労働者のこだま(国内政治)

政治・経済問題を扱っています。筆者は主に横井邦彦です。

イスラエルはユダヤの人々の声を聞け

2010-09-30 00:44:51 | Weblog
 ブルジョア民主主義はすでに深刻な病魔にとりつかれている。これは日本だけの問題ではなく、人類の問題になりつつある。

 報道によると、イスラエル軍は28日、封鎖の続くパレスチナ自治区ガザ地区へ支援物資を運んでいた小型船1隻を地中海上で拿捕(だほ)し、イスラエル南部アシュドッド港へ誘導したという。船は薬や浄水器を積み、元イスラエル空軍兵士やホロコースト(ユダヤ人虐殺)生存者らが乗っていた。さらにこの船には、1997年にエルサレムで起きたイスラム組織ハマスによる自爆攻撃で娘(当時14)を亡くした父親も含まれている。

 ユダヤ人の理性と良心を乗せた船がイスラエル軍によって拿捕されるという事態は、すでにイスラエルが歯止めがかからない独裁国家になり始めていることを意味する。

 アウシュビッツの生存者にガザよりもアウシュビッツの方がましだった(!)といわせる国家はすでに国家の名に値しない。

 同国のハニーン・ゾアビ議員は5月のガザ支援船に乗っていたとして、反動派の集中砲火に会っている。

「抑圧がある限り、平等は存在せず平等なき場所に、自由はない」この女史の言葉はやがて世界を覆う声となるであろう。


志位氏の正直な告白

2010-09-28 23:59:23 | Weblog
 日本共産党の志位氏が、共産党が置かれている困難な情況を率直に語った。

 これは別に共産党だけの問題ではなく、すべての“左翼”が抱えている問題である。

 ソ連がチェコに武力侵略したのは1968年であった。浅間山荘事件と連合赤軍の“仲間殺し”が明らかになったのは1972年であった。そして70年代の“左翼運動”とは、革マル派と中核派の“内ゲバ”(“内”という言葉がまったくそぐわない凄惨な殺し合い)だった。

 われわれは好むと好まざるとに関わらず、返り血を浴び、ぬかるみに足を取られていた。

 労働者はそんなわれわれから大挙して逃げ出した。“左翼”はかくして若者から見捨てられ、新規参入者が極端に減少して、“化石化”の道をたどりはじめた。

 そんな情況が変わりはじめたのは、つい数年前のことであるが、“左翼”が“化石化”を始めてからすでに40年以上もの時間が経過している。

 生物としての人間にとって、40年という長さは決して短い期間ではない。40年もあれば、子どもは大人となり、大人は老人となる。

 したがって、新しい“左翼運動”、もしくはよみがえった“左翼運動”は、さしあたっては“ジジ・ババの党”として出発するほかはなく、われわれには世代交代を促進して党を若返らせる時間が必要なのだが、残念ながらそういう時間はついに与えられはしなかった。

 だからこのまま、嵐の時代の中へ突っ込んでいくしか仕方がない。

 日本の「ロスジェネ」世代(25~35歳になる世代)を中心とした、われわれの“かくも長き不在”の期間に“成人した人々”が、総じて、政治的にも、文化的にも、未熟で、あまり頼りにならないことを考えると、まだまだ、われわれの引退は許されない。

 なお、これは余談だが、われわれのことを“団塊の世代”と混同している人々がかなりいるのだが、1969年、つまり、全共闘運動の最後の年に、高校生であったのか、大学生であったのかということは、かなり違っている。(新左翼や全共闘運動の担い手であった大学生たちは、69年以降、毎年、大量に運動から脱落、逃亡していた)

 70年代に、“新左翼”や共産党や急進的労働運動を担ってきたのは、前者であり、「団塊世代が通った後はペンペン草も生えない」といわれた不毛の大地で、われわれはそれぞれの旗を守り抜いてきた。

 そういう点では、しぶといというか、往生際が悪いというか、要領が悪いというか、あまりさえない世代ではあるのだが、耐久性だけは自信がある。

30万人は“政治的数字”

2010-09-25 01:24:57 | Weblog
 前にも書いたが、署名がどれだけ集まっているのかを正確に知っているのは当事者だけだ。

 本当の数字は名簿が選管に提出されてはじめて分かるのだが、それでも30万人という数字は非常に微妙な数字である。

 それはどちらにころんでもおかしくない数字であり、そうだからこそこういう数字が出てくるのだろうが、どちらにころんでも(リコールが成立してもしなくても)われわれの態度ははっきりとしている。

 われわれが何度も述べているように、“名古屋のリコール問題”は全国の地方自治体へ、中央政界へ波及する性質を持っている。ブルジョア民主主義を一種の“独裁政治”もしくは、自立化した執行(行政)権力に置きかえようという傾向は日本においてはすでに時代の趨勢であり、資本主義的生産様式がそうであるようにブルジョア民主主義も制度疲労を起こしているのである。

 階級間の利害がするどく対立するなかで、支配階級は、階級間の和解、もしくは、懐柔策をとるだけの余裕をなくしはじめている。、これこそが、総資本があれやこれらの独裁政治を希求する根源なのだが、このような独裁政治を求めるブルジョアジーに没落の危機に喘いでいる小ブルジョアが合流して、“乞食の王様”を本当の“君主”にしようといういかにも奇異な政治的潮流を生みだしているのである。

 したがって現在のブルジョア民主主義の危機は、資本主義の危機に対応しているだけに、根源的であり、根の深いものがある。

 しかし、この運動がいかに歴史的な必然性を持とうとも、この運動に恐怖し、助けを求める人々がいるのであれば、あえて歴史的必然に逆らい続けることも必要であろう。

 ブルジョア民主主義よりもファシズムの方が相手として闘いやすいというのは、単なる理屈に過ぎない。古い民主主義(ブルジョア民主主義)のために闘わずして、新しい民主主義(労働者の民主主義)の旗手となることはできない。人々の信頼を得ることもできない。

 この過程が、肯定(ブルジョア民主主義)→否定(ファシズム)→否定の否定(生産手段の共有に基づく実質的な民主主義)という弁証法的な過程をたどるというのであればなおさらそうだ。「否定の否定」が肯定的なものを保持した止揚、もしくは揚棄であるのであれば、われわれは危機に瀕しているブルジョア民主主義を歓迎する立場にはない。


 そうである以上、結果のいかんに関わらず、われわれの“名古屋の闘い”は続く。      

出撃すれど敵を見ず

2010-09-24 00:19:01 | Weblog
 「暑さ寒さも彼岸まで」という言葉は、季節ばかりではなく政治にもあてはまるのだろうか、今日、春分の日は雨ということもあって、駅頭には熱気はない。

 敵、つまり日本ファシズム連合が戦術を変えたのである。

 先日、来名した菅原文太(現在のところこの人物がなぜ名古屋ファシズム運動に荷担しているのかは不明)は、緒戦で戦術上の誤りがあった、しかしまだ取り戻せる、と新参の運動員たちにハッパをかけた。

 それに河村たかしが同調し、「1日に100人回れ、ここで負けるわけにはいかんのだ」と吠えた。

 リコール署名の進捗状況を知っているのは当事者である彼らだけであるので、正確なことは分からないのだが、ここへ来て彼らの間から、大都市のリコール制度は不公正であるといううらみ節がしきりに聞こえるようになったのは、彼らの運動が必ずしもうまくいっていないことを表している。

 そしこで成果の少ない街頭での署名集めから、戸別訪問方式に変更したのだろうが、市民の自宅まで押しかけて署名を強要するのは、プライバシーの侵害であり、恫喝であり、脅迫であろう。

 しかし、はっきりいって運動終盤での戦術の変更は手遅れであり、後残された日が数日しかないことを考えると、敗北宣言に等しい。

 それにリコール運動が彼らの思うように進まなかったのは、果たして“戦術”だけの問題なのだろうか?

 いずれにせよ、この問題の決着はもうすぐつく。  

総力戦へ!

2010-09-20 09:43:31 | Weblog
 日本の将来を占う“名古屋決戦”がいよいよ開始された。

 われわれはもともと“日本ファシズム”と闘ってプロレタリア日本革命に勝利するという戦略を立てていたので、現段階でファシズム勢力が勝利することもやむを得ないとも考えていたが、労働者の街名古屋は、まだ炎上もしていないし、陥落もしていない。

 全国から得体の知れない連中が名古屋に結集して、すべての駅頭と、繁華街を占拠し、たむろしている。名古屋市民は残暑にもかかわらず、災いがわが身に降りかからないように沈黙し、下を向き、身を縮めて歩いている。全国に先がけてファシストに占領されようとしている街、名古屋。

 お前はこのまま死んでしまうのか!

 たしかに、名古屋は死の臭いに包まれているが、しかし、われらの街、名古屋はまだ死んではいないし、救済する道はまだある。

 人々の沈黙には、憎悪がある。街を行く街宣車に顔をそむける人々の目には怒りがある。無関心を装う人々の心の内には秘められた敵意がある。

 わけの分からない連中が大量に街頭や繁華街に出没しはじめたのは、彼らの36万人のリコール署名を期限内に集めるという目論見がくずれはじめているためだが、そのことがかえって人々の疑念を生みだしはじめている。

 今がチャンスであり、民主主義派に勝機が生まれはじめている。この勝機を勝利につなげるためには闘争しかない。

 われわれに“社労党愛知県委員会”があれば、われわれも街頭に出て、橋下であろうが、名古屋のナチ豚であろうが闘争を挑むのだろうが、今さら死んだ子の年を数えても仕方のないことであり、“社労党愛知県委員会”死んでしまったからこそ、現在の事態があるのである。

 われわれができることは少ないが、われわれは天王山に兵を出す。    

政治権力を奪還したブルジョアジー

2010-09-17 01:12:59 | Weblog
 1年ぶりに、政治権力を奪還したブルジョアジーが最初に行ったことは、円高介入である。

 しかもそれを「非不胎化」方式(日銀が介入のために市場に放出した“円通貨”を回収しない方式)でやれといい、ブルジョアのいうことを聞くしか能のない菅内閣と日銀は、即座にそれに呼応するというのだから、結果として、日銀が何の裏付けもない日銀券をばらまく(流通部面に強制的に価値章標をばらまく)ことによって、諸商品の名目的な価格は上昇することになる。

 つまり、真正のインフレである。

 そういう点では、菅内閣と日本銀行はいとも簡単にルビコン川を渡ってしまったのだが、恐ろしいことには、正気を失った日本資本主義の後を、すぐにもアメリカやヨーロッパが追いかけるであろうということである。

 つまり、世界的な規模での“通貨戦争”とインフレの時代の開幕である。

 こういう時代を生き抜くだけではなく、よりよい世界のために生きようとするのは困難であるのだが、時代は若い人にそういうことを要求している。 

お答えします

2010-09-16 23:47:09 | Weblog
 以下のコメントをいただきました


それは正しくない (暇人)

> たとえばある人が1億ドルを89億円で買って、しばらくしてそれを売ったら、どういうわけか、100億円で売れてしまったという場合、

どう考えても、資本収支が+100億円(=100億円の資本流入)として計上されますよ。

売買差額を為替差益と見做すのは結果論で、統計作成時にそこまで面倒を見る仕掛けはありません。


 この場合、正しいのはコメントをした人です。“通貨”といえども、居住者と非居住者の間で行われた取引は「資本収支」であり、誤差脱漏には含まれていません。(われわれは間違っていました)

 “誤差脱漏”というのは、為替の変動による資産の“評価”(円で表示されるところの“価値”)の変動によるものです。例えば、ある人が1ドル=100円の時に百億円で1億ドルの米国債を買ったが、その国債が彼の手に届くまでに為替水準が変動して1ドル=80億円になってしまったという場合、彼は100億円で80億円を買ったというへんな話になります。(日本の経常収支にはマイナス20億円の誤差脱漏として計上されます)

 この件について、コメント氏は「統計作成時にそこまで面倒を見る仕掛けはありません」とつれないのですが、それはちょっとまずいのではないですか。

 現実には、1日に何百兆円もの“通貨”が売買されていますので、1日に1円為替相場が変動するだけで、何兆円もの“価値”が蜃気楼のように何の前触れもなくどこかへ消えてしまったり、砂漠に湧き出る泉のように不毛な地にわき出したりするのですから、何とも不思議な生産様式であるといわざるを得ません。

 この誤差脱漏の項目は年々膨らんで来ていますので、「統計作成時にそこまで面倒を見る仕掛け」を考えてほしいものです。


戦闘は“長期化”の様相、しかしわが軍に“弾薬”の備蓄なし

2010-09-16 02:04:42 | Weblog
 日本資本主義は、かつてそうであったように、何の見通しもなく、“通貨戦争”の火蓋を切った。

 しかし、昨日に引き続き、今日も円売り介入を行っているが、市場は膠着状態に入ってしまった。

 ここで介入の手をゆるめれば円は急騰し、介入を続ければやがて“弾薬”は底をつく。(現在のところ介入による円安は、急速なユーロ高となっているので、ヨーロッパ勢の“通貨戦争”への参戦は避けられない模様だ。この“世界通貨戦争”で金の市場価格は急騰している)

 日本銀行で印刷した紙幣をそのまま市場にばらまけばいいではないかというが、それは回り回って、日本国内での悪性インフレに結果する。

 どうするのかね。 

小沢氏の敗北の意味するもの

2010-09-16 01:50:05 | Weblog
 民主党の代表選挙で小沢氏が敗北した。

 戦後の日本の支配階級は、岸内閣の後に池田内閣を誕生させたように、佐藤内閣の後に田中内閣を誕生させたように、国内での“階級闘争”が高揚した後には、“階級宥和内閣”を生みだし、階級闘争の終息を図ってきた。

 しかし小泉内閣後に“階級宥和内閣”は誕生しなかった。

 支配階級がその必要性を感じなくなったとも、したくてもできないともいえるのだろうが、そのことが最近の日本の政治過程の大きな変化であることには間違いないであろう。

 必要性を感じないのは、積極財政による“経済成長”により、“中産階級”を増大させ政治的な安定を図るというという政策自体が時代にそぐわなくなったということであろう。

 というのは“中産階級”は現在の日本では、実数として減少しており、“低所得者”に転落することをまぬかれている“中産階級”は、“低所得者”を底上げして均質な社会へ復帰することよりも、自分が“低所得者”に転落しないことを望んでいるからである。

 “中産階級”が他人の不幸に無関心となっているのは、彼ら自身に余裕がなくなっているからだが、余裕がなくなりつつあるという点では、支配階級としての“総資本”も同じであり、日本資本主義は隘路へと迷い込みつつあり、財政においても、不況からの脱出においても、できることが限られつつある。

 そういう点では“人民主義者”小沢氏の敗北は、一つの必然であるとともに、一つの時代の終焉をはっきりと告げるものになった。



次の次

2010-09-13 01:38:15 | Weblog
 現在の政治過程を規定している大前提は、まず第一に、世界的な規模で資本主義の矛盾が深まりつつあるというという現実である。

 しかし、その危機は階級闘争の高揚という直接的な結果を生みだしてはいない。それはむしろ大きく迂回しはじめているようにも見える。

 それはもちろん、階級闘争の主役を演じるであろう労働者階級の政治的な勢力がまだ微弱であるからだ。

 その理由は、依然として世界の労働者階級はスターリン主義の清算という全世紀の遺産を引きずっているからであり、長く続いた資本主義の繁栄の下で、階級闘争という言葉すら忘れ去られようとした時代が続いたからである。

 もちろん、世界的な規模で労働者の闘いは廃墟の中から再興しつつあるが、地球的な規模での復活にまで至っていない。

 そのようななかで、日本において特徴的なことは、むしろ没落の危機に瀕している小ブルジョア勢力が、危機感に駆られ、その一部が狂乱化しつつあることだ。

 小ブルジョアの資本主義防衛運動とも呼ぶべき運動は、当然、彼らの置かれている地位から生じているが、その攻撃の矛先は明らかに、彼らの“墓掘人”である労働者階級に向かっている。

 “労働者階級の反抗をくじくための強固な政府の樹立を!”それが日本のブルジョアおよび小ブルジョアの合言葉となっており、そのような政府はほどなく登場するかも知れない。

 しかし、日本がこのような政治過程をたどっているということ自体、すでに次の時代、つまり、来るべき激烈な階級闘争の時代を先取りし、織り込んでいることの表れであろう。

 そういう意味で、現在の民主党の代表選挙と名古屋の“リコール運動”は、その勝敗にかかわらず大きな意味をもっている。

 この二つの政治問題は結果のいかんに関わらず、労働者が政治勢力として再結集する出発点となりうるだろうが、われわれは、マスコミのドンチャン騒ぎでよく見えないでいる“小ブルジョアの資本主義防衛運動”の本当の実力をも見ることができる。

 したがって、結果によっては、労働者の“戦略的防御”の時代は急速に終わり、来年にも、“戦略的対峙”へと移行する可能性がある。   

日本ファシズムの源流

2010-09-06 01:25:24 | Weblog
 戦前の日本の政治体制はファシズムというよりも極端なミリタリズム(軍国主義)といった方が適切であろうが、戦後の日本ファシズムはイタリアやドイツのようなブルジョア民主主義の荒廃の上に花開いている。

 もちろん、戦後日本のファシズム運動は戦前のドイツやイタリアのようにむき出しの暴力に依存することはないが、ファシズムの本質的な特徴ともいえる執行権力(行政)の独裁という点から考えると、執行権力の意志が、国家の意志としてそのまま通用するようであれば、何もむき出しの暴力に訴える必要もないであろう。

 こういうブルジョア民主主義の一つの形態である議会制民主主義を否定して、執行権力(行政)の独立、もしくは権力の独占を図ろうとする指向は小泉時代にその芽を出して、その後自然発生的にいくつかの地方自治体に誕生し、中央権力に波及しようとしているが、その源泉は意外なところから発している。

 小泉純一郎氏自身が塩野七生氏を何度も自分の閣内に引き入れようとしたように、彼女は小泉純一郎氏のお気に入りであり、彼女のカエサル礼賛から多くのものを得ている。

 そのような考えを抱くに至った経過を塩野氏は大著「ローマ人の歴史」の終わりで率直に語っている。

 「そこでまず、なぜ、どのようにして、ローマは興隆したかを知りたくなったのである。この時期をあつかったのは第1巻から第5巻までだが、この5巻で描かれるローマは対外戦争ばかりしてすごすが、それゆえにローマ史の上では『高度成長期』でもあったのだった。始まりは王政だがその後は長く共和政体で一貫した時代であるためか、この『共和制ローマ』を取り上げた近現代の歴史書も研究書も膨大な数になる。フランス革命の影響か、近現代の歴史家も研究家も、共和制時代のローマが好きらしい。

 それゆえか、共和政から帝政に移行したとたんに、一般向けの歴史書から学術研究に至るまで、質量ともに激減するのである。なぜだろうと考えたが、おそらく帝政ローマという時代は、政治史の通念からははずれたからだと思っている。王政、そして貴族政と呼ばれる元老院主導の少数指導政である共和政、と経てきた民主政に向かうのが政治史の通念だが、元首政とはいえ君主政に行ってしまったローマは、歴史の逆行、言い換えれば保守反動、と見なされたからであろう。

 だが私は、ベルリンの壁崩壊後の時代に生きている。政治イデオロギーの無力を知ってしまった時代の子というわけだ。ならば、政治史の通念などは無視して、一般の人々にとっては善政であったのか、それとも否か、だけを問題にしてよいのではないかと考えたのであった。
 
  そう思って見れば、元首政下の帝政時代は、これまでのようにないがしろにしていたのではもったいないように思える。なぜならばこの時代は、まず第一に、興隆期にえた果実を長期にわたって広く味わったという意味で、ローマ史上の『安定成長期』に該当するからである。」

 塩野七生氏は歴史学者ではないし、経済史家でもないので、ごちゃごちゃとケチをつけるつもりがないので細部には入らないが、これを読んで興味深いのは、塩野氏が、自分たちは“ベルリンの壁崩壊”後に生きている“時代の子”であるといっていることである。(ここで“自分たち”というのは、このような見解を持っているのは彼女だけではないからである。)

 とくに興味深いのは“ベルリンの壁崩壊”とともに崩壊したのは、政治イデオロギー(“社会主義”ばかりではなく、ブルジョア民主主義、社会民主主義を含むところのイデオロギー全般)であると考えていることだ。したがって独裁的なやり方であっても“善政”であれば、評価されるべきであるという見解が出てくる。

 しかもその“善政”というのが、「興隆期にえた果実(ローマに富をもたらす属州のこと」をみんな(もちろん“みんな”の中には奴隷や農奴化しつつあったコロヌスは入っていない)で広く味わうことであるというのであるから、“ベルリンの壁崩壊”は、バブル崩壊とともに日本の小ブルジョアインテリに、救いがたい知的な頽廃をもたらしたことがうかがわれる。

 そして現在、日本の労働者は“ベルリンの壁崩壊”後の“時代の子”たちによって得られた“腐った果実”を無理矢理食わせられているということになる。


菅直人内閣の二枚舌

2010-09-05 04:26:40 | Weblog
 菅直人氏が「1に雇用、2に雇用、3に雇用」であると、雇用問題を最重要課題として取り組むことを街頭でがなり立てている。

 しかし、現在、日本には331万人の失業者がいるが、失業手当の給付を受けているのは、わずか月85万人で、残りの246万人の人は失業しながらも何の給付を受けられないでいる。

 圧倒的な失業者が生活の危機の中にあるというのに、政府はこれに対して何の対応もしようとはしていない。

 それどころか、失業給付の総額が1兆円を越えたということで、厚労省、つまり政府は、失業給付の制限や雇用保険料の引き上げを検討しているという。

 失業者や現役の労働者に「雇用問題」の自己責任での解決を押しつけて、「1に雇用、2に雇用、3に雇用」もくそもないであろう。

 被支配者階級を養うことができない支配階級は滅びるしかないというのは“歴史の鉄則”であって、今、社会の諸事象は、「世界を変革せよ、世界は変革を要する」と歌い出しているのである。  

リコール費用は河村たかし個人が負担すべきだ

2010-09-05 02:28:04 | Weblog
  名古屋市の選挙管理委員会によると、河村たかしのリコール運動により4億5千万円も名古屋市は出費を強要されるという。(その内訳は、署名の審査に5000万円、住民投票関連で4億円)

 こういうカネが名古屋市が税金から支払われることを、名古屋市民としては、善意の納税者としては、絶対に許容できない。われわれはナチ・ブタ(河村たかし)を飼育するために税金を払っているわけではないのだ。

 河村たかしが好きこのんでやっていることは、河村たかしの私財から支払われるのは当然のことではないか。

居眠りは身を滅ぼす

2010-09-03 21:18:53 | Weblog
 某月某日、某所で、ある男が出勤するために、いつものように地下鉄に乗ったが、いつの間にか眠ってしまい、地下鉄の電車は男が降りるはずの駅を通り過ぎて終着駅まで行き、そこから折り返し運転をして男が乗った駅も通り過ぎて反対側の終着駅まで行ってしまった。

 そこでようやく男は駅員に起こされてホームに飛び出したが、時間はすでに始業時間を過ぎており、彼の目的地ははるか彼方だった。

 そこで男はホームのベンチにへたり込んで、オイオイと泣き出した。

 誰の話か知りませんが、夜更かしをして、昼休みに居眠りばかりをしていると、資本主義が滅びる前に、個人生活が破綻するという話です。