労働者のこだま(国内政治)

政治・経済問題を扱っています。筆者は主に横井邦彦です。

象徴天皇制について

2005-11-25 02:47:49 | Weblog

象徴天皇制について  

 日本は、玉虫の国で、何事も玉虫色が好まれる。  

 そういう玉虫国家を象徴しているのが象徴天皇制である。  

  象徴天皇制というのは何制であるのか?日本は君主制国家であるのか?それとも違うのか?  

  こういう問題には人々がそれぞれ各自に勝手に答えを出して、その答えを正解であると信じてきた。  

  しかし、もうはっきりさせなければならないときが来はじめているのかもしれない。  

  「右翼」とか「民族主義者」にとって日本はまちがいなく、君主制国家で、天皇は戦前と同じように国家の元首であった。(もっとも戦後民主主義の中で育った最近の「ヤング右翼」や「ヤング民族主義者」の多くは天皇崇拝主義者ではない。)  

  これに対して、比較的多くの人はイギリスの立憲君主制のような政体を考えている。しかしイギリスでは「女王は君臨すれど統治せず」であるのに対して、日本の天皇は現行憲法によると、君臨もしなければ、統治もしない、ただ象徴するだけである。(君臨という概念は天皇が国民に君主として臨むということであり、憲法の掲げる国民主権とは直接的に矛盾する)  

  自民党の改正憲法案では、天皇が「国民のために」国事行為を行うということになっているが、これは内閣が「国民のために」天皇に助言をし、天皇が国事行為を行うという現行憲法と比べれば明らかに国事行為の主体の変更であり、主権の変更である。したがって自民党の改正憲法では明確に日本は立憲君主国になる。もちろんこれはおそらく採択されないだろうし、採択されても天皇制はその終末の時期を早めるだけであろう。  

  なぜなら、日本の多くの国民は「象徴天皇制」を支持してきたが、その場合の象徴というのは正月の鏡餅の上に乗っているみかんのようなものであると思ってきたからである。  

  要するに戦後の天皇制は、内実や実態はともかく、政治の表舞台に立たないという限りにおいて、主権の存する国民に受け入れられてきた。それがどのような形であれ、政治の表舞台に立つようになれば、主権者である国民との間に軋轢や摩擦は避けられない。  

  もっとも、憲法改正にいたらなくとも、小泉自民党は皇室典範を改正するというのであるから、これから天皇制をめぐっていろいろな問題が生まれて来るであろう。  

  まず、反動派がさっそく「万世一系」の云々という古い古い文言を持ち出して、第一子を皇位を継承させることに反対している。要するに彼らは相続は男系に限るという戦前もしくは封建時代の時代遅れの原則に固執しているのである。  

  また男系、女系を問わず皇位を継承させるという小泉自民党案では、女性が皇族から離脱しないために皇族が水ぶくれするということがさけられない。    どちらにせよ、問題となるのは皇族という特別な家系である。そして日本国憲法は天皇という特別な地位についてはある程度特殊性を認めているが、日本の法体系はある家族なり、家系を特別扱いすることを認めてはいないのである。  

  天皇家は特別であるというが、天皇家が特別でなければならない理由はない。極端な話、憲法で天皇について規定しており、誰が天皇になるかを皇室典範で決めているとしたら、国会で皇室典範を廃止して、「天皇職公選法」なり、「天皇職抽選法」なりを制定して、天皇職を選挙で選んだり、国民の中から抽選で当選した1名の方に天皇をやってもらうことも可能である。(現行の日本国憲法ではこういうことは憲法違反にはならない。)  

  皇族(天皇の一族)から天皇を選ぶというのは天皇制が事実上の君主制であり、君主制であるからこそ王位の継承権が問題となるのである。  

  これに対して、現行の日本国憲法が想定する象徴天皇制は、事実上の共和制であり、天皇には名目的な地位しか与えられていない。  

  事実上の君主制と事実上の共和制の相克はさけられない。  


小泉意味不明語の解読

2005-11-19 01:28:40 | Weblog

   小泉意味不明語の解読  

  わが日本国の首相殿は何語をしゃべっているんだろうか。  

 よその国の元首に「あなたの言っていることは、わが国の国民は誰一人として理解でませんよ。」などとバカにされて笑われている始末だ。  

  そこで、愛国心あふれる日本国民としては、世界に向かってその意味をきちんと説明する必要があるのだが、これが案外骨が折れるのである。  

  最初に、「心ならずも戦場におもむかれ戦死した方々を追悼し」という言葉であるが、「心ならずも(意志に反して)」という言葉はどこにかかるのだろうか?  

  これは二通りの解釈が可能である。  

  一つは戦死したことが「心ならずも(意志に反して)」という解釈である。  

  つまり、戦死するつもりはなかったが、戦死してしまった、という解釈である。しかし、これは歴史的な事実に反している。1938年のノモンハン事件の時、日本軍は初めて、戦車と砲撃を中心とする近代戦に直面し、ほぼ壊滅した。前方を砲撃で壊滅させられ、背後を戦車部隊に回られて壊滅させられ、突撃部隊は機関銃の一斉射撃でなぎ倒された。  

  日本の軍部は当時すでに「白兵銃剣主義」(銃剣をもって突撃し接近戦に持ち込む)が近代的装備で武装した軍隊にはまったく無力であることを知りながら戦争に突入し、陸軍はこの「白兵銃剣主義」に固執し続けた。  

  同じことはガダルカナルや多くの太平洋の島々でも繰り返され、「南方」に派遣されると言うことは戦死すると言うこととほぼ同じ意味であることぐらい多くの日本兵はすでに知っていたのである。  

  だから日本兵が「心ならずも(意志に反して)」戦死してしまったという言い方はまったく当てはまらない。  

  二つ目は、戦場に送られることが「心ならずも(意志に反して)」という解釈である。  

  これはまったく正しい。多くの日本兵は労働者、農民の出身者で、彼らは赤紙一枚で強制的に徴兵された人々である。当時の彼らには徴兵を拒否することはできなかった。だから彼らは涙をのんで家族と別れ、絶望的な戦地に赴かざるをえなかったのである。  

  そして日本の軍部はこのように日本兵が小銃を買うよりも安い値段で手に入ったから、彼らに銃剣をもって突撃することを繰り返させたのである。「一将功なって万骨枯る」とはいうが、「心ならずも」国家によって強制的に枯れた万骨にされてしまった者の怨みを小泉純一郎はどこまで分かっているというのか。  

  そういう点では彼らは日本軍国主義の直接的な犠牲者である。当時の支配階級と天皇と日本軍部は、何百万人の労働者と農民に無意味な死を強要し、そうすることによって滅びたのである。  

  つぎの「現在の日本の平和はこれらの人々の尊い犠牲の上に築かれている」というのはさっぱり分からない。  

  日本は戦争に勝ったのか?  

  激しい闘いがあり、多くの人々が戦死してかろうじて勝利した場合、現在の平和は戦死した人が犠牲をいとわず戦ったからであり、勝利の栄誉はすべて彼らのものである、という場合、こういう言い方も妥当であろう。  

  しかし、日本の平和は日本軍国主義が破滅したことによってもたらされたことほど明確な事実はなかろう。日本が「ポツダム宣言」を受諾して無条件降伏したから日本とアジアと太平洋に平和が訪れたのである。  

  この場合、小泉純一郎は「お前たちが戦死してくれたおかげで、日本は戦争に負けて平和が訪れた、ありがとう。」というのか、それは戦死者を弔っているのではなく、愚弄しているだけであろう。  

  最後の「二度と戦争をしないという不戦の誓いをこめて靖国神社に参拝している」というのはもっと理解しがたい。  

  太平洋戦争の戦死者を弔う「不戦の誓い」というのであれば、「許してください、過ちは二度と繰り返しませんから」しかないであろう。これは戦渦の犠牲になったアジアの人々に対してだけではない、大きな犠牲を強要した日本の労働者・農民に対してもである。  

  こういう人々を「英霊」などというのは許しがたい。「国のために殉じた」だと、寝ぼけるな、平和に暮らしている労働者・農民を、恐怖と強制と暴力で狩り立て、絶望の戦場に送り込んで、ある者は餓死させ、ある者は病死させ、ある者は戦死させるというのは国家による犯罪行為そのものではないか、それを今になってあの人々は自分の意志で戦場に赴いたのだと言い張るのか、それは自分の犯罪を覆い隠すためのウソであり、あの戦争を美化するもの以外の何ものでもないではないか。  

  もう一度言う。日本が「ポツダム宣言」を受諾して無条件降伏したから日本とアジアと太平洋に平和が訪れたのである。小泉純一郎は太平洋戦争の当事国の首相なのだから、このことの意味をきちんと理解できなければ、世界の中どころか、日本の中でも、笑いもののままだ。   


困難の中を船出するペレツ労働党

2005-11-16 01:22:04 | Weblog

困難の中を船出するペレツ労働党  

 

 イスラエルの政治が激動している。  

 11月9日の労働党の党首選挙では事前の予想を裏切って、無名のペレツがノーベル平和賞を受賞したペレスを破って労働党の党首となった。  

  そのペレツは12日ラビン広場に集まった10万人の群衆を前に「占領がイスラエルの損失を招いている。占領集結と最終(和平)合意が必要だ。」と訴えて大きな歓声をあびていた。  

  ペレツは連立を組んでいるリクード(右派)との連立解消を主張しており、これが実現されるとシャロン(リクード)政権は少数与党となり、リクード政権は崩壊する。  

  ペレツは労働党の中でも左派に属しており、イスラエルの労働総同盟の会長をつとめたことがある人である。  

  もちろんイスラエルは資本主義国家であり、企業があり、工場があり、労働者がおり、労働者は資本家によって搾取されている。  

  そういうイスラエルでも労働者が自分たちの意見を主張し始めたという点でそれは一つの画期的な出来事なのかもしれない。  

  もちろんペレツは社会主義者ではないので、資本家の国家イスラエルを打倒して労働者のイスラエルをつくろうという人ではない。  

  だが、イスラエルの労働者は平和を望んでおり、この地域の平和を達成するためにはパレスチナ人と共存共栄しかありえないと考えていることを世界の人々に伝えるという意味では大きな意味があるだろう。  

  しかし、現実にはペレツの道は非常にきびしい。  

  というのはこの地域には、平和ではなく、戦争と流血に利益を見いだしている勢力がウヨウヨいるからである。  

  まずモサドとイスラエル軍部とアメリカの軍国主義者がそうだ。平和の到来は彼らがこれまでこの地域の人々に何をしてきたかを明るみに出してしまい、彼らは裁きの庭に引きたてられなければならないことになるであろう。  

  イスラムの原理主義者たちもそうだ。イスラム原理主義者がこの地域で勢力を伸ばすことができるのは、イスラエルとアメリカの侵略戦争のやり方があまりにもひどかったからである。彼らはパレスチナとアラブの人々に反イスラエルを煽ることによって大きな政治勢力になった連中である。ところが平和の到来は彼らを無用の存在にしてしまうだろう。  

  ユダヤ教の坊主と入植者たちがそうだ。彼らはイスラエルが占領した土地に入植し、パレスチナ人から一番いい土地を奪い、ユダヤ教会の坊主たちはさかんにそれを扇動した。平和にはイスラエルの占領地の返却は欠かすことができないが、それは彼らの身の破滅であろう。  

  この地域が発展するためには、平和が欠かせないが、平和によって身を滅ぼす人の方が多い現実では、平和を求める者は、ラビンやパレスチナの誠実な活動家のように暗殺の危険がつねについて回るし、今の情勢では来年の総選挙でイスラエル労働党が勝利することすら難しいかもしれない。  

  しかし、われわれはペレツに勇気を持ってイスラエルの労働者の声を世界に伝えてほしいと願うばかりである。  

  労働者の闘争はどこの国でも困難である。日本でも、アメリカでも、中国でも、ロシアでもそうである。しかし、困難であるからといって、われわれがその仕事を放棄すれば、世界は闇の中に沈むしかない。  


アメリカ経済に変調

2005-11-12 15:46:13 | Weblog

アメリカ経済に変調  

 アメリカ経済がなだらかな停滞に向かっている。  

  ① 輸出が伸びない

  9月の貿易赤字は661億ドルと過去最高になった。   このうち輸入が1713億ドル(前月比2.4%増)、輸出が1052億ドル(前月比2.6%減)であった。

  輸入の増加は中国からの輸入が旺盛であることと、原油高が影響している。   輸出の減少はこのところのドル高が影響しており、アメリカの輸出競争力が低下しているものとみられる。  

  ② 雇用が伸び悩んでいる  

 10月の雇用統計では、10万人という当初の予想を下回り、5万6000人増という小幅な伸びにとどまった。一方平均時給は16.27ドル(前年同月比2.9%)と依然高い伸びを続けている。  

  失業率は次第に低下しており、5.0%にまで達している。この5.0%という数字は微妙な数字で通常これ以下だと景気過熱ということで引き締め政策に転換するのだが、ちょうどギリギリというのは判断に迷うところである。  

  ③ 個人消費のかげり  

  現在のアメリカではエネルギー価格の上昇による個人消費のかげりを心配して安売り競争が本格化している。これは苦境にある自動車業界が大幅な値下げをして利益を確保しようとしているように、小売業界全体がクリスマス商戦を前に値引きによって販売額を確保しようとしているためであり、なにか景気の最終局面を予感させるものである。  

  ④ 住宅バブルがはじけそうになっている。  

  これはかなり深刻だが、ここへきて住宅の在庫が過去最高の水準にまで達し始めており、新規物件の売れ残りが急増している。  

  アメリカではここ数年住宅は住むために買われる以上に、投機の対象となってきた。「金利オンリー融資」といって、元本の返済を数年先として、当座は利子部分だけを返済すればよいので、安い金額で住宅を入手して、高い金額で転売するということが行われていた。もちろんこのやり方は①住宅がいつでも売れる②住宅価格が上昇を続ける、ということを前提にしており、現在のように住宅在庫が積み上がって販売件数が減少し、住宅価格も低下するということになれば、住宅投機者の多くが売れない住宅を抱え込んで、数年後には元本返済を迫られ、経済的に破綻するということになりかねない。  

  さらにアメリカでは住宅を担保としたローンが一般的であり、その額は昨年だけで6000億ドル(約70兆円)にのぼると見られる。    

  以上、家計も赤字、国際収支も赤字、財政も赤字の国でこれまで赤字の継続を支えてきたシステムが今少しずつ変調をきたし始めている。  

  これから先、アメリカ経済がどうなるのかはまだ予断を許さないが、ただ一つだけ言わなければならないのは、現在のアメリカが景気の後退局面に入った場合、単なる不況だけではなく、不況とインフレが同居するスタグフレーションとなる可能性が非常に強いと見られるということである。景気の先行きがどうあれ、アメリカ経済のインフレ体質はまだ改善されておらず、ここ当面はインフレ傾向が続くことは疑う余地もないからである。     


おわび

2005-11-06 19:59:00 | Weblog

 当方、電気屋のおっさんをやっておりまして、

  秋は年次点検(一年に一回電気設備を停電させて集中的に設備を点検する)の季節でありますので、しばらく家には帰れません。(深夜に年次点検をやれと言うむちゃくちゃな施設もありますので・・・)  

 無理をすればとも考えたのですが、相手は高圧電気でありますので、電気事故だけはやりたくありません。(どこの誰とは言いませんけど、点検の時にボルトをしめ忘れて、そこから発火して丸焦げになった工場を知っています。)

  ですから、11日(金曜日)ぐらいまで、労働者のポチタは更新されません。

  申し訳ありません。


小泉政治の終焉(しゅうえん)

2005-11-04 03:23:07 | Weblog

小泉政治の終焉(しゅうえん)  

  先日、おそらく小泉政権最後の内閣改造が行われた。  

  マスコミの喧噪を離れてみるとそこにはいくつものサプライズがある。  

  人々の意表を突くのが小泉サプライズ人事だそうだが、今回はそういうサプライズがないことがサプライズであると言われている。  

  もう十分世間の支持を集めたのだから、人事で人々の意表を突く必要はなくなり実務者型の内閣になったというのが一つの見解である。  

  しかしこういう見方は正しくないかもしれない、というのは何かの達成しなければならない課題があって、その課題に対処するための実務者型内閣である。  

  ところが小泉政権の余命はすでに1年を切っており、この9ヶ月あまりの日々でこの政権にできることは限られている、というよりもこの政権にできることは予算を後1回組むぐらいであり、可決された郵政民営化法案の行き先を見守るだけである。こういう内閣に実務者型の布陣は必要ないであろう。

  そして去りゆく政権の残務整理(郵政民営化法案の行き先を見守るという仕事)をまかされたのが竹中平蔵であるということは大きなサプライズである。    というのは小泉の路線を引き継ぎ、次期政権に一番近いと見られていたのが竹中平蔵であったからだ。  

  その竹中平蔵は経済担当大臣からはずされ、竹中の代わりに経済財政金融相のポストに就いたのは与謝野馨(かおる)である。  

  その与謝野は、就任の記者会見で、自分の仕事は「経済諮問会議と自民党のミゾを埋めることである」と語っている。  

  与謝野は経済諮問会議、すなわち大資本の意向と“自民党”のあいだには、現在大きな認識の開きがあり、どちらかが歩み寄らなければならない性質のものであると率直に語っている。  

  与謝野はどちらが歩み寄るべきと考えているのか?  

  その変の事情を厚生労働大臣になった川崎二郎はこれまた率直に語っている。  

  川崎は「同じ派閥の谷垣財務相とは、社会保障の財源をめぐり、何かと対立する関係だが」と新聞記者に問われて、  

  「私が谷垣さんをかばう必要はない。こちらが新米だから、与謝野さんや中川さん(中川秀直自民党政調会長)とも、すぐ会談をセットできる仲なので、お互いの意見をぶつけ合い、その過程は見える形にしたい」と答えている。  

  川崎新厚労相は医療費の伸びを国内総生産の伸びに抑えよという経済諮問会議の見解には反対であり、自分は新米大臣であるが、与謝野や中川(政調会長)がバックについているので、いつでも議論はしましょうとかなり強気なのである。  

  小泉内閣の構造改革というのは、本当は経済諮問会議がアイデアなり、提言なり、意見なりを出して小泉がその政策を実現するというのがその実態であった。  

  ところが与謝野はその“小泉構造改革”の源泉である経済諮問会議にでっかい石を置いて、もうそういう時代ではないだろうといいはじめているのである。  

  与謝野ばかりではない、中川(政調会長)もそうだ。総務会長になった久間もそうだし、先の川崎厚労相もそうだし、文部科学相の小坂もそうだ。  

  こういった連中に特徴的なことは一言で言えば、“調整型”の政治家であることだ。何をどう調整するのか、いうまでもなくそれは小泉純一郎=経済諮問会議と自民党の間の軋轢(あつれき)の調整である。  

  そしてこういった連中が出てきた背景には、小泉の“構造改革路線”の行き詰まりがある。つまり、自民党は支配政党としてこれ以上“構造改革”は進められないのである。  

  第一に公務員改革にしても、財政改革にしても、それは本当に労働者に大きな犠牲を強要するものであり、階級闘争という支配階級が死ぬほど恐れているものを呼び覚ます可能性がある。  

  第二に政府系金融の改革にしても、医療制度の改革にしても、自民党の伝統的な小ブルジョア(医者、商店主、小工業者、農民)の保護政策を見直すものである以上、彼らの反発は必至である。ところが小ブルジョア層の支持なくして自民党も公明党も存在しえないのであるから、現在の与党には小ブルジョアの特権や既得権に手をつけるということなど最初からできない話なのである。  

  公明党は副大臣のポストでは財務、厚生労働、経済産業、環境の四つを獲得した。前の三つはもちろん“構造改革つぶし”の布陣であり、後の一つは小池百合子へのいやがらせと「環境税つぶし」もしくは骨抜き化策動である。

  われわれは前に郵政民営化を構造改革の“本丸”(郵政民営化で構造改革は終わり)ととらえるのと“入口”(郵政民営化によって構造改革が始まる)ととらえるのでは大きな違いがあり、小泉自民党は前者と考え、財界(大資本)は後者と考えていると述べたが、 財界もピッチャー交代の時期であり、奥田会長が辞任する。誰になるかはまだ決定されていないが、こういうピッチャー交代を受けて財界(大資本)の風向きも少し変わりつつある。  

  目立たないところで“小泉構造改革”の包囲網が形成されつつあるのである。  

  小泉純一郎を賞賛する声は日々高まりつつある、もちろん“自民党調整派”も小泉批判などおくびにも出さない。小泉様々(さまさま)であるが、世の中には“敬して遠ざく”という言葉もある。むしろこの言葉の方が現在の実態をよく表している。現実に進んでいるのは小泉内閣の静かな“レームダック化”であり、一つの時代の終焉である。  

  やはり構造改革の基本理念であった“新自由主義”は世界的に退潮期に入っており、日本だけが“新自由主義”の楽園であり続けることはできなかったのである。  

  しかし、小泉内閣はある意味で“帰れない川”を渡ってしまった面もあるので、日本は小泉以前にはもう戻れない。そして9ヶ月の残務整理では整理しきれない問題が残るであろう。  


テレビ朝日に勧告する

2005-11-02 00:55:28 | Weblog

テレビ朝日に勧告する  

 われわれも仕事が終わって家に帰りテレビぐらいは見る。  

  しかし、最近の『報道ステーション』は見るにたえられないので、たいていはNHKにチャンネルを変える。  

  いつも何か重苦しい雰囲気がその場を支配していて、見ていて痛々しいニュース番組というのは、はじめて見たし、最初は物珍しさもあったが、今ではその重苦しさについて行けない。  

  これまでNHKのニュースは最低だと思っていたが、その最低のNHKのニュースより見劣りがするというのは、『報道ステーション』が最低の基準さえみたしていないということではないか。  

  公正、公平、不偏不党という言葉は、現在の『報道ステーション』の反対側にある言葉であろう。  

  必要なニュースは伝えず、つねに一定の方向に人々を導いていこうとする。    『報道ステーション』の報道というのは、社会の出来事を人々に広く告げ知らせることであろう。だとするなら、社会の一部の出来事を自分の主観をまじえて、一方的にしゃべり、自分の主観を人々に押しつけようとするのは、報道の精神に著しく反しているではないか。  

  しかも公共の電波を使ってそのようなことをするのは絶対におかしい。現在の『報道ステーション』はまるでロシアの国営放送やアメリカのFOXテレビのようなものであり、こういったテレビ局が現在の日本で許容されるかは、はなはだ疑問である。  

  なぜなら、多くの民主主義国家では、テレビは民主主義の基本として大切にされているからである。だから最低のNHKでさえ、公共性の建前を維持しているように見せかけようとしているのであろう。  

  『報道ステーション』が最初から不偏不党の原則や公共性を放棄して、ある党派の肩だけ持つ決意をしているのであれば、そのような番組は断固として廃止されるべきであるし、テレビ朝日が放送局としてそのような方針であるとするなら、放送免許を返納してインターネットテレビにでも特化すべきであろう。