労働者のこだま(国内政治)

政治・経済問題を扱っています。筆者は主に横井邦彦です。

おもしろい組み合わせだ

2008-10-30 03:55:28 | Weblog
 現在のところ、世界は二つに分裂しつつある。

 一つは、アメリカ派であり、もう一つはヨーロッパ派だ。

 国内のヨーロッパ派の勢力としては、日本共産党(!)『赤旗』派と朝日新聞と朝日放送がある。

 何とも不思議な組み合わせだが、これはヨーロッパの政策が社会民主主義と“悔い改めた”ふりをしているスターリン主義に接近しているからだ。この点、現状ではちょっと考えにくいが将来的にはロシアもこのブロックに入っていく可能性がある。

 本来なら、日本の社民党もこのブロックに入るべきなのだろうが、この党は理論とか、経済とかいうむずかしい話はてんでダメなので、今のところ態度未定というべきであろう。

 これに対して、アメリカはヨーロッパのような行き方はしないことだけははっきりしているが、現在選挙中ということもあり、今のところはっきりとした方向性は打ち出せないでいる。

 一般でいわれているように、オバマが勝利した場合、アメリカの世界戦略がどうなるのかということはあまり、分からない。これはオバマが国内の問題についてはよく語るが、世界についてどのように考えているのかということをあまり言わないためである。ひょっとすると、この「言わない」ということが答えなのかも知れない。

 アメリカン・ファースト(アメリカ第一主義)はモンロー宣言以来、アメリカの孤立主義、つまり“引きこもり”となって現れており、共和党の伝統的な政策であったが、ケネディ以後これは民主党の政策になっている。

 アメリカが態度未定なのに、日本と中国ははやばやと、アメリカについていくことを決めている。

 もちろん、中国と日本がアメリカの“踏まれてもついていくゲタの雪”になろうと決めているのは、この二国がアメリカに大きく依存している(過剰生産力のはけ口にしている)からにほかならない。

 しかし、今変わろうとしているのは、世界の過剰生産力が生みだす膨大な商品を飲み込んできた、このアメリカの過剰消費そのものなのである。

 この社会の消費力を越えた過剰な消費な消費力は過大な信用によって支えられてきたが、その過剰な消費力を支えてきた過大な信用が崩壊してしまったのである。だとするならば、当然、この過大な消費は削減されざるをえないだろう。

 そういう点では、中国と日本のアメリカ支持はアメリカにとって、ありがた迷惑という面もある。


先週起こったこと

2008-10-27 00:42:16 | Weblog
 先週は世界各国の株式市場が大幅な下落をしたが、それはヨーロッパや開発途上国からドル資本が引き上げられ、世界各国の通貨がドルに対して下落したからである。

 これにたいして日本の円だけは独歩高を続け「一強百弱」ともいうべき不思議な現象が起こった。

 この不思議な現象は、各ファンドや銀行などの金融機関がドルで運用していた「投資のクローズ」(投下資本の見切り回収・決済)のために換金売りをはじめたからである。(日本の円がこの世界的な投機資金の「見切り決済・回収」の過程で上昇したのは、投機資金の引き受け手ではなく、出し手であったからである。)

 この世界的な投機資本の“手じまい”の結果、ドルの投機資金はその“故郷”であるアメリカと日本の銀行(部分的にはイギリスの銀行も)に帰っていったが、その結果として、ヨーロッパや開発途上国の通貨危機と金融危機と実体経済の悪化をもたらしている。

 しかし、これは過程の半分に過ぎない。というのは、このドルの投機資金の何倍もの投機資金がヨーロッパと開発途上国からアメリカに流れ込んでいたからである。だからアメリカからの資本流出というこの半分のことはまだ起こっていないし、起こらないかも知れない(というのはこのヨーロッパと開発途上国が買ったアメリカの債権や株式、その他の金融商品の多くはすでに値崩れしており、“金融商品”としての“商品価値”すら喪失しているものが多い。そういう点では、損切りを覚悟で投げ売るということはむずかしいといえる。)

 その場合、今度は一転して世界各国の通貨にたいするドルの“価値”の下落というということになるのだが、そうなった場合でも、円高は続くことになる。(当然のことながら、円も世界各国の通貨にちがいないのだから)

 この信用の収縮(投機資本が投機対象を投げ売りして換金を急ぐのは信用の収縮の必然的な過程であるが、これが各国の通貨の動揺をもたらしていることから、“一枚岩”(であるはずもないが)であった世界資本主義に深刻な亀裂をもたらしている。

 それはまずアメリカ、日本、(部分的にはイギリス)とヨーロッパ・開発途上国として現れているが、来月開かれる臨時サミットの頃には、もっと細かく分裂していくことになるかもしれない。

こうなったら・・・

2008-10-24 20:46:25 | Weblog
 われわれマルクス主義者が、あえて、節を曲げ、ひざを屈して、ブルジョア諸氏に、瀕死の世界資本主義を救済するために、決定的な破局を回避するために、株を売らないで、買っていただきたい、と連日お願いしているのに、われわれの期待は空しく裏切られた。

 多くの専門家は、先週までの経済危機を、過去形のように語り、あまり有効とも思えない“景気対策”の空約束をすることに余念がないが、危機は依然として、現在進行形であり、その大部分は未来形である。

 なるほど、ここ数日、世界資本主義は一時的な小康状態にあったが、それはあくまでもこれ以上進んだら本当に危険であるというブルジョアの本能的な防御意識が働いていたからである。

 つまり、世界資本主義は「板子一枚下は地獄」という破局のギリギリ一歩手前でかろうじて踏みとどまっていたのである。

 しかし、本日この“恐怖の均衡”は終わりを告げた。

 「板子一枚下は地獄」であるというその「板子」が破られたのである。後は推して知るべしであろう。

 われわれはもう前途に対して、恐れてはいない。必然的なものが、そのものとして、圧倒的な力で威力を発揮することによって、この社会の現実を人々に教育し、新しい社会へ導いていく時代は、労働者によってではなく、他ならぬこの社会の支配者であるブルジョアによってもたらされたものである。

 マルクス主義同志会が言った、「歴史はくりかえす、一度目は悲劇として、二度目は茶番として」という本当の意味は、「過去と明るく決別するため」である。つまり、悲劇のままでは、心残りがあって決別できないという意味である。

 しかし、人々が資本主義という「過去」と、心残りなく、「明るく、きっぱりと決別」するためには、むしろ圧倒的な「悲劇」が、つまり、このような社会で生きていくのは絶対にごめんだと思えるような「悲劇」が必要なのかも知れないのである。   

ブルジョアの知恵はつねにあと知恵

2008-10-22 03:39:38 | Weblog
 日銀の山口副総裁が、今ごろになって、低金利を放置していたのはよくなかった。低金利の時代に「円キャリートレード」(低利の円を借りて、高利で運用する)といった不健全な取引が広く行われ、それが世界の過剰流動性を生み、世界的な信用バブルの、全部とは言わないが、一つの原因になっていった、と反省している。

 反省しないより、反省した方がいいに決まっているのだが、こういうことが分かっているのであれば、なぜ、もっと早く手を打たなかったのか、という疑問がわいてくる。

 ちなみに、澄川元総裁の贈る言葉は、何ごとにも強い意志を持って、ということだそうだ。要するに、いろいろな圧力に負けないだけの強い意志を持て、ということらしいが、こういう話を聞くと、むしろ逆に、日銀はそういう圧力に負けていたという歴史があるのですか、と聞きたくもなるのではないだろうか。


「経済危機=茶番」説 その4

2008-10-22 03:10:06 | Weblog
 祝日経9000円回復、祝ダウ9000ドル回復、祝ドル高1ドル=102円回復、まさに日本のブルジョア諸氏の英雄的な行為は世界資本主義を大いに勇気づけるものになっている。

 この調子でいけば、一ヶ月もしないうちに、世界経済は回復すること間違いなしだ。投資家の皆さん、株でも、デリバティブでも、商品先物でも、FXでも、好きなものをどんどん買ってくださいよ。何しろ「暴落はチャンス」なのだから、今が買い時です。

 ところで、われわれと同じ「経済危機=茶番」説派であるマルクス主義同志会が、へんなことを言っている。

 彼らは現在、世界各国が行おうとしている「資本導入」(危機に陥った金融機関を政府が直接的に救済する方法)について「ただでさえ破綻している国家財政は、したがって国家そのものが崩壊し、解体して行く」から反対であるというのである。(本当はこの文章のあとに、そんなことをすれば「ブルジョア支配は根底から動揺しかねない」だろうという衝撃的な言葉が入っているのだが、この部分は読まなかったことにする)

 それにしても、この立場は、奇妙なものである。なぜなら、この立場は、資本主義経済が混乱するのはにかまわないが、国家が破綻するのは困るという立場であるからだ。

 しかし、国家は、たとえ、民主的な形態をとろうとも、階級的なものであり、そういうものとしてそのときどきの階級社会とある程度一体の関係をもってきた。

 したがって、一つの社会が滅びるとき、その社会から生まれた国家もまた滅びるし、滅びざるをえない。

 フランス革命前の“アンシャン・レジーム”も、旧ソ連や東欧諸国の国家資本主義(スターリン体制)も、その社会の行き詰まりはまず、国家財政の破綻として出現した。

 このように考えると、マルクス主義同志会の「資本主義経済が混乱するのはにかまわないが、国家が破綻するのは困るという立場」は成り立たないことがよく分かるであろう。

 このマルクス主義同志会の新しい立場は、去年あたりから彼らが熱心にやっているエンゲルスの『家族および国家の起原』の批判の結果として生まれている。

 つまりマルクス主義同志会は、エンゲルスの国家の起原を階級社会に求めるというのは、正しくなく、国家は共同の必要から生まれたという立場へ移行しようとしているのである。

 国家が社会の共同必要から生まれたというのであれば、「公平で、正義にもとづく“公的”権力」を彼らが追い求めたとしても不思議はないであろう。しかし、この立場は現実的でない。


民主党は池田大作の証人喚問を実施せよ

2008-10-22 02:47:33 | Weblog
 われわれがわざとぼかして創価学会の政治介入を言っているのに、それすら不満であるというバカがいる。

 ここは、はっきりと国会で白黒をつけるべきところではないのだろうか。

 そういう点では、国会に池田大作を呼んで、彼の口から是非ともことの真相を聞きたいものだ。

 その際はウソがつけないように、証人として呼ぶのがいいだろう。

 

コメント2件削除

2008-10-22 01:10:45 | Weblog
 コメントを二つ削除しました。

 まったく寝ぼけた連中だ。

 いつまで、昔のような時代が続いていると思っているのか!

 過ぎ去った日々は戻らない。 

池田大作が国会の解散権をもっているのか?

2008-10-21 06:34:35 | Weblog
 何でも、当人(麻生太郎氏)は、できるだけ遅い解散・総選挙(来年の春以降)を望んでいるらしいのだが、公明党=創価学会の都合で11月中にやるように公明党=創価学会に圧力をかけられているらしい。

 だから、11月に総選挙が行われれば、それは麻生氏が公明党=創価学会の圧力に屈したということであり、来年春に行われれば麻生氏が我を張ったということであろう。

 われわれとしては、ことここに至っては、どちらでもいい、というしかないであろう。

 公明党=創価学会の都合で行われる総選挙にしても、麻生氏の権力欲の結果としての総選挙でも、そのような不純な動機で行われる総選挙の結果は明らかであるからだ。

 総選挙にしても、戦争にしても、多くの人間を動員して行われる闘争であるのであれば、大義名分が必要である。

 大義名分のない戦争に勝利はない。これは大昔からの変わることのない真実であるからだ。

 

 

“大日本帝国マンザイ”は賞味期限切れ

2008-10-21 06:12:24 | Weblog
 アナクロチックな連中にとって、「日教組」、「朝日新聞」、「中国」は昔からの三題噺(さんだいばなし)で、昔はこれらを交代で悪罵(あくば)を投げつけていれば、飯が食えたというのであるから、昔の栄華は忘れられない、というものであろう。

 ところが、世が変わり、時が移りゆくとともに、「日教組」も、「朝日新聞」も、「中国」も、そのようなものではなくなっていった。

 国家資本主義(スターリン体制)の中国は自由資本主義へと転化し、「日教組」は闘わない(闘えない)普通の労働組合となり、「朝日新聞」も何が言いたいのかよくわからない新聞になっていった。

 もともとこの新聞社は不幸な星のもとに生まれたので、われわれが何を言っても許されるのに対して、この新聞社は何を言っても、言わなくても許されない。(この違いは、「いじめっ子」と「いじめられっ子」の違いであるという人もいるが、この見解はまったく正しくない。というのは、われわれはこれまで誰もいじめてはいないからである。)

 AがBになっても(もともとこういう連中がいうように、BがAであったときがあったどうかすらあやしいものだが)、いつまでもAだ、Aだ、と騒いでいるのは、そもそもこういう連中は、最初から過去の世界の中にのみ生きているような連中であり、現在および未来というものは眼中にないからである。だからこそアナクロニズム(時代錯誤)というのだが、このアナクロニズムは最近では言葉の本当の意味でのアナクロニズムになりつつある。

 つい先日も例の大阪の知事がほとんど精神錯乱的な話をしている。

 おもしろいので紹介すると、この知事、最初に「自分は権力者」だからと断っている。

 全国に何人、地方自治体の首長がいるのかは知らないが、恥ずかしげもなく自分は権力者であると公言する人物はおそらくこの男だけだろう。そもそもが、地方自治体の首長は権力者、すなわち、人を支配する力を行使する人物ではない。首長が住民を支配するという概念自体が憲法に定められた、地方自治の本旨に合致していない。

 おそらくこの男は自分が、大阪府の知事にではなく、江戸時代の大阪奉行にでもなったつもりであろうが、この勘違いは、大阪の人々の大きなわざわいになりはじめている。

 それを端的にあらわしているのが、先の第2京阪道路の用地として、門真市の北巣本保育園の畑771.17平方メートルに行政代執行をかけ、強制収用したことにもあらわれている。

 この時この男は「府は4月から任意交渉を誠実に続け、慎重な対応をしてきた。(高裁の決定まで)今後2週間遅らせると、通行料で6億~7億円の損が出てくる。公の利益のためということで、園の所有者には申し訳ないがこのまま代執行をさせて頂く」と語ったが、この強制執行は二つの点で違法性がある。

 一つは、もちろん大阪高裁で係争中の事案であることだ。高裁の判決が2週間後に出るというのであれば、それをまたなければ「任意交渉を誠実に続けていた」ということはできないであろうし、「慎重な対応」ということもウソだと言うことであろう。こういう場合、権力の乱用があるのであり、強制執行の正当性そのものが喪失するのではないか。

 つぎに、保育園側の「収穫を待つべきだ」と言う声に耳を傾けずに、「月末の芋掘り交流会に向け、園児たちが育ててきたサツマイモや落花生が引き抜かれ、整地された」ということである。別に『ベニスの商人』の話をするわけではないが、土地収用法では土地の収用を認めているが、土地の果実の没収までは認めてはいない。農地の強制執行は当然、農作物の収穫を持って行われるべきであり、子どもたちが育ててきた畑が強制執行によって荒らされ、果実の収穫できなかったと言うことに対して、土地所有者に物質的、精神的な損害を与えているのである。

 以上2点の、不法行為を正当化するために、この男は「今後2週間遅らせると、通行料で6億~7億円の損が出てくる」という理屈を持ち出してくる。

 しかし、このような話は「捕らぬ狸の皮算用」そのものであろう。そもそも裁判で係争中の土地の収用を前提に予算を組むなどということ自体が、日本の司法制度を愚弄しているとしか思えないし、その裁判の判決前に強制収用を行うというのは、最初から、誠実に交渉する意志がなかったということでしかない。

 そういう意味ではこの強制執行の正当性については法的に大きな問題がある。

 そして、このむき出しのブルジョア独裁の発動(公権力の形式をもった階級的な暴力の行使)を目の当たりにした園児たちが泣く姿がテレビに映し出されるや、この男は、「保育園側は園児の涙を利用している」と保育園側に悪罵を投げつけ、騒動の責任を保育園側になすりつける。どこまでも根性が腐った男だよ。

 そして、数日後には、自衛隊の閲兵式で、例の「朝日新聞」うんぬんという話が出てくる。その翌日には「朝日新聞などなくなってしまえばいい」などという過激な言動まで飛び出している。

 これは何でも、朝日新聞が光市母子殺害事件に関して、この男に弁護士の資格の返上を進言したことに腹を立てたからだそうである。

 この男の反論がふるっている。「僕にも家族はあるし事務職員を抱えている。弁護士資格を返上したら従業員はどうなるのか」という。この話は笑える。つまり、この男は自分は家族や事務員を養うため、つまり、報酬のために弁護士をやっているのだという。

 もちろん、弁護士が報酬をもらうことを法律は禁止していない。これは裁判官や検事が自分の職務の遂行によって報酬を得るのと同じである。

 しかし、裁判官や検事が自分は報酬のためにこの仕事をやっているなどといえば、多くの人は、もっと金の儲かる仕事があるのだから、その仕事を辞めたほうがいいのではないかというであろう。

 弁護士だって同じだ。弁護士法の第1条には「1 弁護士は、基本的人権を擁護し、社会正義を実現することを使命とする。2 弁護士は、前項の使命に基き、誠実にその職務を行い、社会秩序の維持及び法律制度の改善に努力しなければならない。」と書いてある。

 つまり、弁護士はこの弁護士法の使命を遂行するかぎりにおいて報酬が認められているのであり、自ら基本的人権を踏みにじり、公共の正義と秩序に挑戦しようという人物が報酬だけを目当てにその職にしがみつくようなこと自体がおかしいのである。

 最近のこの男の情緒不安定というか、ヒステリックな態度はますます増長している。これは自分の世界と現実の世界がまったく乖離しているために精神的な不適応を起こしていることを知らないからであろう。

「経済危機=茶番」説 その3

2008-10-18 02:02:50 | Weblog
 この経済危機の中で、日本のブルジョアジーとわれわれの利害はある程度、一致している。

 つまり、ブルジョアジーは決定的な破局を望んでいないし、われわれも“時間”が欲しいのである。

 レーニンが社会主義運動に参加しはじめた、19世紀の末にロシア帝国はすでに、終末期を迎えており、その腐敗と頽廃は誰の目にも明らかであり、他方において労働者の力強い運動が始まっていた。

 革命の条件がすでにそろっていたのであるから、レーニンの仕事はこの起こるべき革命(必然のものとして措定されている革命)を現実に転化させることだけであった。

 しかし、現在、経済的な危機は世界的な規模で進行しているが、力強い労働者の闘いはまだ存在していないし、健全な労働者の政党が育つにはまだまだ時間が必要である。

 われわれは90年代の失業者が300万人を越えていた時代を、最底辺の労働者として、失業者として、通過してきたが、あの時、われわれは見たくもないものを山ほど見てきたし、経験をしたくもないことを経験させられてきた。

 したがって、われわれは革命の条件もそろっていないのに、いきなり未曾有の経済危機に多くの労働者が直面させられるのは好まない。

 そこでわれわれも「経済危機=茶番」説に賛同しようと思う。

 この案がいいのは、われわれが現在の経済危機回避のもっともありうべき解決法として提示した、日本の金融資産は1500兆円以上あるのだから、そのうち500兆円程度を世界資本主義にカンパするという案を含んでいることだ。

 つまり「リスクテイク」である。

 日本のバブルは、実は、1987年の「ブラックマンデー」を契機に本格化した。つまり、あの日、日経平均は2000円以上暴落したが、次の日に1000円以上も暴騰し、ごく短期間に暴落分を取り戻したばかりか、あの株式投機の全盛時代を築いたのである。

 あの時の成功体験があるから、現在、「暴落はチャンスだ」、という声が現在の日本の“個人投資家”のあいだで、急速に広まっており、証券会社は大繁盛だという。

 そうです、暴落はチャンスです。時代は「貯蓄よりも投資」の時代です。

 株価がこの先どうなるのか、ということはわれわれの知らないことであるが、成功すれば「オメデトウ」だし、失敗して無一文になったとしても、それは世界資本主義の破局を回避する一助になったことは間違いないのだから、どちらに転んでもいい結果ということになる。

 この案がいいのは、金融機関が株式投資に失敗して破綻すれば、信用制度を痛めるが、個人が自分の責任でやっていることは個人が責任をとれば済むということだ。追い証が払えなければ生命保険をかけて自殺して保険料で精算するという手もある。

 そういう点からするなら、証券会社はテレビを使って大々的に“個人投資家”の参加をうながすべきだし、何ごとにつけ煽(あお)ることが好きなマスコミも大々的に「世界資本主義救済運動」を呼びかけるべきであろう。

再度、「現在の経済危機=茶番」説を考える

2008-10-16 01:26:29 | Weblog
 前回は、某党派の「恐慌=茶番」説を考えたが、今回は別の観点から「現在の経済危機=茶番」説を考えてみよう。

 というのは、よくよく考えたら、現在の世界的な経済危機は、「森の石松」ではないが、「大事なことを忘れていませんか?」という話になっているからである。

 株も下がっているし、商品市況も下がっている、他に何が必要だというのだろうか?

 そう、これほどアメリカ発の信用不安ということが声高に叫ばれて、世界中の株式市場や商品市場、債券市場が動揺しているわりには、外為市場はそれほど混乱していないのだ。

 もちろん、一時的には、ドル安、ユーロ安が進んだが、それは急速に修正されている。

 もちろん、その理由は明らかである。ここでドル売りが進めば、それこそ津波のようなドル売りとなり、1ドル=60円、50円というレートさえ考えられるような情況に陥ることが明らかであるからである。

 だからドルを売りたいというという勢力はあるが、結果が破滅的であるだけに、売れない、売らないという“恐怖の均衡”状態にあるからである。

 このことは、この経済危機がまだフリー・フォール(自由落下)の状態ではなく、統制がきく状態で起こっていることを表している。

 そういう点では、「現在の経済危機=茶番」説は一定の根拠がないわけではない。

 ところが、この「現在の経済危機=茶番」説も、日欧米の資本主義国の経済危機対策が“銀行への公的資本の注入”に収れんすることによって終わりを告げようとしている。

 もともとはサブプライム問題に端を発した昨年からの株式市場の“崩壊”は、その“崩壊”自体が銀行の収益を圧迫し、銀行の収益が悪化しているのではないかという疑念が信用不安(銀行の支払い能力への疑問)を生み、短期資本市場の金利の高騰と株式・国際商品やその先物の暴落をうむという悪循環になっていったものである。

 つまり、単純にいえば、銀行の収益が悪化したので株が下落したのではなく、逆に株が下落したから銀行の収益が悪化したのである。

 そういう観点からするなら、銀行への公的資本の注入はあまり意味のない政策ということになるが、これは日本の小泉政権のもとでの経験がもとになっているのであろう。

 日本ではすでに1998年に“金融安定化法”が成立していたが、成立当初は銀行の自主申告にもとづいて公的資本の注入がなされていたということもあって、銀行への資本注入にはあまり利用はされなかった。むしろ公的資金は長銀のような完全に破綻した銀行の整理のために使われていたのだが、銀行に強制的にでも公的資本を導入することに執着したのは21世紀に入って小泉政権が誕生して竹中氏が金融相に就任したからであった。

 なぜ竹中氏が銀行への公的資本の導入に強い執着心を持っていたのかといえば、それは小泉政権になって、日本の景気が回復に向かっているにもかかわらず、東京株式市場が下落を続けていたからであった。

 つまり竹中氏は強権によって銀行の不良債権の処理を急がせ、銀行の体力を回復させることによって、銀行に株を買わせることによって、株価をつり上げようとしたのである。

 しかし、実際には、株価の自立反転は、銀行による株の買い上げというよりも、日本資本主義の回復によるものであった。

 つまり、前回の日本資本主義の景気回復過程は21世紀に入ってからの世界経済の拡張の結果であり、原因でもあった。その結果、日本資本主義は外需依存を一段と強め、中国などの開発途上国への積極的な生産財や資本の輸出、アメリカなどの先進国への耐久消費財の輸出といういびつなかたちで行われたために、貧弱な国内産業はそのまま取り残され、生命力を持った資本は輸出によって稼いだ資本を労働者の賃金の安い中国に投下して生産拠点を移すというやり方で増殖していたために、地場産業や労働者の劣悪な労働環境がそのまま放置されたり、大量の労働者が雇用の非正規化の進行によってむしろ生活環境を不安定化させていた。

 だから、日本資本主義はその景気回復過程において、外需依存によって急速な自己増殖を続けることによってもたらされる資本の繁栄と日本国内の経済の停滞というアンバランスが生じており、それが東京株式市場の平均株価にも繁栄されていた。

 しかし、このアンバランスは、日本資本主義が海外に投下した資本が海外で生産力化して果実を生んで本国(日本)に送還されるにしたがって解消されるはずあったが、小泉政権はそれを待てなかったのである。

 そういう点からするならば、現在の世界経済の状態、すなわち、世界的な規模で集積された過剰生産力が顕在化しつつあるという状態とは、まったく異なるものであることが分かる。

 つまり、全体として、世界のブルジョアは間違った道を選択してしまったのであり、間違った選択が、「現在の経済危機=茶番」が果たして、このまま茶番のままで終わるのだろうか、という疑念を生みだしている
 

コメントありがとうございました

2008-10-14 15:43:52 | Weblog
 「革命21」の方から懇切丁寧なコメントをいただきました。

 一緒にやらないかということですけど、これはおことわりするしかないと思っています。

 第一に、もうずいぶんと前のことですが、われわれは“統一戦線”というものを一般的に否定する立場に立っていないといったことがあります。この言葉にうそはありません。われわれは必要とあれば、民主党や日本共産党や社民党とすら手を結ぶことも否定はしません。ですから、これまでそういうつもりで他党派と接触してきました。

 もちろんその場合は、われわれが「必要があれば」という前提で、“統一戦線”を組むわけですから、どういう「必要性」があるのかということを労働者に説明する必要があるし、その説明は労働者が納得のいくものでなければならないと思います。

 第2に、われわれは彼らがいうところの「運動体」ではありません。この「運動体」というのは、実はよく分からないのですが、われわれは自分たちは社会通念上の「政治勢力」ではないし、“全国社研”(社労党の前身)のような「直接的に政党をめざす」ような存在でもないということは何度も言明しています。

 われわれは純然たるマルクス主義の研究集団をめざして、出発しましたが、現在、それ以外のことをいろいろ言っているのは、端的にいって“労働者”の要求があるからです。「労働者が道に迷わないように」自分たちは生まれたのだとわれわれは言ったのですから、社会の変化の節々(ふしぶし)で、今起きていること、これから起きようとしていることを労働者に説明するというの最低限の仕事は果たさなければならないと考えたためです。

 「運動体」ということでいえば、われわれよりも「ワーカーズ」の諸氏の方がよほど、共闘相手としてはふさわしいのではないでしょうか。彼らもまた「運動体」の連合を模索している人々ですから、なぜ一緒にやらないのか不思議でたまりません。

 「ワーカーズ」のことを誤解しているのであれば、あえて言いますが、彼らはもっと社会的(といっても新左翼というせまい社会のことですが)に評価されてもしかるべき人々であるとわれわれは考えています。

 第3に、「民主主義」についてですが、何か誤解があるようなので、この場をお借りして申しあげたいのですが、われわれは社会一般で言われているような意味での「民主主義」者ではありません。むしろその対立物です。

 われわれがいつも自分たちのことを「労働者の民主主義派」であると言っているものですから、われわれが純粋民主主義の信奉者であるかのように考えている人は多いのですが、われわれが「労働者の民主主義」というのは、あくまでも「生産手段の共有にもとづく個人的所有の再建」(多数の生産者がそれぞれ自分のものとして生産に関わるという以上、それぞれの生産者間の意志の統一には民主主義的な手法が欠かせない)という意味でしかありません。

 そもそも民主主義といったものは、それぞれの社会構成体から生みだされてくるもので、古代ギリシア・ローマの“民主主義”とブルジョア社会(資本主義社会)の“民主主義”と社会主義社会もしくは共産主義社会における“民主主義”は同じものではありません。

 しかも、ブルジョア社会における“民主主義”は、形式的なものであり、単に名目的なものにすぎません。欺瞞的なものであるといってもいいでしょう。

 ブルジョアは、歴史的に制限された統治手段である、ブルジョア民主主義をあたかも一般的なものである(純粋民主主義なるものが存在する)かのように主張し、ブルジョア民主主義によってスターリン主義の欠陥を克服できるかのように考えていますが、われわれはそのようには考えておりません。

 むしろこのような奇妙な現象は人々がスターリン主義とブルジョア民主主義しか知らなかったことに起因するのですから、むしろ左翼と称される人々がブルジョア民主主義を克服すること(ブルジョア民主主義の幻想から解放されること)こそが緊要であると考えております。


明日はお休み

2008-10-13 01:17:47 | Weblog
 地球は、反時計回りに回転しており、日付変更線は、太平洋の真ん中にある。

 だから、主な市場は、東京→アジア→ヨーロッパ→ニューヨークと順次開いていく。

 ところが今回は、東京市場が休みだから、アジアから開いていく。

 世界が固唾(かたず)を飲んで、先週末のG7をマーケットがどのように評価し、事態がどのように展開していくのか見守っている中で、東京が休みという影響がどのようにでるのかまだ分かっていない。

 ただ、全体的に見れば、どういうわけか日本資本主義だけは、脳天気だから、剣道や相撲でいえば、試合当日に恐いもの知らずの先鋒が休場してしまったようなものだ。

 これも運命というものであろう。

 

 
 

事態を大きく読み間違えている

2008-10-11 00:26:18 | Weblog
 9日(現地時間)のNY株式市場は大きく下げて、世界の経済危機は新しい段階に突入した。

 しかし、この危機は世界の金融機関および中央銀行、所轄官庁の大きな現状の読み間違いによって引き起こされたという面がある。

 どういうわけか、ここ数日、日本資本主義は舞い上がっており、われを忘れていた。そして世界は、おろかな日本資本主義に引き回されて、世界恐慌の引き金を引いてしまったのかも知れない。

 日本資本主義は“流動性の不足”(インターバンク取引の崩壊)の背後には、金融機関の支払能力の低下(信用力の低下)があるというそれ自体はそれ自体正しい命題を取り上げて、金融機関への“公的資本の注入”を訴えている。

 何でもこれは90年代の日本経済の経験なのだそうだが、銀行への“公的資本の注入”というのは国家による銀行の損失補填であろう。

 そして各国が銀行への損失補填の必要性を声高にいうということは、別の見方をすれば欧米の銀行の多くが政府の救済を必要とするほど経営が悪化しているということを政府自体が認めているということであろう。

 だとすれば、それは“流動性の不足”をさらに加速させる(銀行が他の銀行に対して疑心暗鬼に陥り取引を見合わせる)という結果にしかならないし、それほど金融不安が加速しているのであれば、手持ちの株式や債権を売って現金をえようとする動きが加速するのは当然であろう。

 だから世界の金融機関および中央銀行、所轄官庁が声を合わせて銀行の救済を訴えれば、訴えるほど、株式を売って現金化しようという動きが加速し、それが株式市場の暴落となり、株式市場が暴落することによって銀行の経営を本当に深刻なものにしていくことになる。

 しかも、個別の銀行に公的資金を投入して救済するということは、それ自体一つの政治問題であって、政党間の係争問題であろう。(少なくともすべての政党が賛成するというたぐいの話ではない)

 効果という点についても、90年代に日本ではうまくいったというが、日本資本主義は何兆円もの公的資金を投入しても結局救済できずに破綻して、投下した莫大な公的資本がムダになった銀行もあったということを忘れている。

 そして何より重要なことは、9日以来の世界的な株価の急落は、信用不安とは違ったものを見ているのである。

 それはいうまでもなく、実体経済の急速な悪化である。

 前にもいったことがあるが、実体経済を現状を把握するのには、タイム・ラグがあり、経済統計としてわれわれが目にするのは一ヶ月、二ヶ月前の経済の姿でしかない。(最も、これはわれわれが一般人であるからで、専門家はもっと短い期間で見ているのだろうが)

 それでも、いろいろな経済指標や、日々のニュースや日々の各市場(株式市場、商品市場、資本市場、外為市場等々)の動きは世界生産が急速に停滞しているという事実である。

 9日のNY市場での株式の暴落は、GMの経営悪化が直接の原因であり、10日の東京市場での株式の暴落は大和生命の経営破綻に市場が反応したためである。

 つまり、現在の株式市場の暴落は信用不安に起因する暴落の次の段階、すなわち、信用不安の暴落によって資金繰りがつかなくなった個別資本のいくつかが破綻の危機を迎えているという段階に入り始めているのであり、ただ銀行を救済すれば済むという話ではなくなりつつあるのである。

 もともと信用制度の大きな役割は好況のなかで過剰生産力が蓄積されていく過程で同時に生みだされていく遊休貨幣資本の運用先であるとともに、過剰生産力が顕在化する(生産の過剰が表面化する)ことを覆い隠すという側面があり、信用の過度の膨張のもとで社会の生産能力と消費能力のギャップは覆い隠されているのだが、“バブルの崩壊”(信用の急速な収縮)とともに、潜在的であった過剰生産力は露呈して過剰資本、過剰生産、過剰商品として現れざるをえないのである。

 現在、世界はこの信用の崩壊から過剰生産の露呈するという非常にむずかしい局面に入り始めており、自動車産業や製鉄業といった基幹産業ではもう“生産調整”が始まっており、これはすぐにも他の業種に拡大して行くであろう。

 世界は世界恐慌の中に足を踏み入れようとしているのである。(ひょっとしたら、もう最初の一歩を踏み入れてしまったのかも知れない。)