労働者のこだま(国内政治)

政治・経済問題を扱っています。筆者は主に横井邦彦です。

具体的労働による価値の“移転”

2008-03-08 20:31:52 | 経済
 マルクス主義同志会の今週の“お題”は具体的有用労働による価値の“移転”である。
 
 マルクスは労働を、価値を形成する抽象的人間労働と使用価値を形成する具体的有用労働という二重のものとしてとらえていた。
 
 ところが、価値増殖過程ではマルクスは具体的有用労働によって生産手段(原料、機械、道具等)の価値が商品に移転すると説明されている。
 
そのマルクス主義同志会によれば、「資本主義の理解のカギは具体的労働にあるのではない、商品の「価値」の秘密の究明は(したがってまた資本の本性の究明は)、抽象的人間労働がとる歴史的な形態(“物的な”形態)、価値の形態の追求と認識の中にこそあるのであって、その場合、具体的労働やその「意義」や「役割」についてのおしゃべりは、その重要性の強調はどんな意味をもってくるのか。大した意義があるようには思われない、あるいはむしろ問題の本質から、決定的に重要なことから目をそらさせる役割を演じているにすぎないのである。」(『海つばめ』第1063号)そうである。
 
 われわれにはマルクス主義同志会が何を言っているのかさっぱり分からないのだが、要するに、抽象的人間労働は神秘に彩られた崇高のものであり、マルクス主義同志会の諸会員氏らにとって信仰の対象になるということであろうか?(散文的に言えば、商品の価値の秘密の究明と資本の本性の究明はまったく別のことがらであるし、また労働が抽象的人間労働の形態をとるということ自体が商品生産社会に特有な歴史的な形態なのであり、価値形態の発展は価値表見の発達なのであって、価値の“物質化”の過程ではない。マルクス主義同志会はありとあらゆる誤解と曲解と混乱と錯乱の果てに、抽象的人間労働を神に祭り上げる新興宗教に到達しており、ここではその信仰の告白が行われているのである。)
 
 ここでマルクス主義同志会は抽象的人間労働は尊く、具体的人間労働は卑しいといった観点から、「具体的労働は『価値』に対しては無関係であり、直接にかかわりをもつことは決してできない」(『海つばめ』第1063号)、「抽象的人間労働は『価値を作り』、具体的労働は『価値を移転する』といった対置は、一般化されるなら空虚なドグマに転化するのである。」(『海つばめ』第1063号)とまでいうのであるから、これまでのように、愚かなマルクスの間違いを正して、彼らが真に正しいと思っているアダム・スミスの見解、すなわち、社会的生産物の全価値は収入(賃金、利潤、地代、すなわち、v+m)に分解するという見解に固執するべき場面であろう。
 
 ところが今回はそうではない。マルクス主義同志会は一方で、「抽象的人間労働は『価値を作り』、具体的労働は『価値を移転する』といった対置」は空虚なドグマであると断じながら他方で、『資本論』のつぎの個所を妥当なものとして承認するのである。
 
 「価値形成過程の考察のさいに明らかになったように、一使用価値が新たな一使用価値の生産のため、その目的にそくして消耗される限りでは、消耗された使用価値の生産のために必要な労働時間の一部分をなすのであり、したがってそれは、消耗された生産手段から新生産物に移転される労働時間なのである。したがって労働者が消耗された生産手段の価値を維持するのは、すなわちそれらの価値を価値構成部分として生産物に移転するのは、労働一般をつけ加えることによってではなく、この付加的労働の特殊有用的性格によって、それの独特な生産的形態によってである。このような目的にそくした生産活動としては、すなわち紡ぐこと、織ること、鍛造することとしては、労働は、ただ接触するだけで生産諸手段を死からよみがえらせ、それらに精気を吹き込んで労働過程の諸要因にし、それらと結合して生産物となるのである。
 
 労働者の独特な生産的労働がもし紡ぐことでないとすれば、彼は綿花を糸には転化しないであろうし、したがって綿花と紡錘との価値を糸に移転しもしないであろう。これに反して、同じ労働者が職業を変えて指物工になるとしても、かれは相変わらず一労働日によって彼の材料に価値をつけ加えるであろう。したがって労働者が彼の労働によって価値をつけ加えるのは、彼の労働がある特殊有用的な内容をもつからではなく、それが一定の時間続けられるからである。したがって紡績工の労働は、その抽象的一般的属性おいては、すなわち人間労働力の支出としては、綿花と紡錘との価値に新価値をつけ加え、紡績過程としてのその具体的、特殊的、有用的属性においては、これらの生産手段の価値を生産物に移転し、こうしてそれらの価値を生産物において維持する。そこから、同じ地点における労働の結果の二面性が生じる。
 
 労働の単なる量的な付加によって新たな価値がつけ加えられ、つけ加えられる労働の質によって生産手段の旧価値が生産物において維持される。労働の二面的性格の結果として生じる同じ労働のこの二面的作用は、さまざまな現象において手に取るように示される。」(『資本論』第1巻、新日本出版社文庫版2分冊、P341~342)
 
 ここではマルクスははっきりと「抽象的人間労働は『価値を作り』、具体的労働は『価値を移転する』といったマルクス主義同志会がいうところの“空虚なドグマ”に立脚して価値増殖過程を説明している。
 
 ところがマルクス主義同志会は、この部分を説明して、「マルクスも言うように、『生きた労働との接触』こそが、つまり『労働過程への生産物の投入』こそが、『これらの過去の労働の生産物を使用価値として維持し、また実現するための唯一の手段』(『資本論』三篇五章、岩波文庫二分冊一九頁)なのだから、我々は『生きた労働との接触』という視点にもっと注意を払うべきなのである(もちろん、『生きた労働』とは結局『具体的労働』ではないかと言われれば否定すべくもないが、しかしそこには“微妙な”違いがあるように思われる、というのは、『生きた労働』からその有用性を捨象して行くなら、そこには労働一般、抽象的人間労働が現われるからである)。」(『海つばめ』、第1063号)ともいう。
 
 「具体的有用労働の有用性を捨象すれば、つまるところ抽象的人間労働ではないか」というのは、社会的生産物の全価値はつまるところ収入(賃金、利潤、地代、すなわち、v+m)に分解するというアダム・スミスの“空虚なドグマ”を言い直したものにすぎない。マルクス主義同志会はアダム・スミスから出発してマルクスに戻るふりをして、再び密かにアダム・スミスの“v+mのドグマ”へと回帰しているのである。
 
 このようなアダム・スミスにたいしてマルクスはこのように批判していた。
 
 「アダム・スミスの第一の誤りは、彼が年間生産物価値を年間価値生産物と同一視している点にある。価値生産物のほうは、ただその年の労働の生産物だけである。生産物価値の方は、そのほかに、年間生産物の生産に消費されたとはいえそれ以前の年および一部分はもっと以前の諸年に生産されたすべての価値要素を含んでいる。すなわち、その価値がただ再現するだけの生産手段――その価値から見ればその年に支出された労働によって生産されたのでも再生産されたのでもない生産手段――の価値を含んでいる。この混同によって、スミスは年間生産物の不変価値部分を追い出してしまうのである。この混同そのものは、彼の基本的な見解のなかにあるもう一つの誤りにもとづいている。すなわち、彼は、労働そのものの二重の性格、すなわち、労働力の支出として価値をつくるかぎりでの労働と、具体的有用労働として使用対象(使用価値)をつくるかぎりでの労働という二重の性格を、区別していないのである。一年間に生産される商品の総額、つまり、年間生産物は、その一年間に働く有用労働の生産物である。ただ、社会的に充用される労働がいろいろな有用労働の多くの枝分かれした体系のなかで支出されたということによってのみ、すべてこれらの商品は存在するのであり、ただこのことによってのみ、それらの商品の総価値のうちに、それらの商品の生産に消費された生産手段の価値が新たな現物形態で再現して保存されているのである。だから、年間生産物の総体は、その一年間に支出された有用労働の結果である。しかし、年間の生産物価値の方は、ただその一部分だけがその一年間につくりだされたものである。この部分こそは、その一年間だけに流動させられた労働の総量を表す年間生産物価値なのである。」(『資本論』、第2巻、全集24巻、P463~464)
 
 マルクス主義同志会は、「具体的有用労働の有用性を捨象すれば、つまるところ抽象的人間労働ではないか」ということにより事実上、アダム・スミスの見解へと“先祖返り”をしており、このような観点から、「大谷にあっては、何か商品の価値は、有用的労働の結果たる“旧”価値と、抽象的労働の結果たる“新”価値の和として表されるのであるが、しかし実際には、価値は本質的に抽象的労働の対象化としてのみ価値である。」ともいう。
 
 しかし、マルクスがいうように「一年間に生産される商品の総額、つまり、年間生産物は、その一年間に働く有用労働の生産物」であって、抽象的人間労働の総計ではないのだから、マルクスの見解とアダム・スミスの見解は量的にも食い違うということになる。そういう点では、マルクス主義同志会は「もし具体的労働によって、生産手段の価値が移転されるというなら、具体的労働は直接にその量にも関係するということになるが、どんな形で価値の量と関係するのか、なぜ、またいかにして、生産手段と同じ量の価値が生産物の中に再現するのか、の説明は決してなされ得ないであろう。」(『海つばめ』、第1063号)というバカなことをいっている場合ではないのではないか。
 
 また、「『生きた労働との接触』こそが、つまり『労働過程への生産物の投入』」というように、「労働は、ただ接触するだけで生産諸手段を死からよみがえらせ、それらに精気を吹き込んで労働過程の諸要因にし、それらと結合して生産物となる」というマルクスの言葉を「労働過程への生産物の投入」(???)というように理解しているが、これも正しくない。むしろ逆に、「生産物」(生産手段という形態で存在している対象化された労働)にたいして労働力が投入されるのである。
 
 これはどうでもいいということではない。同じ『資本論」の第2巻でマルクスは次のようにもいっている。
 
 「生産の社会的形態がどうであろうと、労働者と生産手段はいつでも生産の要因である。しかし、一方も他方も、互いに分離された状態にあっては、ただ可能性から見てそうであるにすぎない。およそ生産が行われるためには、両方が結合されなければならない。この結合が実現される特殊な仕方は、社会構造のいろいろな経済的時代を区別する。当面の場合には、自由な労働者がその生産手段から分離されているということが、与えられた出発点である。またどのようにしてどんな条件のもとで、この二つが資本家の手の中で――すなわち彼の資本の生産的存在様式として――一つにされるかは、われわれがすでに見たところである。それゆえ、こうして一つにされた商品形成の人的要因と物的要因とがいっしょに入っていく現実の過程、生産過程は、それ自身が資本の一機能――資本主義的生産過程になるのであって、その本性は本書の第1部ですでに詳しく説明されている。商品生産の営みはすべて同時に労働力搾取の営みになる。しかし、資本主義的生産がはじめて一つの画期的な搾取様式になるのであって、この搾取様式こそは、それがさらに歴史的に発展するにつれて、労働過程の組織と技術の巨人的成長とによって、社会の全経済的構造を変革し、それ以前のどの時代よりもはるかに高くそびえ立つのである。
 
 生産手段と労働力とは、それらが前貸資本価値の存在形態であるかぎり、それらが生産過程中に価値形成において、したがってまた剰余価値の生産において演ずる役割の相違によって、不変資本と可変資本とに区別される。生産資本の別々の成分としては、それらは、さらにまた、資本家の手にある生産手段は生産過程の外でもやはり彼の資本であるが、労働力のほうはただ生産過程のなかだけで個別資本の存在形態になるということによっても区別される。労働力は、ただその売り手としての賃金労働者の手のなかだけで商品だとすれば、それは、逆に、ただ、その買い手であってその一時的な使用権を持っている資本家の手のなかだけで資本になるのである。生産手段そのものは、労働力が生産資本の人的存在形態として生産手段に合体されうるものになった瞬間からはじめて生産資本の対象的な姿または生産資本になるのである。だから、人間の労働力は生まれつき資本なのではないし、生産手段もまたそうではない。生産手段は、ただ歴史的に発展した特定の諸条件のもとでのみ、この独自な社会的性格を受け取るのであって、それは、ちょうど、ただそのような諸条件のもとでのみ、貴金属に貨幣という社会的性格が刻印され、さらにまた貨幣に貨幣資本という社会的性格が刻印されるようなものである。」(『資本論』、第2巻、全集24巻、P49~50)
 
 マルクス主義同志会は生産過程を単に「労働過程と価値形成過程の統一」という観点からしか見ることができないがゆえに、いとも簡単に「労働との接触」を労働力と生産手段の結合を「労働過程への生産物の投入」という意味不明な概念で説明しようとしているが、マルクスはこの言葉で「生産手段そのものは、労働力が生産資本の人的存在形態として生産手段に合体されうるものになった瞬間からはじめて生産資本の対象的な姿または生産資本になるのである」、「労働力は、ただその売り手としての賃金労働者の手のなかだけで商品だとすれば、それは、逆に、ただ、その買い手であってその一時的な使用権を持っている資本家の手のなかだけで資本になる」というように、資本家によって別々に買われた生産手段と労働力が資本の手で一つのものとして結合されるときに資本は生産資本になるのであり、マルクスはこの両者の結合のされ方が「社会構造のいろいろな経済的時代を区別する」ともいっているのである。
 
 われわれがつねづね主張しているように、マルクス主義同志会は資本主義的生産様式そのものを見失っているということがここでもやはりマルクスの『資本論』の正しい理解から彼らを遠ざけているのである。
  

マルクスは自然科学的に思考している

2008-02-15 03:04:20 | 経済
 前回、生産価値についてふれたが、どうも皆さん相当混乱しているようだ。
 
 マルクス主義同志会の諸君たちにとっては、こういうテーマ、競争や需要供給関係という言葉自体が口に出すことさえはばかられる“タブー”なのである。
 
 これは彼らが「価値」を商品に内在する“あるもの”と信じて疑わないからである。そしてこの「商品に内在する“あるもの”」という観念には、“前もって定まっているもの”、すなわち、“事後のもの”ではなく“事前のもの”、という観念とともに、“ある定まった量”という観念も含まれている。こうして彼らは現実の世界に別れを告げて観念の世界へと後退し、ありとあらゆる科学とは無縁の存在へと転落していくことになる。
 
 これとは反対にマルクス主義同志会が敵意をむき出しにしている“マルクス経済学者”たちにも問題はありそうだ。
 
 「この引用の前半部分でマルクスは、各生産部門での利潤率から乖離している場合には、資本の移動が生じることを述べている。しかし、ここでもそうであるが、草稿『第三章』では、資本移動の結果、各生産部門についての需要供給関係が変化して、市場価格が標準的価格=生産価格を中心にして変動するようになる、という過程についてはまったく触れていない〔注目!――林〕。これは、マルクスにはこのような過程を経ること自体がわかっていなかった、ということを意味するものではないであろう。ここでのマルクスは、競争がどのようにして価値を生産価格に転化させ、平均利潤率を成立させるのか、という問題は、『明らかに一般的なこと』に属するのではなく、『競争についての考察』に属するものと考えているのである。『資本論』第三部一篇では、その第九章で競争について触れているのは、『さまざまな社会的生産部面のさまざまな利潤率は、競争によって、これらのさまざまの利潤率の全体の平均である一つの一般的利潤率に均等化される』ということだけであって、それがどのようにしてなされるのか〔謹聴!〕、ということは第一〇章ではじめて解明されることになっているが〔誰がそんなことを確定したのか――林〕、草稿『第三章』で競争について述べられているのは、この第九章と同じく、それの作用によって平均利潤率が成立するのだ、ということにとどまり、『資本論』では第一〇章で解明されている、それの『どのようにして』〔!〕についてはまったく触れていないのである」
 
 これは『海つばめ』で血祭りに上げられている尾崎という人の書いたものの引用なのだが、「資本移動の結果、各生産部門についての需要供給関係が変化して、市場価格が標準的価格=生産価格を中心にして変動するようになる」というのはまったく正しくない。そもそもここ(平均利潤率の形成)において、需給関係を持ち出すこと自体が正しくないのである。
 
 このような混乱が生じているのは、ある意味で『資本論』の編集に問題があるかもしれない。
 
 『資本論』の第3巻では、
 
 第8章 生産部門の相違による資本構成の相違とそれにもとづく利潤率の相違
 
 第9章 一般的利潤率(平均利潤率)の形成と商品価値の生産価格への転化
 
 第10章 競争による一般的利潤率の平均化 市場価格と市場価値 超過利潤
 
 となっているが、平均利潤率の形成は基本的に第9章でなされているのである。それにもかかわらず、第10章で「平均利潤率の平均化」というまったく理解不可能な章題が掲げられているために、あたかも第10章でそれがなされているような印象を与えているからである。
 
 多くの“マルクス経済学者”たちがそのように考えているのは、第9章でマルクスが平均利潤率が形成されるのは各資本のあいだで競争が行われるからとしか答えていないからである。マルクスとしてはこれだけで十分であろうと思っていることが他の人に通じないのは、他の人がマルクスのように考えないからであるが、ここでは多くの人がマルクスは大学時代から「原子論者」であったことを忘れているからにほかならない。現代では当時の「原子論」は「分子運動論」と呼ばれるようになっているが、マルクスは「原子」(正確には分子)のランダム・フライト(デタラメな運動)によって、気体の運動なり、圧力や熱力学の諸現象を説明しようとした当時の「分子運動論」にたえず立ち返っている。
 
 無数の「原子」(正確には分子)のランダム・フライト(デタラメな運動)によって、分子運動のX、Y、Z方向にエネルギーが等しく配分されたり、気体や液体中の圧力がすべての方向に一様に働くのは、一つ一つの「原子」(正確には分子)の運動量や運動の方向差異が相殺され、打ち消されるからであろう。
 
 そしてマルクスが競争が行われるという場合、諸商品なり諸資本家は「原子」(正確には分子)のようにデタラメな運動をすることによって平均化され、一つの秩序をかたちづくっていくのであるといっているのである。
 
 だから、マルクスは「およそ資本主義的生産全体では、つねに、ただ非常に複雑な近似的な仕方でのみ、ただ永久の諸変動のけっして固定されない平均としてのみ、一般的な法則は支配的な傾向として貫かれる」と読者に注意を呼びかけているのである。
 
 では、第10章では何が語られているのか?
 
 マルクスはいう。
 
 「競争が示していないもの、それは生産の運動を支配する価値規定である。価値こそは、生産価格の背後にあって究極においてそれを規定するものである。これに反して競争が示しているものは(1)平均利潤・・・。(2)労賃の高さの変動の結果として生産価格の上がり下がり――この現象は商品の価値関係とは一見まったく矛盾している。(この点については第12章の「労賃の一般的変動が生産価格におよぼす影響」でくわしく論述している。)(3)市場価格の変動 この変動は、与えられた一期間の商品の平均市場価格を、市場価値に引きもどすのではなく、この市場価値からはかたよっておりそれとは非常に違っている市場生産価格に引きもどす。」(『資本論』、第3巻、全集25a巻、P262)
 
 マルクスが第10章で問題にしているのは、実はこの(3)の部分なのである。需給関係の変動による市場価格の変動はなぜ、市場価値に引き戻さず偏差を生じて市場生産価格に引き戻すのか、つまり市場価値からはずれるのか?という問題にマルクスは答えようとしたのである。
 
 これはむしろアインシュタインが「ブラウン運動」(微細な粒子が空気や水の分子の運動によって行う不規則な運動)から“確率のゆらぎ”を考察し、分子運動を数学的に実証したようなものである。(もちろんアインシュタインはマルクス以後の人である)
 
 そして需給関係では、「この場合にはまさに生産費の変動、したがって価値の変動こそが、需要の変化を、したがって需要供給関係の変化を引き起こしたのだということであり、また、このような需要の変化は供給の変化を伴うことがありうるということである。これはわれわれの思想家(ベーリ)が証明しようとしていることのまさに正反対を証明することになるであろう。すなわち、それは、生産費の変動は需要供給関係によって規制されているのではなく、むしろ反対にそれ自身がこの関係を規制するのだということを証明することになるであろう。」(『資本論』、第3巻、全集25a巻、P241)と述べており、むしろ偏差は需給関係によるものではないと述べている。
 
 マルクスはこの偏差の結論として、
 
 「以上述べたことから明らかになったように、市場価値(これについて述べたすべてのことは、必要な限定を加えれば、生産価格にもあてはまる)は、それぞれの特殊な生産部面で最良の条件の下で生産する人々の超過利潤を含んでいる。恐慌や過剰生産一般の場合を除けば、このことはすべての市場価値にあてはまるのである。すなわち、市場価格に含まれていることは、同じ商品種類の商品には、たとえそれらの商品がどんなにちがった個別的条件のもとで生産され、したがってどんなに違った費用価格をもっていようとも、同じ価格が支払われるということなのである。(普通の意味での独占すなわち人為的または自然的な独占の結果である超過利潤についてはここでは述べない。)
 
 しかし、超過利潤は、そのほかにも、ある生産部面がその商品価値の生産価格への転化を免れるような状態にある場合には、発生することがありうる。地代に関する篇のなかでわれわれは超過利潤のこの両形態のさらに進んだ形成を考察しなければならないだろう。」(『資本論』、第3巻、全集25a巻、P250)とのべている。
 
 つまり超過利潤の発生が偏差を生んでいるのである。   

「就職氷河期」はなぜ起こったか?

2007-10-05 01:51:53 | 経済
 池田ナントカという人の文章について感想を求められておりますので、簡単にお答えします。
 
 この人は正社員採用人数の減少が1991年から始まったことをもって、「小泉改革」とは無縁であるといっています。(正確には日本経済が停滞局面に入った1992年です。)
 
 このこと自体はまったく正しいです。相対的過剰人口(失業者、半失業者、不定期雇用者、ルンペン・プロレタリアート等の数)は資本の蓄積によって規定されており、好況で新しい資本がつぎつぎに誕生したり、既存の資本が追加資本を投下して規模を拡大するような時期には新規の労働力需要は大きい(したがって相対的過剰人口は縮小する)し、反対に不況で資本が過多になっているときには新規の労働力需要は小さい(したがって相対的過剰人口は増加する)。
 
 こういうことは戦後の経済循環のなかでつねに見られたことですが、1992年からの「就職氷河期」の特徴は、それ(企業の新規雇用の減少)が単年度だけのことではなく、かなりの期間継続したことにあります。
 
 その原因について池田氏は、建設業における就業人口の増加をあげて、「ハコモノ公共事業」に労働力が吸収されて「労働生産性が低下した」からであると答えています。
 
 これはまったくヘンな話です。われわれが「ブルジョア経済学」と呼んでいるアチラの経済学では、労働生産性というのは労働者一人当たりの「(価値の)産出量」のことであり、簡単に言えば労働者一人がどれだけ稼ぐことができるのかということです。
 
 そういう点からするなら、建設業を生業(なりわい)として、家を造ったり、橋を造ったりして金を儲けている会社は「不生産的」ということにはならないし、それが誰も利用しない赤星村博物館であったとしても、建設業者がそれを赤星村から受注して、一億円儲けたとしたら、建設業者にとってそれはじゅうぶんに「生産的」な仕事であったというべきでしょう。(この場合、「不生産的」なのはだれも利用しない博物館に何億円もの村民の税金を注ぎ込んだ赤星村なのです。)
 
 またアチラの経済学では、企業の儲けが大きければ大きいほど生産性は高いということになっていますので、たとえばマイクロソフト社のような、特別の地位(自社のOSが事実上の世界標準になっていること)を利用して、6000円程度のOSを4万、5万円程度で売りつけている場合、労働の生産性は高いというべきでしょう。つまりアチラの経済学では独占資本が独占価格を設定することは生産性の高い行為と見なされるべきなのです。
 
 ですから、同じ規模(労働者数が同じ)の土建屋でも、A社は談合をやって、高い落札価格で工事を受注し、税金をぼったくっているのにたいして、B社は堅実に、競争入札をやって、低い工事価格で落札して商売をやっているという場合、労働の生産性が高いのはもちろん、談合をやっているA社ということになります。
 
 このようにアチラの経済学では、労働の生産性はアウトプット(産出量)/インプット(投下資本量)×労働者数であらわされますので労働の生産力を上げるためには、分子(アウトプット)を増やすという方法だけではなく、分母(投下資本量、労働者数)を減らすというやり方もあります。
 
 労働者の数で見るならば、同じ仕事をするにしても労働者の数を減らせば、一人当たりの産出量は増えるので、労働の生産性は向上したということができます。そういう点からするならば、池田ナントカという人の社会の労働生産性を向上させるためには「労働市場を流動化させて生産性の高い部門に移さなければならない」というのは、ヘンな話です。
 
 生産性の低い部門から労働者を排出(数を減少)させれば、当然、その部門の生産性は上がるのですが、その排出された労働者を生産性の高い部門に移せば、生産性の高い部門の生産性は低下するのではないですか?そして、「労働市場の流動化」によって、生産性の低い部門の生産性が高くなり、生産性の高い部門の生産性が低くなるとしたら、ある国の労働の生産性を全体としてみれば変わらないという結論こそ導き出されるべきでしょう。
 
 したがって「労働市場を流動化」させることによって、ある国の労働の生産性を高めるためには、生産性の低い部門から労働者を排出はするが、この排出された労働者はどの部門にも行かない、つまり失業者、もしくは無職としてどこかに滞留もしくは沈殿する必要があるということです。
 
 こうすれば生産性の低い部門は高くなり、生産性の高い部門はそのままなのですから、全体としてみれば、その国の労働生産性は高まったということができるはずです。
 
 さらに、投下資本量は原料、設備費、労働者の給料等からなっていますから、労働者の数を減らさないまでも、その給料を半分に減少させることが可能であるならば、労働者の数を半分にしたと同じ効果を得ることができるわけです。そのためには正社員を臨時雇用、アルバイト、契約社員といった労働者と入れ替える必要があります。
 
 こういうことはあまり言いたくはないのですが、アチラの経済学というのは基本的に資本家が金を儲けるためにはどうすればいいのかという学問ですので、資本家の立場からするなら、労働者の数を減らして、なおかつ、一人当たりの労働者に支払う金が少なければ少ないほど、労働の生産性が向上する(お金が儲かる)ということになるのは、ある意味では、“お約束”の結論ではないかと思うわけです。
 
 ですから、池田ナントカという人も、余剰人員の滞留、沈殿はまずいと思ったのか、余剰人員は「労働需要の大きいサービス業に移動」させるべきと言い換えています。
 
 流通はサービス業ではありませんが、流通(とくに小売業)、福祉、介護、ヘビーシッター、メイド、清掃、人材派遣といった部門は低賃金で、このような部門で働く人々はワーキング・プア(労働しても生活できない人)の中核をなしていますから、同じことです。
 
 問題は、世界中の資本家たちがこのような「資本家の千年王国」を夢見ているのですが、特別の場合を除いて、このような露骨な「労働の生産性向上運動」というのは行われないだろうということです。それはいうまでもなくこのような施策は労働者の生活を破壊し、大きな困難をもたらすからであり、労働者や学生の大きな反対運動に直面するからです。
 
 少し前にフランスでも、「労働市場を流動化」させようとしましたが、労働者や学生の多くな反対運動に直面して、頓挫しています。
 
 そういう点では、この「特別の例外」というのは日本の90年代が当てはまるのではないですか。
 
 池田ナントカという人は、90年代に日本では建設業が増加しているといっていますが、これは正しい指摘です。
 
 つまり、90年代の初頭にバブルが崩壊して、土地、株の価格が暴落(短期間に半値以下になったのですから暴落という表現が正しいです)して、それとともに莫大な不良債権(返済不能となった債権)を企業と金融機関は抱え込み、日本は長期的な不況に突入しました。生産は低下し、莫大な遊休設備と余剰人員を企業は抱えてしまったのです。
 
 したがって、リストラや倒産によって街頭に投げ出される労働者の数も増え続け、失業者の数も年々増えていきました。こういう情況では、新規の正社員の雇用数だけではなく、中途採用も減少せざるをえません。
 
 これが長期化したのは、資本が巨額な後ろ向きの資金需要(借金を返済しなければならないという必要性)を抱えてしまったために、前に向かっての資本投下、すなわち、新規事業を行うとか、既存の設備を拡大するとかして新規の労働者を雇用することができなかったし、むしろ、利潤を確保するために、事業を縮小再編成する必要性があったためです。
 
 このため政府は不況対策として伝統的なケインズ主義の立場に立ち返り、公共事業を拡大して失業対策をおこなっています。
 
 しかし問題は日本資本主義の真ん中に「不良債権問題」という巨大な氷山が出現してしまったことであって、この氷山を何とかしないかぎり、まわりで少々たき火をしても、気温が上がることはないし、『就職氷河期』というものは終わらないだろうということです。
 
 できから、90年代を“失われた10年”というのは、ケインズ主義的な不況対策の限界を露呈した10年であったし、建設業に毎年莫大な公的資金が投入されたために建設業がいびつに肥大し、その資金が赤字国債の発行によってまかなわれたために、国債残高が天文学的に積み重なっていく過程でもあり、日本の財政が破滅的な情況に追い込まれていく過程でもありました。
 
 この“失われた10年”の後に登場した小泉政権に対して、われわれは「市場原理主義」という評価をしていません。むしろ「不良債権問題」を解決するためには、「市場原理」以外の原理が必要でした。金融機関を行政の介入によって整理統合させたり、公的資金を注入したり、金利を実質的にゼロの状態にするなどの“社会主義”(われわれが国家資本主義とよんでいるもの)的な政策、つまり国家による金融機関への介入と保護、統制が必要だったのです。
 
 「市場原理」が叫ばれたのは、労働市場に対してであり、池田ナントカという人が主張しているようなこと(労働市場を流動化させて労働の生産性を高めるということ)を、日本の資本は小泉時代より前にすでに先取りして実施していたのですが、小泉時代はこれに「規制緩和」という名目で、人材派遣業の業種を拡大したりして制度的に追認したにすぎません。
 
 時間がなくてうまくまとめられなかったようにも思いますが、以上です。

 
   

世界インフレへの道

2007-09-23 00:56:56 | 経済
 ひたひたとインフレが各国に押し寄せ始めている。
 
 中国ではインフレはクリーピングな(忍び寄る)段階から、ギャロッピングな(駆け走る)段階へとすでに移行している。
 
 これはインフレとは直接関係ない指標だが、バルチック指数(世界海運指数)は今年に入って史上最高値を毎月更新している。
 
 つまり物の動きが、原材料のみならず製品、中間製品までも増加し、世界各国で不定期貨物船の取り合いが始まっているということである。もちろんその中心には躍進めざましい中国資本主義があることはいうまでもない。
 
 したがって、世界の生産と消費はかつてないほどの高みへとのぼっており、これを支えていたのが信用の膨張であった。
 
 ところが、二ヶ月ほど前からアメリカのサブプライム問題に端を発した世界同時株安で信用はすでにかなりの程度で収縮している。
 
 本来なら、(つまりマルクスの時代なら)ここで信用の収縮にともなって、過剰生産が表面化するのだが、世界貿易の拡大は過剰な生産が顕在化することをある程度防いでいる。
 
 それともう一つ見落としてはならないことは、世界が信用不安にあったこの間、各国の通貨当局は信用の欠乏に対応するため、大量の流動性(短期の貨幣資本)を市場に供給してきたことである。
 
 今、それらの短期の貨幣資本は金、石油、銅、大豆といった国際商品の先物市場に流れ込んでおり、それらの価格を押し上げている。
 
 ここで注意しなければならないのは、投機の結果それらの商品の価格が上がっているという言い方はかなり不正確な表現であるということである。
 
 たとえば、80円のリンゴを100円で全部買い占めた人がいたとしても、リンゴを食べたいという人が少なければ、この人は120円ではなく、100円か、80円、ひょっとすると50円でも売れないかも知れないのである。
 
 だから大量の投機資金が商品市場に流入し、先物価格が上昇し、それにつられるかたちで現物の商品市況が高騰し、なおかつそれが持続しているということは単に供給側で買い占めが行われているということだけではなく、需要側で強い実需があるということである。
 
 そしてその需要の世界的中心である中国でインフレが加速し、物価の一般的な騰貴が起こっているとしたら、世界の投機筋は中国のインフレがやがて世界に波及することを見越して国際商品の先物買いをやっているということである。
 
 こういった現象は日本でも73年から74年にかけて、「買い占め・物不足・売りおしみ」現象として現れたが、「買い占め・物不足・売りおしみ」の結果インフレが狂乱化したのではなく、「インフレ期待」(この先インフレが加速するという見込み)があり、国内に過剰流動性(貨幣資本の過多)があったために、その過剰流動性が商品市場に流れ込んで、「買い占め・物不足・売りおしみ」現象という商品流通のいたるところにボトルネック(隘路:あいろ)が生じるようなことが起き、それがインフレをよりいっそう悪性化させたのであった。
 
 だから、今回の国際商品市場の先物市場の上昇には、世界的な「インフレ期待」(この先インフレが加速するという見込み)の上昇があることを見落としてはならないであろう。
 
 こういったことは“通貨の世界”にも現れており、世界の事実上の基軸通貨であるドルは“資源国通貨”といわれるオーストラリア・ドル、南アフリカのランド通貨、カナダ・ドルにたいして下げ始めている。
 
 “資源国”の通貨の背後にその国の一次産品があり、世界の貨幣としてのドルがそれらに対してに下げているということは、ドルの商品購買力が低下している、すなわち、貨幣が代表している価値が下落しているということであり、ドル紙幣が過剰に発行されているということでもある。
 
 この世界の一次産品から派生した価格の上昇は、これからそれを原料とする二次産品や、石油価格の高騰による各種の工業製品、輸送費、など川下に広がっていくにしたがって、世界インフレとして顕在化していく可能性が高い。
 
 これは現代世界において重大な問題になるかも知れない。というのは世界は繁栄を謳歌してきたこの間、他方において貧困も蓄積していたのである。日本のみならず、アメリカでも、ヨーロッパでも、中国でも、ロシアでも、インドでも、資本主義的な繁栄の影で膨大な数の貧困層を形成してきた。
 
 しかもこれらの諸国では、“新自由主義”のもとで、社会のセーフティ・ネットともいわれる社会保障費が削り取られ、貧困者はむき出しの貧困のもとに置かれてきたし、現在もそうであるからである。
 
 世界インフレはこのような人々生活を直撃する可能性がある。世界的な規模で、何千万人、いや、何億人もの人々の生活が物価の一般的な高騰によって、追いつめられ、破綻するということは人類史上これまでなかったことであるが、そのような人類の未体験の世界へとわれわれは進んでいくかも知れないのである。
 
  

投機が悪いのか?

2007-08-22 04:24:41 | 経済
 経済学に道徳を見ようとしたのはアダム・スミスであり、古典派経済学の正統な継承者であるわれらのマルクス主義同志会も道徳から出発しなければ気がすまない党派である。
 
 「金儲け第一主義」こそ、この社会(商品生産社会)の悪である。マルクス主義同志会はこのように資本主義を断罪して、純粋な商品生産社会に帰るようにお説教をたれる。
 
 つまり、マルクス主義同志会は、不道徳な商品生産社会(資本主義)から道徳的な商品生産社会(純粋な商品生産社会)への移行こそ、社会主義であるというのである。
 
 そして「金儲け第一主義」というのは、人間の心のあり方にほかならないのであるから、「悔い改めよ、天国は近い、私欲を捨てて、公のために生きよ、」そのように人々に訴えることが社会主義運動と呼ばれるものでなければならないと主張する。
 
 しかし、商品生産、すなわち、交換価値のための生産自体がすでに、拝金主義(「金儲け第一主義」)なのであり、資本主義の萌芽ではないのだろうか?拝金主義のために拝金主義を否定しようというのは概念の混乱以外のなにものでもない。
 
 そういう点では、マルクス主義同志会は問題の建て方そのものが間違っているのである。だから、われわれはマルクス主義同志会のマネをするのはよろしくないと注意を喚起しているのだが、日本共産党はどういうわけか、われわれの忠告を無視して、マルクス主義同志会のマネをして道徳的左翼になろうとしている。
 
 例えば、最近の『赤旗』紙は、マルクス主義同志会にならって、連日のように、投機はよろしくない、と道徳的なお説教をたれている。
 
 しかし、人が株を買ったり、外国通貨を買ったり、その他の金融商品を買ったりするのは、なぜであろうか?いうまでもなく、それらの「商品」の価格が日々変動するからであろう。今日これを100円で買えば、明日にはこれが200円で売れるかもしれない、そのように人は思うのであるからこそ、それらの「商品」は売られたり、買われたりするのである。
 
 例えば、40年ほど前のように、1ドル=360円というぐあいに、ドルと円の交換比率が固定されていれば、交易や旅行といった実際の必要性がある人しかドルを売ったり、買ったりはしなかったであろう。したがって、現在の通貨の変動相場制をそのままにして、投機はいかん、金儲けのために外国通貨を売ったり、買ったりするのはとんでもないといったところであまり意味はないであろう。
 
 そしてこのような投機を飛躍的に促進させたものは信用制度の発展であるが、マルクスは『資本論』のなかで、信用制度は特有の二面性を持っているという。
 
 「信用制度が過剰生産や商業での過度の投機の主要な槓杆(こうかん:テコのこと)として現れるとすれば、それは、ただ、その性質上弾力的な再生産過程がここでは極限まで強行されるからである。そして、これが強行されるのは、社会的資本の大きな部分がその所有者でない人々によって充用されるからである。すなわち、これらの人々は、所有者自身が機能する限り自分の私的資本の限界を小心に考えながらやるのとはまったく違ったやり方で仕事に熱中するからである。
 
 こうして、ただ次のことが明らかになるだけである。すなわち、資本主義的生産の敵対的な性格にもとづいて行われる資本の価値増殖は、現実の自由な発展をある点までまでしか許さず、したがって実際には生産の内在的な束縛と制限をなしているのであって、この制限は絶えず信用制度によって破られるということである。
 
 それゆえ、信用制度は生産力の物質的発展と世界市場の形成とを促進するのであるが、これらのものを新たな生産形態の物質的基礎としてある程度の高さに達するまでつくりあげるということは、資本主義的生産様式の歴史的任務なのである。それと同時に、信用は、この矛盾の暴力的爆発、恐慌を促進し、したがってまた古い生産様式の解体の諸要素を促進するのである。
 
 信用制度に内在する二面的な性格、すなわち、一面では、資本主義的生産のばねである他人の労働の搾取による致富を最も純粋で最も巨大な賭博・詐欺制度にまで発展させて、社会的富を搾取する少数者の数をますます制限するという性格、しかし、他面では、新たな生産様式への過渡形態をなすという性格、――この二面性こそは、ローからイザーク・ベレールに至るまでの信用の主要な告知者(宣伝者)に山師と予言者との愉快な雑種性格を与えるものである。」(『資本論』第3巻)
 
 ※ ジョン・ローというのはスコットランド出身の銀行家でフランスの財務総監、フランス領ミシシッピー開発を担保とした不換紙幣の発行を提唱した、人々は彼のミシシッピ計画に幻惑されてミシシッピ開発会社の株は高騰したが、この開発計画自体がまったく現実性のないものだったので、やがてバブルがはじけて、銀行の取り付け騒ぎが起こった。
 
 ※ イザーク・ベレールは、フランスのマーチャント・バンク(投資銀行)クレディ・モビリエの設立者の一人で、アメリカの鉄道やフランスの産業への投資を募る銀行として発展したが、汚職や腐敗、そして投資した事業の失敗等々によって投資者の取り付け騒ぎが起こり破産した。
 
 
 信用制度は現在の管理通貨制の下では、強大な国家信用と結びつくことによって、信用の崩壊、即、恐慌という図式は必ずしも正しいものではなくなったが、マルクスの言う二面性、すなわち、巨大な賭博制度であると同時に生産力を発展させ世界市場形成を促進するものであるという点は不変である。
 
 信用制度が、基本的に、現在の利益を出資者の間で山分けするものではなく、未来の利益を山分けするものである以上、不確定的な要素はどうしてもつきまとわざるをえない。
 
 信用には、このような不確定的な要素があるからこそ、それは投機とならざるをえないのであるが、日本共産党は投機はよろしくないという。これは資本主義に資本主義であることをやめよといっているのと事実上同じであるが、同時に、共産党は資本主義は資本主義のままでもいいというのであるから、ますます分からなくなる。
 
 それに現在問題になりはじめているのは、そういうこと(投機がいいのか悪いのかという問題)ではないのではないか。
 
 むしろ逆に、現代の信用制度=賭博制度があまりにも巨大になりすぎてしまったので、これを賭博行為として行うにはあまりにも危険が大きくなりすぎているということである。つまり、一回の損失だけで金融機関の経営が悪化したり、知らず知らずのうちにあまりにも多くの人々(そのほとんどが普通の人々で賭博をやっているという自覚のない人)がこの賭博制度に参加させられてしまっているので、安易に損失を出すことができない状態になっていることだ。
 
 そこで賭博の参加者から自分たちはどうせ「半」にしか賭けないのだから、サイコロに仕掛けをして3回振って2回ぐらい「半」が出るようなサイコロを作ってくれないかという話になり、胴元(各国の中央銀行)もその気になり始めているのである。
 
 この賭けに勝った場合、掛け金の2倍の金が返ってくると仮定すれば、毎回みんなが「半」に賭ければ、何回かやって賭博が終わった段階で、各人の持ち分は以前より増えるのは確実であり、その分胴元(各国の中央銀行)の持ち出しとなる。
 
 こうすれば、確かに、共産党がいうように投機ではなくなる。しかし、これは中央銀行による紙幣の分配であろう。このような節制のないやり方で中央銀行が安易に通貨供給量を増やせば、それは将来のインフレの原因になるのではないだろうか?
 
 また、各市場は、中央銀行がこのように信用の売り方、買い方のどちらかの肩を持つということ自体に不安を感じ始めている、各国の中央銀行が投機者たちに自分たちは投機者の味方であり、あなた方のためならば何でもやらせていただきます、という度に、そして実際に国家信用を膨張させて、市場に貨幣をばらまく度に、自分たちは救済されなければならないほど窮地に陥っているのか?という疑念が市場参加者の間で膨らんでくることにもなる。
 
 そういう点では、現在の金融不安はもう少し続きそうだ。            

Let it be (あるがままに、なすがままに)

2007-08-16 21:42:31 | 経済
 急速な円高が進んでいます。
 
 当面の壁といわれた1ドル=117円は、すでにベルリンの壁となり、あとかたもありません。
 
 日本資本主義の最終防衛ラインと思われていた1ドル=115円もあっけなく突破されてしまい、目先、1ドル=110円も見えてきました。こういう状態があと一週間も続けばどういうことになるのか、金融関係者の皆さんはよくご存じだと思います。
 
 しかし、今、われわれのような素人が、あれこれと、余計なことを言うと、余計なことが起きかねない不安定な状態ですので、「これからどうなる」とか、「どうしてこうなったのか」という考察はしないことにしました。   
 
 そのかわり、私の好きな曲を一曲
 
 When I find myself in times trouble
 
 (私自身が困難なときにあることを見つけたとき→私が一人悩んでいるとき) 
 
 Mother Mary comes to me
 
 (聖母マリアがやってきて  ※誤解しないでいただきたいが、われわれは無神論者でキリスト教徒ではありません。これは単なるビートルズの歌の紹介です。)
 
 Speaking words of wisdom
 
 (賢者の言葉をささやく)
 
 Let it be
 
 (あるがままに)
 
 Let it be
 
 (なすがままに)
 
 困難な現実のなかで、現実を現実として受け入れることからしか、解決の道は見つからないという意味だと思います。けっしてどうなってもいいやという意味ではないと思います。  

 ブルジョアジーの“社会主義”

2007-08-11 00:55:40 | 経済
 現在、世界的な規模で株価が下落している。
 
 これに対して、日・米・欧の中央銀行がそろって緊急措置として市場に資金を供給している。
 
 これはアメリカのサブプライム・ローン(低所得者向けの住宅ローン)の破綻に端を発する世界的な信用不安に対応するためだそうだが、あまり感心しないことだ。
 
 なぜなら、世界のブルジョアたちは、自分たちの資本主義を“新自由主義”とか“市場万能主義”とか呼んでいるからだ。ブルジョアはこの観点から労働者のなかに自由競争を持ち込み、アルバイトやパートといった低賃金の不正規雇用を増加させ、労働者のなかの貧困層を拡大させてきた。
 
 また彼らは経済の公的部門を不生産的と断定して、民営化を推し進めるとともに、国家による経済活動に対する規制の撤廃を構造改革と称して美化してきた。
 
 「官から民へ」、これが彼らの合言葉であったし、それは現在でもそうだ。
 
 つまり、彼らはアダム・スミス流の“自由放任経済”政策に回帰することで、福祉といった不生産部門を切り捨て、老朽化した資本主義を立て直そうとしたのだが、それが単にうわべだけのものであることは、金融部門を見ればすぐに分かる。
 
 ここではすべての金融資本が国家におんぶにだっこの過保護の状態で、どこの国でも金融機関は国家によって二重三重に保護されている。この点では、現代の世界資本主義は国家資本主義(ブルジョアが言うところの社会主義)といってもよいぐらいだ。
 
 このブルジョアジーの間だけの社会主義によって、つまり金融を徹底的に国家保護のもとに置くことによって、または公的信用を拡大させることによって、信用不安が恐慌に転化することは防がれるかのような幻想は、いまでも健在である。
 
 しかし、現実の経済実態から乖離した、信用の膨張がその必然の論理によって収縮していくことを、公的信用の拡大によって支えようというのは、あまり賢明な試みではないし、このような公的信用の拡大は通貨の増大によるインフレという副作用を伴うのである。
 
 過去の日本経済(2000年から2005年)において、それはうまくいったという向きもあるかもしれないが、それはそれを可能にしたいくつもの特殊な条件があったということを忘れてはならない。
 
 その一つはいうまでもなく、当時の日本経済は本当に悪くて、産業活動が停滞していたために、日銀が銀行の預金準備高を引き上げても(銀行が自由に使える紙幣を増やしても)銀行は貸出先がなく、過去の不良債権の処理という後ろ向きの需要に消えていったので、現実の流通部面で通貨があふれて悪性のインフレになるということはなかったということである。
 
 二つ目は、当時日本資本主義が抱えていた過剰信用、過剰資本、過剰生産力は経済が回復するにしたがって、解消していった。つまり、信用の規模と実体経済の間のギャップは実体経済が急速に拡大することによって解消していったのである。
 
 もちろんこれをもたらしたのは中国の急激な資本主義化であり、この新たに出現した巨大な市場は日本の過剰工業商品、過剰資本を飲み込んでもあまりある市場であったし、資本主義中国で安い労働力を使って生産された諸商品が日本に輸出されることによって、日本の物価は低く抑えられていたのである。
 
 ところが現在の世界経済には、当時日本資本主義が持っていたこの二つの条件というものは存在しない。むしろ逆なのだ。世界の経済は過熱気味でインフレ傾向を含んでおり、世界の工業生産は飽和点に近づきつつある。
 
 われわれは、加熱から沈滞へと進もうとする世界経済のなかで、幾度かの調整局面を経て、世界資本主義の成長は徐々にスローダウンしていくというシナリオを考えていたが、今回、ECB(欧州中央銀行)がそういうシナリオすらたえられないという叫び声を上げたのを聞いて、もう一つのシナリオを考えなければならなくなった。
 
 われわれは少し前に、ヨーロッパ系のファンドはリスク管理が甘いし、確かな見通しも持っていないといったことがあるが、これは早い話、バクチが下手だということである。
 
 当然ながら、下手なばくち打ちはどこかで大損をくらって倒産することになるのだが、忘れてはならないのは、市場は下手なばくち打ちを市場から退席させることによって健全化するということである。
 
 これをあの人はバクチが下手だからとかわいそうだと、下手なばくち打ちが損した分だけ補填していたのでは、下手なばくち打ちの損失が大きくなるだけであり、またバクチの意味もなくなる。つまり、市場の健全性そのものが失われるのである。
 
 そして整理されるべきものがいつまでも市場から淘汰されずに残ることによって、過剰な信用を徐々に整理していくこともできなくなり、ひょとしたらそれはいつの日か一気に崩れるということになるかもしれない。つまり、世界的な規模での信用貨幣恐慌という、人類がもう何十年も忘れていた悪夢がよみがえってくるかもしれないのである。  

金利の動向と円高について

2007-08-04 21:05:55 | 経済
 アメリカの金利引き下げ、日本の金利引き上げ、円高について、ご意見をいただきましたので簡単にお答えします。
 
 最初に、金利と株の関係ですが、普通は反対に作用します。つまり金利が上がれば、株が下がり、金利が下がれば株が上がります。
 
 しかし、投機が加熱している時、すなわち、投機資金が株式市場に流入しているときには、株価は需給関係によって動かされることになりますから、株を買うから株価が上がり、株価が上がるから株が買われ、株価がさらに押し上げられるという好循環が見られます。(われわれは春頃だったと思いますが、アメリカ経済はこういう段階に入りつつあるという見方を示しました。)
 
 こういう時には、金利を上げてもすぐに株価が下がるということにはなりません。
 
 しかし、金利の上昇は、実体経済を冷やしますから、足下の実体経済の悪さにあるとき気がついて、株価が急落するということはあります。
 
 こういうときには市場が金利の引き下げを要求しているのですが、それに答えるかどうかは通貨当局が現在の経済の局面をどう読んでいるかでしょう。通貨当局が金利を高止まりさせなければならないと考えているとしたら、それはインフレの懸念があるからで、インフレ対策をとるか、景気対策をとるかの判断の問題でしょう。ですから、アメリカ連邦理事会がインフレ懸念が残っていると考えているとしたら、金利は引き下げられないかもしれません。
 
 次に、日本の金利ですが、これも基本的には、アメリカと同じです。日本の通貨当局もインフレ懸念があると考えているのなら、金利を引き上げるでしょうし、インフレよりも景気を重視すべきだと考えているのであれば、金利は引き下げられるでしょう。
 
 なお、金利の引き上げは、もちろん、経済活動にとって抑制的で、景気を冷やすことになります。
 
 金利引き上げがこのように経済活動にとって抑制的であるとするなら、上げなければいいという議論もありますが、景気がすでに過熱気味のところで、金利を低く押し下げたままでいると、大量の過剰流動性(遊休貨幣資本)が発生して、投機資金となったり、土地や諸商品の買い占めが行われたりして、いうところの“バブル経済”へと移行して行きます。
 
 1980年代後半の日本では、この“バブル経済”を長い間放置して、どんどん投機と買い占めの階段をのぼっていったので、最終的に、5階ぐらいから飛び降りなければならなくなり、日本資本主義は全治15年程度の複雑骨折を負いました。
 
 幸いなことに日本資本主義は90年代から始まった世界経済の好調に支えられて、かろうじて回復しましたが、今度同じことが起これば、おそらく回復不能の重体に陥るでしょう。
 
 ですから、階段を使って、一歩一歩おりていくのがいいに決まっています。
 
 最後に、こういった金利動向と円高の関係ですが、アメリカの金利引き下げ、または、日本の利上げ、またはその両方は、もちろん円高要因です。
 
 しかし、円高が景気の後退要因であるかは、どちらともいえない面があります。円高は輸出商品の価格を押し上げますが、他方では輸入商品の価格を押し下げます。ですから、日本が内需中心の経済発達をしていけば成長も可能でしょうし、かつての日本がそうであったように、極端な円高が進んでも、商品そのものに性能や品質の面で優越性が確保されていれば、輸出数量が減少するとは限りません。
 
 それに円高といっても、現在の日本の輸出企業は対米輸出に際しての円=ドルレートを114円に設定しているそうですから、1円=117円台になっても、まだ3円の“のりしろ”があります。(1円=115円を超えて円高が進むようになると、それは単なる調整の範囲を超えていますので、それはまた別の問題として考える必要があるでしょう)
 
 また、これは重要なことですが、円高を人為的に止めるには、通貨当局が“円売り”介入を行う必要がありますが、日本の通貨当局が円売り介入をおこなう環境は、現在のところありません。(介入には他国の通貨当局の協力、もしくは、最低でも黙認が必要ですが、残念ながら、そのような国際合意は存在していません。むしろ、逆の合意、つまり円高にふれても日本の通貨当局が介入しないという国際的な合意がなされているかもしれません。)
 
 

発想の転換が必要

2007-08-01 19:03:39 | 経済
 小泉の時代は終わった、超金融緩和の時代は終わった、円安の時代は終わったと、われわれは何度も言っているが、どうもまだよく理解されていない気がする。
 
 その最大の理由は、小泉世代(ロストジェネレーションとも呼ばれる25歳から35歳までの人々)のあいだで、円安固着(日本経済が繁栄するためには円安でなければならないという根拠のない妄想に深くとりつかれているために、そこから抜け出せない)が存在しているからであろう。
 
 今日も(8月1日)も昨日(7月31日)も日本の個人投資家たちは、無謀な円売りに走って、国際投機筋の格好の餌食となり、大きな損害を被っている。
 
 もちろん投資は自己責任であるから、日本の個人投資家がどうなろうとわれわれの関与するところではないし、円を売る人がいなければ国際投機筋が円を買うことはできず、円が買われなければ円が高くなることはないし、円が高くならなければ彼らは儲けることはできないのだから、日本の個人投資家たちは自らの損失でもって、円通貨の水準調整という国際社会の当面している課題に貢献しているとも言える。
 
 これは、日本の投機家たちが、グローバル経済のなかで、狡猾な“取引所狼(オオカミ)”や“市場鮫(サメ)”を向こうに回して、切った張ったの勝負ができるほどにはまだまだ成熟していないということなのかもしれない。(もっとも成熟しているということは必ずしもいいということでもないのだが。)
 
 また、われわれ赤星マルクス研究会もブルジョア社会の権威ある筋も、世界恐慌が今すぐ来る、などということはいっていない。しかし、同時に、世界経済は調整期に入りつつある(世界経済の潮流が変化し始めている時期)という認識は示している。
 
 われわれの認識はともかくとして、ブルジョア的権威は、この調整期は数ヶ月かかるというともいっている。ここで重要なのは「数ヶ月」という期間であろう。これが「数週間」であるなら、それは一時的な混乱ということであり、ある程度のジグザグを経てしだいにもとに戻るということであるが、「数ヶ月」という期間は、この傾向(世界的な株安とドル安)が一定期間続くということであり、その限りで経済の局面が変化しつつあるということを彼らも追認しているのである。
 
 新しい時代には新しい発想で、今求められているのはそのような柔軟な頭脳であろう。      

これでいいのかな?

2007-07-27 02:34:16 | 経済
 無風状態のなかで、急激な円高が進んでいる。
 
 参議院選挙直前で、政府も通貨当局も投資家もいろいろな政治的、経済的な思惑が絡み合って動きが取れない状況のなかで、あっという間に、1ドル=120円を割り込み、119円を割り込み、118円台に突入しようとしている。
 
 こういった動きはアメリカの株安と連動している。ヘッジファンドが米株安のリスクを回避するためにドルを売って、円を買っている。そして円買いを膨らませることによって円高に誘導して為替差益を稼ごうとしているのである。
 
 これに対して、われらの某新聞(この新聞社をわれわれはいつも頭ごなしに叱りとばしてばかりいますが、本当は、この新聞社の記者さんたちは、われわれよりも10倍か20倍ぐらい賢い人たちで構成されています)は、影響は「限定的」だと言い、「本来ならドルは売られないはずだ」とする市場参加者が大勢だと言っている。
 
 つねに資本主義のあるべき姿から出発しなければ気がすまない、われわれの“ご本家さま”(マルクス主義同志会)にわれわれ赤星マルクス研究会は、いつも、いくらものごとは、かくあるべし、といったところで、現実の進行がそうなっていない場合、そうはならない理由が必ずあるはずなのだから、それを探るべきなのだと、われわれが見ていないもの、見えていないものがあるはずなのだと、言ってきた。
 
 その点は、今週に入ってからのアメリカの株式市場と為替の動向も同じだ。
 
 アメリカの株式は、一回、二回の下落ではなく、傾向的に下落し始めており、その下げ幅も大きい、またアメリカ株の下落にともなって、円も急速に上昇し、その上昇ピッチも急速である。これはもう一つの新しいトレンドであり、価格の水準調整の局面に入っているのである。
 
 ここから二つの問題が出てくる。
 
 一つは、今日が金曜日であるということ。これが土曜日だったら、連休で選挙があって、その結果をふまえて新しい気持ちでということになるのだが、勝負に水が入る前に、悪い流れを引き継いだままもう一日を過ごさなければならないと言うこと。
 
 二つ目は、「『本来ならドルは売られないはずだ』とする市場参加者が大勢だ」ということは、日本の市場関係者の多くが、この価格の水準調整にまったく対応できていないということであり、簡単に言えば、売り抜けできなくてまだ安い円や米国株を抱え込んでいる人がかなりいるのではないかと言うことだ。
 
 最近では、FX(為替証拠金取引)のように、手持ちの金の10倍まで信用で売買できる制度が個人投資家まで巻き込んで盛況だから、そういう人たちのなかに「円売りドル買い」で勝負をかけている人がまだかなりいるとすれば、話はかなり難しくなる。
 
 とにかく、個々の経済指標に振り回される日々が続きそうなことは確かなようだ。
 

鉄の惑星?

2007-07-22 01:55:15 | 経済
 世界の粗鋼生産量が急速に伸びている。2007年上半期には6億トンを突破し、通年でも今年は13億トンを超す見込みであるという。
 
 粗鋼生産は98年から連続して高い伸びを示しているが、これはこの間の世界資本主義の爆発的な膨張の反映でもある。橋を、港を、道路を、鉄道を、ビルを、自動車を、パイプラインを、諸機械をつくる材料となる粗鋼の爆発的な膨張はそのまま全地球的規模での爆発的な産業の発展を反映している。
 
 こうして人類は、はじめて世界的な規模で、全地球的な規模で、閉ざされた農村世界に別れを告げて、文明生活を手に入れかけている。この進歩的な意義は計り知れないものがあるし、この比類のない発展が資本主義的な生産様式のもとで行われていることは、資本主義の歴史的な存在意義と存在理由を明確にしている。
 
 しかし同時に忘れてはならないことは、これらの粗鋼は商品として生産されており、貨幣と交換される(売れる)ことによってはじめて資本の循環は完成したということが言えるということである。商品のままの姿でカイコになってしまった粗鋼は商品体としては滅びるわけではないが、資本としては滅びることになる。(売れない粗鋼を大量に抱えている製鉄資本は倒産するほかない)
 
 もちろん資本主義が爆発的な発展を続けている限り、それは売れるだろうかという心配をする必要がない(需要が旺盛だから)が、この社会がもっている消費能力にはこの生産様式から生じる独特の制限(商品は売れなければならないという制限)がある。
 
 人類は果たして13億トンもの粗鋼を売り尽くす(貨幣に転化する)だけの経済力を身につけているのだろうか?
 
 その答えがいま出つつある。
 
 活況を呈して、設備増強につぐ、設備増強を続けている高炉メーカーを横目に、日本では大手電炉メーカーを中心に夏季減産を強化するのだという。これは建設鋼材の需要が伸び悩んでおりH鋼の販売が落ち込み始めているからである。
 
 またアメリカでも中国産のH鋼を不当安売りの科(とが)で懲罰的関税の対象にすることが決められており、平衡関税をかけて中国産H鋼をアメリカ市場から閉め出そうとしている。
 
 世界の一部地域(といってもアメリカと日本は世界資本主義の指導的な地位にあるのだが)で、一部の鉄製品ではじまった粗鋼商品の貨幣への転化の困難は、かげりを見せ始めている世界経済のなかで今後しだいに他の地域、他の鉄製品へと広がっていく可能性がある。
 
 そうなった場合、世界は非常にやっかいな問題を抱えることになる。
  

予想外の展開

2007-07-21 00:59:52 | 経済
 株価は、予想される利益の配分だから、つねに未来を見ている。だからわれわれもつねに関心を持って株価をウオッチしている。
 
 特に、今の時期は参議院選挙の直前だから、われわれは日本のブルジョア諸君がこの選挙結果をどう予測しているかに多いに関心があった。
 
 この点について言えば、残念ながら、現在の日本の株式市場は、政治の動向にあまり反応していない。つまり、日本のブルジョア諸君は、選挙結果に何も期待をしていないといってもいいだろう。もしくはすでに敗北を織り込んでいるといってもいいのかもしれない。
 
 そういう点では、株式市場が前回の郵政選挙で、小泉自民党の大勝を織り込んで、連日高値を更新していた頃とは、まるで違う展開になっている。
 
 それともう一つ、今週は、中越地震による自動車工場の閉鎖や原発事故、あの村上ファンドの村上に対する実刑判決といった日本資本主義の将来にとってあまりよろしくない事件も起きたが、そういう悪材料にも反応していない。
 
 日本の株式市場が唯一反応したのは、ダウが史上初めて1400ドル台を達成したこと。
 
 これは現在の株式市場の価格形成の中心が、外資系ファンドに移っているからで、特にヨーロッパ系のファンドは、怖いもの知らずというか、世間知らずというか、世界資本主義の将来にたいして何か大きな誤解をしているというか、バラ色の未来しか見ることができなくなっているというか、強気一辺倒で日本株を買い進めている。
 
 そういう点では、株式市場は日本の経済、政治の実態と乖離(かいり)して、投機性が強まっているともいえる。
 
 ところが終末のアメリカ市場では、ダウは100ドル下落したあとも、なお下げ続けている。これを書いている日本時間の0時30分頃にはマイナス145ドルである。(0時50分にはとうとうマイナス150ドルのラインも越えてしまった。)
 
 このままダウが大幅な下落で今日引けてしまったら、週明けの日本の株式市場は目もあてられないかもしれない。
 
 もちろんわれわれはこの社会(資本主義社会)に責任を持っているわけではないので、これ以上どうのこうのいうことは差し控えるが、現在の政府と政権党には、情勢に対する対応能力に大きな疑問符がつけられているだけに、この予想外の展開は政治・経済・社会の波乱の幕開けのような感じがしないでもない。  

インフレの後

2007-07-09 02:13:37 | 経済
 われわれがかすかなインフレの兆候を求めて、あちこちにおいをかぎ回っているのをいぶかっている方も見えるかもしれませんが、別にわれわれはインフレを恐れているわけではありません。

 現在の管理通貨制度のもとでは各国の通貨は不換紙幣であり、これは紙幣流通の法則によって支配されています。だから、インフレという現象が、基本的に、紙幣の流通量の増加によって引き起こされているものであるとするなら、流通している紙幣の量を減らしていけば、どんなインフレでもやがて終息していくことは間違いないからです。

 それにインフレの進行は、経済活動の基礎となっている価格水準の大幅な変動を継続的に伴いますので、それは再生産過程を惑乱させ、困難にし、部分的に不可能にします。ですから、これを放置していくということは政府にとっても、資本にとってもできないことなので、時期の早い遅いはあっても政府はインフレ対策に乗り出さざるをえません。

 本当の問題は、そのインフレが終息した後に起こってきます。

 つまり、現在の資本主義はマルクスが『資本論』で描いたような資本主義の循環(好況→恐慌→不況→好況)とは違って、好況が突然の恐慌によって終わりを告げるということはありません。これは信用制度発達と管理通貨制度によって経済のパニック(恐慌)を回避したり、繰り延べたり、緩和することが可能となったからです。しかし資本主義は循環そのものをなくすことには成功していません。

 ですから、現在の好況の終わりの風景は、昔とはだいぶ違ったものになっています。好況の終わりには、好況のなかで形成された過剰な生産力、過剰な資本をおおい隠すために信用が拡大されますので、資本市場(株式市場)や金融市場、商品市場が信用の拡大によって供給される潤沢な資金によって活況を呈し、あたかもわれわれの前に青空が広がったようになり、資本による生産がわれわれに永遠の繁栄を約束したかのようになります。

 しかしこういった信用の拡大はやがて、過大な紙幣の流通となって、それがインフレをもたらすようになると、舞台は急転回します。

 通貨当局がインフレを終息させるために金利を上げて市場の過剰紙幣を吸収しようとすると、信用は収縮し、信用の収縮とともに株式市場は下落し、金融、商品の投機も破綻しはじめ、経済活動は下降線をたどることになる。

 こうなると、今まで隠されていた過剰生産力、過剰資本、過剰債務が明るみに出て、経済はいつ終わるとも定かではない沈滞局面に移行していくという具合です。

 これは1990年に日本で起こったことですが、あの時はこのような現象は日本だけで起こったので、ある意味局地的な出来事で終わりました。

 ところが現在の資本主義はすでに世界資本主義として、世界各国の経済活動が有機的に結合している資本主義として、世界のヒト、モノ、カネが密接に結びついている世界資本主義として、世界的な好況を謳歌してきました。

 ですから、あの1990年に日本で起きたバブルの崩壊が、世界的な規模で起こる可能性があります。もちろんこれは単なる可能性の話ですが、われわれはこの可能性が現実に転化する確率は、次第に高くなっていると思います。  

しのびよるインフレ

2007-07-08 02:14:24 | 経済
 こういう書きはじめをしなければならないのは、現在、インフレの指標であるCPI(消費者物価指数)がなだらかな下降線をたどっているからだ。
 
 したがって現在の日本は消費者物価が安定しているからインフレではない、というのが一つの“定説”になっている。
 
 しかし、例えばポテトチップス一袋あたりの量を、ジャガイモの不作を理由に、2グラムから3グラム減量して、その価格を据え置いた場合、これは物価が変わらないということができるだろうか?
 
 たしかに、消費者物価指数の統計上では価格が据え置かれているので、物価は上昇したということにはならないのだが、ポテトチップスの実質的な価格は上昇したのであろう。
 
 そして、川下、すなわち、末端の個人消費商品の生産、販売者がこのようにあの手、この手で価格の上昇の歯止めをかけなければならないのは、個人消費の需要が弱いからにほかならない。つまり、個人消費の大部分を占める労働者の所得が伸びず、むしろ景気回復の過程を通じて労働者の実質賃金は低下し続けていた。だから景気が回復しても労働者が購買力を持っていないために、商品の価格を高くすれば需要が減退する、すなわち、商品が売れなくなるからである。
 
 安部自民党はこの現象を景気の回復が遅れているからと説明しているが、それはまったく正しくない。景気はすでに回復し、むしろ峠を越えて下降局面へ移ろうとしているのである。そうではなくて、今回の景気回復が、資本にとっての景気回復であり、労働者の生活、労働者の所得を犠牲にしての景気回復でしかなかったことを物語っているにすぎない。
 
 しかし、川下から上流にさかのぼってみると、そこでの景色は一変する。
 
 卸売物価に相当する企業物価は03年を底に上昇に転じ、6月に入って上げ足をはやめている。(00年=100、03年95、07年104)
 
 また、日経商品指数(17種)は06年1月時点では120を下回っていたが、これも上昇を続け、07年7月6日には149.136とすでに150の大台に乗せ目前である。
 
 そして、6月のマネタリーベースの増減率は下降であったが、7月に入ると増加に転じている。これは前に少し触れたがこれまで日銀は過去の異常な通貨膨張を精算するために、手持ちの短期国債を売って市場から貨幣を吸収していたために、マネタリーベースでの通貨供給量は前年比15%から20%のマイナスであったが、今週末にはマイナス5%と浮上寸前である。
 
 ここで注意しなければならないのはこの通貨の膨張は日銀による政策(買いオペや預金準備高の引き上げ)によるものではなく、“実需”すなわち、実体経済に応じて通貨供給量が増加しているのであり、景気の回復による需要の増大ではなく、商品の価格の上昇に対応している通貨の供給量増加であり、インフレはすでに川上ではじまっているものと見なければならないだろう。
 
 ここで実は大きな問題が生じている。つまり現在の状況は日銀に政策金利(公定歩合)を引き上げることを催促しており、日銀が“通貨の番人”を自認するなら、当然そうしなければならない局面なのだが、日銀にはそれができない大きな理由が二つある。
 
 ひとつはいうまでもなく、参議院選挙が接近しており、安部自民党は、「成長が実感できる社会を」とか何とかいうポスターを街々に張り巡らせているからだ、ここで成長を鈍化させるような金利の引き上げを行うことは、参議院選挙の結果に大きな影響を与えることになる。
 
 二つ目は、アメリカと中国の動向だ、両国とも金融、資本市場が不安定になり始めており、ここで日銀が先行的に利上げに踏み切れば、米・中両国との金利差が縮まり、世界的な規模で通貨、株式市場が変調をきたすことになるかもしれない。
 
 しかし、ここでインフレの芽を摘んでおかなければ、インフレは川下にまで波及して燃え上がる可能性を秘めている。
 
 日銀にとっては、悩ましい夏の夜が続きそうだ。

日銀資産百兆円割れ

2007-06-30 02:49:50 | 経済
 
 少し前のことになるが、今月の22日に日銀の総資産残高が百兆円を割り込んだという日銀発表があった。
 
 これは2001年4月に量的緩和政策が導入された直後に百兆円を超えて以来、6年ぶりだそうで、金融政策の面でも、小泉時代の終焉を告げるものになっている。
 
 小泉時代の特徴としては、緊縮財政を採用する一方で、ゼロ金利政策を実行して、金融は超緩和政策を採用していた。日銀は景気をてこ入れするために通貨供給量を増加させようとして、短期国債や、債権を買いまくって、市場に日銀券をあふれさせていたのだった。
 
 このため最盛時には、05年12月には日銀の資産残高は155兆円にまで膨れあがった。このような途方もない日銀信用の膨張がインフレにつながらなかったのは、景気がまだ回復過程であったので、その多くが銀行に滞留して、通貨としては機能せず、言葉の本当の意味で遊休貨幣資本として存在していたからだった。
 
 以来、日銀は徐々に金利を引き上げて、市場の遊休貨幣資本を回収して、ようやく小泉以前の状態へと引き戻したことになる。
 
 そこで問題となるのが、この百兆円の通貨規模は果たして妥当かどうかということである。
 
 小泉時代、つまり、日本資本主義の過剰生産力が、するどい信用不安として存在していた時代には、起こりうるかもしれない経済破綻に対処するために、市中に日銀券をあふれされることは日本資本主義にとって“必要悪”であったのかもしれないが、景気が回復した現在では、不換銀行券の規模は物価水準に影響を及ぼすことは間違いないであろう。