘った人々、ブントに加わって新しい理想に燃えた人々全員の(故樺美智子も含めて)憤激であり、怒りの詰問であることを(公然と表明されている、あるいは表明されていない、多くの怒りと弾劾の声と心情の噴出であり、その代弁であることを)、諸君は知るべきである。」(『海つばめ』、第1071号)という。
 
 これを読むとマルクス主義同志会というのは何か第一次ブントの継承組織もしくは代弁機関のように感じられる。
 
 実際、マルクス主義同志会がブントの“裏切り者”青木氏に投げかけた次の三つの質問、①なぜブントを結成したのか、②ブント指導者であった青木氏の安保闘争の指導は正しかったか、③「彼(青木氏)は安保闘争後のブントの混乱と解体に対して、指導的、中心的な立場にある者として、どんなまともな、責任ある対応もしなかっただけではない、むしろ混乱を拡大させ、最後には無責任に、彼(青木氏)がつくりあげたという運動もブントも何もかもほおりだし、ブルジョア陣営に走ることによって、ブントの混乱と解体に決着をつけたのである。」(これは質問というよりも批判であろう)も、早い話、青木氏がブントをまともな「革命政党」として育てなかった、という非難であり、「六〇年安保闘争を真剣に闘った人々、ブントに加わって新しい理想に燃えた人々」の意見を代弁するものなのだそうである。
 
 つまりマルクス主義同志会というのは、「代表委員会」によれば、正式にはブントの後継組織である共産同マルクス主義同志会派のことだそうなのだが、マルクス主義同志会の一般会員諸君は本当にそれでいいのだろうか?
 
 現在、マルクス主義同志会の活動の中心を担っている人々は、「スターリン主義者の腐敗した党(共産党)に代わって、新しい真実の共産主義の政党、労働者の革命的組織を建設しよう」という呼びかけに答えた人々ではなく、1970年代初頭の「社会党、共産党、新左翼に代わる新しい労働者党を建設しよう」という呼びかけに答えた人々である。
 
 つまり、新左翼運動と称される60年安保闘争後に生まれた左翼団体(いずれも大なり小なりブントに起原をもっている)の限界と腐敗が露呈するなかで、全国社研またはマルクス主義労働者同盟(いずれも社労党の前身組織)に労働者階級解放運動の新天地を求めようとした人々であり、彼らのいう新左翼のなかには、当然、ブント総体(ブントを起原とする左翼団体全体)も含まれていたはずである。
 
 それを今ごろになって、60年の6.18闘争をカクメイ的に、すなわち、革共同中核派的にいえば、「内乱的」に、闘えば、ブントは勝利できたはずだ、などといいだすのであるから、それこそ「どういうことでしょうか?」とマルクス主義同志会の会員一人一人に「公開質問状」を出して、問い糾したい気持ちになる。
 
 結局、マルクス主義同志会というのは、60年安保闘争を闘った林紘義氏の私党であり、彼らの正式名称というのは「林紘義とその一味」ではないのだろうか?そして「林紘義氏とその一味」は、新左翼運動が頽廃し解体を深めるなかで、労働者のために生きたい、社会主義運動の再建のために貢献したいと願っていた誠実な新左翼の末端活動家を、詐欺、八百長、ペテンのたぐいの手法によってだましていたのだ。
 
 だからこそ、マルクス主義同志会の限界は、ブントによって与えられているのである。「代表委員会」は、ブントの指導者たちにはまともな人間は一人もいない、と憤激することしきりであるが、そのろくでもない連中の中に、六十年安保の輝ける闘士であり偉大な指導者である、林紘義氏は入っているのだろうか?
 
 林紘義氏自身が自分こそブントの正統な後継者だというのであるから、入っていなければウソであろう。
 

われわれの3年間

2008-06-19 01:19:43 | Weblog
 われわれがホームページを立ち上げたのは今から3年前の2005年の6月だった。
 
 2005年6月といえば、ちょうど小泉の郵政選挙の直前で、時代が大きく右旋回していく時だった。
 
 このような時代環境のなかでわれわれはまったく孤立した運動を開始したわけだが、われわれがそれから3年間も生存できたということ自体、実に不思議な感じがする。
 
 いつだったかある人がわれわれのことを「ネット時代だから存在しうる」といったが、これはまったく正しい。われわれが3年間も存在しえたのはすべてインターネットのおかげである。
 
 われわれより前、社会主義労働者党から党中央指導部と意見を異にするがゆえに、党外に放逐された人々はかなりいたが、その多くは政治の世界から消えていかざるをえなかった。
 
 それはインターネット時代以前には、政治党派の影響力は党員の数と機関紙の発行部数に比例するという厳然たる事実があったからである。
 
 ところがネット空間は政治的に“平等”な世界であり、この世界では政治党派の勢力はそのままの形で反映されることはない。だから、われわれのような極小勢力といえども、分不相応な影響力をもつことができたのであった。
 
 しかし、これはわれわれが空中戦で勝利しているようなものであるのだが、戦争の決着をつけるのはやはり地上戦であり、“白兵戦”であるは時代や戦争のやり方がどんなに変わってもかわることがない真実なのであろう。つまり、最後にはその政党がもっている地力(党員の数と機関紙の発行部数)がものをいう世界であるという点において、軍事の世界も政治の世界もあまりかわりがないのである。
 
 だから、赤星マルクス研究会は“空中戦”に勝利しながら、その勝利の余勢をかって、なぜ地上軍を投入して勝利を不動のものとしないのか?という質問に対する答えは実に簡単明瞭である。われわれは投入すべき兵力を持っていないし、早い時期に、兵力を獲得する努力、すなわち、会員を獲得して政治勢力として拡大していくという努力そのものを時期尚早の試みとして採用しなかったからである。
 
 われわれがそのような見解を持ったのは、従来の硬直的な左翼組織では、多くの党員を獲得し、本当に広汎な労働者階級に信頼される政党にはなりえないと判断したからであった。
 
 では当分の間リクルート活動(“オルグ”とかつてわれわれが呼んでいた新兵募集活動)をやらずに、極小数派としてやっていくという、われわれの試みは正しかったのだろうか?
 
 その解答はまだ出ていないと思うので、今の段階では何ともいえないが、この間、われわれがいくつもある左翼政党なり、団体とならんで、もう一つのそれを作らなかったということは、それなりの意味をもったのではないかと思う。
 
 そして、3年目の現在われわれは、もう一皮脱皮するように迫られているような気がする。
 
  

鈴木半一氏へ

2008-06-16 00:46:19 | Weblog
 マルクス主義同志会の“希望の星”である鈴木半一氏が『海つばめ』で林紘義氏にボロボロに批判されている。
 
 この人は60年の安保闘争以来の闘士で、偶然にもデモに参加した樺美智子さんの後ろに座っていたところを写真に撮られているという歴史上の人物である。
 
 この人は、私がこれも歴史上の書物になってしまったが『資本論三者二様』の原稿を読んで感想を聞かせて欲しいと言ったところ、律儀にも、反乱軍の書いたものなど読めないと断りの返事をしてきた人物である。
 
 しかし、やはり彼は私の書いたものを読むべきだった。
 
 今でも遅くはないと思うので『資本論三者二様』の「はじめに」のところだけ再掲しよう。(なお、本文中で自分のことをマルクス主義同志会の会員といっていますが、もちろん現在は私、横井邦彦はマルクス主義同志会の会員ではありません。)
 
 
 
(1) はじめに
 
 この本の主な目的は、マルクス主義同志会の代表である林紘義氏の経済学(彼は自分の経済学を「労働価値学説」と呼んでいる)を批判することである。したがって、主な登場人物は私とマルクスと林紘義氏である。
 それでは、三者三様ではないか、という意見もあろうが、私自身は、この本を通じて、マルクスの見解に何も足さなかったし、何も引かなかったという自負がある。また私は、つねづね、マルクスとレーニンがともにありますようにと願って生きてきたような人間なので、そういう私の主観的願望の意味も込めて、三者二様とした。
 林紘義氏の「労働価値学説」なるものについて、私が最終的に下した結論から言えば、それはマルクスがブルジョア俗流経済学と規定したような、ただ経済学の外観上の関連をさまようだけで、この社会(資本主義社会)を永遠化するためにのみ心を砕いている陳腐な経済学でしかない、というものだ。
 したがって労働者である私としては、「世の中には愚かな男がいるものだ。」と彼の珍説・奇説の数々を笑い飛ばすこともできるのだが、話はそう簡単ではない。なぜなら、私もマルクス主義同志会の会員であり、林紘義氏とは三十年間も、共に社会主義のために闘ってきたからである。
 私が「林紘義氏の経済学はどこかおかしい」と感じ始めたのは、つい最近のことで、それまではあまり物事を深く考えていなかったし、彼の「労働価値学説」にも注意を払わなかった。
 もっと正直に言うと、注意を払っても理解できなかったというのが真実の言葉なのかもしれない。われわれは皆「左翼活動家」で、労働者の中でビラをまいたり、街頭でアジ演説をすることにはそれなりに長けていたが、それ以上ではなかったのだ。
 もちろん、階級闘争の中では、無知であり、無能であることは、何の弁解にもならない。目的を持って闘う者は賢くなければならない、これが私の人生の中で得た貴重な教訓であった。指導部が変質し、労働者を誤った方向に導いていくことは、一定の社会状態(例えばロシア革命後のロシア)の下では避けられないことであり、今日のように、社会主義運動が窒息し、絶滅しかかっているようなときには、特にそれはありうることだ。
 だから、それなりに気をつけてはいたが、労働者のために、社会主義の勝利のために、生きようと決意して、数十年がんばってきて、気がついてみたら、いつのまにかブルジョア経済学のお先棒を担いでいた、というお寒い現実を、私は決して笑うことはできないのである。
 そしてこのことこそ、林紘義氏の共犯者である私には、彼によってゆがめられたマルクス主義を、元の「マルクスのマルクス主義」として復元する義務があることを告知するのであり、本を書かせるにいたった第一の理由なのである。
 簡単に人にだまされる愚か者にそんなことができるのかを自問する前に、社会主義者の良心の証として、労働者に対する果たさなければならない責任を果たすためにも、私はそれを行わなければならないのである。
 それに、われわれの世界は後知恵の世界であり、真の知恵は結果として、後から出てくるものであって、ミネルバのフクロウはたそがれ時にしか飛ばないのである。したがって、世の中の多くのことはやってみなければ分からないのである。
 そういう点では、この本は特殊な部類に属する本であるが、幸いなことに林紘義氏の誤りは全面的であるために、われわれは林紘義氏への批判を通じて、『資本論』全体を概括的に見渡すことが可能なのである。このことは、コップの中の嵐(日本の左翼運動の現状)に精通していない人にとっても、意義あるものとなるであろうと私は確信することができる。
 なお、「林紘義理論」とは何かという問いには、「誹謗中傷の集積体」であると、簡単に答えることもできる。もちろん、その理論の全体が、他人に対する悪口、悪罵、誹謗、中傷から成り立っているとしたら、それは他でもなく、林紘義氏の人格の品位のなせるわざである。しかしながら、何行か引用すれば、そこには必ず誰かの悪罵があるという林紘義氏の理論を、われわれが取り上げようとすれば、どうしても、その「第三者」が入ってこざるをえない。したがって、前もっていわなければならないのだが、私は林紘義氏の見解を問題にしているのであって、その「第三者」の見解を問題にしているのではないということは、読者諸氏に是非とも了承していただきたいところです。
 なお、これらの「第三者」について言えば、“林紘義菌”なる“生命体”は、決して健康で、文化的な“生命体”にとりついて、それを食い物にする“生命体”ではなく、逆に、人間の弱さ、愚かさを食い物にして、自己の妄想を際限もなく増殖させるという、世にも不思議な“生命体”である、ということである。したがって、もし彼らが“林紘義菌”の餌食になってしまった、というのであれば、彼らはそういうものでしかなかった、ということの証明でしかないように、私には思われるのである。
 そして、この“林紘義菌”の登場こそ、実は、われわれ労働者にとって、かけがえのないものである。ブルジョアの陣営に取り込まれたくなかったら、強くあれ、賢くあれ、ということを一人一人の死活問題にし、人々のために生きるには大きな努力が必要であるを身をもって痛感させる、“林紘義菌”の登場は、そういう時代の到来を告げ知らせているのである。
 そして、日本の労働者階級は、この闘いの中で、自らを打ち鍛え直し、大きな前進を勝ちとることができるものと私は確信している。  2004年9月
 

われわれの沈黙について

2008-06-14 00:38:08 | Weblog
 われわれはここ一年あまり蓮池薫氏と拉致問題についてあらゆるコメントを拒否するという態度を貫いてきた。
 
 もちろんそれは、われわれが拉致問題について、「銀行強盗が強盗に失敗して、人質を取って銀行に立てこもっている」ようなもの、と主張していたからである。
 
 この時、愚かな安部晋三内閣は、人質の安否も考えずに、強行突入しようとしていた。
 
 だからこそわれわれは、断固としてそのような無謀な行為に反対した。
 
 朝鮮半島における政治的な緊張を高め、第二次朝鮮戦争前夜の情況をつくりだすことは、日本の軍国主義者以外の誰の利益にもならないからであるし、何よりもそれは拉致問題の解決を阻害する行為でしかなかったからである。。
 
 しかし、安部晋三狂乱内閣が倒れて、現在のブルジョア政府が交渉で解決するというのだから、われわれが何かをいわなければならない理由は何もない。(人質をとって立てこもっている犯人との交渉はしかるべき“交渉人”が一元的に行うというのは、一つの原則であろう。しかもブルジョア国家とブルジョア国家の交涉事にブルジョア国家の廃絶を掲げている労働者が口をはさむのもおかしなことであろう。)
 
 もちろんこれは消極的な理由であって、より積極的な理由としては、われわれが何度も、何度も、「うっとうしい」とたしなめているように、この間、われわれを政治的に利用しようとする勢力がつねに存在したからである。
 
 なぜわれわれに“利用価値”があるのか、われわれには心当たりがないのでまったく理解することができないのだが、こういった勢力は、執拗に、蓮池薫氏について、拉致問題について、われわれに何かを言うように挑発したり、探りを入れてたりしてきた。
 
 こういった勢力(こういった勢力はわれわれによる秘密の暴露を恐れる勢力であったり、拉致問題を政治的に利用して朝鮮半島の緊張を高めようとする日本軍国主義者であったりした)に対するもっとも有効な回答が、沈黙であることは、言をまつ必要はない。
 
 しかし、ようやく膠着していた拉致問題が動き出そうとしている。むろんこれはわれわれの歓迎するところである。

 なお、つけ加えるならば、“秘密の暴露を恐れる勢力”に対して、“沈黙”は“金”なのではなくて、“害毒”ではないのだろうか、という人がいるかも知れないが、北朝鮮政府が秘密の暴露を恐れている限り、問題は進展しなかったのであり、今回北朝鮮政府が拉致問題を動かそうとした背後には、人質を帰したら自分の悪事がばれるのではないかというきわめて矮小な問題意識の次元を越えた政治的な判断があるのである。

 もちろんその背景というのは北朝鮮政府もまた、国家資本主義(スターリン体制)から自由資本主義への移行を真剣に考えなければならない時期に来たということであろう。

 

漂流する世界

2008-06-10 20:55:06 | Weblog
 現在の情況を、もっと視点を引っ張って、世界史的な観点から見るならば、われわれは長く続いた“パックス・アメリカーナ”(アメリカの平和)崩壊の最終局面にたっていることが分かる。

 次期のアメリカ合衆国大統領に共和党のマケインがなろうが、民主党のオバマになろうが、ブッシュの拡張主義的な世界戦略が見直されるのは確実であり、アメリカは名実ともに世界の妄想的な盟主であることをやめるのである。

 しかし、世界はかつての“パックス・ロマーナ”(ローマ帝国の平和)の終焉期と同じ喪失感を感じ始めている。

 かつて世界を支配しようとしていた者は去り、世界は誰によっても支配されない時代へと移行しようとしているが、現在の生産様式、すなわち高度に発達した資本主義は、世界の統一性を必要としているのである。

 少し前までは、アメリカは「自分たちはもう№1でなくてもいい、EUが№1になりたいというのであれば、自分たちは№2でもいい」と考えてきた。

 しかし、古き悪きヨーロッパは、彼らが自分たちのことをなんと言おうと、基本的に、保護貿易主義的であり、自己中心主義的で、ブロック主義的である。

 だからわれわれは、世界の労働者階級を代表して、古き悪きヨーロッパの世界支配が人類にもたらすのは、第二次世界大恐慌であり、第三次世界大戦である可能性が高いが、そういった未曾有の大惨禍を通してしか人類が新しい生産様式、すなわち社会主義に到達できないとしたら、われわれ労働者階級はそれを拒まない、資本主義との決戦はわれわれの望むところである、といってきた。

 ところがここへ来てアメリカの風向きが少し変わってきた。

 やはり、アメリカ・アズ・ナンバー・2はまずいのではないかと言い始めたのである。つまり“パックス・アメリカーナ”の象徴である、世界の基軸通貨としてのドルの地位はユーロには渡せない、渡すべきではないと言い始めたのである。

 そこでバーナンキFRB(アメリカ連邦準備理事会)議長やポールソン財務長官は口をそろえて、ドルは防衛に値する、そのためには外為市場への介入も辞さないという。

 しかし、現在のアメリカにドルを防衛し暴落を阻止するだけの経済的な力量があるのだろうか?むしろ世界はかつてのベトナム戦争で疲弊し、弱体化したアメリカと重ね合わせて現在のアメリカを見ているのではないだろうか?膨大な軍事力を投入してイラク一国を支配できないアメリカにどうして世界が支配できようか?そういう醒めた目でアメリカを見ている。

 だからアメリカの突然のドル防衛も失敗する可能性があり、そうなった場合、世界は再び、もう“パックス・アメリカーナ”の時代ではないと再確認することになりそうだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

何が危機なのか?

2008-06-09 00:27:10 | Weblog
 現在、世界経済が変調をきたしているということは多くの人の認めるところである。

 しかし、何が変調の原因であるかについては議論が分かれてているところである。

 しかし、危機に立ち向かえといっても、何が危機の原因であるかの認識なしに、危機に立ち向かうことはできないであろう。

 特に、われわれが何度も言及している「原油先物への過度の投機がインフレを助長している」という議論ほど誤ったものはない。

 このような主張をしているのは、統制された資本主義経済を妄想している社会民主主義者やスターリン主義者たちである。

 彼らは投機を規制するだけだというが、投資と投機をどのように区別するというのだろうか、実際両者は同じものであり、投資信託でさえ投機的な要素を払拭できないであろう。

 石油の先物取引を規制すればよいというが、先物取引には現物取引を極端な振幅をなだらかにするという機能があるのであって、先物取引を禁止すれば、その価格の極端な上下動はそのまま商品価格の上下動として現れざるをえないだろう。

 それとも石油の自由な価格運動そのものを規制しようというのだろうか、そうだとするなら、それこそ国家資本主義(スターリン体制)なのであって、旧ソ連・東欧の国家資本主義が停滞し、生産様式として存続不可能となった最大の理由は、それが商品として生産されながら、自由な価格運動、すなわち、価値法則が法則として貫徹されなかったからではないのだろうか。価値法則には商品の自由な価格運動を通して社会に必要なもの必要なだけ生産するという機能があったのである。だから価値法則が貫徹されない社会の生産姿態はいびつに変形したままであり、人々が本当に必要とするものが生産されなかったのである。

 そもそも石油先物市場での油価の高騰はそれ自体として単独で起こっているわけではなく、外国為替市場でのドル安の進行の結果として起こっているのである。

 ドルが安くなるにつれて、石油価格が上昇するのは、ドルがサウジアラビアなどの産油国の通貨とリンク(連動)しているからである。すなわち、ドル紙幣の過剰発行の結果として、ドル紙幣が“減価”しているから、ドルで表示される石油などの国際商品の価格が上がるのである。

 そして今回のドル安は、先日発表されたアメリカの雇用統計で失業率が5・5%に上昇して、アメリカ国内の経済状態が悪く、インフレ対策、すなわち金利の引き上げができないということを確認したからであり、これにヨッロッパ中銀のEUは来月金利を引き上げるかも知れないというトリシェ発言が加わり、ユーロに比べドルはインフレに対して許容的で不健全であるという認識が広まり、外為市場でドル売りが加速したのである。

 日本は極端な円高・ドル安が進行しなかったために、緊張感に乏しいが、嵐のようなユーロ高のなかで円高・ドル安にならなかったということは、円もまたドルと同じように過剰発行されている、つまり、“円あまり”でインフレ許容的と外為市場は見ているからである。

 そういう点ではアメリカのインフレは日本にもほどなく波及してくるのだが、このインフレを野放しにすることほど危険なことはない。

 

 

秋葉原の無差別殺人

2008-06-08 23:23:59 | Weblog
 われわれは4月24日にこのような記事を掲載した。


 光事件の死刑判決について
2008-04-24 21:53:22 | Weblog 

 光事件について、マスコミ、最高裁判所、そして遺族の念願がかなって、ついに被告人に死刑判決が下った。
 
 われわれは彼らについておめでとうというべきなのであろうか?
 
 彼らは口をそろえてこれで犯罪が減るというのだが、死刑によって犯罪が減るものであれば、死刑大国中国では殺人事件はなくなってもよさそうなものである。
 
 むしろ、最近の不気味な犯罪動向として、反社会的な自殺が増加していることである。
 
 日本の自殺者は毎年三万人を越えているが、その自殺のやり方が手段を選ばないものになっている。新幹線に飛び込んだり、硫化水素を発生させて何十人もの近隣の人に毒ガスによる被害を及ぼしたりと、手口がだんだん荒っぽいものになっている。
 
 どうせ死ぬなら、人の迷惑にならないような手段を選ぶべきだと思うが、そうでないのは日本の自殺者のなかには社会に対する抗議なり、潜在的な敵意といったものも含まれているからなのだろう。
 
 そこで、問題となるのは、これら自殺志願者のなかから自殺の手段として死刑制度を利用しようとする者が出てこないのかということである。
 
 つまり、誰でもいいから、2、3人殺して国家によって死刑にしてもらおうという、不届き者が出てこないのかということである。実際、死刑にして欲しいから人を殺すなどということが実際に起こるようなことがあれば、それは国家とマスコミが無差別殺人を奨励しているようなものであろう。
 
 われわれはこういう不幸なことが起こらないように願うばかりである。

                                以上


 今回の秋葉原の無差別殺人は、現在の日本の社会状況から見て、じゅうぶんに予見できる性格のものであったのに、国家とマスコミは、何の対策も献じてこなかった。つまり法務省という行政機関は存在するが、国民の生活と人命を守るための刑事政策というものはまったく存在しなかったのである。これでは殺された人は浮かばれないだろう。


  


 

切り裂かれていく世界と“市場原理主義者の自爆テロ”

2008-06-07 00:26:53 | Weblog
 少し前に、“市場原理主義”のどこが悪い、“市場原理主義者”の“自爆テロ”なんか聞いたことがないぞ、という話を聞いた。
 
 なかなかおもしろい話だと思ったが、本当に“市場原理主義者”の“自爆テロ”というのは存在しないのだろうか?
 
 この人も“市場原理主義”のスローガンの一つには“グローバリゼーション”があるというのだから、われわれも“グローバリゼーション”について考えてみよう。
 
 この“グローバリゼーション”(地球的な規模での資本主義的発展)をわれわれマルクス主義者は“世界市場”と呼んでいるが、この世界市場の形成はマルクスの時代、つまり19世紀にすでにある程度進んでいた。
 
 そしてマルクスがいったように、世界市場の概念には、北アメリカの奴隷制度もロシアの農奴制も含んでいた。つまり世界市場という形式で概括される世界的な規模での資本主義的生産様式の発展は資本主義的生産様式だけではなく、それとはまったく異なった生産様式とも商品交換、すなわち貿易を通じて結合されていたのである。
 
 われらの“市場原理主義者”もペリーの来航の話をしているが、ペリーが日本に来た当時の日本は資本主義的な生産様式は萌芽的なものでしかなく、封建的な諸関係に基ずく古い生産様式が一般的だった。
 
 しかし、アメリカにしろ、イギリスにせよ、市場開放という要求を、商品交換、つまり交易の自由という意味で使用しており、欧米諸国と交易をするためには徳川幕府を打倒して、封建的な諸関係を一掃しなければならないという意味では使用していない。
 
 徳川幕府が倒れたのは、むしろ、この交易の発展の結果なのであって、幕末期の日本における商品経済の発展は、封建的な諸関係を解体して、それをブルジョア的な諸関係に置きかえてきた。
 
 資本主義的生産様式がそれとは異なる生産様式を含みながら発達してきたという点では20世紀においても同様であり、それは20世紀には“社会主義体制”(われわれが国家資本主義と呼んでいるスターリン体制)を包摂するものとしての世界資本主義として存在していた。
 
 だからこそ、“社会主義体制”(われわれが国家資本主義と呼んでいるスターリン体制)は20世紀の後半に解体し、自由資本主義へと移行したのである。
 
 ソ連・東欧圏の経済が行き詰まったのは、この体制が西欧諸国と政治的に対峙していたからではなく、経済的・金融的に深く結びついており、欧米諸国からの対外債務が雪だるま式に膨れあがって、国家財政が破綻していったからである。つまり、ソ連・東欧圏は西側から多額の資金を導入しながら、それを資本として運用する(利潤を上げる)ことを知らなかったがゆえに、経済的に破綻していったのである。
 
 つまり世界市場(世界資本主義)は異質な生産様式を含みながらもそれを同化させていくことによって、より高度な生産力を獲得してきたのである。
 
 だから、21世紀に入ってからの世界的な規模での資本主義の発展はこういった新しく資本主義体制に組み入れられていったロシア、中国、ブラジル、インドなどの新興諸国の資本主義的な発展の寄与する部分がかなりあったのである。
 
 この世界的な規模での資本主義的発展が“市場原理主義”と呼ばれる潮流を生みだしたのだが、この潮流はそれ自体として非常に矛盾を含んだものである。
 
 というのは、この“市場原理主義”の掲げる“グローバリズム”は、言葉の真の意味での“グローバリズム”(世界の一体化)とはまったく別の、排除の論理を含んだそれになっているからである。
 
 まず“市場原理”(自由・平等)を承認せよ、さもなければ世界市場から排除するというのは、欧米流の“商売のやり方”以外は“商売”として認めない、ということであり、世界はこのような体制がすでに確立している欧米の世界資本主義における支配権を承認せよというのに等しい。(おろかな日本資本主義はまだ気がついていないが、欧米諸国がいう“市場原理”が確立している国のなかに日本資本主義は部分的にしか含まれていない。つまり、欧米諸国にとっても日本資本主義は矯正と教育が必要な資本主義なのである。)
 
 かくして現在では、グローバリズムを掲げている“市場原理主義”はすでに、選別と排除の論理を含んでいる潮流となっており、この“市場原理主義者”の掲げるグローバリズム(世界の一体化)は、その主張とは裏腹に世界に分裂と対立をもたらしているのである。
 
 もちろん現在、“市場原理主義者”が目の敵にしているのは、国家資本主義=スターリン体制の残滓を残している中国であり、ロシアなのだが、これはやがて、イスラム圏にも、日本資本主義にも、インドにも、新興諸国にも、最後には、アメリカとヨーロッパの対立にも、ヨーロッパ内部の反目と離反にも、進展していく性格のものである。
 
 統一した世界市場において、その統一性を事実上破壊して、際限のない分裂と対立の世界をもたらそうとしている“市場原理主義”はそういう点では人類社会に対して、“自爆テロ”を敢行しようとしているのではなかろうか。
 
 しかも、彼らの登場は世界的な規模での信用不安が高まっているなかで行われている。
 
 1929年の世界大恐慌が非常に深刻な恐慌であったのは、その後世界がブロック化して、世界市場が事実上解体してしまい、世界貿易がスパイラル的に縮小してしまったからであるが、恐慌以前に世界資本主義の主要国(アメリカ・フランス・イギリス・ドイツ・日本)間の協調体制はくずれており、各国の利害が複雑に対立して効果的な経済政策を採用できなかったがゆえにアメリカの株式市場の崩落が、非常にするどい恐慌になったという面もある。だから世界恐慌はすでに分裂していた世界の分裂を現実の国家間の対立として再現したにすぎないということもいえるだろう。
       
 そして現在も、すでに切り裂かれつつある世界において、世界的な信用不安の高まりが成熟しつつある。
 
 ひょっとすると、世界は近いうちに(はじめ“ここ数年のうちに”と書いたが、事態はもっと切迫しているようである)再び、「世界はかく滅びていくのである」という悪夢を見なければならないかも知れない。

削除したコメントについて

2008-06-05 19:39:17 | Weblog
 ロッド空港事件(テルアビブ銃乱射事件)にのついての集会の案内がありましたが削除しました。

 理由は非常に簡単です。自分たちは日本赤軍によるロッド空港事件は日本の新左翼の愚かさの極みであると思っているのだから、自分たちの責任を持てない集会案内を、どのような形式であれ、そのまま掲載しておくことはできないからです。

 こういうことはもっと他のブログやホームページでやられたらいかがですか?