労働者のこだま(国内政治)

政治・経済問題を扱っています。筆者は主に横井邦彦です。

1ドル=85円の攻防戦へ

2010-07-31 03:21:36 | Weblog
 日本資本主義が円防衛のラインとしてきた85円が見えてきた。この防衛線が破られれば、1ドル=70円台までオーバーシュートする可能性がある。

 さすがにこの水準では外需だけが頼みの日本経済にとって、きついものがある。

 しかし、現在の時点ではアメリカ、EUとの協調介入は無理だろう、したがって通貨当局による単独での円売りドル買いとなるかもしれないが、世界中の投機筋を相手にしての介入は効果があまり期待できない。

 特に、現在、日本には大量のホットマネーが流入している(だから円高となっている)が、これらはほとんど為替差益の獲得をねらったもので、彼らの目論見は成功しつつある。

 特に、8月1日からFX(外為証拠金取引)の規制が始まるので、日本における個人投資家の取引量はかなり減少すると思われる。つまり、通貨当局の友軍の勢力が減少するので、週明けにも投機勢の円に対する総攻撃は現実のものとなるかも知れない。

 円の防衛が成功するにせよ、失敗するにせよ、嵐が去ってみたら、日本資本主義は大きなダメージを受けることには変わりがないだろう。

EUの不思議

2010-07-30 04:25:40 | Weblog
 先日、ヨーロッパの銀行の「ストレステスト」(健全性審査)の結果が公表された。

 その結果は大方の予想通り、欧州の銀行の大半は健全であるというものだが、そもそもなぜ今の時期に「ストレステスト」を行わなければならないのかという疑問に突き当たる。

 それはリーマン・ショック以来つきまとっている不思議な事実と重なる。

 その不思議な事実というのは、リーマン・ショック以来の市場の混乱がドルの暴落ではなく、それとはまったく正反対のドルのショート(不足)から始まったという点である。

 金融機関がドルを手に入れるために、手持ちの資産(株、債権、商品)を全部売り飛ばそうとしたために、世界の各市場は暴落し、一見すると信用貨幣恐慌のような状況が生まれたのだが、これが信用貨幣恐慌貨幣と違う点は、これがドルのショートをカバーするための売りであったために、金融機関がドルをある程度手に入れると終息していった点にある。

 このドル資金の不足は欧州の金融機関が相互不信に陥っていたために、インターバンク市場(金融機関相互の取引)が機能不全に陥ってしまったからだ。

 しかしその後のドル高・ユーロ安の時代が終わりはじめようとする時になぜ、財政の健全化であり、「ストレステスト」なのか?

 ギリシアのようなソブリンリスク(公的機関のデフォルトの危機)にそなえてというのは一つの理由ではあろうが、実は、これは理由にはならない。というのは銀行屋の仕事は基本的に“金貸し業”であって国債のディーラーではないからだ。

 ところが欧州銀行の社債の発行は7月に急回復し、年初からの発行額は米国金融機関の約4倍、期間は5年以上の長期・大型発行が多いといわれている。

 つまり、ヨーロッパの銀行は今月に入って、大量に社債を発行して、大量に国債を買っているのだが、その一方で民間への貸し出しが急速に減少している。ひよっとするとヨーロッパの銀行は職業を変えたのではないか?

 そうであるとすると、ソブリンリスク(公的機関のデフォルトの危機)にそなえて各国の財政状況が気になって仕方がないという理由もわからないわけではないが、銀行は銀行であることには変わりがなさそうなので、では本業の方はどうなっているのかということが問題になってくる。

 ひょっとすると、今、ヨーロッパで起こっていることは、バブル崩壊後の日本の金融機関とおなじようなものであるのかも知れない。バブルの崩壊によって日本は膨大な潜在的な不良債権を抱え込んだが、これが顕在化したのはバブルが崩壊してから数年後であった。

 実体経済が悪化するにしたがってそれは徐々に現実の不良債権になっていったのだが、ヨーロッパもここ半年ばかりユーロ安による外需の伸張を享受してきた。しかし、そのユーロ安も反転し始めて来た現在では、再び経済の沈滞期を迎えようとしており、お化粧をこってり塗った部分が剥落しつつある。

 これはヨーロッパに限ったことではないが、世界的な規模での長期金利の低下(国債価格の暴騰)は、世界の金融機関が競って国債を買いあさっていることの反映であり、その背後にあるものは、金融機関が機能不全に陥りはじめていることのサインなのかも知れない。

白旗を掲げても許してもらえない

2010-07-29 02:24:20 | Weblog
 久しぶりに死刑が執行された。

 これもキム・ヒョンヒ氏来日に続く、保守反動派への菅民主党政権の第2のプレゼントなのだが、キム・ヒョンヒ氏の来日のように、今回も素直には喜んでもらえない。

 参議院選挙に惨敗して以来、菅民主党政権にできることは白旗を掲げて、保守反動派の軍門に降ることだけなのだが、保守反動派はそう簡単には投降を認めない。

 それはここで救いの手をさしのべるよりも、菅民主党政権をいたぶっておいた方が、有利な条件で政権を奪還できると踏んでいるからだ。

 かくして菅民主党政権は政権を維持するために、反動派にますます媚を売り、媚を売るために反動的な政治へとのめり込んでゆき、日本の政治全体が右へ右へと流されていく。

 ここで踏みにじられているのは労働者の利益であり、労働者はますます寄る辺のない存在へとおとしめられている。

 日本の社会はかくしてますます袋小路へと追いつめられようとしている。


 追記

 民主党の馬鹿たれどもを相手にしても時間の浪費にしかならないので、あまり言いたくはないのだが、われわれは保守反動派が千葉法務大臣の落選をねらって策動しているという警告を選挙の公示前にしておいたはずだ。なぜ民主党の執行部はその対策を立てなかったのか。

 千葉大臣が落選すればこういうことになるということは百も二百も分かりきったことではないか。民主党は法務大臣というブルジョア民主主義の砦を闘わずして、ファシスト勢力に売り渡したのだ。

 この取引はきわめて大きく重いものであったということをやがて知るであろう。しかし、そのときにはすべてが手遅れなのだ。

    

再度不生産的労働について

2010-07-27 04:08:24 | Weblog
 世の中には二種類の労働者がおり、対立しているというのは“ブルジョアの作り事普及協会”(マルクス主義同志会)のもっとも好むテーマである。

 この見解が正しいと仮定すると、資本主義的生産様式が廃棄された後でも、つまり社会主義になっても生産的労働者と不生産的労働者の階級闘争(!)が残ることになり、その必然性について語る人までいる。

 実際のところはどうなのであろうか?「万国の労働者団結せよ!」というスローガンを「万国の生産的労働者と不生産的労働者は殺し合え!」に変えよといわれてはわれわれも黙っているわけにはいかない。

 もちろん、『剰余価値学説史』の第一巻の中で、マルクスはアダム・スミスの生産的労働と不生産的な労働を詳細に検討しており、好意的に取り扱っている。

 それは『資本論』の第一巻の労働過程のところで「生産的労働」の説明をし、同じく第一巻の第5編第14章「絶対的および相対的剰余価値」の冒頭で生産的労働の概念を簡単に再規定して、第一巻の最後の部分といわれる『直接的生産過程の諸結果』で再び取り上げている。

 このことは「生産的労働」と不生産的労働」の詳しい叙述が当初の『資本論』の構想から脱落したことを意味する。

 その理由もきわめて明瞭である。つまりアダム・スミスの生産的労働と不生産的な労働の区別はアダム・スミスの時代、つまり資本主義的な生産様式が未発達にのみ適合することであり、資本主義のもとではあてはまらないからである。

 資本主義のもとでは労働は労働者のものとしては現れないで、資本の生産力としてのみ現象するからである。実際、買ってきた労働力商品をどのように使用するかは資本の裁量にまかされているのであって、ライン労働に就かせる代わりに、工場の植木の水やり係にすることも、雑草取り係にすることも排除しない。

 だからマルクスは「労働の生産性」という表題を鉛筆で「資本の生産性」と書き直しているが、これもおかしな話で、例えば、お犬さまをお風呂に入れて毛並みを整えるペットショップ資本は、端から見れば「不生産的な資本」の極地だろうが、時給850円でアルバイト労働者を搾取するペットショップ資本にすれば、それが資本に剰余価値をもたらすという点では十分に生産的であり、資本の本性(G-W-Gの運動を通して自己増殖する価値)に合致しているという点で健全であろう。

 これにたいして新しいマルクス主義同志会の規定は「生産的労働と不生産的労働との相違は、だだ、労働が貨幣としての貨幣と交換される(金持ちのポケットマネーで養われる)か、それとも資本としての貨幣と交換される(労働力商品として買われる)か、ということにあるだけである。」(『直接的労働過程の諸結果』)というものである。

 しかしマルクスはその少し前で「サービスの買い入れ(労働が貨幣としての貨幣と交換されること)には、資本と労働との独自な関係はまったく含まれておらず、まったく消し去られているか、または全然存在しない」といっているのだから、そもそも労働者という概念そのものが成り立たない。例えば、金持ちに用心棒として雇われている暴力団員は資本主義以前的な“傭人”であって、用心棒労働者と呼ぶことはできないだろう。

 ところがマルクスは『剰余価値学説史』の第三巻の「リチャード・ジョーンズ」の項で

 「資本によって生活する労働者と収入によって生活する労働者との相違は、労働の形態に関係している。それは資本主義的生産様式と非資本主義的生産様式との相違そのものである。ところが、狭い意味での生産的労働者との相違は、肉体労働であろうとそうでない労働(学問的なそれ)であろうとその種類を問わず商品の生産(ここでは生産は商品が最初の生産者から消費者に至るまでに経るすべての行為を包括する)にかかわるいっさいの労働と、それにかかわらない、商品の生産を目的としない労働との相違である。この区別は固守されなければならない。そして、すべての他の種類の活動は物質的生産に反作用するし、またその逆でもあるという事情は、この区別の必要を絶対に少しも変えないのである」

 マルクスは「固守」、「絶対」というきつい言葉で不生産的労働と生産的労働の区別の必要性を主張している。

 ではなぜこのような区別が必要なのか?

 マルクスによれば「生産的労働と不生産的労働の区別は、蓄積に関して重要である。というのは、ただ生産的労働との交換だけが剰余価値の資本への再転化の諸条件の一つだからである。」「生産的労働(したがってその反対物としての不生産的労働)の規定は、資本の生産は剰余価値の生産であって、資本によって充用される労働は剰余価値を生産する労働である、ということにもとずいているのである」(『直接的生産過程の諸結果』)からである。

 生産的労働のみが資本主義的蓄積(拡大再生産)をもたらすというのであれば、ブルジョアの作り事普及協会(マルクス主義同志会)が不生産的労働者の憎悪してその絶滅に血まなこになるのは理の当然といえるだろう。


進化の系統樹をさかのぼって

2010-07-25 04:28:35 | Weblog
 マルクス主義同志会は、現在ではすっかり古典派経済学(ブルジョア経済学)の友、または“ブルジョアの作り事普及協会”となっているが、このようなマルクス主義同志会の“ガラパゴス化”(閉ざされた環境のなかで独自の進化を遂げて“世界標準”から掛け離れた存在になってしまう現象のこと)は、長い年月の結果である。

 われわれこれまでこのマルクス主義同志会の“ガラパゴス化”が始まった時期を1990年代と規定していたが、『ワーカーズ』の阿部文明氏の論文を読んで、どうもそれよりももっと以前からであったような気がしてきた。

 『ワーカーズ』の諸君たちとわれわれ社労党が袂を分かった(それぞれ別の環境に置かれることによって異なる進化の過程をたどるようになった)のは1990年代初頭で、論文を書いた阿部文明氏はそれよりも前に社労党から離れている。

 にもかかわらず、われわれは阿部文明氏に現在のマルクス主義同志会の原型を見るのである。

 この阿部論文なかなか興味深いのでこれをちょっと見ておこう。

 安部氏はまずマルクスの『ゴータ綱領批判』をとりあげる。

 「マルクスは、『労働収益』と言うことばを『労働生産物という意味にとろう』として、社会的な分配に論及しています。この要点は次のようなものです。
 協同組合的社会が生産した労働生産物は、生産的労働者にそのまま分配されない。いくつかの「控除」がともなう。
①消耗された生産手段の補填。
②拡大再生産のための追加部分。
③事故や天災に備える予備元本等。
 これらの必要な社会的「控除」は自明なところでしょう。
 「さらに、各人に分配される前に、次のものが控除される。」
①不生産的な一般行政費(この部分は歴史的に徐々に減少する。)。
②学校や衛生設備等、不生産的だが社会的な意義を持つ事業(この部分は社会の発展と同時に増大する。)。
③労働不能者のための元本。」というが次のようにも言う。

 ※阿部文明氏は誤解しているが、最初の①から③は社会的な控除ではなく、拡大再生産のために必要な控除であって、「社会的な控除」(社会を維持発展させるために必要な控除)というのは後の①から③までである。

 「しかし、『生産的労働者』以外の、社会的には有用だが直接に物質的生産に結びつかない『不生産的労働者』の扱いについては、なにも語られていません。生産的労働者たちから、不生産的労働者のための原資が『控除』されている、ということだけが理解できますが、彼らの労働はどのような社会的評価と計算のもとで、したがって彼らの間ではどのような分配原理が支配するのか? 『ゴータ綱領批判』のなかでは何らその答えを見いだせません。」と。

 ここでは、物質的生産に結びつく労働者を『生産的労働者』とよび、結びつかない労働者を『不生産的労働者』と呼んでいる。(もっとも「不生産的労働者」の生物学的絶滅を訴える野蛮なマルクス主義同志会とちがって阿部文明氏はもっと文明的なのだが・・・)

 しかし阿部文明氏は次のようにも言う。

 「未開の共同体社会から学べば、狩猟に参加したものたちは、勢子(獲物を追い立てる役)やキャンプの火を起こしたものにも、射手と同量ではないものの、獲物の「取り分」が認められています。これは親戚や老人への『贈与』としての第二次分配ではなく、『集団的必要労働・有用労働』に対する分配、すなわち第一次分配なのです。このような歴史からも学べば、共同体としてのアソシエーション社会の労働は、おしなべて『社会的有用労働』として、直接に第一次分配の権利の土台となるでしょう。」

 阿部文明氏の説明の仕方は「社会的有用労働」の説明としては少し違うような気がする。阿部文明氏は大昔には一つの仕事を多くの人がやったのだからそれはみんなで分配されたというところから説明している、「しかも直接に獲物を捕る労働と、補助的な労働と、キャンプの火をおこすなどの、直接には『狩猟』と関わらない労働も、同等ではない」といって労働に区別を設けて分配に区別をつけている。

 しかし原始共同体で生産において、その果たすべき役割によって分配に差があったというのは本当なのだろうか?しかもこういう主たる労働と補助的な労働の差異が「生産的労働」と「不生産的労働」の違いになっていったというのでは、社会の平等性はどこにあるというのだろうか?

 これでは過去においても、未来においても、平等な人類社会の保障されない。ワーカーズの諸君たちは自分たちが掲げているアソシエーション社会も、一種の共同社会であるが、平等な社会ではなくその果たすべき役割によって身分と待遇と分配に差がある差別社会であるという但し書きをつける必要があるのではないか?(射手、勢子、火を起こす人等は集団で狩りを行うのに必要な役割分担であり、どの役割も欠かせないという点において、等しい資格で狩りに参加しているのだから分配は等しくなければおかしい。階級社会において分配に差があるのは、生産手段の分配に差がある、つまり生産手段を持っている人といない人がいるからであるが、ワーカーズの諸君たちはそもそもが、原始共同体および“アソシエーション社会”において生産手段は社会の成員の間で共有されていると言うところから出発しているのであろう)

 マルクスはロビンソン・クルーソーから「社会的有用労働」すなわち、価値の説明をしている。つまり価値というのはロビンソンクルーソーが生活のためにいろいろなものをつくるの時間を配分していたということから価値の説明をしている。

 つまり商品生産社会を一人のロビンソンクルーソーに見立てて、社会に必要なものを作る時間を配分しているそのやり方が価値であるといっているのである。

 例えば、靴屋は社会全部の成員のために靴をつくり、それを他の社会の成員と生産物と交換することによって自分の生活に必要なものを手に入れているが、それが可能なのは靴をつくるという労働が社会にとって必要だからであり、各人の労働が、社会の総労働の一分枝の労働として、等しい労働として(自分が靴をつくる代わりに作ってくれる労働として)交換されるのである。

 だから価値があるということと、交換可能であるということと、社会的有用労働が費やされているということは同じであるだが、商品生産社会ではこういった社会関係(社会の各成員が等しく、社会に必要な労働同士を相互に交換して社会が維持され、そうすることで成員の生活が確保されるという関係)が物と物との関係(労働生産物を価値物として交換すること)として逆転して現れざるをえない。なぜならこの社会は意図してつくられた社会ではなく、相互に孤立している各人が自然発生的に形成したものであり、この社会を統御する者はいないからである。だからこの社会で何がどれだけ必要であるか、つまり社会的総労働時間のどれだけを割けばよいのかのということは価値法則という生産者の背後の事情によって決定されるだけである。

 この物と物とを交換することによって成り立っている、人と人の関係が諸物の運動として表れている商品社会を人類永遠の社会として宗教の領域まで高めたのがマルクス主義同志会である。だからマルクス主義同志会にとって労働が物に結果しない労働は、絶対に許しがたいのである。

 もちろん阿部文明氏はこのマルクス主義同志会の極端な宗教に帰依してはいない。しかし、この宗教の前提となっている偏見と間違いは共有している。だからこそ、阿部文明氏の口からはいかにも奇妙な結論が次から次へとでてくる。

 阿部文明氏はマルクスが『ゴータ綱領』に掲げている「②学校や衛生設備等、不生産的だが社会的な意義を持つ事業(この部分は社会の発展と同時に増大する。)」に従事する労働を「社会的有用労働」と呼び、社会が維持・発展するために必要とする総労働時間の一分枝をなしているという(これは正しい)。

 にもかかわらずこれを「生産的労働」と呼ぶことを拒否しており、くどくどとこれが存在してもいい理由を弁明する。

 そしてついには
 
「そしてなにより搾取の消滅、不生産的で階級支配のための『労働』たとえば『労務管理労働』(「の廃止」という言葉がなければおかしくないか)それにともなう『精神的労働と肉体労働』の対立の緩和(?この言葉はおかしい)・融合は、この二つの労働の概念を『対立概念』として峻別する必然性(この「必然性」なるものはどこから来ているのか)を失わせるのではないかと思います。『生産的階級』としての労働者と直接に生産的労働ではないいわゆる不生産的労働や非生産階級との対立(!)は、剰余価値の収奪(!剰余価値を誰がどれだけとるかという問題は支配階級内部の問題であり労働者階級には何の関係もないことだ)の科学的解明にとって必要な前提であり、労働者と資本家との対立の消滅と共に、概念の区別はのこったとしても、『概念の対立』(階級対立を基礎とする)は意味を失うでしょう。」とまでいいだす。

 阿部文明氏の文章は倒錯しており、混乱しているが、言わんとすることは不生産的労働=階級支配のための労働=精神労働であるという観点である。しかし、この3つは違うものである。マルクス主義同志会はこの3つを同じものとして憎悪するところから出発し、阿部文明氏はマルクス主義同志会の狂気に対して、君たちの言うことはもっともだ(!!!)が宥和や緩和が必要ではないかというのである。

 これはワーカーズの諸君たちにとって重大な問題であろう。


中央銀行、受難の時代

2010-07-23 04:05:03 | Weblog
 言語不明瞭、意味不明、支離滅裂な状態に陥っているのは、日本銀行だけかと思ったら、アメリカFRB議長のバーナンキ氏もアメリカ経済の現状についてunusualy uncertain(異常な不確かさ)などという「否定の否定」の弁証法語を使い始めている。

 常識的に言えば、uncertain(不確かさ)自体がunusualy(通常ではない)なのだから、異常の異常は正常じゃないかという話になる。

 最近のこういう中央銀行の発言は彼らの置かれている立場の複雑さを表している。

 世界経済の実態としては、ここ数ヵ月間、足踏みが続いている。(はっきりと悪化へむかっている国もある)

 ここで従来なら各国政府は追加の財政支出に乗り出したいところだが、各国の財政はすでに破綻状態にあるのでおいそれと積極財政にカジを切ることができない。

 そこで唯一可能な手段として、中央銀行に信用を拡大(通貨の過剰発行)するように、大きな力が加わりはじめている。

 しかし、中央銀行としては、結果としてインフレにつながるような信用の拡大は本能的に避けるべきであると考えている。

 そこで経済は悪くなりつつあるが、よくなっている、またはよくなりつつあるが、悪くなっているという何を言っているのかさっぱり分からないたぐいの話が増えてきている。

 しかし、FRBのバーナンキ議長の証言をよく読んでみると、ある意味で日本銀行よりも一歩も二歩も踏み込んでいる。場合によっては追加の緩和策(国家信用の拡大)もあるといい、具体的に住宅ローン担保証券(MBS)の購入を再開してもいいということまでいっている。

 そこで本日発表された経済指標(新規失業保険週間申請件数、6月の中古住宅販売戸数)が予想よりも悪かったために、株式市場は「FRBの追加緩和策」に期待を込めて大幅に上昇している。

 アメリカに始まった、インフレよ来たれ!の言葉はやがて世界に広がっていくであろうが、悪性のインフレは資本主義の再生産過程そのものを破壊する。  

歴史はくりかえさない

2010-07-22 03:07:41 | Weblog
 韓国のイ・ミョンバク政権が、妙なクセダマを投げはじめている。

 キム・ヒョンヒ氏の来日も、突然現れた「田口八重子さん生存説」も、イ・ミョンバク政権の日本に向けたメッセージと考えた方がいいだろう。

 ここできちんとそのメッセージを読み解かないと、ろくでもないことにずるずると引きり込まれることになる。

 この突然の韓国の情報発信は、一つには、韓国発の北朝鮮情報の信憑性に黄色い点滅がつき始めたことがある。

 もう一つは、これはわれわれも意外であったが、キム・ヒョンヒ氏の来日は、右翼勢力を喜ばせるものではなかったということだ。彼らの間ではむしろ死刑囚を“超法規的な措置”で入国させた法務大臣と民主党政権に非難が集まっている。

 これは右翼や民族派の頽廃が進んで、言葉の本当の意味での排外主義(自国以外を敵と見なし排除する)に陥っているからであり、その点からすれば韓国は撃滅すべき敵国以外の何者でもなくなっているからである。

 また“反共主義”が高じて、堕落した労働組合運動家も“悔い改めた”元左翼も元市民運動家も全部ひっくるめて「社会主義」と規定するようになったので、首相も法務大臣もやることなすこと全部嫌いという風になってしまったからである。

 この点でも、“小泉なき小泉時代”は単なる小泉時代の繰り返し、もしくは再現ではないということを表している。

 しかしこのことは拉致問題を通じて日韓の関係を強化したいと考えているイ・ミョンバク政権にとっては気になるところであるからこそ、あの手この手の変なタマを投げはじめてくるのであろう。  

“小泉なき小泉時代”の幕開けは悪性インフレから

2010-07-21 03:09:38 | Weblog
 「みんなの党」の渡辺氏が日銀に対して株や社債を買わせるように訴えている。

 この保守的な小ブルジョア層の期待を一身に担っている党の政策(アジェンダというのは議事日程や行動計画のようなある決まった政策を実施する工程表のようなもので、議事日程の中味や行動計画の中味について使う言葉ではない。もっとも「みんなの党」は中味がない政党であるといえばその通りなのだが・・・)は、現在の状況のもとでは政府の政策となる可能性が高い。

 これは民主党という政党が、中味のない政党で、他党や官僚のよさそうだと思う政策(実際にはよくないと思った政策でも)に飛びつくしか能がないからである。

 そしてこれこそが日銀が一番恐れているシナリオなのである。そのために日銀はこれまで、自分でもあまり信じているとは思えない、景気は順調に回復している(だからインフレ政策は必要ない)と言い続けきたが、日本は参議院選挙で“小泉なき小泉時代”へと移行してしまったので、もうそういう言い逃れは通用しなくなっている。

 もちろん、日銀が株や債権を買うことは直接的に“価値章標”(紙幣)の流通量を増大させるので、名目的な物価は上がっていく、しかも現在のCPI(消費者物価指数)は物価の動向を直接的に反映させるものではないので、インフレ検知機能がない。

 そしてインフレは加速度的、不可逆的に進行する過程であるので、オーバーシュートは避けられない。だから気がついた時には手遅れというということになる。しかもインフレを押さえるために日銀が手持ちの株や債権を放出すれば株は暴落し、日本経済は急降下する。つまり、景気の悪化と物価の持続的な上昇というスタグフレーションになる。

 政治の無策によってこういうものを強制的に見せられるというのは何ともイヤな気分だ。

キム・ヒョンヒ氏は国家資本主義的ではない

2010-07-20 02:30:26 | Weblog
 国家資本主義のもとではすべてが“官業”、すなわち国家的事業として営まれる。

 だからドロボーも、最初にドロボー大学がつくられ、そこで“ドロボー学”を学んだ者のみが、“官許の”ドロボーとして営業できるのである。

 その点からすると、キム・ヒョンヒ氏は、“官許”の工作員であったのかという点で疑問符がつく。

 氏は金星政治軍事大学の一年コース(?)を卒業したということだが、金星政治軍事大学はそんなに簡単に“仮釈放”してくれるような学校とも思えない。

 実際、彼女が海外へ出たのは84年8月だったが、これは工作員教育の“卒業試験”のようなものであることを考えると、80年の単年度ではなく、84年まで在籍していたと考えるのが妥当であろう。

 ではなぜ84年に卒業した大学をわずか1年で卒業した(氏が18才の時だ!)とキム・ヒョンヒ氏は言うのであろうか?

 それは金星政治軍事大学が80年が84年の間に朝鮮労働党中央委員会直属政治学校と名前を変えたが、キム・ヒョンヒ氏はいつ、どういう事情でそうなったのか答える立場にないので、名前が変わる前に卒業したということにしたのであろう。(キム・ヒョンヒ氏は82年の4月に朝鮮労働党に入党しているので名前が変わったのはこの時であろう)

 それからキム・ヒョンヒ氏は、めでたく金星政治軍事大学を卒業して、海外で活動する工作員となったのだが、実は、金星政治軍事大学を卒業するだけでは海外で活動する工作員にはなれないのである。

 金星政治軍事大学は工作活動の一般的な訓練なり授業はするが、海外で活動するにはその中から選抜されて烽火大学へ入学してより専門的な教育を受ける必要がある。

 日本では、烽火政治大学が1992年に設立されたことから、80年代にそのような学校はなかったという人もいるが、烽火大学はあったのである。(朝鮮労働党は工作活動を「敵の背後にまわって烽火【のろし】をあげることである」という定義をしている以上、そういう学校は朝鮮労働党と同じぐらい以前からあっても不思議ではない。新左翼の中でも機関紙名にこの『烽火』を使っていたところもあるように、この言葉には朝鮮戦争当時やそれ以前の抗日パルチザン的な雰囲気がたれ込めているのであったと考える方が正しいであろう。)

 以上から、不思議な結論が導かれる。それはキム・ヒョンヒ氏の経歴はおおむね妥当だが、それはキム・ヒョンヒ氏ではないということである。

 つまり、キム・ヒョンヒ氏というのは実際にこういう経歴の持ち主であるA氏とわれわれが目にしているB氏がいて、どうもこの二人は別人ではないか、(どこかでキム・ヒョンヒA氏とキム・ヒョンヒB氏が入れ替わったのではないか)ということだ。

 そのように考えると、キム・ヒョンヒ氏の話がちゃらんぽらんな理由も説明がつく。    

“1987年組”は“ウソつき”

2010-07-19 01:10:03 | Weblog
 A氏=新潟の拉致被害者

 B氏=名古屋の元小学校教員

 C氏=キム・ヒョンヒ氏

 A氏  B氏もC氏も知らない

 B氏  A氏もC氏も知らない

 C氏  A氏もB氏も知らない

 この中に“ウソつき”でない人が一人います。それは誰でしょうか?

 しかし、この場合、“ウソつき”でない人は、もっと“大きなウソ”をついている可能性があります。

 ヒントは一つだけです。A、B、Cの3人のうち一人は、残りの二人を知っていなければならないのに、どうやら本当に片方しか知らないようです。

 ひょっとするとこのクイズの答えはもうすぐ出るかも知れません。

世界はすでに“新しい時代”へ足を踏み入れた

2010-07-18 05:02:45 | Weblog
 世界が緊縮財政へと向かう中で二つのことが起こり始めている。

 一つは、経済が下降線をたどりはじめたこと。これは“量質転換”(量が質に転化すること)を含んだ過程であり、一定程度経済の内容が悪くなれば、信用貨幣恐慌へと発展する可能性を秘めた過程であるということ。

 二つ目は、労働者への負担が増加する一方で社会保障が切り込まれるため、社会の“平和”が切り崩されはじめている。つまり、階級宥和の時代から階級対立の時代へと社会の趨勢が変化しつつあること。これもまた、“量質転換”(量が質に転化すること)を含んだ過程であり、社会のセンチメント(情緒)がこのまま悪化し続ければ、突発的な“事件”というかたちで現れる可能性を秘めている。

 世界各国の政府はできることなら、こういう過程は望まなかったのだろうが、一方において、そうしなければならないところまで追いつめられている。

 以上のことから、“予防反革命”(階級対立を芽が出ないうちに摘み取る。すなわち、戦前の“共産党員”の一斉逮捕やレッド・パージのような左翼運動と組合運動への先制攻撃)といった思想が、反動派をとらえ、政府を動かそうとしている。

 そういう点では、世界は非常に危険な水域へと歩み出してしまったともいえるが、今さら、もとに戻れないことも事実である。

 われわれもこんなにもはやくこんな状態になるとは思っても見なかったが、先の参議院選挙以降、世界の政治経済の趨勢は急速にそういった方向へとカジを切り始めている。

質問にお答えします

2010-07-18 00:39:43 | Weblog
 社民党も共産党も選挙区では革命的“レーニン”(0人)で、比例区でなんとか数名を確保するのがやっとですので、比例区の定員が削減されて、当選に必要な議員一人あたりの得票率が上がると、社民党は比例区、選挙区とも革命的“レーニン”となり、共産党は片手で数えられる議席しか確保できなくなります。

 共産党や社民党の政治についてはいろいろ議論はあろうかと思いますが、わが国の議会内“左派”であることには変わりありませんので、われわれは反動派がそういう勢力を駆逐しようとすることに賛成はできないということです。

 現在、議会内“左派”と労働組合に対する反動攻勢が本格化しようとしています。

 しかも、質(たち)の悪いことに、現在の反動派は、昔の新左翼くずれが大量に流入していることもあり、一見すると“革命的”です。

 こういう時に、共産党がどうの、中核派がどうの、革マル派がどうの、官公労がどうのといっていると、各個撃破されて、気がついてみたら日本にファシズム体制が確立しているということになるでしょう。

 財政再建にせよ、公務員改革にせよ、社会保障の整理にせよ、強権によって、労働者の抵抗を排除しなければ遂行できない性格のものですので、現在の事態は一つの歴史的な必然性を持っています。

 そしてその必然性が、反動派による日和見主義者や組合主義者に対する攻撃というかたちをとっていても、その目的とするところが労働者階級の武装解除にある以上、われわれは賛成することができないのです。

 そのあたりを何とぞご理解のほどを、お願いいたします。  

“革マル問題”は重大な政治問題に

2010-07-17 22:42:34 | Weblog
 枝野幹事長とJR総連との間で交わされた“覚書”が、月刊誌によって公表された。

 出所はどうも、公安警察らしい。

 そこで問題となるのが、現職の警察官が違法な手段で入出した“資料”を、違法な手段で公表したという事実である。

 しかも、それは政治的な目的で、つまり、革マル派という政治党派を誹謗中傷する手段として、JR総連という労働組合を誹謗中傷する手段として、政権党の幹事長を誹謗中傷する手段として使われている。

 国家公安委員長中井洽のやるべきことは、まったく明らかであろう。

 そもそもがお前がねぼけているから、こういう日本の治安活動を根底的に揺るがすような事件が起きているのだ。

 警察の信頼を回復するためには、草の根かき分けても実行犯を見つけて処罰する以外にないであろう。 

日本銀行よ、お前もか

2010-07-17 03:41:00 | Weblog
 恥さらしのIMFや“アジ新聞”と化しはじめている『日本経済新聞』、『朝日新聞』、『読売新聞』にくらべて、ずっとずっと理性的なはずの日本資本主義、最後のアンカー(anchor=船の錨)日本銀行も漂流を始めている。

 日本銀行によれば「誤解を招く」という理由で、交易条件指数(製品価格/原材料価格)の発表をとりやめるのだそうだ。

 この場合の、「誤解」というのは、急速な円高の進行で交易条件が悪化している、ということであり、日本銀行にとって日本の景気はゆるやかな回復を続けているし今後もその傾向は変わらないという、日本銀行が掲げる“真理”に背いているというという点でこういう「誤解」は許しがたいのである。

 これで思い出すのが、狂乱物価の極盛期に、物価指数が一ヶ月で7%という驚異的な上昇をとげた時、時の田中角栄首相がこの暴騰の大きな要因がレモンの上昇であったことに激怒し、物価指数の改訂を指示し、以来、CPI(消費者物価指数)は“改良”に次ぐ、“改良”を重ね、ついには何者でもなくなった(物価の変動をまったく反映しない指数になった)ことである。

 世の中は、すべてうまくいくようになっているのに、そうでないという人は妄想を見ているのであり、“現実”(理念化された世界)を見ていないという日本銀行の“マルクス主義同志会化”は、日本銀行もまた“宗教化された資本主義”を“現実”であるといい、この世のあるがままの姿を“誤解”というようになったということである。

 これでは日本資本主義の漂流→座礁は、『朝日新聞』的にいえば、「歴史的必然」ということであろう。   

 ことわざは正確に

2010-07-17 02:56:27 | Weblog
 日本で一番、クォリティーが高いといわれている『日本経済新聞』が中国について社説を書いている。

 「何よりもすでに世界最大の貿易国である中国が外需にもっぱら頼って高率の成長継続を目指すと世界経済のひずみが増す」(まったくその通り)

 「労働者の賃金が抑えられ社会保障の整備が遅れていたことが、投資に比べて個人消費の伸び悩みと、過剰蓄積を招いていた。中国政府は持続的な成長に向け所得分配や社会制度の整備を急ぐべきだ」(これもまったくその通りだ)

 労働者の賃金を抑制して、労働強化を強要し、社会保障をなおざりにして、需要をもっぱら外需に頼って“成長”を指向すれば、対外的には世界経済に歪みを生じさせ、国内的には過剰蓄積によるバブルと社会的な不平等の拡大による社会の不安定化をもたらす、という見解は大筋において正しいであろうが、『日本経済新聞』紙はどういう観点でこのようなことをいっているのだろうか。

 「対岸の火事」(川の向こう岸の火事はこちらまで燃え移らないから、安心していられる。自分に関係がない事は、痛くもかゆくもないことの例え)としてでだろうか、それとも「他山の石」(「他の山にあるどんなつまらない石でも、自分の宝石を磨くのには役に立つ」ということから「他人のどんな行いや言葉でも、自分を向上させるのに役に立つ」という意味、「人の振り見て我が振り直せ」と同じような意味)としてであろうか

後者であれば、まだ救いはあるが、前者であれば、どのような救いもないであろう。