労働者のこだま(国内政治)

政治・経済問題を扱っています。筆者は主に横井邦彦です。

小泉純一郎氏の頭痛のタネ

2006-08-29 03:20:33 | Weblog
 
 小泉純一郎氏は日本の総理大臣で一応行政機関の長ということになっている。
 
 だから一言でいえばとてもエライ人であり、われわれの10倍以上の給料をもらっているし、われわれがもらったことがないボーナスさえもらっている。
 
 そういう人がわれわれのような貧乏な労働者をつかまえて、「なんだお前たちは」などというのはいかがなものでしょうか。
 
 内閣総理大臣ドノ、金持ちケンカせず、ではないですか。
 
 ことの発端は、自民党の加藤議員の実家のテロ攻撃にかんすることで、「言論の中を暴力で踏みにじるのは言語道断だ。」というはじめて発言したことだ。これは当然というか、遅すぎる発言である。
 
 そして言う。「よその国の民族主義を煽る勢力があることは承知している」(ハッハッハッ)云々である。
 
 よその国、すなわち、中国ガンバレとか北朝鮮ガンバレとかいう勢力が日本に存在するのだろうか?
 
 確かにそういう勢力はあるかも知れない、しかし小泉純一郎が言っているのはそういうことではない。
 
 「安倍晋三のアホは第二次世界大戦の報復主義者で大東亜共栄圏の再建を願っている」とか。
 
 「長州の安倍晋三は軍国主義者で首相になるより、右翼の街宣車に乗っていた方が似合うのではないか」とか。
 
 「靖国神社が軍国主義とテロの温床になっているとするなら、焼却処分もありうる」とか。
 
 そういう不穏当な発言を繰り返している連中がいるから、アメリカ合衆国を含む近隣諸国が、ジャパニーズ・ミリタリズムがカムバックするのではないかという危惧の念を抱いて、民族主義を煽り立てられているのであって、一番悪いのは「そういう連中なのだ」というのである。
 
 できることならば、小泉純一郎本人から「そういう不埒(ふらち)な連中」の名前を言ってほしかったが、われわれに限って言えば、それは誤解というものです。
 
 われわれはどこの国の労働者にせよ、われわれの仲間であり友人であると思っているが、どこの国の国家機構に対しても影響力は持っていないし、金正日にせよ、胡錦濤にせよ、われわれの本当の正体を知ったら逃げていくような連中で、むしろお互いに「同志」とみられるのは非常に迷惑であると考えている関係だ。
 
 だからわれわれが小泉純一郎と安倍晋三に対して、「あいつらバカじゃないか」といったところで、それが原因で何かが起こるというということは、日本国内においても、中国においても、韓国においても、北朝鮮においても、アメリカ合衆国においてもありえない話なのだ。
 
 それにしても、情けない。一国の首相が報道陣を前に言うべき話ではないだろう。公安調査庁にでも、愛知県警の公安3課にでも聞いてみろ、赤星マルクス研究会の構成員は何人ですかって。われわれは今のところはずかしくって人数はいえないが、彼らなら正確な人数を教えてくれるだろう。
 
 日本で右翼のテロリズムが台頭しはじめているのは、いうまでもなく右翼の望んでいる政権が誕生しようとしているからであり、彼らが民族主義・排外主義政権誕生の道を掃き清めようとしているからにほかならない。
 
 一方はテロリズムによって、他方は政治的権謀術策によって、と手法は違うが目指しているところが同じだから、小泉純一郎と安倍晋三が動けば、右翼テロリストたちも同調して動くのである。
 
 そういう事態に対して、内閣総理大臣たる小泉純一郎は重大な責任があるとわれわれは言っているのである。
  

暴走する安倍晋三と困惑する大資本、そしてマスコミの沈黙

2006-08-28 03:33:31 | Weblog
 われわれはかつてイランでアハマディネジャドが大統領選挙に当選したとき、街宣車に乗っていた右翼が、何かの間違いで首相になってしまったようなものと評したが、現在日本でも当時のイランと同様なことが起ころうとしている。
 
 最初に断っておきたいが、われわれの読者の中には、赤星マルクス研究会は社会主義派なのだから、日本が軍国主義化すれば、社会主義革命が早まっていいのではないかという人もいる。
 
 もちろんわれわれはこのような無責任な見解には組みすることができない。日本が軍国主義化を指向すれば、最初に、凶暴なテロリズムの犠牲になるのは労働者階級なのであって、われわれはわれわれの仲間が、あるいは獄につながれ、あるいは右翼の襲撃を受けて傷つき、あるいは職場から放逐されるなどという事態を歓迎できるわけがないのであって、いくら歴史的必然性があるとはいえ、少しでも悪あがきをすることができる条件があれば、悪あがきをすべきであると思っている。
 
 そして、もし人々が右翼の街宣車に乗っている安倍晋三に拍手喝采を送っているとしたら、それは人々の中に鬱屈したものが蓄積されているからであり、ブルジョア的政治はその鬱屈した心情を自己の権力獲得に利用するのではなく、解消するためにこそ努力をはらうべきなのである。なぜならその鬱屈した心情から発する排外主義、民族主義はファシズムのための豊饒(ほうじょう)な土壌を提供するからである。
 
 もちろん安倍晋三政権の誕生は、直接的な意味での、ファシズム政権の登場というわけではないが、破滅へのはじまりを告げる内閣という点で画期的な内閣となりうる。そういう点では1927年に組閣した政友会の田中義一内閣と似ているといえば似ている。(田中義一も安倍晋三と同じ長州閥で、過去において長州閥から首相になった人物でまともな人間は一人もいない。それは長州閥が山県有朋以来、日本陸軍の中枢部に巣くっていたからで、日本軍国主義の巣窟そのものだったからである。)
 
 対中国協調外交を掲げる幣原外交に代わって、対中国強硬路線を訴えて組閣した田中義一内閣は、戦前の政党政治の終焉期の内閣ではあったが、軍国主義政権そのものではなかった。しかし、この内閣のもとで、3.15事件、4.16事件といった一連の共産党関係者の検挙が行われ、治安維持法違反者に対する拷問に唯一反対した山本宣治が暗殺されている。また、全国の警察署に特別高等課(特高警察)が設置され、治安維持法も改悪され最高刑が死刑に引き上げられたほか、「目的遂行罪」(明確な党員でなくとも目的の遂行に役立つとみられた行為も処罰する)という一種の「共謀罪」のような規定が設けられ、この規定が恣意的に運用されることによって、政府に反対したり、労働運動を行ったりするものにも「治安維持法」が適用されるようになった。
 
 この国を挙げての左翼、労働運動に対する大弾圧とテロリズムと平行して行われたのは、中国侵略への準備行動であり、1927年には対中国政策決定のために「東方会議」が開かれ、対中国強硬路線が採用されている。
 
 さらに、戦争を想定して、国家総動員準備のために、内閣の外局として資源局が設置されている。
 
 そして、満州を中国から切り離す策動の第1弾として、関東軍参謀、河本大作による張作霖爆殺事件が起きている。関東軍はこの時、張作霖爆殺と同時に満州を軍事的に制圧する計画であったが、それは軍部中央の反対により果たせなかった。
 
 この河本大作による張作霖爆殺事件は関東軍による暴走の始まりであるかのようにいわれているが、実は国内の田中内閣の動きと連動しており、それを先取りするかたちで実行されていたのである。
 
 政府は当初、張作霖爆殺の実行犯が誰であるか知っており、それを隠していたが、それはやがて昭和天皇の知るところとなり、田中義一は昭和天皇に叱責されて内閣を投げ出している。
 
 この事件によって内閣は倒れたが、河本大作は殺人犯として処刑にもならず、刑事裁判にもかけられなかったので、関東軍は31年に再度、自作自演の謀略によって満州鉄道を爆破し、それをきっかけにして満州国をでっち上げるという満州事変を引き起こしている。
 
 田中義一の失脚後、政府は野党第一党の民政党の浜口雄幸にゆだねられ、浜口内閣は緊縮財政に取り組むが、浜口雄幸はテロに倒れ、次の若槻内閣の時に満州事変が勃発して、日本は中国との15年戦争に引き込まれていく。
 
 田中義一内閣が戦前の政党政治に取り返しのつかない打撃を与えたことは疑いのないことであろう。日本の軍国主義化は政治の反動化のみならず、右翼や軍部のテロリズムと手をたずさえて進んだのであって、田中内閣は自らの反動政治を実施するために、山本宣治の暗殺や河本大作による張作霖爆殺という右翼や軍部のテロリズムに目をつぶったが、そのことが右翼や軍部のテロリストたちを勇気づけ、彼らの暗躍をゆるし、最後には政党政治そのものがテロリズムによって葬られてしまったのである。
 
 もちろんこの当時の日本資本主義は金融恐慌と世界恐慌のまっただ中にあり、現在とは比較にならないほど深刻な経済危機があり、現在と同等に考えられるべきではない。
 
 しかしそれでも、現在、政治の反動化と右翼のテロリズムが手をたずさえて行進しており、現首相の小泉純一郎も次期首相と目される安倍晋三も自分たちの政治がテロリズムによって補完され、右翼勢力によって熱狂的に支援されていることに対して沈黙している。
 
 それにしても安倍晋三政権はどこに行こうとしているのか?   
 
 安倍晋三はこんなことを言っている。
 
 「戦後60年間、外国が作った土俵でよい相撲を取ってほめてもらい、国益を確保するという姿勢だった。しかしこれからは自分たちで土俵をつくっていく」のだと。そのために中国も韓国も一歩踏み出してほしい、云々。
 
 「戦後60年間、外国が作った土俵でよい相撲を取ってほめてもらう」というのは戦後の世界体制の中で日本が活動し利益を見出してきたということをさしており、「これからは自分たちで土俵をつくっていく」というのは戦後の世界体制とは区別された日本独自の「大東亜共栄圏」のようなものを目指すのだということである。
 
 もちろん、「八紘一宇」(世界を一つの家とするという日本軍国主義のスローガン)といっても、家長は日本国であり、中国、韓国、北朝鮮、台湾はそのしもべである。
 
 安倍晋三はアジア諸国に向かって、日本は戦後世界秩序に挑戦して、「大東亜共栄圏」の建設に乗り出すから、協力せよ、さもなくば・・・というのである。
 
 この場合、語られなければならないのは・・・の部分であろう。なぜなら、このような愚劣な構想に賛成する国はないからである。奴隷にしてやるからこっち来いや、というのはヤクザ、チンピラの言い草であって、安倍晋三はアジア諸国に向かって単に恫喝しているだけなのである。
 
 安倍晋三は浅はかにも、日米同盟が維持されていれば、アジア諸国が少しぐらいガタガタ言っても何とかなると思いこんでいるが、戦後60年間続けてきた「外国が作った土俵でよい相撲を取ってほめてもらう」(戦後世界体制の中でよき一員として活動する)ことを精算するということは、日本が戦後世界体制の中から離脱すると公然と宣言するいうことであり、戦前の日本とドイツの国際連盟からの離脱に匹敵することであろう。
 
 はっきり言って、安倍晋三はアメリカ合衆国のことを何も知らない。アメリカがこういうことを支持することはありえない。むしろこれからアメリカは日本と疎遠になって行き、気がついたら、中国・韓国・ロシアVS日本・アメリカではなく、アメリカ・中国・韓国ロシアVS日本という最悪の構造になっているかも知れない。
 
 そうなれば日本はおしまいである。
 
 これにはさすがの大資本も深刻な危機感を持っているようで、日本の総資本のイデオローグである丹羽は、世界あっての日本であり、日本は世界から多くの恩恵を受けているといった後に、「経済オンチの人が首相にはなってほしくない」と苦言を呈している。
 
 おもしろいのはこの後で、これを聞いた司会の俵は「経済オンチの人は3人の候補者の誰?、誰?誰?」と何度も聞き返している。それは後ろに並んだコメンテーターが誰一人としてその名前を言おうとしなかったからである。
 
 このマスコミの沈黙は歴史に記録されるべきである。なぜなら、第二次世界大戦の報復主義者が政権を獲得できるようなことがあれば、その責任の多くはこのようなマスコミの沈黙にあるのだから。   

暴走する安倍晋三と困惑する大資本、そしてマスコミの沈黙

2006-08-28 03:33:23 | Weblog
 われわれはかつてイランでアハマディネジャドが大統領選挙に当選したとき、街宣車に乗っていた右翼が、何かの間違いで首相になってしまったようなものと評したが、現在日本でも当時のイランと同様なことが起ころうとしている。
 
 最初に断っておきたいが、われわれの読者の中には、赤星マルクス研究会は社会主義派なのだから、日本が軍国主義化すれば、社会主義革命が早まっていいのではないかという人もいる。
 
 もちろんわれわれはこのような無責任な見解には組みすることができない。日本が軍国主義化を指向すれば、最初に、凶暴なテロリズムの犠牲になるのは労働者階級なのであって、われわれはわれわれの仲間が、あるいは獄につながれ、あるいは右翼の襲撃を受けて傷つき、あるいは職場から放逐されるなどという事態を歓迎できるわけがないのであって、いくら歴史的必然性があるとはいえ、少しでも悪あがきをすることができる条件があれば、悪あがきをすべきであると思っている。
 
 そして、もし人々が右翼の街宣車に乗っている安倍晋三に拍手喝采を送っているとしたら、それは人々の中に鬱屈したものが蓄積されているからであり、ブルジョア的政治はその鬱屈した心情を自己の権力獲得に利用するのではなく、解消するためにこそ努力をはらうべきなのである。なぜならその鬱屈した心情から発する排外主義、民族主義はファシズムのための豊饒(ほうじょう)な土壌を提供するからである。
 
 もちろん安倍晋三政権の誕生は、直接的な意味での、ファシズム政権の登場というわけではないが、破滅へのはじまりを告げる内閣という点で画期的な内閣となりうる。そういう点では1927年に組閣した政友会の田中義一内閣と似ているといえば似ている。(田中義一も安倍晋三と同じ長州閥で、過去において長州閥から首相になった人物でまともな人間は一人もいない。それは長州閥が山県有朋以来、日本陸軍の中枢部に巣くっていたからで、日本軍国主義の巣窟そのものだったからである。)
 
 対中国協調外交を掲げる幣原外交に代わって、対中国強硬路線を訴えて組閣した田中義一内閣は、戦前の政党政治の終焉期の内閣ではあったが、軍国主義政権そのものではなかった。しかし、この内閣のもとで、3.15事件、4.16事件といった一連の共産党関係者の検挙が行われ、治安維持法違反者に対する拷問に唯一反対した山本宣治が暗殺されている。また、全国の警察署に特別高等課(特高警察)が設置され、治安維持法も改悪され最高刑が死刑に引き上げられたほか、「目的遂行罪」(明確な党員でなくとも目的の遂行に役立つとみられた行為も処罰する)という一種の「共謀罪」のような規定が設けられ、この規定が恣意的に運用されることによって、政府に反対したり、労働運動を行ったりするものにも「治安維持法」が適用されるようになった。
 
 この国を挙げての左翼、労働運動に対する大弾圧とテロリズムと平行して行われたのは、中国侵略への準備行動であり、1927年には対中国政策決定のために「東方会議」が開かれ、対中国強硬路線が採用されている。
 
 さらに、戦争を想定して、国家総動員準備のために、内閣の外局として資源局が設置されている。
 
 そして、満州を中国から切り離す策動の第1弾として、関東軍参謀、河本大作による張作霖爆殺事件が起きている。関東軍はこの時、張作霖爆殺と同時に満州を軍事的に制圧する計画であったが、それは軍部中央の反対により果たせなかった。
 
 この河本大作による張作霖爆殺事件は関東軍による暴走の始まりであるかのようにいわれているが、実は国内の田中内閣の動きと連動しており、それを先取りするかたちで実行されていたのである。
 
 政府は当初、張作霖爆殺の実行犯が誰であるか知っており、それを隠していたが、それはやがて昭和天皇の知るところとなり、田中義一は昭和天皇に叱責されて内閣を投げ出している。
 
 この事件によって内閣は倒れたが、河本大作は殺人犯として処刑にもならず、刑事裁判にもかけられなかったので、関東軍は31年に再度、自作自演の謀略によって満州鉄道を爆破し、それをきっかけにして満州国をでっち上げるという満州事変を引き起こしている。
 
 田中義一の失脚後、政府は野党第一党の民政党の浜口雄幸にゆだねられ、浜口内閣は緊縮財政に取り組むが、浜口雄幸はテロに倒れ、次の若槻内閣の時に満州事変が勃発して、日本は中国との15年戦争に引き込まれていく。
 
 田中義一内閣が戦前の政党政治に取り返しのつかない打撃を与えたことは疑いのないことであろう。日本の軍国主義化は政治の反動化のみならず、右翼や軍部のテロリズムと手をたずさえて進んだのであって、田中内閣は自らの反動政治を実施するために、山本宣治の暗殺や河本大作による張作霖爆殺という右翼や軍部のテロリズムに目をつぶったが、そのことが右翼や軍部のテロリストたちを勇気づけ、彼らの暗躍をゆるし、最後には政党政治そのものがテロリズムによって葬られてしまったのである。
 
 もちろんこの当時の日本資本主義は金融恐慌と世界恐慌のまっただ中にあり、現在とは比較にならないほど深刻な経済危機があり、現在と同等に考えられるべきではない。
 
 しかしそれでも、現在、政治の反動化と右翼のテロリズムが手をたずさえて行進しており、現首相の小泉純一郎も次期首相と目される安倍晋三も自分たちの政治がテロリズムによって補完され、右翼勢力によって熱狂的に支援されていることに対して沈黙している。
 
 それにしても安倍晋三政権はどこに行こうとしているのか?   
 
 安倍晋三はこんなことを言っている。
 
 「戦後60年間、外国が作った土俵でよい相撲を取ってほめてもらい、国益を確保するという姿勢だった。しかしこれからは自分たちで土俵をつくっていく」のだと。そのために中国も韓国も一歩踏み出してほしい、云々。
 
 「戦後60年間、外国が作った土俵でよい相撲を取ってほめてもらう」というのは戦後の世界体制の中で日本が活動し利益を見出してきたということをさしており、「これからは自分たちで土俵をつくっていく」というのは戦後の世界体制とは区別された日本独自の「大東亜共栄圏」のようなものを目指すのだということである。
 
 もちろん、「八紘一宇」(世界を一つの家とするという日本軍国主義のスローガン)といっても、家長は日本国であり、中国、韓国、北朝鮮、台湾はそのしもべである。
 
 安倍晋三はアジア諸国に向かって、日本は戦後世界秩序に挑戦して、「大東亜共栄圏」の建設に乗り出すから、協力せよ、さもなくば・・・というのである。
 
 この場合、語られなければならないのは・・・の部分であろう。なぜなら、このような愚劣な構想に賛成する国はないからである。奴隷にしてやるからこっち来いや、というのはヤクザ、チンピラの言い草であって、安倍晋三はアジア諸国に向かって単に恫喝しているだけなのである。
 
 安倍晋三は浅はかにも、日米同盟が維持されていれば、アジア諸国が少しぐらいガタガタ言っても何とかなると思いこんでいるが、戦後60年間続けてきた「外国が作った土俵でよい相撲を取ってほめてもらう」(戦後世界体制の中でよき一員として活動する)ことを精算するということは、日本が戦後世界体制の中から離脱すると公然と宣言するいうことであり、戦前の日本とドイツの国際連盟からの離脱に匹敵することであろう。
 
 はっきり言って、安倍晋三はアメリカ合衆国のことを何も知らない。アメリカがこういうことを支持することはありえない。むしろこれからアメリカは日本と疎遠になって行き、気がついたら、中国・韓国・ロシアVS日本・アメリカではなく、アメリカ・中国・韓国ロシアVS日本という最悪の構造になっているかも知れない。
 
 そうなれば日本はおしまいである。
 
 これにはさすがの大資本も深刻な危機感を持っているようで、日本の総資本のイデオローグである丹羽は、世界あっての日本であり、日本は世界から多くの恩恵を受けているといった後に、「経済オンチの人が首相にはなってほしくない」と苦言を呈している。
 
 おもしろいのはこの後で、これを聞いた司会の俵は「経済オンチの人は3人の候補者の誰?、誰?誰?」と何度も聞き返している。それは後ろに並んだコメンテーターが誰一人としてその名前を言おうとしなかったからである。
 
 このマスコミの沈黙は歴史に記録されるべきである。なぜなら、第二次世界大戦の報復主義者が政権を獲得できるようなことがあれば、その責任の多くはこのようなマスコミの沈黙にあるのだから。   

後ろ暗き出発

2006-08-26 00:40:00 | Weblog
 漏れ伝わるところによると、安倍晋三は総裁選への立候補の第一声を東京ではなく、被爆地広島でやるそうである。
 
 「戦う政治家」として、そして日本の核武装容認論者として、そして第二次世界大戦の報復主義者として、被爆地広島で「核攻撃には、核攻撃を!北朝鮮の地下核実験には、日本の地下核実験を!北朝鮮のテポドンと中国のICBMには、日本のICBMを!今、ここで大日本帝国の報復が始まる!」と世界に向け大絶叫すると思いきや、どうもそうではないらしい。
 
 そういう点では、この愚か者が広島で何をいうのか、楽しみといえば楽しみなのだが、最近は何かにつけて、若干の軌道修正を図ろうとしているかのようである。
 
 あまりにも露骨な民族主義、排外主義は日本の労働者ばかりか諸外国にまでひんしゅくを買うことが分かりかけてきたのか、平和主義者を装うのに必死である。
 
 もちろん、政権を取るまではハト派で、政権を取ったあかつきにはタカ派であるという姿はあまりにも見え透いている。
 
 むしろ、現在の安倍晋三の醜態は、彼の政権獲得闘争に何か後ろ暗いものがあることを物語っている。
 
 したがって安倍晋三が本当に語らなければならないのは、その「後ろ暗いもの」そのものであろう。
 

国家社会主義とは何か?

2006-08-25 01:37:42 | Weblog
 アドルフ・ヒトラーの政党がナチスと呼ばれているのは、彼らの正式な政党名が国家社会主義労働党であり、その省略形がナチスであることに由来している。
 
 概念的には、国家主義=社会主義であり、国家によるコミューン(社会主義共同体)を指向しているという点で、反資本主義的、改良主義的な側面があり、ナチスが野党時代にはそういう傾向も見られた。
 
 この国家を国民国家とすれば、国家主義=国民主義=社会主義ということである種の社会民主主義に接近するのだが、ヒトラーのナチスというのは強力な指導者が民族の難局を打開すべく奮闘するという指導者国家で、国民に求められるのは指導者の指導に従うことのみである。この点、ナチスはブルジョア民主主義の枠内には収まらない政党である。
 
 またナチスは“合法政党”として、選挙によって政権の獲得を目指したが、その運動はつねに反対派へのテロリズムによって補完されていた。突撃隊(SA)という専門のテロ部隊を持ち、反対派への襲撃が繰り返され、26年には突撃隊(SA)のもとに、ヒトラー・ユーゲントという青少年組織もつくられ、ドイツの多くの青少年が熱狂的に参加した。
 
 もちろん、国家によるコミューン(社会主義共同体)建設による、理想社会の建設云々は単なる幻想であって、現実の問題としてワイマール共和国は、世界大恐慌期の資本主義として、失業、倒産、経済危機による生活破綻に直面していた。
 
 ナチスはこれらの資本主義がもたらす弊害をユダヤ人とユダヤ資本に求め、ユダヤ人排撃を盛んに宣伝し、それは突撃隊(SA)によって現実的なユダヤ人に対する暴力として現れた。
 
 これらすべてのことが、現在の日本で起ころうとしており、一部はすでに現実となっている。
 
 もちろん安倍晋三には、ヒトラーやゲッペルスや小泉純一郎のようなペテン能力はないので、日本には「美しい第三帝国」は生まれないだろうが、それでもファシスト国家の劇画版政権はもうすぐ生まれそうである。
 
 差し迫った経済危機もないのにどうしてだろうか?
 
 それはいうまでもなく、現在の若い人々が「美しい第三帝国」に生きたいと思っているからである。先ほど、国家によるコミューン(社会主義共同体)建設による、理想社会の建設云々は単なる幻想だといったが、それは客観的にそういえるだけであって、現実にはそれはすでに多くの若い人々の心をとらえている。
 
 彼らの心の中では「国家」は宗教のようなものであり、宗教の世界においては、現実の生活がみすぼらしければ、みすぼらしいほど天上の世界が光り輝いているようなものである。そして宗教の「神の国」は、日本の若者にあっては「大日本帝国」なのである。
 
 日本のヤング右翼たちの「国家像」に現実感が欠落しているのは当然である。なぜなら彼らは宗教としての「国家」、そこでは人々は平等で自由であり、豊かであるところの「神の国」として「国家」を見ているからであり、国家そのものが信仰の対象、すなわち、神となっているのである。
 
 したがってわれわれは現在の若者がおかれている、みすぼらしい生活にこそ、過酷な競争社会の現実にこそ、まず目を向けなければならない。
 
 そしてわれわれは現在の日本の若者たちの苦境を利用して、自らの政治的野心を達成しようとする自由民主党のカスどもとこそ断固として闘う必要がある。
 
 自由民主党がどうしようもない連中が寄り集まってできている政党であることは以前から分かっていたが、ここへ来て彼らの愚かさは、世界でも特筆すべきものになっている。
 
 時流に乗ることが権力に接近する道であり、権力に接近することが栄達の道である、これが現在の自由民主党員の政治信条のすべてである。
 
 したがって安倍晋三は権力に接近するために、若者たちに芽生えている自然発生的なファシズムに身をゆだね、民族主義、排外主義を煽ることに熱中しており、その他の自民党員が安倍晋三の周囲に押しかけている。要するに、安倍晋三政権の誕生に力を貸して、次期政権のポストをかすめ取ろうというのである。
 
 彼らは、これまでもそうだったから、今回も同じことをやっているだけであるとしか考えていないが、今回の権力闘争はこれまでとは様相が異なる。
 
 自然発生的なファシズムに身をゆだねている人物が政権に接近しているのである。そして、その当の人物である安倍晋三にはこの運動を統御する能力がない。彼自身が流れに身をゆだねているのだから、どこへ行き、何をするのかさえ定かではない政権が誕生するのである。
 
 しかも、宗教と国家が根底的に異なるのは、宗教は彼岸の世界でありこの世の世界ではないのだからどういうデタラメなことをいってもこの世で破綻することはないのだが、国家は此岸の現実であり、この世の権力である。国家によるコミューン(社会主義共同体)建設による、理想社会の建設を約束しても、その結果は、眼前の現実として、動かすことができない事実として、たちまち人々の前に出現せざるをえない。
 
 だからナチスはユダヤ人を大量虐殺しなければならなかったのである。彼らは理想国家が出現しない理由として、ユダヤ人の存在を挙げていたのだから、人々が現在の世界は理想国家ではないといえば、彼らを差別するだけではなく、隔離し、殺戮するほかに人々を納得させる方法はないではないか!
 
 やがて誕生するであろう、新政権もヒトラーのドイツと同じ問題に直面する。
 
 「美しい国」建設を掲げながら、その建設を妨げているのが、意地の悪い隣人たち(中国、韓国、北朝鮮、台湾)であるとするのであれば、人々がまだ「美しい国」は建設されていないと叫べば、意地の悪い隣人たちを再度やっつけにかかる以外にないではないか。
 
 東京の都知事が、中国のことをシナと呼び、中国人のことをチャンコロといい、その他国の人々に対して侮蔑的な発言を繰り返したとしても、彼は政府の人間ではないから国際問題にはならないが、同じことを首相がいえばそれはたちまち国際問題であろう。
 
 この問題の根が深いことは、ヤング右翼が「美しい神の国、大日本帝国」に自分を投影して、浸ろうとしている優越感には、「差別的」なものが多分に含まれていることだ。つまり、「自分」=「自国」と「他者」=「他国」を差別して、「自分」=「自国」が「他者」=「他国」よりも上であることを実感したいという理不尽な要求が含まれており、彼らの要求に応えようとするかぎり、意地の悪い隣人たち(中国、韓国、北朝鮮、台湾)との関係は悪化せざるをえない。
 
 さらに、ヤング右翼が「美しい神の国、大日本帝国」に自分を投影して、浸ろうとしている優越感は、実は現実の世界における劣等感の裏返しにしかすぎないものであり、ある種の凶暴性を持っている。だから彼らの運動ははじめから反対派へのテロリズムを含んでおり、彼らの政権が生まれればそれはもっと広範なものになっていく可能性も秘めている。
 
 こうなってくると、「安倍晋三には、ヒトラーやゲッペルスや小泉純一郎のようなペテン能力はないので、日本には『美しい第三帝国』は生まれないだろうが、それでもファシスト国家の劇画版政権はもうすぐ生まれそうである。」などと悠長なことはいっていられなくなる。
 
 
               

ホームレスの人々をどうするのか?

2006-08-22 03:01:30 | Weblog
 赤星マルクス研究会はホームレスをどうするのかという質問がありましたのでそれに答えたいと思います。
 
 もっともこのような質問をした人は、ホームレスは公園を不等に占拠しているのだから追い出すべきだという見解をもっており、われわれにその同意を求めているのですが、もちろんわれわれはこのような見解を支持することができません。
 
 その理由は言うまでもないことです。どこへも行くところがないので公園で野宿している人を公園から追い出したらそれこそのたれ死にするほかないわけで、人が死ぬかも知れないことを平気で語り、平気で実行できる人は医学的な治療が必要なほど精神が病んでいるとしかいえないからです。
 
 この人ばかりではなく、今の二十代のヤング右翼はどこか冷血です。もちろん、長い間放置された人、本当の友情も愛情を知らずに育った人は弱いものいじめをして喜ぶというゆがんだ人格の持ち主になることが多いのですが、日本の社会の中でこういう一群の人々が形成されているというのはゆゆしい問題です。
 
 これが30代になるともっと深刻です。なぜなら10代、20代のうちは弱いものをいじめていれば、はい上がれるという情けない幻想が破綻することはないのですが、30代になると本当の選別が始まり、選別されてエリートになるのはほんの一握りで、大半の人間はそうではないし、自分はやはり大半の人間の中に入っているということが分かってくるからです。
 
 だから今は「いじめ組」に入っていてもいつ「いじめられ組」になるか分からないという恐怖感から本当の「心の病気」になる人がでてくるからです。
 
 40代以降はもう選別が終わった後で、残るべき人が残り、あきらめるべき人があきらめ、去るべき人が去った状態ですので社会的ストレスはそんなに強くないはずです。
 
 その代わり、自殺というもっといやなことが増えてきます。
 
 今の日本の社会では若い人に大きな心理的なストレスが加わり、その一角が重圧に耐えきれずに崩れている状態です。このように考えると、われわれにホームレスを餓死させよとお説教をたれる心を病んだヤング右翼がいてもぜんぜん不思議ではないわけです。
 
 ところでこの若い人におおいかぶさっている重圧というのは何でしょうか?
 
 それは資本主義の蓄積法則である相対的過剰人口の創出にほかなりません。つまり資本主義は失業者、零落した人々を意図的に作り出すことによって、賃金の運動を制御しているのです。
 
 もっと端的に言えば、資本主義社会では労働者階級の中に失業している人や零落している人または不安定な臨時雇いやパート、派遣労働者という階層を作り出すことによって、労働者に競争を強要し、ボーナスなしの臨時雇いになりたくなかったら働けとか、文句を言うやつはリストラしてホームレスにしてやるとか、アルバイトだから低賃金でも仕方がないだろうとか、労働者の賃金を切り下げ、搾取を強化するための脅迫の道具として使われています。
 
 労働者の競争といっても、現在の労働現場は協業、つまり労働者が力を合わせて仕事をやっているので、この中で優劣をつけると言ったら、上司にゴマをすったり、足の引っ張り合いをしたり、他人をけ落としておこぼれに預かったり、といったさもしいやり方しかないわけです。
 
 こういうさもしいやり方が社会で蔓延しているから、子どもたちも「いじめ」に走り、このいじめ社会の卒業者がいまでは20代となってヤング右翼を生み出しているのです。
 
 だから今のヤング右翼の諸君たちが、人間関係としてはケンカしか知らない、国家の関係としては闘争しか知らない、弱いものは踏みつぶされて当然だなどという偏った思考様式をもっていることの責任の大半は日本資本主義のさもしさが原因です。
 
 20世紀の後半には、各国の政府は完全雇用を掲げ、失業対策に力を入れ、相対的過剰人口を縮小させる努力するふりをして、マルクスの相対的過剰人口は過去のものとなった。今では一億総中流だなどといわれてきましたが、90年代の不況期以降、むしろ能力主義的給与体系やリストラによる失業者の増加、雇用の不正規化、等々をとおして相対的過剰人口(失業者や零落した人々)の創出と労働者間の競争を促進させる方策を積極的に推し進める政策が取られてきました。
 
 これがいわゆる“格差”というものですが、われわれは社会政策によってホームレスの人々を救済することはもちろん必要であると思いますが、むしろその限界こそ指摘しなければなりません。相対的過剰人口は資本の蓄積法則に基づくものである以上、資本主義的な生産様式の廃棄によってのみ可能であると考えます。
 
 ですから、ホームレスをどうするのかというという問いには、われわれは世界を変革せよ!世界は変革を要する!と答えるでしょう。
 
   

ホームレスの人々をどうするのか?

2006-08-22 03:01:22 | Weblog
 赤星マルクス研究会はホームレスをどうするのかという質問がありましたのでそれに答えたいと思います。
 
 もっともこのような質問をした人は、ホームレスは公園を不等に占拠しているのだから追い出すべきだという見解をもっており、われわれにその同意を求めているのですが、もちろんわれわれはこのような見解を支持することができません。
 
 その理由は言うまでもないことです。どこへも行くところがないので公園で野宿している人を公園から追い出したらそれこそのたれ死にするほかないわけで、人が死ぬかも知れないことを平気で語り、平気で実行できる人は医学的な治療が必要なほど精神が病んでいるとしかいえないからです。
 
 この人ばかりではなく、今の二十代のヤング右翼はどこか冷血です。もちろん、長い間放置された人、本当の友情も愛情を知らずに育った人は弱いものいじめをして喜ぶというゆがんだ人格の持ち主になることが多いのですが、日本の社会の中でこういう一群の人々が形成されているというのはゆゆしい問題です。
 
 これが30代になるともっと深刻です。なぜなら10代、20代のうちは弱いものをいじめていれば、はい上がれるという情けない幻想が破綻することはないのですが、30代になると本当の選別が始まり、選別されてエリートになるのはほんの一握りで、大半の人間はそうではないし、自分はやはり大半の人間の中に入っているということが分かってくるからです。
 
 だから今は「いじめ組」に入っていてもいつ「いじめられ組」になるか分からないという恐怖感から本当の「心の病気」になる人がでてくるからです。
 
 40代以降はもう選別が終わった後で、残るべき人が残り、あきらめるべき人があきらめ、去るべき人が去った状態ですので社会的ストレスはそんなに強くないはずです。
 
 その代わり、自殺というもっといやなことが増えてきます。
 
 今の日本の社会では若い人に大きな心理的なストレスが加わり、その一角が重圧に耐えきれずに崩れている状態です。このように考えると、われわれにホームレスを餓死させよとお説教をたれる心を病んだヤング右翼がいてもぜんぜん不思議ではないわけです。
 
 ところでこの若い人におおいかぶさっている重圧というのは何でしょうか?
 
 それは資本主義の蓄積法則である相対的過剰人口の創出にほかなりません。つまり資本主義は失業者、零落した人々を意図的に作り出すことによって、賃金の運動を制御しているのです。
 
 もっと端的に言えば、資本主義社会では労働者階級の中に失業している人や零落している人または不安定な臨時雇いやパート、派遣労働者という階層を作り出すことによって、労働者に競争を強要し、ボーナスなしの臨時雇いになりたくなかったら働けとか、文句を言うやつはリストラしてホームレスにしてやるとか、アルバイトだから低賃金でも仕方がないだろうとか、労働者の賃金を切り下げ、搾取を強化するための脅迫の道具として使われています。
 
 労働者の競争といっても、現在の労働現場は協業、つまり労働者が力を合わせて仕事をやっているので、この中で優劣をつけると言ったら、上司にゴマをすったり、足の引っ張り合いをしたり、他人をけ落としておこぼれに預かったり、といったさもしいやり方しかないわけです。
 
 こういうさもしいやり方が社会で蔓延しているから、子どもたちも「いじめ」に走り、このいじめ社会の卒業者がいまでは20代となってヤング右翼を生み出しているのです。
 
 だから今のヤング右翼の諸君たちが、人間関係としてはケンカしか知らない、国家の関係としては闘争しか知らない、弱いものは踏みつぶされて当然だなどという偏った思考様式をもっていることの責任の大半は日本資本主義のさもしさが原因です。
 
 20世紀の後半には、各国の政府は完全雇用を掲げ、失業対策に力を入れ、相対的過剰人口を縮小させる努力するふりをして、マルクスの相対的過剰人口は過去のものとなった。今では一億総中流だなどといわれてきましたが、90年代の不況期以降、むしろ能力主義的給与体系やリストラによる失業者の増加、雇用の不正規化、等々をとおして相対的過剰人口(失業者や零落した人々)の創出と労働者間の競争を促進させる方策を積極的に推し進める政策が取られてきました。
 
 これがいわゆる“格差”というものですが、われわれは社会政策によってホームレスの人々を救済することはもちろん必要であると思いますが、むしろその限界こそ指摘しなければなりません。相対的過剰人口は資本の蓄積法則に基づくものである以上、資本主義的な生産様式の廃棄によってのみ可能であると考えます。
 
 ですから、ホームレスをどうするのかというという問いには、われわれは世界を変革せよ!世界は変革を要する!と答えるでしょう。
 
   

われわれは関与しない

2006-08-15 13:09:31 | Weblog
 小泉純一郎の愚行(靖国神社参拝)に対するわれわれの態度はもう何度も表明している。
 
 したがって、今回、われわれの警告を無視して、二度、三度と同様なことが繰り広げられたことに対するコメントはない。
 
 日本の労働者人民の声を無視して行われたことに対する、結果責任はすべて政府自民党が負うべきなのであり、このような純然たる日本の労働者階級および国際社会に対する挑発行為によって引き起こされるであろうすべての出来事にたいしてわれわれは責任を負わない。
 
 靖国神社をどうするのか労働者に聞くのは無意味である。労働者の結論はもう決まっている。存在自体が騒動の源であるのなら、もともと国有地だったのだから、再接収して燃やして灰燼に帰せ、更地にして国立公園として石碑の一つでも立てておけばすむことではないか、と。
 
 保守反動派のバカどもは日本が昔軍国主義国家であることは知っているが、織田信長の国であることを忘れている。織田信長が比叡山延暦寺を焼き尽くしたからと行って、誰が織田信長を非難するであろうか?
 
 彼らは宗教に名を借りた反動勢力であるがゆえに“根切り”にされなければならず、織田信長が近世を切り開くために保守反動派と戦ったこと自体は歴史的に進歩的であるだろう。
 
 したがって、現代の「延暦寺」と化した「靖国神社」を焼却処分することは、日本の民主主義にとって、有益なことであろう。

ブタを木に登らせるマスコミの扇動

2006-08-04 01:32:18 | Weblog
 私事で恐縮だが、私の学生時代の友人にボクシングが大好きな人がいた。それこそ減量してでも(一日の食事の何回かを抜いてお金をためてでも)ボクシングの試合を見たいという人だった。
 
 その彼がいつも自慢げに見せてくれたのが茶色いシミの付いたボクシングのグラブで、何とかという選手にもらったのだという。
 
 「血のにおいがするだろう、これがたまらないんだ、ボクシングはいつでも真剣勝負なんだ」、と語っていた。
 
 何度も試合の見学に誘われたけど、結局、一度も試合を見に行ったことはない。(その彼はオートバイ事故で死んだ。あまりにも短い命だった。)
 
 先日、ボクシングの試合を少し見ていて、彼のことが懐かしく思い出された。
 
 彼だったらあの試合を見て何というのだろうか?おそらく私と同じように途中で見るのをやめてテレビのチャンネルを変えていか、会場にいたら外に出ていただろう。
 
 後でスポーツニュースを見ていたら、勝ったのは亀田だったというから、笑ってしまった。
 
 何というのか、日本は本当に「ひ弱な花」の国になってしまったのではないだろうか?
 
 高すぎるプライドと貧弱すぎる実力、そのアンバランスの中で、選手たちは虚構の世界を構築して、その中でのみ、自分のプライドを維持しようとしているように思える。
 
 もちろんこの虚構の世界の中でだけ英雄である哀れな人々を生み出しているのは、もちろんそれを煽り立てている人々がいるからである。われわれはかつてマルクス主義同志会の代表である林紘義氏に「ブタもおだてりゃ、木に登る」と大変失礼な論評をしたことがあるが、今ではそれは日本の社会全体の風潮になりつつある。
 
 民族主義、排外主義的扇動の一つの形態として、スポーツ界で活躍する選手たちが“愛国戦士”としてもてはやされ、分不相応な賞賛と期待が寄せられ、彼らは舞い上がってしまっている。
 
 ところが「ブタもおだてりゃ、木に登る」とはいうものの、やはりブタは木には登れない生物である。したがって彼らの試みはつねに墜落をもって終わるしかないのである。
 
 先の冬季オリンピックでもそうだったし、サッカーのワールドカップでもそうだったし、今回のボクシング騒動でもそうだ。
 
 スポーツを国威発揚の道具として使うというのであれば、スポーツを育成するためにそれなりの予算配分がなされるべきであろうが、後進国じゃあるまいし、そんなことは先進国日本では社会的に許容されない。だから日本ではマスコミがスポーツ選手たちを扇動してやる気を引き出すという、一番安価なやり方がとられている。
 
 「絶対に負けられない戦いがある」云々、しかしかつての日本はこの「絶対に負けられない戦い」に、ミッドウェーで破れ、ガダルカナルで破れ、インパールで破れ、レイテで破れ、サイパンで破れ、硫黄島で破れ、沖縄で破れ、挙げ句の果ては日本の主要都市は焦土と化したのである。
 
 妄想や幻想は実力の世界では通用しない。ましてや世界に背を向けてなぜ日本だけが特別の国であり続けることができるのか、世界にはさまざまな人々がおり、さまざまな努力を行っているのになぜ日本人だけが優秀と言いうるのか、ところが自分自身がすっかり“愛国戦士”になってしまった愚かなマスコミにはこんな単純なことさえ分からない、日本の軍国主義者とそれに追従したマスコミよろしく、ひたすらスポーツ選手たちに“特攻精神”を説き、神風を期待するのみである。「絶対に負けられない戦いがある」云々。
 
 だから、結果はつねに、八百長で勝つにせよ、実力で敗北するにせよ、気まずくみじめなものになってしまう。そして、このようなスポーツを利用した民族主義、排外主義的扇動には現実という壁があることから、それは別の形態へと、すなわち直接的に民族主義、排外主義を扇動するやり方に移行していくかも知れない。
 
 そうなったら日本は本当に破滅するしかない。