労働者のこだま(国内政治)

政治・経済問題を扱っています。筆者は主に横井邦彦です。

しばらくのんびりと

2009-12-27 14:40:51 | Weblog
 当然のことながら、鳩山政権の支持率が急落中である。

 しかしながら、われわれはそれ見たことかという立場には立っていない。

 もちろん、われわれは小ブルジョア政治(鳩山政権)の批判者ではあるのだが、同時にブルジョア政治(自民党政治)の反対者でもある。

 そしてマルクス主義同志会のように、民主党より、自民党の方がましだ(?!)という奇妙な立場にも立っていない。

 したがって、自民党の諸君がわれわれから、“塩を送られる”ことを期待しているとしたら、それは大きなまちがいと言わなければならない。

 しかも来年は自民党にとって、決定的な年になるであろう。(参議院選挙に敗北すれば、自民党は分裂し、政党としての命運はそこで尽きる。)

 こういう時に、われわれのなすべき仕事はあまりないのが現実だ。

 そしてこういう時にこそ、われわれはより深い理論問題に取り組むよい機会であると考える。

再度、マルクス主義同志会の“象徴天皇制批判”について

2009-12-24 01:15:59 | Weblog
 左翼の中で、天皇の“特例会見”をめぐる問題について、象徴天皇制の廃止まで言及したのは、われわれとマルクス主義同志会だけだった。

 しかし、われわれとマルクス主義同志会の見解はかなり異なっている。

 つまり、われわれが一貫して主張しているのは、象徴天皇制が、象徴という地位にとどまらないで、“皇室外交”等の一定の政治的内実を持ちはじめようとしていることに対して、それは国民主権を侵害するものであり認められない。天皇が国民の総意で定めた象徴という地位にとどまることができなければ、天皇制といえども廃止されざるをえないであろうということである。

 これにたいしてマルクス主義同志会は、一貫して天皇の“政治的利用”という観点から問題に接近している。

 つまり世の中には、石原慎太郎とか、小沢一郎とか、日本の軍部といった悪党がおり、そういった連中が天皇を政治的に利用するからよくないのであって、政治利用されるしかない象徴天皇は廃止されるべきであるというのである。

 しかし、こういう議論は基本的に天皇制を擁護しているのではないか?

 実際、マルクス主義同志会は、「天皇は『神』の代役とみなされてきたし、今も、憲法の規定を見ても分かるように事実上“神格化”され、そうみなされている」とまでいい、小沢一郎氏を「(神である)天皇の『心』までも忖度(そんたく=他人の心を推し量ること)したことは傲慢と驕り以外の何ものでもない」というのであるから、誰がどう見てもマルクス主義同志会は、石原慎太郎とか、小沢一郎とか、日本の軍部といった悪党が天皇の神性を汚すからよくないと怒っているようにしか聞こえない。

 もちろんマルクス主義同志会はそういうことをいったあとで、他人の心を推し量ること一般が相手に対して失礼なことだと言いかえているが、舌の根も乾かないうちに、「天皇が自分の意思を表明しない──できない──ことを知っての発言であり、小沢という人間の卑しさを教えている」といっている。これは小沢一郎氏の「心」を忖度(そんたく)した発言ではないのだろうか?そしてマルクス主義同志会の議論のほとんどがこういう論争相手の忖度(そんたく)で埋めつくされているのではないか?

 そもそもが、マルクス主義同志会が、つねに論争相手に投げつける「卑しい」、「卑劣だ」という言葉自体が、論争相手の忖度を前提としているのだから、自分たちは「他人の心を推し量ること一般」に反対していると言っても、その信頼性は著しく欠けるであろう。

 それに、「天皇が自分の意思を表明しない──できない──」というのは、この場合、正しくないし、そうではないからこそ、われわれは、ことは極めて重大であると、いっているのである。

 平成天皇が羽毛田宮内庁長官の口を通して、自分の意思を表明した、しかもその内容が内閣の方針とは違ったものだったからこそ、われわれはことをこれ以上大きくしないために、脳みそが溶けかかって正常な判断力を喪失している羽毛田のバカたれの罷免を要求しているのである。


なぜ源頼朝は源義経を許さなかったのか

2009-12-20 01:38:17 | Weblog
 源義経のマンガを読んだ。

 このマンガでは、残念ながら、どうして兄である源頼朝が源義経を謀反人として討伐しなければならなかったのかを詳しく書いていない。

 兄である源頼朝は義経に京に上って天皇を“お守り”しろと命じ、弟である源義経はそれにしたがっただけなのに、なぜそれが謀反人になるのか?

 源義経はその理由を理解することもできずに、破滅の道を転がり落ちていった。

 しかし、兄源頼朝が天皇を“お守り”しろといった言葉には、玉(ギョク)である“お上”に蝿が群がらないように、蝿を追い払えという意味も、玉が自分の目論見でどこかへ“お隠れになる”ことを防げという意味も含まれていたのである。

 したがって、“お守り”するという言葉を、言葉通りの意味で、単純に天皇の家来になるとしか理解できなかった源義経の破滅は避けられないものであった。

 きちんと説明しないからいけないという義経の弁明は、愚の骨頂であろう。天皇勢力の向こうをはって武士の支配権を確立するためには、天皇の枝葉や根っこを切り落として丸裸にする必要があるなどというのは、あまりにも恐れ多いことであろう。それは察するものであって言葉にして言うべきものではない。

 現代の日本にも源義経のような脳みそが溶けかけている“忠臣”がとうとう誕生し、天皇勢力はこの“忠臣”を足がかりに失地回復に乗り出そうとしているが、天皇の反乱は天皇制そのものに終止符を打つという結果しかもたらさないであろう。


『朝日新聞』と日本共産党が差し向けた“助け船”

2009-12-16 21:40:49 | Weblog
『朝日新聞』と日本共産党が差し向けた“助け船”

 中国要人と天皇の“特例会見”をめぐって、小沢氏が「天皇の国事行為は内閣の助言と承認によって問題はない」と発言したことに対して、最初に『朝日新聞』が、つぎには日本共産党が天皇主義者のために“助け船”を差し向けている。

 何でも、日本共産党委員長の志位氏によれば、憲法7条の規定に照らし「外国の賓客と天皇が会見することは国事行為ではない。(憲法に)そういう項目が出てこない。公的行為だ」と指摘。そのうえで「公的行為は、政治的性格を与えてはならないのが憲法の定めるところ。政府が関与すれば政治的性格を与えてしまい、憲法の精神をたがえる」という。

 そこで天皇主義者たちは一斉に日本共産党の背後に群がっているのだが、志位氏は自分が何を言っているのか理解しているのだろうか?

 志位氏は天皇には国事行為とは区別された“公的行為”を行う権能があり、その“公的行為”は政府が関与してはならず、天皇の好き勝手にやらせるべきであるといっているのである。

 しかしながら、日本国憲法には、

第3条 天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負ふ。 

第4条 天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない。

 と書いてある。特に第4条では、天皇は憲法で定める国事行為以外の“公的行為”を行ってはならないとはっきり書いてある。

 『朝日新聞』と日本共産党は、「国賓との接見」は国事行為ではないというのであれば、天皇は外国の要人とは一切会うなと。それを法律として成文化し、罰則規定、(例えば違約した天皇を坊主にして高野山か比叡山に押しこめる等)を設けるように要求すべきであろう。実際、国政に関する権能を有しない人物が外国の要人と会っても何の意味もないことなのだから、天皇と国賓の接見一般を禁止するというルールを作ることにわれわれは反対はしない。(賛成でもないが・・・)

 さらに志位氏は、「公的行為は、政治的性格を与えてはならないのが憲法の定めるところ」などというまったくデタラメな話をするのだが、公的な意思の形成と執行は政治そのものであり、政治的ではない“公的行為”などあろうはずもないではないか。(これは外交についても同じである)

 そもそもが『朝日新聞』と日本共産党は、なぜ第4条のような規定が存在しなければならないのかということを理解していない。

 『朝日新聞』と日本共産党は、安易に、象徴天皇制のもとで国事行為とは区別された“公的行為”が存在することを認め、さらにはその領域に対する内閣の介入を“政治利用”または“政治的中立性の侵犯”として、否定することによって、事実上、主権者の手の届かない政治領域を創り出しているのである。

 これがどれほど危険なことであるかは、戦前の統帥権をみれば明らかであろう。この政治の及ばない領域にろくでもない連中が蝟集することによって大日本帝国は滅びたのではなかったか。

 『朝日新聞』と日本共産党が、皇族外交と呼ばれている治外法権の領域を認めることによって、日本国は滅びるであろう。
 

マルクス主義同志会の不思議な天皇の政治的利用論

2009-12-16 00:22:32 | Weblog
 毎度のことだが、マルクス主義同志会が保守反動派と一緒になって、小沢民主党による天皇の政治的利用を批判している。(これも毎度のことだが、マルクス主義同志会にとって批判というのは、相手に「いやしい」等々の悪罵を投げつけることである)

 しかし、マルクス主義同志会は天皇を政治的に利用することは小沢のようないやしい人間のすることだと口を極めて非難した後で、こっそりと天皇は政治的に利用されるより仕方のない存在なのだから、象徴天皇制といえども廃止される以外にはないともいう。

 ここで不思議なのは、マルクス主義同志会が、天皇は(時の世俗権力によって)政治的に利用されるより他にない存在であるという認識を持っているというのであれば、わざわざ世俗権力が天皇を政治的に利用することに目くじらを立てる必要はなかろうということだ。

 むしろ、世俗権力とは関わらないとされていながら、現実には世俗権力の支配の道具になっている象徴天皇制の欺瞞的な性質こそ暴露され、批判されなければならないのではないか?

東大全共闘のなれの果て

2009-12-16 00:01:24 | Weblog
 現在、社民党は右に大きく転落中である。

 だから普天間基地のグアム島への移転を主張したり、95兆円の大型予算を主張したりするのを聞いても別に大きな違和感はなかったが、社民党の安部知子氏がテレビで、「(中国要人と天皇の会見は)特例でも許されない(なぜ?)」というのを聞くとさすがに社民党はそこまで落ちぶれているのかと思わざるをえない。

 この人は1969年の東大紛争に関わっていた人で、現在でも一部の新左翼に人気がある人である。

 しかし社民党の前身である日本社会党、さらには戦前の“労農”派の時代から、日本を代表する社会民主主義勢力は臆病な政治勢力で、時の権力とのなれ合いと屈服の歴史であった。

 だから社会党や“労農派”が天皇制打倒を掲げたことは一度としてなかった。

 昭和天皇が病に倒れて入院した時には、土井たか子氏は、記帳に駆けつけ、わざわざ戦前の“輔弼(ほひつ)論”を披露して、昭和天皇の戦争責任を否定していた。

 そのころわれわれは、連日、街頭に立って、昭和天皇の死を政治的に利用しようとする勢力とは断固として闘うと訴えていた。

 われわれと社民党に違うところがあるとすれば、そういう点である。

 今回の「特例会見」がしめした有益な教訓は、社民党が基本的に反労働者的な政党であって、階級闘争の決定的な場面では、バリケードの向こう側に立つ政党であるということを実例を持って示したことであろう。     

羽毛田氏はやはり罷免すべきだ

2009-12-15 00:01:06 | Weblog
 小沢氏に文句があるなら辞表を提出せよといわれた羽毛田氏はやめるつもりはないと反論している。

 しかし彼の反論内容は笑止そのものだ。

 「自分は官房長官の指揮命令に従うと同時に、(陛下の)お務めのあり方を守る立場にある。辞めるつもりはありません」羽毛田氏はそのように主張するのだが、「天皇のつとめのあり方」(???)を守る立場というのは何であろうか?

宮内庁法では、「宮内庁は、皇室関係の国家事務及び政令で定める天皇の国事に関する行為に係る事務をつかさどり、御璽・国璽を保管する。」と規定されている。

 この宮内庁からは、どこからも宮内庁長官が「天皇のつとめのあり方を守る立場」にあるという意味不明な任務は出てこない。

 そもそもが「天皇のつとめのあり方」そのものを日本国憲法では「内閣の助言と承認により国事行為を行う」ことと定めているのだから、羽毛田氏が「官房長官の指揮命令」と「天皇のつとめのあり方を守る立場」を対立させていること自体がおかしい。

 それで羽毛田氏は「政治的つとめのあり方」というのは、「天皇の政治的な中立」のことであると言い直すのだが、これもまたばかげている。羽毛田氏は政治的中立というのも、一つの政治的な立場であることを忘れているし、それ以上に忘れているのは、象徴という立場は“非政治的”な存在でなければならないということである。

 そもそもが象徴天皇は、建前上、現世のどのような政治的な勢力とも関わりを持たない存在であるからこそ、天皇の“政治的な利用”という概念が出てくるのであって、「天皇を政治的に利用している」という非難には、本来「非政治的であるべき象徴天皇を政治的な存在にしている」という非難が含まれているのである。

 ところで本来、非政治的であるべき象徴天皇を政治の場に引きずり出しているのは誰であろう。

 これについて羽毛田氏は「陛下の外国との親善は、純粋なものとして成り立ってきた。そのなさりようを守るのが自分の立場」ともいう。ここで羽毛田氏は、平成天皇にまるで外交権があるかのように錯覚して、平成天皇はこれまで日本国憲法を尊重せず、内閣の助言と承認を無視して“純粋な”独自外交をやってきた、それを守るのが自分の立場であるという。(こんなことをいっていいのか?)

 羽毛田氏は平成天皇が外交において恒常的な違憲状態にあることを認め、さらには、その憲法違反の平成天皇の立場を守るのが自分の役目であるというのだから、羽毛田氏が行っていること(自分勝手に皇室のあり方を妄想し、それを根拠に内閣の「助言と承認」に抵抗していること)は、日本国憲法にも、宮内庁法にも違反している。

 “忠臣”羽毛田氏は現在、源義経と同じ境遇を爆進中である。

 21世紀の“承久の乱”が起こる前に、宮内庁そのものを解体して、六波羅探題に置きかえる必要がありそうだ。それでなければ日本国民の主権者たる立場を守ることはできないだろう。
 

羽毛田宮内庁長官は罷免すべき

2009-12-13 00:27:37 | Weblog
 「朝日新聞」が、羽毛田宮内庁長官の「天皇の政治的利用」云々という発言をめぐって 「内閣に責任を取れ」とわめいている。

 われわれはもっと前にいうべきだったのかも知れないが、羽毛田宮内庁長官は日本国憲法によって与えられている自分の職務をまったく理解しておらず、その任にたえないと以前から考えていた。

 この、毎度、お騒がせのトラブルメーカーによって、日本の象徴天皇制は危機に陥っており、その結果に対する責任を羽毛田氏は負わなければならない。

 われわれがそのような見解を持つにいたった理由は、羽毛田氏が自分の立場もわきまえず、皇太子に対して、孫娘を連れてもって皇居に参内するように発言したことだ。

 天皇父子がどのような親子関係にあるかは、純然たる私的なことがらであり、宮内庁長官が口をはさむような問題ではない。

 しかもそれが公の場で語られるというのであれば、政治的な問題となって行かざるをえないし、事実としてそのようなものになっている。

 そしてこういう問題に対するわれわれの見解は決まっている。象徴が象徴以上のものになりたいというのであれば、われわれはもともとどのようなものであれ天皇制に反対なのであり、日本国憲法が天皇が象徴、すなわち人畜無害なものにとどまるという約束をしているのだから、あえて知らない顔をして黙認しているだけだったのだから、このさい天皇制そのものを廃止した方がいいのかも知れない、ということである。

 羽毛田氏は皇太子と秋篠宮をあえて対立させて、どちらかが次期天皇にふさわいのかという議論をしたいようだが、そうではない。天皇の継承をめぐってみっともない兄弟げんかが一部の政治勢力を巻き込んで政治的な争闘として行われるとしたら、われわれは天皇制の廃止を掲げて闘うであろうし、そうならざるをえない。

 今回の中国要人の天皇への面会についてもそうだ。

 羽毛田氏は「政治懸案があったら陛下をその打開役にということになったら、憲法上大きく狂う」というが、現在、日中間にはそのような“打開役”が必要な懸案事項があるのか?

 羽毛田宮内庁長官が、中国は仮想敵国であり、日本と中国は開戦前夜にあるという認識を持っているとするなら、そもそも彼はどのような地位にある国家公務員もふさわしくはないであろう。

 しかも、羽毛田氏の緒論は「皇室の独自外交」に対置して行われている。つまり、皇室は自分たちの価値観でもって独自のルールを作って外交をやっているのだから、それに横ヤリを入れるのは天皇の政治的な利用にあたるというのだから、これは驚きだ。

 日本に二重外交はない。それはあってはならないがゆえにないのである。羽毛田氏が言うように、もし日本に「政府の外交」と「皇室の外交」が現実にあるとしたら、われわれは平成天皇を主権者に対する重大な背信行為を行っている者として処罰しなければならないだろう。

 日本国憲法で規定している「外国の大使及び公使を接受すること」はあくまでも、内閣の助言と承認のもとに行われるのである。

 もちろん健康上の理由で面談を拒否することは可能であるし、羽毛田氏がさかんに言う「一ヶ月ルール」もそういう観点からつくられたものであろう。

 ところが今回、羽毛田氏は皇室は自分たちのルールで外交をやっているからという理由で、内閣の「助言と承認」そのものを「天皇の政治的」な利用であるといって拒否した。

 こうして、戦後一度も行われなかった、宮内庁長官(!)が平成天皇になりかわって(!!)内閣の「助言と承認」を拒否する(!!!)という珍事が起こったのだが、結果は重大だ。

 つまり、もともと反中国と絶対天皇制への回帰を掲げている反共右翼が、今回の羽毛田氏の発言を受けて、色めき立っており、中国要人への襲撃やテロが心配される事態になってしまったからである。(この追加の警備費は誰が払うのか?平成天皇か羽毛田氏自身が払うのがスジであろう。)

 ここでもくだらない問題を政治問題化させ、平成天皇を政治の場面に引きずり出しているのは、羽毛田氏自身なのである。

 そして、この中国要人面会問題は、「天皇無責任論」を蒸し返してもいる。

 つまり、東京大学の憲法学の教授さまは、天皇の行う行為に対しては、内閣が責任を取らなければならないという。

 しかし、戦前や敗戦直後のように、現人神である天皇が誤りを犯すことはない、もし日本が太平洋戦争のような国家として大きな過ちを犯した場合、それは天皇を補弼(ほひつ)する内閣の責任である、ということで東条内閣らを戦犯として処刑にし、天皇の戦争責任についてはこれを免除する、ということと内閣の助言と承認で行われる国事行為に大きな瑕疵が生じた場合、天皇ではなく内閣が責任を取るということとは大きな違いがある。

 前者は単なる責任逃れの詭弁であるのに対して、後者の場合、行為の主体は内閣なのであるから、自分の行為に対して自分が責任を負うのは当然であろう。

 だから後者の立場からは、天皇が内閣の助言と承認をえずして好き勝手なことをやった結果、国事行為に大きな瑕疵が発生した場合は、天皇がその責任を負うべきであるという当然の結論が出てくる。

 そして今回の件は、この後者の部類に属することなのであり、平成天皇の責任は免れられない。      

お断り

2009-12-10 09:58:14 | Weblog


 「どうしてグァム島ならいいのか」というブログに付けられたコメントを不適切判断しましたので削除しました。

 理由はとくに説明する必要はないと思います。


どうしてグァム島ならいいのか?

2009-12-08 22:46:27 | Weblog
 社民党の福島瑞穂氏はさかんに、普天間基地の移転先として辺野古はダメで、グアム島ならいいと言い続けている。

 辺野古がダメな理由は、珊瑚礁があってジュゴンの生息地だからだそうだが、こういう理由はまったく理解できないものである。

 というのは、いうまでもないことだが、グアム島もまた海洋性亜熱帯気候の豊かな自然にめぐまれた緑の島だからである。

 この島の自然の豊かさは、この島のジャングルで敗戦から30年近くも元日本兵が自給自足の生活を続けられたことからも明らかであろう。

 アメリカ軍の基地を建設するために、沖縄の海を破壊するのは許されないが、グアム島の自然林や海を破壊するのは一向にかまわないという社民党のエコロジズムはエコというよりもエゴであり、排外主義的な民族主義そのものではないのだろうか?

 沖縄の人はアメリカに虐げられているというが、それはグアム島でも同じであろう。

 むしろ沖縄よりもひどいのかも知れない。

 グアム島はアメリカ領でありながら、アメリカの市民権を持たない。準州ということで代表1名をアメリカ議会に送ることができるが、その代表は議決権を持たない。島にはアンデーセン空軍基地をはじめ、アメリカの軍事施設がひしめいており、沖縄と同じように島の経済はアメリカ軍と観光に依存させられている。

 今回のアメリカ軍の再編は、グアム島のジャングルを破壊して、さらに密集した軍事施設群を建設しようとするものであり、その行為そのものが地球環境に対して挑戦的なもので、むしろ計画全体の撤廃を求めるのがスジであろう。

 オバマ政権がグァム島でなさなければならないのは、グアム島の植民地体制をさらなる強化ではなく、名前だけの自治ではなく、グアム島の島民にアメリカの準州にふさわしい自治権を保障することであろう。

 日本の労働者階級は、自分たちの幸福のために、他国を人々を犠牲を強要しない方策のみを支持する。   

鳩山政権の経済政策について 簡単に

2009-12-08 01:17:01 | Weblog
 経済政策ばかりではなく、一般的な問題として、われわれは鳩山政権が誕生する前から、この政権には何も期待できないということははっきりといっているはずだ。

 だからこの問題についてはどうか、あの問題についてはどうか、という個々具体的なことで献策を期待されても、困るといえば困るとしかいいようがない。

 そもそもが、ある天才のひらめきによって問題がたちどころに解決するというのは、“危機”とはいわないのだし、われわれは現在世界が抱えている問題は根が深い、“人類史的な出来事”であるという認識はずっと前から示していたはずである。

 それを今頃になって、ようやく、問題の深刻さがよく分かりました、といわれても、そうですか?そうでしょう、という以外の言葉を持ちあわせてはいません。


“もんじゅ”の運転再開について 簡単に

2009-12-08 00:53:06 | Weblog
 “もんじゅ”の運転を再開するための予算がついたことで、日本共産党や革マル派や中核派がこぞって反対している。

 しかし、なぜ運転再開に反対なのか、理解できない。というよりも、なぜ運転を再開してはならないのかという納得のいく説明をどの党派もやっていない。

 れわれはこの問題で、どの党派であれ、理論闘争をやりたいと思っているのだが、またそれが必要であるとも思っているのだが、ただ反対、反対だけでは、まるっきり社民党のレベルの話ではないのだろうか? 

普天間問題について、簡単に

2009-12-08 00:42:11 | Weblog
 この問題について、鳩山政権がやっていることは、わけが分からない。

 幕末に結ばれた日米通商条約の不平等条項でさえ、改訂するのに40年近くかかっているのに、帝国主義的な列強がひしめいている国際社会で、条約が不平等であるという理由だけでそれが改訂されると考えるのは理解できない。

 むしろ、最初からできないということが分かっているのに、さもできるかのように思いこむことによって、日本の左翼運動の最大の欠陥である、ものごとを情緒的観念的にとらえるという欠陥、もしくは反米愛国という隠された排外主義的民族主義、さらには弱き者のために闘っている自分に対して自己陶酔に陥りそれが自己目的化するという救いがたい欠陥を浮き出させたのは鳩山政権の最大の功績といえるだろう。


“希流”問題は中核派の試金石

2009-12-04 01:58:51 | Weblog
 ここに来て、われらの希流君が中核派に対して牙をむきはじめている。

 もっとも牙といっても、毒を含んでいないから、噛まれたからといってどうということはないのだが、一昔前の二十世紀だったら、彼は今ごろ両手、両足骨折で病院に入院しなければならなかっただろう。

 しかし、今、ここで同じことをすれば、政治党派としての中核派の命運は尽き果てることになるだろう。

 それを承知の上で、希流君は、無謀にも、中核派を挑発している向きもあるのだが、むしろ、それは彼の無思想性に起因している。

 この世にマルクス主義とか、社会主義とかいう思想があり、それが労働運動に持ちこまれたから労働運動は前進しなかった(?!)という彼の奇妙な持論は、今も堅持されており、左翼と闘うことが、労働運動を発展させる唯一の道であるという彼の信念はいまも保持されている。

 そこで彼の闘いは左翼との闘争に全勢力が費やされるのだが、彼はどのように左翼と闘いのであろうか?思想に対して無思想を対置させるのは何の意味もないことだし、マルクスに対してコントやマックス・ウェーバーでも対置させれば笑われるだけであろう。

 そこで、必然のものとして選択された戦術は、思想の“主体”である個人を攻撃することである。しかし言論による個人攻撃は、言論の暴力であり、言論のテロリズムそのものなのである。

 そしてこの“言論のテロリスト”が中核派にねらいを定めて挑発行為をくりかえしているのも、中核派内の改革派がすでに敗色濃厚であるからだ。

 ここで中核派がテロに対してはテロで答えるという安易な行動に出れば、中核派の命運はここで尽きることになる。

 われわれとしては、みんなで社会主義に向けて前進したいと思っているが、脱落者が出るのは仕方がないことであるとも思っている。

党の改革に失敗しつつある日本共産党と革共同中核派

2009-12-01 02:54:07 | Weblog
 ここ数年、左翼の中に新しい運動の指向性を模索する動きが出ていた。

 そういう中で、日本共産党は、第25回大会決議案の中で、この党としてはめずらしく“綱領的な立場”すなわち、自分たちは社会主義をめざすという立場を再度確認しようとしている。

 また革共同中核派は組織を割ってまで、革命党の建設を押し進めようとしていた。

 もちろんこういった指向は、深まりつつある資本主義的の矛盾の中で労働者階級の生活が劣化しているという現実によって突き動かされているからであり、そういう社会の矛盾を感じとる能力があるという点で評価に値するものである。

 しかし、両党とも、歴史のある党であるだけに、前世紀の社会主義の“重荷”(というよりも“過去のしがらみ”と言った方が適切なのかもしれない、なお“しがらみ”というの川の流れを弱めるために川に打ち込まれた杭であり、まとわりついて、引き止めるもの。関係を絶ちがたいもの、という意味で使われる )をしっかりと背負わされている党であり、その“重荷”が彼らの足をふらつかせている。

 これはかつては“本業”(党活動)のかたわらに“アルバイト”としてやっていた、大衆闘争、経済闘争、労働組合運動、各種の改良運動がいつの間にか、“本業”となり、“本業”(党活動)がアルバイトになり、さらには党活動がこういったもろもろの運動のなかに解消し、ついには党活動そのものが消えていってしまったことにある。

 日本共産党も革共同中核派も本気で、社会主義を求める立場に回帰しようとするなら、ここで党勢が現在の十分の一以下になることさえ覚悟する必要があるのだが、両党とも、そこまでの決意はないようだ。

 したがって、日本共産党の「綱領的立場への回帰」も革共同中核派の「党の革命」も、たんに言葉だけのものとなり、両党の活動は旧態依然の活動へと回帰しつつある。

 部外者であるわれわれとしては残念としかいうべきではないのだろうが、かえすがえすも、まことに残念なことである。