労働者のこだま(国内政治)

政治・経済問題を扱っています。筆者は主に横井邦彦です。

地方公共団体の首長は議会解散運動をすることができるか?

2010-03-28 03:52:39 | Weblog
 名古屋市の河村市長が、街頭で名古屋市議会解散の署名集めを始めている。

 戦後日本の地方自治の長い歴史の中でこういうことはあまりなかったような気がするので、今日はこの問題を考えてみたい。

 地方公共団体の首長と議会の深刻な対立はこれまでもあっただろうが、こういう事例を聞いたことがないのは、これまでは、相互の不信感が増幅して抜き差しならない事態になった場合、議会が首長を不信任決議を可決し、それに対して首長が辞職するか、議会を解散するかのどちらか、または両方、が選ばれてきたからであった。

 つまり、日本の法律は首長による議会の解散を不信任案が可決した場合に限定しているのである。

 議会と首長の対立関係で言えば、首長は議会の決定を承伏できなければ、再議(審議のやり直し)を命ずることもできるが、再議で再可決されればそれは議会の決定となる。

 例外として、議会の決定が“権限を越え、法令に反する”ものであった場合には、総務大臣に裁定を求めることができることになっている。

 つまり地方自治では、全体として議会の優越が認められているのである。

 そこで河村氏が考えたのが、リコール運動によって議会を解散させることなのだが、そもそも地方自治に認められているリコール運動というものは、直接民主制を部分的に取り入れている住民自治から発生しているものであって、首長がリコール運動を組織し、扇動し、運動の先頭に立つことはまったく想定はしていない。むしろ法令は逆のこと、すなわち、首長はそのようなことをしないということを想定している。

 30数万の署名が集まれば、リコールが成立するかのようなことが言われているが、いくら数が集まっても、地方自治の趣旨にそぐわない(住民の発議によって行われた運動ではないという点で)署名が果たしてリコールの条件を満たすのかは、はなはだ疑問である。

 この問題はおそらく、名古屋市民の誰かが署名の無効と住民投票の差し止めを求める訴訟を起こす可能性があり、その場合、裁判は最高裁までもつれて、最高裁の憲法解釈にゆだねられることになるだろうが、違憲の判決が出る可能性は五分五分であろう。

橋下徹とテレビ朝日は許しがたい

2010-03-24 19:13:08 | Weblog
 今日のお昼、テレビを見ていたら、テレビ朝日のアナウンサー(上山千穂氏)が、北朝鮮が橋下知事をナチスになぞらえて、批判しましたといい、次に登場した橋下徹が、子どもを泣かせたくなかったら北朝鮮は拉致被害者を解放せよと訴えた。

 しかし、朝鮮中央通信は橋下徹のことを「歴史と論理学の初歩的な常識もない無知、政治詐欺師、卑劣漢だ」と非難したのであり、橋下のことをナチのブタ(ゲーリング)といったのはわれわれである。

 しかも、われわれは朝鮮学校の無償化問題で言ったのではなく、橋下徹と叔父が経営する「北川建設」との不適切な関係についてそういったのである。一方において独裁的な府政を行いながら、他方において「我田引水」をやっているのは、ナチスの独裁政治の影で私腹をこやしたゲーリングのようなものであり、マスコミはこういう橋下の犯罪行為(橋下徹は「北川建設」から政治献金を受けるとともに「北川建設」便宜を与えている)に対してどうして沈黙しているのか、何とか言えよ、といったのである。

 その解答がこれではあまりにも情けないではないか。

 これは一種の目くらましであり、疑惑隠しそのものではないか。

 しかも、マスコミと橋下による犯罪の隠蔽工作に使われたのが、在日朝鮮人の子どもたちであるのだから、二重三重に許しがたいのである。

 一体、「お前たちの子どもたちは人質にとった、返して欲しければ捕虜を釈放せよ」などと敵国に呼びかけるテレビ局がどこにあるのか!

 間違いなくこの問題は大きくなってゆき、国際問題にまでなっていくだろう。


暴露された社民党の密室政治

2010-03-24 03:06:10 | Weblog
 伝えられるところによると、原子力委員会の委員(国会の承認人事)に東大大学院の教授を充てることに社民党の福島党首が難色を示し、官房長官の平野氏に伝えたそうである。

 福島党首によればその東大教授は原発に反対する市民団体と“あつれき”があるから反対なのだそうだが、こういうことは裏でコソコソやらないで国会で堂々とやるべきであろう。(何しろ政府の承認人事ではなく国会の承認人事なのだから)

 それを平野官房長官との裏取引で行おうとしたことに現在の社民党の政治のうさんくささと救いがたさがある。

 われわれはもんじゅの再稼働にも、核燃料サイクルの推進にも反対ではない。しかし、無条件に賛成といっているのでもない。

 多くの反対意見があることも充分承知しているし、資本主義的に充用される科学技術の“危険性”についても無視しているのではない。

 反対、賛成の双方が意見があるとしたら、きちんと話し合うべきであると言っているのである。別に階級的な利害がからんでいる問題ではないのだから(もちろん原子力発電を推進するのは資本の利益になるという点で階級的な利害はないわけではないのだが)、冷静な話し合いは充分可能であろう。原子力研究者や技術者もそういうことを望んでいる。

 ところが、現在、原子力の利用をめぐって日本で行われているのは、感情的な反対論や事実に基づかないあやしげな話だけである。

 例えば、『赤旗』では一面を使って、もんじゅの再稼働に反対する理由として、高速増殖炉には、減速材としてナトリウムしかないから危険であるというようなことが書いてあるが、実際には、もんじゅにはホウ素を濃縮してペレット状に固めた制御棒が装着されているのだから、緊急時にホウ素を注入できないから安全ではないという議論は成り立たない。

 こういうかたちではなにもものごとは解決しない。   

どこもかしこも

2010-03-24 00:43:20 | Weblog
 数年前から、全国のいくつかの自治体で、“改革派”首長なるものが誕生し、“地方主権”なるものが唱えられ始めた。

 しかし、その“改革”の中味の主なものは、地方公共事業体の労働者の賃金の切り下げであり、労働者を犠牲にして地方財政を立て直そうというものであった。

 もちろん、労働者の賃金をいくら切り縮めても長く続いた放漫財政のツケは払いきれないのだが、マスコミによって英断としてもてはやされ、彼らの何人かは“時の人”となっていった。

 ところが、現在では、その“時の人”が、違う意味で“時の人”となり始めている。

 つまり、現在では“時の人”のほとんどが、お手盛り政治で、自分たちの親族や“身内”に特別の便宜を図ったとして、追求を受け始めているのである。東京の石原都知事に始まり、阿久根市もそうだし、大阪府もそうだし、名古屋市もそうだ。

 結局、彼ら“プチ独裁者”の行きつく先は、地方公共団体の私物化であり、税金の私消でしかなかったということほど、彼らの特徴をあらわすものはないであろう。

 ところが、あれほど彼らを“改革者”として美化し、現在も美化して彼らの言動を逐一報道していたマスコミは“プチ独裁者”の本性を端的に表している、彼らの悪事に対しては死の沈黙を守っている。

 こういった事実も現在の日本のマスコミの性格なり特徴を端的にあらわしているのだが、彼らのやっていることはれっきとした犯罪なのであるから、ほっておくこともできないだろう。

それとも彼らは小沢派ではなく、恐怖政治の陰で思いっきり私腹をこやしたナチのゲッペルス(ゲーリングの誤り)のような存在だから許されるというのだろうか?

 マスコミ諸君、君たちは何者だ。


マルクス主義同志会の変身に注目

2010-03-23 02:54:56 | Weblog
 つい昨日まで、自民党の別働隊として、資本の飼い犬として、さかんに民主党や共産党を攻撃し、労働者階級を愚弄していたマルクス主義同志会が、今日は、突然変身して、自分たちこそ正統スターリン主義者であり、労働者を指導する党であるかのように言い出すのであるから、これは一つのニュースであろう。

 これは社労党から分離したワーカーズが、最近になって、マルクス主義の原則的な立場へ回帰しようとしているのと似ているようにも思えるが、それはワーカーズが本質的に労働者の活動家からなる団体であり、いろいろな不純分子を含みながらも、健全な労働者の意識をなお保持し続けていることに起因しているからである。ところが“ご本家さま”にはもう一つ特別な事情がある。

 それは、どういうわけかマルクス主義同志会が引き受けている資本主義の“避雷針”としての役割であり、嵐の時に、雷の直撃を自らが受けて雷の巨大電流を大地へ逃がして構造物(資本主義)を守るという役目であり、そのためには、何にでも変身できるのである。

 では、嵐は近づいているのだろうか?

 それは難しい質問だ。

 だだいえることは、最近の世論調査では民主党、国民新党、社民党の支持率が急降下なのに、自民党が増えず、支持なし層だけが増えていくという特徴が見られる。

 この支持なし層は、支持政党を答えない層でもあるのだが、政治的無関心層ばかりではなく、政治的な意識が高い層でもあり、そういう人はよほどのことがないかぎり棄権という行動はとらない。

 また、これは日本の政党調査の特徴でもあるのだが、共産党や新左翼を支持している人は、共産党員や新左翼の関係者でないかぎり、共産党や新左翼を支持しているとはいわず、支持政党なしと答える傾向がある。

 では、共産党の支持は広がっているのだろうか?この質問に答えられるのは“特別の職業”にたずさわっている人だけであろうが、一般的にいって、多くの人が知らないところでそういう傾向が生まれても不思議ではない情況がある。

 もちろん、参議院選挙へ向けた政治闘争はまだ始まったばかりであり、共産党が伸びようとすれば、マルクス主義同志会ばかりではなく他のすべての政党から十字砲火を浴びることになるだろうし、共産党が有権者の期待に答えるような選挙闘争を行えるのかどうかも未知数なのだが、マルクス主義同志会の突然の変身は時代が一つ転換点を迎えている象徴でもあるように思われる。

 もちろんそれは労働者が社会の変革を求めはじめており、変革の主体を真剣に模索し始めていることの表れでもある。


散文的に

2010-03-21 02:25:14 | Weblog
 最近、現在の日本の情況についていろいろ言っているのですが、どうもイマイチ分かってもらえないようなので、直接的に言うことにしました。

 現在、日本の政治情勢は一つの岐路に立っています。

 昨年の衆議院選挙で大勝した民主党はすでに労働者階級の信頼を失っています。

 したがって民主党はもう大きな選挙で勝利することができない政党へと転落しています。

 それで、自民党が復権を狙っていろいろ策動しているところですが、民主党が労働者階級の信頼を失ったのは、自民党と変わらない政党であったことに労働者階級が気づいたからで、有権者が民主党の自民党的なところがイヤだと言っているのに、自民党はどうでしょうかなどというのは論外で、まったく寝ぼけている議論としか言いようがありません。

 自民党もダメ、民主党もダメというなかで政党政治に対する信頼が揺らいでいます。

 当然、こういう事態は想定されていたことですが、ここへ来てもう一つの要素が生まれ始めています。

 それは右の極端な部分が、不法な活動を拡大しようという動きであり、左のある部分がそれに引きずられつつあるという点です。

 この点について、治安当局者の認識は非常に甘いとしか言いようがありません。

 違法活動を展開しようとする連中がさかんに、自分たちの活動の極限を見定めようと挑発活動をくりかえしているのに、それに対して、最近起こったことは、警視庁の捜査一課長の不倫問題での更迭であり、名古屋高検の検事のわいせつ事件(女子高生のスカートの中を携帯電話で盗撮しようとした)です。

 国家公安委員長(日本の治安の事実上の責任者)の中井は、「在特会」とグルになって朝鮮人高校生の差別に狂奔している。しかし、「在特会」こそが、現在の日本の治安にとって脅威そのものなのだ。

 これではテロと不法活動によって法治体制に挑戦しようとしている連中に、治安機関がその行動に対して“お墨付き”を与えているようなものなのだから、これからの日本では起こるべきことが起こるのである。

 政治不信が拡大し“場外乱闘”が激しくなる中で、社会の土台そのものがくずれはじめるということになれば、今、“蜘蛛の糸”のようなかすかな希望にすがりついて、かろうじて生活を保っている数百万、数千万の労働者階級の生活はどうなるのか。

 革命をやればいいのだというのは、駄弁だ。資本種的生産様式の制限がすでに人々の意識にのぼり始めているからといっても、一つの社会が変わるには10年以上の“辛苦の時”が必要だ。日々の生活に追われている人々に10年という空白の時を要求するのは、死ねと言っているのと同じであろう。

 革命には犠牲がつきものであるというのも、駄弁だ。労働者に犠牲を強要して獲得された社会が、労働者を犠牲にする社会でないという保障はどこにあるのか!

 革命の必然性が、熟し柿が柿の木から落ちるようなものであるとするなら、無理に柿の木を揺さぶるのは必然性に反している。

 労働組合は、合法的活動の可能性のすべてを汲みつくしているのであろうか?そうではないであろう。まだなすべきことの100分の1もなしてはいない。

 労働者の党は、合法的活動の可能性のすべてをすべてを汲みつくしているのであろうか?そうではないであろう。それはまだその姿すら現してはいない。

 だとするなら、われわれの仕事は柿の木を揺さぶることではないはずだ。


名大病院は燃えているか?

2010-03-20 18:58:19 | Weblog
名大病院は燃えているか?

 昨日は名大病院に勤務する最後の日だった。

 桜の花が咲く前にひっそりと姿を消すのもいいかなと思って、鶴舞公園を歩いて、名大病院の構内にはいると、消防車やパトカーが何台も赤色灯をつけて、警官や消防隊がひしめいているではないか。

 すわ、事件かと思って中央監視室に駆け込むと電話がじゃんじゃん鳴っている。

 「火事はどこだ?」「被害の状況は?」「エネルギーセンターが燃えているというのは本当ですか?」中には「放火だそうですが?犯人に心当たりはありますか?」という人までいた。

 「何これ?」と当直者に聞くと、「名古屋テレビ(テレビ朝日系列)の屋上から、名大病院が炎上しているのが見えると、名古屋テレビの局員が119番に電話した」のだそうだ。

 いくら火のないところに煙をたてるのがテレビ局の仕事であるとはいえ、これはちょっとひどいではないか。(火事云々はすべてガセネタ)

 しかもよりによってそれが今日だとは・・・・・。

 何か電話の向こうの声が、「パリは燃えているか」とヒステリックに叫ぶヒトラーに重なってくる。

 連合軍の進行を止められないならパリを焦土としてしまえというヒトラーと、ムダな破壊は意味がないと考えヒトラーの指示を守らず連合軍に無条件降伏したドイツ軍のパリ占領司令官のコルティッツ将軍を描いた「パリは燃えているか」という映画が昔あったが、労働者はヒトラーにはなれないだろう。

。 

リュクサンブール委員会・・・・・・

2010-03-17 02:50:54 | Weblog
 どういうわけか失業者A氏は、職業訓練学校の電気工事の講師になってしまい。失業者が失業者に電気工事のイロハを教えるということになってしまった。

 もちろんこれは決して悪いことではなく、かなりギルド的(徒弟的)な色彩が残っている電気工事業界では、仕事が遅いとペンチが飛んできたり、失敗すると思いっきりどしかられたり、10時と3時の休憩時に先輩の電気工事士のジュースやコーヒーを買いにいかされたりと、“雑巾がけ”をさせられながら一人前になっていくといった従来の教育方法よりも、失業者講師には賃金を、失業者受講生にはていねいな指導と失業給付が支払われる現行の制度の方がいいに決まっている。

 しかし、いいことはあまり長続きをしないのが世の習いである。

 その典型的な例が1848年の二月革命の結果生まれたルイ・ブランのリュクサンブール委員会が失業者を集めてつくった国立作業場であった。

 革命の主役に躍り出た労働者階級を懐柔し籠絡するために国立作業場という名ばかりの施設に失業者を集めて1日2フランを支給するこの制度は、ブルジョアと小ブルジョアの支配が確立すると用済みとなり、作業場の閉鎖を労働者に通告した。

 それで労働者は蜂起せざるをえなくなったが、結果は悲惨なものであった。銃殺されたもの1500名、逮捕者2万5千人をだしてフランスの労働者階級は決定的に敗北した(六月蜂起)。

 現在の鳩山政権も、300万人を越える失業者に恐怖し、緊急失業対策事業を行って失業者を懐柔しようとしている。しかし、これがいつまでも続くわけではなく、そのうちにその反動が来ることは分かっている。

 しかし、そういうことが分かっていながらも、そういう事業にすがりつかなければならないほど、現在の日本の雇用情勢は劣悪であり、深刻である。

おしゃべりは身を滅ぼす

2010-03-14 00:19:52 | Weblog
 「在特会」(在日外国人の特権を許さない市民の会)の会長をしているという桜井誠なる人物が今週の『週間金曜日』で、いわなくてもいいことを山としゃべり散らしている。

 そこで、そのいくつかを紹介しよう。

 「安保闘争の時に左翼が国会を10万人で囲んで、樺美智子でしたっけ?あのバカが圧死したでしょう。その結果としてですけど、首相の首が飛びました・・・」

 安保闘争時に国会周辺で死亡した東大の女子学生の名前すらはっきりと知らないのに、バカ呼ばわりはないだろうが、このバカという言葉には、“左翼”の野郎がうまいことやりやがったという、いまいましさが込められている。

 だから、「その結果としてですけど、首相の首が飛びました」という言葉が続くのだが、この部分はこの(桜井誠と週間金曜日の記者との)会見の核心点をなしている。

 というのは、週間金曜日の記者は桜井誠に「Xデーの時には、国会に自分一人でも乗り込んでいって小沢一郎の首を取る。血みどろの闘いになる」という集会での発言の真意を問うているからで、桜井誠はその回答として、自分たちの仲間の誰かを犠牲者にしてそうするのだと答えているからである。

 「警察権力」に「血みどろの闘い」を挑み、自分たちの中から意図的に犠牲者を出すことによって、「小沢一郎の首を取る」(政治責任を取らせる)という自分たちの政治的な目的を達成するのだという“戦略”を建てる桜井誠は、そのために、「今の警察が拳銃で集会者を撃ち殺しますか?そんな度胸はありませんよ」と警察権力を挑発する一方で、自分の仲間に対しては「左翼政権になって話し合いの余地はなくなった」、政治は数であり、数があれば何をやってもいいのだと煽る。

 しかし、自分の仲間を自分たちの政治目的達成のための手段として利用しようとするような指導者には誰もついていかないだろうし、公然と暴力を賛美し、テロと不法行為を煽り、それを実践し、法秩序に挑戦するかのような言動をくりかえしているような団体が野放しにされているとしたらそれは国家公安委員会の責任であろう。


困ったことだ

2010-03-13 04:25:03 | Weblog

 最近、教育が問題になることが多くなってきている。

 もちろん、それは長年続いた自民党政権による教育の破壊がその成果を生みだし始めたからであるのだが、これに便乗してやっかいな問題も生まれつつある。

 それは平成天皇の孫娘までが、教育崩壊の犠牲になって、登校拒否になってしまったからだ。(経験からすれば、10才未満の登校拒否はほとんどが“仮性”であり、一時的なものであまり深刻に事態を考えないほうがいい)

 しかも、その問題に、平成天皇まで直接首を突っ込むから、話がややこしくなり始めている。

 自分は被害者のおじいちゃんの立場でものをいっているといっても、いわれたほうは相手が現職の天皇だから、いわれたことと違うことはできないであろう。

 だから結果として残っていることは、天皇が教育に直接介入したというまったくよろしくない、日本国憲法がまったく想定すらしていない前代未聞の珍事だけである。

 これは羽毛田宮内庁長官が平成天皇を野放しにしているからであるが、こういうように天皇が現実の諸問題について、軽率な態度をとり、周囲がそれを黙認したり、推奨したりするということが続くというのは、そうとう深刻な事態なのだが、日本でその深刻さを理解している人がまったくいないということは、天皇制の将来を絶望的なものにしている。 

高校教育の無償化について

2010-03-13 03:33:04 | Weblog

 橋下大阪府知事が錯乱気味だ。

 彼は朝鮮民主主義共和国を「不法国家」(!)と呼び(この発言を契機にして日本国と朝鮮民主主義共和国の関係が悪化した場合、橋下氏はこの件について責任がとれるのだろうか?)、朝鮮学校に支援金が欲しければ「金正日の写真を飾るのは止めよ」、「将軍様とはいうな」、等々と無理難題を押しつけている。

 これは橋下知事がカネでしかものを考えられない人物であるからで、金を出す者は口も出せるのだとヘンな先入観念にとらわれているからである。

 しかし、日本国憲法は「公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。」として「公(おおやけ)の支配」に属しない私立学校への公金の支出を禁じている。

 にもかかわらず、私学への助成は長い間続けられてきた。

 これは名古屋市立赤星工業高校の生徒が税金で購入された最新のNC旋盤で加工技術を勉強しているのに、貧乏な聖マリアンヌ工業高校ではNC旋盤が買えず、ヤスリと金ノコを使って加工技術の授業しかできないとするなら、公立と私学の生徒の間に差ができてしまうから、子どもたちのために公金を支出しているからであろう。

 「公の支配」に属さない私立学校に公金が支出されるのは、学校のためではなく、子どもの教育を受ける権利を保障するためであるとしたら、「公の支配」に属さない学校に「公の支配」を認めよというのはいかにも筋違いな話であろう。

 しかしそのように考えると、今回の民主党政権の高校無償化は釈然としない。というのは、高校教育の無償化は、当然、高校全入制が前提となるべきであって、高校全入制が現実化していない日本の現実のもとでは、それは高校に行けない、行かない子どもたちを不当に差別することになるからである。これは教育の機会均等にも著しく反している。

 もちろん、この制度のいい面もある。例えば、前年度に橋下知事は、大阪府の財政難を理由に、私学の補助を減額し、教育の切り捨てを行った。それで財政的に逼迫した私学は軒並み授業料の引き上げを行わなければならなくところまで追いつめられてしまったが、この高校教育の無償化法案によって、大阪府は全国よりも高い授業料を払わなければならなくなってしまった。もちろんこれは子どもたちの教育を切り捨てた橋下知事の自業自得というもので、彼は自分で自分を罵る代わりに、朝鮮学校を罵っているのである。

 この制度、愚かな知事の首を自分で絞めるという点では、評価できるであろう。
  

北教祖事件について

2010-03-09 01:47:55 | Weblog
 われわれは労働者階級の一般的な利益を守る立場にはあるが、個々の職業で長い期間にわたって形成されてきた特殊権益や特殊利益を守る立場にはない。したがって今回の北教祖による公職選挙法違反、すなわち、候補者が選挙のルールに従わず、しかも組合費の不正な流用が行われたことを擁護するものではない。

 もちろん、マスコミが連日悪意あるデマ攻撃をしているように、教育労働者の政治活動や教員組合が特定の政党を支持することそのものを犯罪と見なすような立場にも立っていない。

 教育労働者も教員組合も、当然、政治活動の自由は最大限保障されるべきであるのだが、教え子や保護者に、教員という立場を利用して、自分の政治信条を押しつけたり、特定の政党への投票を呼びかけることはやはり好ましいことではない。したがって教員の政治活動の制限は限定的にとらえるべきであろう。

 しかし、今回の事件は日本の労働組合にとって政党と労働組合の関係を考え直すいい機会であるのかも知れない。

 というのは、日本の労働運動と“左翼”運動はほぼ一体のものとして考えられてきたからだ。

 もちろん両者の間には、本質的に共通なもの(労働者階級の地位の向上)が流れており、労働運動と“左翼”運動は密接に結びつくことによって発展してきた。

 このこと自体は正しいのだが、これを極端に理解すれば、労働運動の“左翼”政党化または“左翼”運動の労働組合化というわけのわからないものに帰着する。

 もちろん労働組合は労働者の生活の向上のためにつくられた大衆団体で一定の“保守性”をもっているのに対して、政党は一定の政治的な目的を達成するために結成された団体である。

 両者がまったく別のものであることは自明なのだが、長く続いたスターリン主義の時代に、“共産主義者”が労働組合を“指導”(支配)し、労働組合が労働者を“指導”(支配)するという奇妙な図式が形成され、これがすべての“左翼”やすべて“組合活動家”の脳裏を支配するようになった。

 労働組合をどうするかは労働者自身が決めるべきで政党が口出しをするべきではない、もちろん労働組合の活動が労働者階級の一般的な利益を侵害すれば、われわれもほっておくわけにもいかないのだが、そうでなければ労働組合の自主性は最大限尊重されるべきである、このように労働者に約束する“左翼”はおそらくわれわれだけであろう。

 われわれ以外の“左翼”は労働組合の中で影響力を持ちたいと思っており、それが彼らの主要な関心事になっている。

 それは一つには資金源になるからであり、党勢拡大になるからであり、彼らに活動の場を与えるからである。だからこそ、労働者階級を愚弄するためにだけ存在しているマルクス主義同志会のような純然たる“ブルジョア社会主義者”ですら、猫なで声を出して労働組合に接近しようとするのである。

 こういった悪習をそっくりそのまま裏返したのが社民党や民主党の政治であり、ここでは労働組合の幹部が自分たちの特殊利益を守るために、自前の御用達政治家が調達される。ここでいう特殊利益というのは彼らが守るべきものの中に自分たちが労働組合で築いてきた組合員に対する優越的な地位や支配的な立場といったものも含まれているからであり、彼らは単に職場の労働者の権利を守るために“御用達政治家”をつくろうとしているのではない。だから彼らは現在ほとんどの労働組合で一般化している労使協調路線の擁護者であるとともに、その業界の特殊利益の擁護者でもある。

 この“労働組合の政党化”にせよ、“政党の労働組合化”にせよ、置き去られているのは一般の組合員である労働者であり、未組織労働者であり、失業者であり、派遣労働者である。

 ところが現在、まともな労働組合を欲しているのは他ならぬ、こういう労働者であり、日本の労働者階級の圧倒的な部分を占める人々なのである。


 マルクス主義同志会の“供給サイド”経済学

2010-03-08 19:58:58 | Weblog
 現在、春闘が取り組まれている。

 この春闘と並んで、毎年繰り広げられるのは、マルクス主義同志会と共産党の場外乱闘である。

 内部留保を取り崩して賃上げを、または、賃上げによって内需拡大を、という共産党に対して、マルクス主義同志会が総資本の番犬としてのマルクス主義同志会がはげしく食ってかかるという図式が毎年繰り広げられることになる。

 しかし、労働者が、賃上げ、または賃下げに反対、または、解雇に反対、派遣切りに反対して闘っているのは、内需を拡大させるためでも、景気を回復させるためでもなく、自分たちの家族の生活を守るためであり、仲間の雇用を守るためであり、われわれはそういった労働者の生活防衛の闘いは、社会的な必要性があるものとして、無条件に支持しているのであって、それ以外ではない。

 もちろんこういった立場は、労働組合を支配したり、指導したりする立場とは全然ちがうことである。

 そしてもっと分からないのは、マルクス主義同志会の見解である。マルクス主義同志会がいうように、賃上げによって内需を拡大するということは荒唐無稽であるというのであれば、なぜマルクス主義同志会は荒唐無稽なことに必死になって反対しているのか?荒唐無稽(こうとうむけい=根拠がなく、現実性のないこと。でたらめ。)なものは荒唐無稽であって、それ以外なものにはなりえないはずである。

 ここにはもっと違った観点が潜んでいるのである。しかもその見解はひどく混乱している。

 「生産は消費であり、販売は購買であり、需要は供給である――そして、この逆もまた真実である――という“法則”は、商品生産と資本主義的生産の内在的な関係であって、古典派経済学がよく知っていたことである。そして古典派経済学が知らなかったことは(セーやミル)――あるいは間違って理解したことは(マルサスやシスモンディ)――、商品生産と資本主義的生産においては、この内在的な関係は自立化し、自己運動さえするということ、したがって過剰生産や経済的破綻が必然的である、ということである。」マルクス主義同志会はこのようにいうが、リカードの命題、すなわち「生産は消費であり、販売は購買であり、需要は供給である」という命題は、マルクス主義同志会がいうように、「商品生産と資本主義的生産においては、この内在的な関係は自立化し、自己運動さえする」というのであれば、成り立たない、すなわち、“法則”でもないし、「商品生産と資本主義的生産の内在的な関係」でもないというべきであろう。

 ところがマルクス主義同志会は、「生産は消費であり、販売は購買であり、需要は供給である――そして、この逆もまた真実である――という“法則”」をリカードの妄想として確認した後で、“需要サイド”がどうの、“供給サイド”がどうのと言い出すのである。おかしいではないか?需要=供給であるというのであれば、需要から見ようが、供給から見ようが同じであろう。(実際、われわれは供給側から見た過剰生産と需要側から見た過少消費は同一の概念であるといっている。)

 しかも、供給側から見た過剰生産の是正は、当然、生産力の過剰部分をデリート(削除)することでなければならないはずなのだが、マルクス主義同志会はそのような見解をとらない。

 もちろんこれはマルクス主義同志会ばかりではなく、サッチャリズムも、レーガノミックスも、小泉改革もそうなのだが、“供給サイド”の経済学は、過剰生産に陥っている経済を供給の削減によって均衡を取ろうとする経済学ではない。むしろ、企業(資本)に対する減税や、規制緩和による資本の活性化、“小さな政府”を標榜することによって、資本を保護する一連の政策からなっている。

 つまり、“供給サイド”の経済学は、資本の過剰蓄積によって肥満体になってしまった資本とその国家を、適度な運動と食事制限によってぜい肉をそぎ落として健康体にもどすのではなく、肥満体のままでも生存できるような環境(資本にとっての良好な環境)をつくりだすことにあったのである。

 したがって、“供給サイド”の経済学がうまくいかなかったのは、それが単に資本を甘やかすだけの政策でしかなかったからである。

 それでもこの不徹底な“改革”によってイギリスやアメリカや日本が一時的に持ち直すことができたのは、この資本優遇政策には、資本の論理を徹底させることにより、搾取を強化して、絶対的な剰余価値を取得することを容認するということが含まれていたからである。

 だから、サッチャーが去り、レーガンが去り、小泉純一郎が去った、イギリス、日本、アメリカでは高失業率と労働者の低賃金と労働強化といった労働者階級の絶対的な地位の低下が顕著に見られたのである。

 この嵐のあとの惨状についてマルクス主義同志会はいう。

 「絶対的な意味において、労働者階級はいつも消費不足だと主張して、反論したつもりになるかもしれない、そこで我々はあらかじめ言っておくのだが、ここで問題になっているのは、『支払い能力のある』消費や需要が問題になっているのであって、一般的な消費不足や貧困が問題になっているのではない。労働者階級が十分な『支払い能力のある』消費を持っておらず、また需要を形成していないというなら、それは分配の問題である以上に、その前に、生産関係の問題、生産過程における労働の搾取の問題である。共産党は生産過程における資本による労働の搾取という根本を問題にすることが少なくなればなるほど、分配における不平等といった、二義的で、派生的な問題に逃げ込むのである。」

 「絶対的な意味において、労働者階級はいつも消費不足だ」ということは、労働者が賃上げを要求し、要求が聞き入れられなければストライキで闘う根拠となりそうなものだが、マルクス主義同志会にあってはそうではない。(労働者の消費は労働力を回復し再生産する生産的消費なのだから、労働者の消費が絶対的に不足しているということは労働力商品が価値通りに売られていないということを意味する。なお、ここでマルクス主義同志会は消費は生産であるという概念を受け入れているふりをしているが、労働力商品については、労働者の消費がなぜ生産なのか、バカじゃなかろうかと、マルクスに最大限の悪罵を投げかけている)マルクス主義同志会は搾取というのはそうあるべきもの(労働者の生活水準は資本に最大限の利潤を保障してやるために最低水準に押しとどめられるべきもの)であり、労働者階級は搾取に反対しないのだから、最低賃金を、ある場合には最低賃金以下に、押しとどめられるべきであるというのである。

 だからマルクス主義同志会にとって生活の向上を願う労働者の闘いは、それが給料をもう少し上げてほしいというささやかな願いであっても、資本の利潤を減少させるがゆえに、許すことができない犯罪行為と見なされるのである。

 こうして労働者階級の希望をすべて奪ったあとで、うやうやしくこう告げるのである。

 「資本主義的生産や産業は、封建社会や寄生社会や非生産社会や停滞社会よりも進歩的であり、労働者人民にとって生活向上であり得、より幸福――物質的生活の豊かさや便益が、幸福の一つの重要な契機である限りで――である」と。

 われわれが5年前にマルクス主義同志会と絶縁したのは、絶対的に、正しかったのである!!!


 

われわれが凶暴でないわけ

2010-03-06 00:50:10 | Weblog
 資本にも、国家にも、社会にも、社会にも、見捨てられ、絶望の日々を送っている労働者のことをこのブログに書いたら、どうせ自分たちは孤立しているから、凶暴になればいいと助言してくれる方が見えました。

 もちろん、絶望した労働者が絶望的な闘いに決起したら、われわれは無条件に労働者の側に立つのですが、幸運なことに、事態はまだそこまで悪化はしていません。

 心は折れかけているが、まだ折れてはいない。

 怒りのマグマは蓄積されているが、まだ、それが噴火するまでの蓄積量には達していない。

 絶望しかけているが、それでもまだ、個人の努力でなんとかできるかもしれないという希望は残っている。

 危機の中にある資本主義の重圧に押しつぶされそうになっているが、まだ完全に打ちのめされているわけではない。

 こういう時に、なぜ解雇を告げる無慈悲な資本に対して、「労働者をなめるんじゃねえ」といって、腰掛けを蹴飛ばして部屋を出て行かないのか?

 それは愚問というものです。

 われわれには生活があり、家族があり、養うべき人がいる。だから、“学生さん”のように、後先のことを考えずに、行動することができないからです。

 そして、こういう時ですらオリンピックのフィギュア・スケートを中継しているテレビの前に人だかりができ、こういうものを見ている場合かな、ハッ、ハッ、ハッなどとやっていられるのです。

 こういう戸惑いの時期がいつまで続くかは誰にも分かりません。それは今後、急速に終わりを告げ疾風怒濤の時代へと移行していくかもしれないし、反対に、平凡な日常へと帰って行くかもしれない。

 こういう時に、「暴発せよ」とだけいっていたのでは、労働者は誰もついてこない、ついていけない。事態の推移をていねいに見守り、情勢のきちんと読み込んでいく必要があるのではないかと思います。    

何もやる気がなくなりつつある・・・

2010-03-04 18:34:22 | Weblog
 今の職についたのは、去年の5月だったが、また転職しなければならなくなった。

 また他の会社に入札に取られた。

 今度は22人の大所帯だから、相当ひどいことになっている。

 沈没する船の中で、最初に人がするのは、上司にゴマをすることと、人の足を引っ張ること。あいつを足を引っ張れば自分が助かるのではないか、上司にゴマをすれば何とかしてくれるのではないか、というのは単なる幻想だが、人はそういう幻想にはすがりつきたいものらしい。

 それで職場の雰囲気がだんだん悪くなっていった。仲間同士のいがみ合いやケンカが絶えず、まずそういうくだらないことに神経をすりつぶしていった。

 ようやく決着が見えはじめてのは今月に入ってからで、結果は、①会社に拾われて他の職場に転勤する者、5名。②入札した会社に拾われ病院に残る者、4名。③会社にも病院にも見てられて、行く場がない者、13名。

 ①は労働条件が変わらないので、それほど問題ではないが、これに残るためには日本空調様に思いっきり尻尾を振る必要がある。

 これに対して②は必ずしもいいとは限らない。そもそもがトヨタエンタープライズが、入札で名大病院の設備管理を落札できたのは、日本空調が去年提示した1億4千万円の半分の7千万円を提示したからで、トヨタエンタープライズはこれを実際に仕事をする東京ビジネスサービスに6千万円で卸している。

 この年間で6千万円の名大病院の設備管理の仕事を20人でやるとすると、6千万円÷20人=300万円となるが、搾取やら、必要経費やら、各種の社会保険の会社負担分を考えると、東京ビジネスサービスが労働者一人あたりに渡せる賃金は年200万円(!)程度であろう。これでは残りたくても残れない。

 では、③はどうか?これは悲劇そのものだ。名古屋に職はない。あったとしても低賃金で、18万円から20万円程度で、各種の保険や税金を引けば、手取りで15万円ぐらいにしかならない。それに60才近くの失業者は面接すらしてもらえない。

 こういう“事実上の解雇者”が一度に10人以上も出るというのは、一つの事件なのだろうが、社会は何の関心も示さない。

 この事件、“入札”という、一見すると、社会的に公正であるかのような形態を取っているが、実際には、国や地方公共団体と設備管理会社がグルになって設備労働者の賃金を買いたたいているのであり、結果として、設備労働者の生活が破壊されている。(設備管理費の90%以上は設備労働者の賃金である以上、入札でより安いを提示した企業に仕事をやらせるという制度は、設備労働者の賃金の安さと労働強化の程度を競い合っているのである。)

 “天を仰ぎ、地を呪う”日々の中で、仲間を励まし、相談に乗りなどとやっていて、家に帰ると、80才を過ぎた母が待っている。

 これからどうしよう、そう考えると夜寝られないし、睡眠不足が続くと、何かをやろうという気力がどんどんと喪失していく。

 ひよっとしたら自分も“うつ病”になってしまったのかも知れない。