現在、日本の刑事罰は確実に変わりつつある。
変化の過程にあるというよりも、それはすでに変化を終えて、これまでとはまったく別のものになっているともいえよう。
いくつもの判決の積み重ねによってなされているこの変化に主権者である国民の意思は介在していないし、介在することを許されていない。われわれはただ結果を事後的に押しつけられるだけである。
われわれが問題であると考えるのは、この変化の中でブルジョア刑法の基本原則である「罪刑法定主義」がすでに根本のところで大きく破られていることである。
「法律なくして犯罪なし」「法律なくして刑罰なし」という「罪刑法定主義」のもとで、なぜ人は公権力によって罰せられるのかは明白である。人は法律によって犯罪とされた行為を行うがゆえに、法律によって刑罰を受けるのである。
つまりブルジョア社会では、ブルジョア社会の秩序をみだしたり、逸脱する行為を「犯罪」と規定し、その逸脱の程度によって「刑罰」の軽重があらかじめ定められているのであるから、刑法典が守っている保護法益はブルジョア社会の秩序であり、その実体をなす市民生活であるということができる。
ところが最近の傾向としてはこれに「被害者の権利」が加わっている。
だから、今回の山口の母子殺害事件においても最高裁は死刑の判断基準として、「遺族の被害感情」をあげており、判決文でも「遺族の被害感情は峻烈(しゅんれつ)を極め、慰謝(いしゃ)の措置は全く講じられていない」と「遺族の被害感情」がよろしくないことが被告人を死刑にしてもいい理由としてあげられている。
これは「被害者遺族があなたを殺してくれといっていますので、あなたは死刑です」といっているのと同じである。
つまり、最近の日本のブルジョア司法は全体として、被害者遺族の報復代行業になっているのであり、その傾向は今回の最高裁判決が出るにおよんでいよいよ動かないものになっている。
そこで問題になるのは、犯罪被害者の中にはホームレスのような不幸にして身寄りのない人や暴力団員のような家族にうとまれている人がいることだ。こういう人が殺され「峻烈な被害感情」を持ってくれる人がいなければ、判決はどうなるのか?最高裁は「幸運にもあなたを殺してくれと言う人はいないので、あなたは死刑ではありません」というのだろうか?判決文の論理からしてそのようにいうしかないであろう。
そうだとすると、殺人事件においては、殺した人によって刑罰の軽重が変わることになり、しかもその差は、死刑と非死刑の差ということになる。
こういうことは「法の下の平等」に明確に反するのではないか。
かつて存在した尊属殺人が憲法違反とされた理由は、殺した人によって刑罰が変わるのは法の下の平等に反するからだったことをどうして最高裁は忘れることができるのか。
「法の下の平等」という観点から付言すれば、全体として最高裁が「被害者の権利」を認める方向に動いているということは全体として「法の下の平等」の精神に著しく欠けている。
なぜなら、一つの犯罪には加害者と被害者がいるというのであれば、「被害者の権利」を認めるのであれば、「加害者の権利」もまた認められなければならないからだ。
加害者は、どのような凶悪犯であったとしても、すくなくとも「公平な裁判」を受ける権利は有しているであろう。日本の各級裁判所が被害者遺族の報復代行業になっている実態の中で、裁判所は殺人事件の裁判の公平性をどのように確保することができるのか、最高裁は示すべきではないのか。最高裁にはその義務があるはずである。
日本の裁判所は、はじめから被害者の言い分に傾ける耳は持っているが、凶悪犯の言い分など聞く耳を持たない機関であるというのであれば、およそ裁判など無意味であろう。
公平性を欠く裁判はブルジョア司法の形骸化と信用の失墜しかもたらさないであろうし、実際、日本で進行しているのはこのような事態である。
これは日本の裁判官自体が、被害者遺族の「峻烈な被害感情」を説得する論理を持たないために、つねに彼らの大きな声に流されており、結果として日本の裁判を非常に偏ったものにしているのである。しかもその偏(かたよ)りは死刑判決(国家による殺人)の増加という憂慮すべき結果となっている。
最近、日本で凶悪事件は多くなっており、いずれの事件も社会の底に腐ったかたまりが滞留しているような暗く腐ったものを感じる。その社会の腐敗ガスが凶悪事件として吹き出しているということであれば、人々の耳目をそばだたせる猟奇事件は今後とも増加することはあっても減少することはないであろう。
増加する凶悪犯罪とこれに対抗するための見せしめの死刑の増加、こういったこと自体が日本の社会をますます暗いものにしている。そういう点では、この暗さは日本資本主義の暗さと展望のなさの現れであろう。