労働者のこだま(国内政治)

政治・経済問題を扱っています。筆者は主に横井邦彦です。

マルクス主義同志会はブントの“正統的”後継者

2010-06-28 01:29:10 | Weblog
 マルクス主義同志会の60年安保50周年集会が盛大に行われ、多数の人々が集会に参加し、マスコミにも注目され、ひがみ根性だけで生きている同志会の会長さまが久しぶりに気をよくしている。

 しかし、この集会である労働者が提起した問題にマルクス主義同志会は答えたのだろうか?

 彼が提起した問題は、マルクス主義同志会はブントに対して批判的だが、その批判的なブントにマルクス主義同志会が執着するのはなぜか、という問題であった。

 マルクス主義同志会はこの質問に答える変わりに、6月15日の集会にふれ、早稲田大学では60年安保闘争やブントについて語る資格のない連中(ある事象を語るのになぜ資格が必要か)が集会をやっている、東大では、六〇年安保闘争やブントとは全く無関係な連中が集会をやっている(マルクス主義同志会の集会には60年安保の関係者だけがあつまっているのか)等々と毒舌を述べた後で、「半世紀前に始まった、『社共に代わる』新しい社会主義・共産主義の新しい運動の担い手が、推進者が、正当な後継者が、つまり『嫡子』が、我々以外では決してない」と自分たちマルクス主義同志会がブントの正統な後継者であることを宣言する。

 しかし、そうはいってもマルクス主義同志会は、「この運動を指導したブントは、そうした正しい方向性を提示したものの、それを空文句に変えました。ブントは本質的に小ブルジョア急進主義であり、その後生まれてきた新左翼も含めて労働者はそれを美化することは出来ません。」ということはことを認めざるをえない。

 つまり、マルクス主義同志会は、「『社共に代わる』新しい社会主義・共産主義を」というブントの言葉が単なる空文句であったことを認めつつも、ブントの偉大な意義は空文句、つまり“たわごと”をほざいたことであるというのである。

 そしてマルクス主義同志会は、この立場について、「我々はブントを『止揚した』のである、つまり正しく総括し、それを徹底的かつ根底的に否定した」のであるという。

 しかし、止揚(肯定的なものを保存した否定)と「徹底的かつ根底的に否定」することは同じではない。前者は「否定の否定」であるのに対して、後者は単純な意味での「否定」である。

 ブントの運動は本質的に小ブルジョア急進主義であったことは事実である。彼らは安保闘争を果敢に闘い、そして崩壊した。一つの大きな闘争が山場を過ぎると途端に潮が引いたように活動家が消滅しするところに、この運動の小ブルジョア性が典型的に現れているが、わずかに残った部分はその後、新左翼となり、60年代後半の全共闘運動へとつながっていった。そしてここでもまったく同じことが起こった。実際、ブントの小ブルジョア急進主義は否定されたのではなく、「止揚された」だけなのだから、その本質は何も変わっていなかったのである。

 この廃墟の中から、われわれ(社労党)は出発したが、われわれもまた80年代に壁につきあたり、90年代に明確に退化を始めた。そして21世紀にはいるとマルクス主義同志会は公然とマルクス主義(この中にはレーニンの諸著作も含まれている)を否定して、日本の“ティー・パーティー”(保守的な“小さな政府”論者)にまでおちぶれている。

 こういう集団が、ブントの“正統的後継者”を自称するのは、ある意味で理にかなっているのだろう。

参議院選挙公示の日に その③

2010-06-25 03:28:45 | Weblog
 アフガニスタン駐留米軍のマクリスタル司令官が更迭された。

 オバマ政権は、努めて平静を装おうとし、マクリスタル司令官の更迭を彼の個人的問題としてあつかおうとしているが、アメリカ軍国主義(ミリタリズム)は朝鮮戦争時のマッカーサー更迭、ベトナム戦争時のマクナマラ国防長官の辞任のように、戦争がうまくいかなかった場合、その責任者を変えることによって、戦略の転換を図ってきた。

 1951年に、北朝鮮軍と「中国人民志願軍」の反抗が本格化し、再び戦線を押し戻すようになった。このような状況を打開することを目的に、マッカーサーは中華人民共和国領となった旧満州に対する空爆、さらには同国への核攻撃の必要性を主張した。

 しかしソ連との核戦争を恐れたトルーマン大統領は、マッカーサーを更迭することで朝鮮戦争を現状で固定し終息させる道を選んだ。

 1968年には、南ベトナム解放戦線の“テト攻勢”で、ベトナムにおけるアメリカの勝利はないと確信した国防長官のマクナマラはジョンソン大統領に北爆の停止とベトナム戦争の段階的な終息を進言したが、拒絶されたために辞任した。

 もちろん、戦争を止めようという人が辞めたのだから、ベトナム戦争はその後も続くことになるが、ベトナム戦争を牽引してきた人物が失意の中で辞めていったことでベトナム戦争は一つの分水嶺を越えたのだった。

 アフガニスタンのマクリスタル司令官はどちらかといえば、マッカーサータイプで今年の夏にカンダハルの総攻撃を強行しようとするマクリスタル司令官はいくつもの障害に遭遇していた。

 一つは、マクリスタル司令官がカンダハルの総攻撃に呼応するかたちで、カンダハルの兵站地になっているパキスタンの北ワジリスタン攻撃をするように説得、というよりも恫喝をしてきたがパキスタンはいまだに承諾していない。(パキスタン政府にとってワジリスタンの出兵はこの地の分離独立運動と隣接するイランを刺激するのでどうしても避けたい)

 二つ目は、アフガニスタンのカルザイがこの地を拠点としているため、この地の部族長の承諾なくカンダハルを攻撃することに反対していること。

 タリバンの拠点となっているカンダハルの攻撃をイラクの“ファルージャの戦い”のように徹底した焦土作戦として戦い、爆弾の雨を降らせて住民を老幼男女の区別なく皆殺しにすればアフガニスタンに平和が訪れると信じているマクリスタル司令官は、パキスタンやカルザイ政権の意向を無視してことを進めようとするが、そんなことをすればすべてがぶち壊しになることを知っているオバマ大統領はマクリスタル司令官を解任することでなんとか“アフガニスタンの危機”を乗りきろうというのだが、この場合、やはりアフガニスタンの戦争は一つの分水嶺をこえたと見るべきだろう。

参議院選挙公示の日に その②

2010-06-25 02:06:49 | Weblog
 これは非常に逆説的な話なのだが、今日、長期金利が急落(=国債価格が暴騰)した。

 参議院選挙で、自民党や民主党やその他の保守政党が財政危機を理由に消費税の引き上げを議論している時に、なぜ国債の価格が暴騰するのか?

 財政危機が現実のものとして存在しており、国債が過剰に発行されているとするのであれば、国債の引き受け手がいなくなり、長期金利は急騰(=国債価格の暴落)するはずであり、ギリシャや他のヨーロッパ諸国で今、実際に起こっていることである。

 ところが日本では逆のことが起こっている。

 これは日本の金融機関や外資系のヘッジファンドが日本の国債を買いまくっているからであり、長期金利が急落(=国債価格が暴騰)するにしたがって円が買われ、円高が進んだのである。

 世界経済の観点から見ると、この現象は、ヨーロッパやアメリカで経済活動の内容が悪くなっていることから、株や商品市場が不安定で、“リスク回避”として、遊休資本が金の先物市場や東京の債券市場へ流れ込んでいることから起こっている。

 日本が金と並んで、世界の投機筋から“リスク回避”先としてもてはやされているのは、日本が依然として世界最大の債権国であるからである。

 また日本の金融機関が国債を買いあさっているのは、有望な投資先がないからであり、国内で投資先が見あたらないのは、経済の先行きの不透明感が増大しているからである。

 したがって日本がヨーロッパやアメリカに比べてよりましであるというのは、単に比較の問題であり、相対的なものでしかない。

 しかし、相対的とはいえ、円高の進行と遊休貨幣資本の日本国債への集中は、今後、実体経済への悪影響となって現れざるをえないだろう。


参議院選挙公示の日に その①

2010-06-25 01:20:21 | Weblog
 参院選が公示された24日昼前、東京・新宿のJR新宿駅西口で、民主党の比例代表候補とたちあがれ日本の両陣営が同時に街頭演説し、一時騒然とした情況になったそうである。

 たちあがれ日本の応援演説をしていた石原慎太郎氏は「うるせえな、お前ら。どこの何人(なにじん)だ。」とマイクで絶叫したそうである。

 石原慎太郎氏によれば、今回の参議院選挙の争点は候補者が「どこの何人(なにじん※ふりがなをつけないと「なんにん」と読む人ばかりのようですのであえてふりがなをいれています)」であるかどうかだそうだが、それにしてもがらが悪い。

自己都合退職だって?

2010-06-24 02:34:45 | Weblog
 広島のマツダ工場で起きた“通り魔事件”で、マツダの労務担当者は、「マツダを首になったので、うらみをはらした」と述べてことに対して、「首(解雇)ではなく、自己都合による退職である」と言い放った。

 おそらく、このようなマツダ資本の態度が犯人を凶行に至らしめたのであろう。

 この不況下では、よほどのことがなければ、自己都合で退職する労働者はいない。

 しかし、世の中には、自己都合で退職した労働者であふれている。

 これは一体どういうことか?

 それは一流企業(ハッ、ハッ、ハッ)が世間体をおもんばかって、解雇(会社都合による退職)をしないからである。

 もちろんこのことは一流企業では、労働者の雇用が守られているということではない。逆だ。資本は自己都合で退職しなければならないように労働者を追い込んでいくのである。

 そして、資本に目をつけられた(リストラの対象にされた)労働者に対して、労働組合も、同じ職場の仲間も、見て見ぬふりをしている。

 こうして孤立無援の状態で、労働者は自己都合で退職せざるを得なくなるが、自己都合による退職は失業給付が一定期間もらえなかったり、失業給付が支払われる期間が短かったりして、生活が困窮する場合が多く、労働者が会社にうらみを抱くことが多い。

 もちろん、犯人がやったことは許せないが、犯人をそのようにした第一原因がマツダ資本にあることは忘れられてはならないであろう。

消費税は10%で足りるのか?

2010-06-23 01:40:50 | Weblog
 日本のブルジョアと菅内閣は消費税10%をすでに決まったものとして、その使い道に関心が移っている。

 ① 年々増加が予定される社会保障費に充てる。

 ② 財政赤字の解消に使う。

 ③ 地方に配分する。

 ④ 法人税減税の穴埋めに使う。

 ⑤ 成長戦略に使う。

 現実的な『日本経済新聞』氏は、財政再建のために消費税を上げるのだから、当然、社会保障を削減して社会保障費を削減した分を上積みするかたちで財政再建に使うべきだ、といっている。要するに、日本のブルジョアジーにとって労働者の生活などどうでもいい部類の話なのだから、消費税5%アップ・プラス・社会保障費の削減分・マイナス・法人税の減税分、というのは財政再建という政策目標には合致する。

 これにたいして、民主党は相変わらず算数さえできない。社会保障費の自然増加分・プラス・地方への財源委譲分・プラス・成長企業への先行投資分・プラス・法人税の減税分・プラス・基礎年金への税金投入・マイナス消費税の増加分ではどう見ても、マイナス(財政赤字の解消)にはならず、むしろ大幅なプラス(財政赤字の増加)にしかならないであろう。これをマイナス(財政赤字の解消)か少なくともゼロ(財政赤字の現状維持)に持っていくためには、唯一のマイナス項(税の増加分)である消費税を10%ではなく、20%か30%にしなければならないだろう。

 これと同様に、荒唐無稽なのは、「みんなの党」であろう。経済成長が年率4パーセントアップしていけば増税は必要ないというが、こういう議論は前提そのものが間違っている。それは現在の日本の租税体系が経済活動に見合ったかたちでなされていないという単純なことを忘れているからである。

 つまり、現在の日本の租税体系は儲けているところから税金を取らずに、貧乏人から消費税や所得税として税金をむしり取るという理不尽な体系によって成り立っているということを見ていないのである。

 だから経済が中国並みに10%成長を遂げようが、貧乏人の所得はそれにしたがって増えず、むしろ低下さえしているのだから、経済成長に対応するかたちで税収は増えないのである。

 税収が予算の半分程度しかないという現実は、税金をとるべきところからとらず、とれるところ(貧乏人)からふんだくっているという日本資本主義のもう一つの矛盾に突き当たるのである。


野火に火をつけた菅内閣

2010-06-22 01:23:34 | Weblog
 民主党の国会議員というのはどうしてこう知恵のない人ばかりそろっているのであろうか。

 不用意な発言で事態を混乱させることしか知らないということは、結局、何も考えてはいないという裏返しでしかない。

 事態の重大性にようやく気がついた菅内閣は早くも消費税増税の打ち消しに走ったが、すでに手遅れである。

 乾燥した枯野に放たれた炎は、急速に燃え広がっており、もう誰もこれを消すことはできない。日本に何十年ぶりに、熱い、熱い、政治の季節が訪れようとしている。

 労働者の老兵諸君、もうすぐもらえるかもしれない年金の計算ばかりしている場合じゃないぞ。遠くで戦闘開始を告げる砲声が聞こえる。好むと好まざるとに関わらずもうすぐ闘いがはじまる。

 われわれの最後のご奉公の場がやってきた。いざ、鎌倉へ。

くずれ始めているネット右翼

2010-06-21 02:08:48 | Weblog
 この場合の、「くずれる」というのは有機物の腐敗が進んで、原型が何だったのかすら判別できないほど、腐敗(分解)が進んでいる状態のことである。

 われわれに対して、「売国奴は日本から出て行け」といった人がいたが、日本のネット右翼の議論のほとんどがこういうたぐいの話に帰着しつつある。

 最近では、われわれのことを「特亜の工作員」ともいうらしいが、“特定アジア”というは、特に反日感情の高い中国、韓国、北朝鮮の3カ国を意味する呼称だそうだ。

 なぜ中国、韓国、北朝鮮が、アジアの中で“特定”(特に、それと断定すること)なのか?それはこれらの国が反日的だからというのは、まるでアジアが日本の所有物のような言い草なのだが、中国、韓国、北朝鮮の人々がなぜ日本を憎悪しているのか、身に覚えがないというのであるから、日本は盗っ人猛々しい恥知らずな国であるといわれても仕方があるまい。

 日本の民族主義は、先の侵略戦争の正当化から、さらに進んで“特亜”(特定アジア、つまり、中国、韓国、北朝鮮)の人々に対する憎悪を深める道を選択することによって、何者でもなくなりつつある。

 同じことは、もう一つの対立軸である“左翼”についてもいえる。何が“左翼”であって、何が“左翼”でないのかという概念規定そのものがないために、自分の気に入らないものはすべて“左翼”であるということになり、民主党や社民党の候補者に対して「あいつは赤軍派だ」、「こいつは中核派だ」、「あれは革マル派だ」という言葉が入り乱れている。

 そして、不思議なことに、そういう民主党や社民党の候補者は、同時に“特亜”でもあり、あれは韓国籍、あれは朝鮮籍、あれは中国系であるという話がまことしやかに語られている。

 少し前に、東京都知事の石原慎太郎氏はこういう話を真に受けて、公衆の面前でしゃべったために、恥をかいたが、それでも自民党の安部晋三氏や麻生太郎氏はこういう観点で参議院選挙を闘うのだそうである。

 安部氏や麻生氏の前職は何でしたか?というつもりはないし、やめた方がいいのではないかなどと、余計なことをいうつもりもない。

 むしろ、おもしろいからもっとやればいいじゃないか、というのがわれわれの立場である。

 もちろん、結果に対する責任は自己責任であることをお忘れなく。あとになってわれわれが余計なことを言うからこうなった、といわれてもわれわれは関知しませんので、あらかじめおことわりをしておきます。


階級闘争促進内閣

2010-06-20 04:08:42 | Weblog
 こういう言い方はあまりよろしくないのだろうが、民主党という政党はあまりクレバーな人が集まっている政党ではない。したがって、「小沢追放」によって自分たちがなしとげた政治的な変革、すなわち「国民が第一」の政党から、「財界が第一」の政党への民主党の転化がどういう結果をもたらすのかということをいまだ理解できていない。

 それは、彼らの多くが国会議員になったのが、1993年の細川内閣誕生前後であったことと無関係ではない。彼らは1980年代の後半から事実上始まっていた“社会主義の大空位時代”の直接的な産物であり、その“時代の申し子”たちであった。

 いうまでもなく“社会主義の大空位時代”は、世界的な規模での「スターリン主義」(それまでのすべての社会主義運動や共産主義運動は何らかの影響を受けていた)の破産の結果もたらされたものであった。

 この「スターリン主義」の破産は単に、政治、思想、文化面にとどまらず、労働運動にすらおよんでおり、日本の労働運動は沈滞を続け、労使紛争は激減した。

 したがって“社会主義の大空位時代”の“申し子”たちは、“階級闘争を知らない子どもたち”でもある。

 もちろん、「スターリン主義」が死滅したからといって、階級闘争がなくなるわけではない。資本主義社会である以上、労働者の搾取があり、資本家階級による労働者階級の支配があるという現実からは誰も逃れられない。

 だから、労働者階級の利益は資本家階級の利益とは異なったものであり続けており、労働者は「スターリン主義」に代わって、“非自民・非共産”(これは細川内閣のスローガンであった)の政治潮流に自分たちの利益代表者を見いだそうとした。

 しかし、この“社会主義の大空位時代”は終わった。後世の歴史家たちは、それは“リーマン・ショック”を契機に終わったというだろうが、実は、日本では小泉時代(2001年4月~2006年9月)の後期に、すでに“社会主義の大空位時代”はたそがれ時をむかえていたのであった。

 だから、われわれが「時告鳥」をひっさげて「時は来たれり、一つの時代が終わり、新しい時代が始まろうとしている。潮は満ちた、新しい時代へ向けて船出しよう」と飛び回っても、多くの人は違和感を感じなかったのである。(これは2004年のことである)

 現在では、ヨーロッパでも、アメリカでも、中国でも、南米でも、労働運動は息を吹き返し、全世界の労働者階級は長い眠りから覚めて新しい時代を切り開きつつある。

 こういう時に、民主党は“非自民・非共産”の看板を“親自民・非共産”に塗り替えたのだが、この民主党の方向転換は、“社会主義の大空位時代”に民主党を“社会主義”(スターリン主義)の代替物と錯覚して支持していた多くの労働者を覚醒させるうえで絶大な効果をもたらすであろう。


赤星マルクス研究会(革命派)参上

2010-06-19 01:37:15 | Weblog
 赤星マルクス研究会の“本隊”もできていないのに、われわれにはもう“左派”ができてしまった。

 われわれの“左派”はいうならば「戦争を内乱へ」派でもあるのだが、このスローガンが、かつての「戦争を内乱へ」派のような、火のないところに煙をたてるような話ではなくなりつつある日本の現状を考えると、このスローガンの意味を再度、確認しておくのは、戦後初の戦争遂行内閣となるかもしれない菅内閣のためにも必要であろう。

 もちろん、このスローガンの元祖はレーニンであり、ここでいう戦争というのは第一次世界大戦である。

 レーニンはいう

 「革命的階級は、反動的な戦争においては、自国政府の敗北を希望しないわけにはいかない。これは公理である」と。

 「この公理に異論をとなえているのは、社会排外主義者の意識的な味方か、さもなければ、そのどうしようもない下僕だけである」と続ける。

 レーニンは、社会排外主義者のどうしょうもない下僕の代表としてトロツキー(革命前トロツキーはメンシェヴィキだった)の主張を取り上げる。

 「ロシアの敗北を希望することは『社会愛国主義の政治的方法論にたいする、なんら必要のない、またなんら正当な理由のない譲歩であって、この社会愛国主義は、戦争と戦争を生みだした諸条件とに対する革命的闘争を、当面の条件のもとではきわめて勝手気ままなものである、もっとも少ない害をめざす活動とすりかえている。』」(このトロツキーの主張は修辞と大言壮語だけであり、ほかにはなにもない)

 このようにいうトロツキーに対してレーニンは、トロツキーはロシアの敗北を希望することとドイツの勝利を希望するということを混同しているのだといい、さらに「戦時に自国政府に対して革命的に行動するということは、疑いもなく、争う余地なく、たんに自国政府の敗北を希望することだけを意味するのではなく、さらに、実際にこのような敗北を促進することも意味する。」と反論する。

 そしてレーニンはここまで書いて、「『眼光紙背に徹する読者』(書物を読んで、字句を解釈するだけでなく、奥にある深い意味をも読み取ろうとする読者、要するに、深読みをしたがる読者)のためにいっておくが、このことは決して、『橋を爆破したり』、へたな軍事的なストライキを起こしたり、また一般に政府が革命家たちを敗北させるのを助けなければならないという意味ではない」といって、軽挙妄動をいさめている。

 レーニンがいうのは「戦時における革命は内乱であり、政府間の戦争を内乱へ転化させることは、一方では政府の軍事的失敗(敗北)によって容易にされるが、他方では、そのような転化をめざしながら、まさにそのことによって敗北を促進しないというのは、事実上不可能である。」ということである。

 反動的な戦争をやったり、それに荷担する政府を打倒せよ、という闘争が発展するということは事実上、戦争当事国が内乱状態になるということだが、「帝国主義戦争の内乱への転化は、革命を『つくりだす』ことができないのと同じように、『つくりだす』ことができるものではない。帝国主義戦争の多くの多様な現象、側面、特徴、特質、結果から成長してくるのである。しかも、このような成長は、自国の被支配者階級から打撃をくらわされる政府が、幾多の軍事的な失敗や敗北をこうむることなしには、不可能である。」ということである。

 レーニンはトロツキーが掲げた「勝利でもなく、敗北でもなく」というスローガンが、自国政府の敗北という観点を欠いているために、戦時における階級闘争を事実上否定しているといい、さらには、「これ(戦争を内乱へ転化させる政策)だけがヨーロッパ革命へ、社会主義の恒久平和へ導き、今日支配している惨禍、災厄、野蛮化、野獣化から人類をまぬがれさせるのである」という。

 もちろんこれはすでに戦争が始まっている時の話で、現在はまだ第二次朝鮮戦争は始まっていない。こういうときには別の闘い方とスローガンでなされなければならないことはいうまでもないことであろう。


 二度目の危機

2010-06-18 01:15:09 | Weblog
 現在、「労働者のこだま」のアクセスが急降下(角度からいえば落下といったほうがいいのかも知れない)中である。ゼロ地点までもう少しだ。

 資本主義的生産様式の完全な否定物としてのわれわれは、潜在的に、この社会に何らかのかたちで根を下ろしているあらゆる勢力の共通の敵たりうる。

 しかも敵は、いつものことながら、大手門からではなく搦め手(からめて=城の裏門、敵の背後、また、そこを攻める軍勢)から押し寄せている。

 そういう点では、われわれは70年後半から80年代前半の、“供託金闘争”の時代につぐ、第2の危機の時代へと向かいつつあるのだろう。

 前回の危機の時には、われわれの選挙闘争(1974年)→供託金引き上げ(1975年)→われわれの選挙闘争(1980年)→供託金引き上げ(1982年)というスパイラルの中で国政選挙の供託金は30万円から最後には600万円(政党が比例区から立候補するには10人分の6000万円必要である!)にまではねあがった。

 ビンボーなわれわれは、この“供託金闘争”に資金的について行けず、結局、選挙闘争を通じた党建設路線をあきらめなければならなかったが、それに代わる党建設の展望を生み出せず、社労党は解党した。

 そして、今回、われわれは、再度、陰湿な攻撃にさらされている。

 もちろん、われわれを攻撃しているのは日本資本主義の“総資本”である。一度ならずも、二度までも、“エネミー・オブ・ジャパン”に指定していただいてありがとうございます、とお礼を申し上げるべきなのだろうが、今回の出来事は、はからずも最近の政治クーデターの意味を再確認させてくれるものになっている。

 われわれは以前から、日本の総資本は危機的な状況に陥っている国家財政を立て直すために、増税政策に乗り出す必要性を感じているが、そのような政治を遂行するには強権的で、独裁的な国家制度の樹立が欠かせないと主張していた。

 したがって現在の“現実的な政治”(現実の支配階級である総資本を納得させられるような政治)は政界再編による“挙国一致内閣”であるが、どういうわけか、最近の“総資本”はあせっており、道を急いでいる。

 それで突拍子もない不意打ち攻撃にでて短期間に戦果をえようとしているのだが、拙攻によって得られる勝利は不十分で限定的な勝利でしかない。

 例えば、われわれは現在、不意打ちを食らって潰走中であるが、おそらく、われわれは生きのびるだろう。われわれの読者は以前の十分の一、百分の一になるかも知れないが、そういうことは問題ではない。

 われわれは何度もゼロ地点まで突き落とされ、そのたびに這い上がってきた。そういう敵と闘うにあたって、不十分な勝利でいいはずはないのだが、それでもあえてやっているところに日本資本主義の追いつめられた姿がある。(客観的に見れば、日本資本主義は経済的にそれほど追いつめられてはいないので、この場合、追いつめられているというのは国際関係の中で政治的にという意味であろう)

 そういう点では、現在の第二の危機(=総資本による赤星マルクス研究会掃討戦)の危機というのは、攻められる側の危機というよりも、攻める側の危機であるのかもしれない。それが第一次会戦(供託金引き上げ闘争)と違うことである。 

何か気楽な日本政府

2010-06-17 02:25:07 | Weblog
 朝鮮半島の雲行きがあやしくなるにしたがって、「集団的自衛権」とか「周辺事態」が問題になりつつある。

 これまでは朝鮮半島が有事(戦争状態のこと)の場合には、米軍は事前協議なしで、日本の基地から攻撃できることが密約として交わされていたが、岡田外相はその密約は廃棄されたと明言し、事前協議にはすみやかに応じるといっている。

 岡田外相はどうもよく分かっていないようなのだが、これまでなぜ事前協議なしが密約として存在していたのだろうか。

 それは日本の基地から米軍が直接出撃する可能性が最も高いのが朝鮮半島での紛争だからである。 

 しかし、これまで日米安保条約で規定された事前協議は一度もない。

 また朝鮮戦争の時、アメリカ軍は九州から出撃していったが、当時日本はアメリカの占領下にあった。

 ベトナム戦争の時もB52が嘉手納基地から出撃していったが、当時、沖縄はアメリカの占領統治下にあった。琉球の立法院は出撃の禁止を決議したがアメリカ軍はその決議を無視した。

 日本がサンフランシスコの講和条約で独立して以来、一度も事前協議が行われず、アメリカ軍の直接出撃をしたことがないという事実は重い。

 したがって「在日米軍基地を使って、朝鮮半島を爆撃して北朝鮮の人々を虐殺したいのですが」「どうぞ、どうぞ」ですむ話では決してないのである。


みっともない社・共対立

2010-06-17 01:43:55 | Weblog
 社民党が連立から離脱したとき、われわれは「社民党にもどるところはありや」といったが、案の定、共産党と共産党のまねごとをする社民党の間で醜悪な闘争が巻き起こっている。

 たしか「社民党にもどるところはありや」の最後は「もめごとはお断りだよ」で終わっていたはずだが、社民党も共産党もわれわれの話など聞く耳を持っていないから、そうならざるをえない。

 われわれがこのようなことをあえていったのは、こういう社・共のゴタゴタが労働者に与える悪影響を考えてのことだった。

 前に日本の“左翼”には、現実的な政治闘争を闘う意志も能力もないといったことがある。それはわれわれ以外のすべての左翼党派が政治闘争を、ヤクザの縄張り争いのようなものとしてしかとらえていないからである。したがって自分たち“縄張り”を守るための闘争は言葉の本当の意味で“仁義なき戦い”とならざるをえない。

 だから現在の社・共対立のもともとは、もっと大きな“縄張り”を求めて、自分たちの“縄張り”を捨て、民主党にすり寄っていった社民党が、鳩山に捨てられて、いくところがなくなったので何食わぬ顔でもとの“縄張り”に居座ろうとしたことに対して、共産党が「どのツラさげて帰ってきた」となじったことに端を発している。

 しかもその争いが、某報道番組をめぐる争い(普天間基地の移転問題を民主党の鳩山と社民党の福島の闘いとして描いた番組に対して共産党が“森の石松”を忘れているとかみついた問題)というのだから、始末が悪い。

 先の放送法の改正では、社民党と共産党が「表現の自由」を掲げて、放送に対して政治が介入することに反対したが、われわれは「不偏不党・公平」という観点から、小泉時代の栄華が忘れられず、過去の追憶にのみ生きている時代遅れの“極悪マスコミ”の淘汰を促進する(=弾圧する)“第三者機関”が必要ではないか、といった。

 ところが、どこでどうねじれてしまったのか、われわれが「表現の自由派」となり、社民党と共産党が「規制派」になってしまっている。

 結局、社民党も共産党も「報道の自由」を、報道を自分たちだけが自由に利用できる権利としてしか理解していないということではないのだろうか。

 参議院選挙を通じて、こういう低レベルの“仁義なき戦い”が各方面で繰り広げられることは、“日本の左翼運動”にとって大きな打撃となろう。

 われわれは民主党の右派が政権を獲得したことによって、労働者の政治闘争には大きな可能性が広がっているといったが、それは出発する前にもう大きな困難に直面している。   

「労働者のこだま」も“グーグル八分”だって

2010-06-15 02:05:42 | Weblog
 昨日までは、「労働者のこだま」をグーグルで検索すると4万5千件ぐらいあったが、今日は3万2千件程度に激減している。

 どういう仕組みか知らないが、検索エンジンから排除されることを“グーグル八分”というらしい。(もっとも現在の規制は「労働者のこだま」そのものを検索エンジンから排除するものではなく、例えば、「北朝鮮 ブログ」で検索すると、当然、われわれはこの間、北朝鮮問題について多くを書いていたので、少し前までは、それが検索結果に反映されていたのだが、今は何もヒットしない、という程度である。同じように「検察審査会」、「小沢一郎」、「朝日新聞 ブログ」でも何もヒットしなくなったことから、個別具体的なテーマから「労働者のこだま」に至る道はなくなったということらしい。)     

 インターネットの世界にも検閲と規制が静かに進んでいるのだろう。笑えるのは、こういったことが菅直人内閣が誕生して起こったこと。これはいかにもこの内閣の性格を表していそうだ。

 しかし、われわれはもう何十年もの間、ずっと一貫して、全世界の既存のあらゆる勢力から“村八分”(日本の村落の中で掟や秩序を破った者に対して課される消極的制裁【共同絶交】行為についての俗称)にされてきたので、いまさら“労働者のハチベー”といわれたところでどうということはないし、われわれの読者は真実を知るためには千里の道も遠しとはしない人々である(とわれわれは信じている)。

 むしろわれわれは、全世界の既存のあらゆる勢力のシャクのタネになり始めていること、彼らにとってわれわれが無視することができない存在になりつつあることを、喜ぶものである。

まるで他人事のように

2010-06-13 22:32:33 | Weblog
 「警告(けいこく)とは、コミュニケーション手段の一種で、相手にこれから起こりうること、あるいは行ってしまったことに対する結果を告げることである。」のだそうだが、どうも、北朝鮮と外部世界(特に、日本)ではうまくコミュニケーションがとれていないような気がする。

 北朝鮮は外部世界に、韓国がAという行為をとったから自分たちはBという行為をとると「布告」しているのに、外部世界(特に日本)は、北朝鮮は韓国がAという行為をとったら北朝鮮はBという行為をとると「警告」していると受けとめている。つまり、休戦ラインにスピーカーを設置しても、実際にそれを作動させ、いやがらせをしなければ北朝鮮が攻撃してくることはないであろうと受けとめている。

 しかし、現実には、北朝鮮は動員令を布告し、休戦ラインに特殊部隊を中心とした10万人程度の兵力を貼り付けており、韓国に休戦合意の破棄を通告している。

 北朝鮮軍部が、北朝鮮政府はじり貧であり、武力による朝鮮半島の統一は先に行けばいくほどむずかしくなっていく、だとすれば戦争を仕掛けるのは自分たちに体力が残っている今しかない、だからこれから戦争をやるのだといっているのに、実際に戦争が始まらないのは、戦争の正当性がまだ確保されていない(戦争の条件は成熟しているが、成熟しきっていない)と北朝鮮が考えているからであろう。北朝鮮の行為が侵略と非難されないためには、自分たちはがまんにががまんを重ねてきたが、世界がわれわれのいうことに耳を傾けないために、しかたなく開戦に踏み切ったという形式をとる必要がある。(したがってこういう危機が現実化するのは14日の安保理協議以降ということになる)

 北朝鮮の真意を知るにつれて、アメリカも韓国もここへ来て急速に口が重くなっているが、それに比例して日本の軽さがきわだち始めている。

 『日本経済新聞』によれば、「集団的自衛権の行使を含む支援を言明するだけでも抑止力は高まり、普天間で傷んだ日米関係も急速に改善する」のだそうだが、これから戦争をやろうじゃないかという相手に、「受けて立つ」ということは、戦争の抑止力どころか戦争を煽る危険な行為でしかないであろう。

 また日本政府が「集団的自衛権の行使を含む支援を言明する」ことが果たして「日米関係を急速に改善する」方策であろうか?

 これについて同紙は「日本国内での活動に人員提供する陸上自衛隊には不安がある。宮崎では牛豚を埋めるために自衛官たちが穴を掘る。口蹄疫(こうていえき)が全国に広がり、そこに周辺事態が起きたら・・・・陸自だけではなく、日本全体にとって悪夢である。」という。

 日本の軍隊(自衛隊)には二正面作戦はできないが、アメリカ軍ならできるというのはすでに過去の話である。今年の1月にアメリカの国防総省は、米軍の主要任務について、二つの大規模紛争に同時に対処する従来の「二正面作戦」から、対テロや大量兵器拡散防止に移すことを決定している。

 したがって、アフガニスタンとメキシコ湾の原油流出に手一杯のアメリカ軍にとって、朝鮮半島で新たな戦線を開くというのは、アメリカ軍だけではなく、アメリカ合衆国全体にとって悪夢でしかないのではないか。

 これが最近、先週、米韓の合同訓練が直前になって延期された理由であり、急速にアメリカの口が重くなってきた原因であろう。

 そして韓国もアメリカの全面的な支援が期待できないから腰砕けになり始めているのであろう。

 そういう時に『日本経済新聞』紙はいうのである。自分たちは実際の戦闘には参加できないが応援しますから、心おきなく戦ってください、と。

 むしろこれはこれまでの日本政府の混乱した北朝鮮政策の破綻以外の何ものでもないであろう。

 「国際社会の進めているのは、北朝鮮に対する制裁強化だが、追いつめられた北朝鮮が新たな挑発に出る危険なしとしない。

 この国の冒険主義に終止符を打つには体制の転換しかない、と多くの人が直感する。が、そのために軍事力を使った場合の犠牲を考えれば、当面は制裁を強化し、北朝鮮の変化を期待するしかない。」

 北朝鮮に対する制裁の強化が、北朝鮮を追いつめ、追いつめられた北朝鮮が新たな挑発に出る。この国の冒険主義に終止符を打つには体制の転換しかないだろうが、それが戦争という過程を付随するならば大きな犠牲が出る。

 こういうことが分かっていながら、なおも北朝鮮に対する制裁を強化して、『日本経済新聞』紙は一体何を北朝鮮政府に期待するのであろうか?

 制裁によって、北朝鮮を追いつめ、北朝鮮が暴発するのを待つことが日本政府の戦略であり、そのために日本政府の外交努力が積み重ねられてきた、とするなら、第二次朝鮮戦争は日本によって仕組まれたものであるということになりはしないか。

 こういう戦争誘発外交は戦前からの日本外交の特徴であった。

 一般的には、日本の中国侵略は1931年の満州事変から始まっているといわれているが、日本の外交政策はそれ以前から日本と中国の戦争を想定してたてられていた。

 つまり、当時の中国の国民党政府による帝国主義諸国の利権回復要求(この中には満鉄の中国への返還も含まれていた)に答えることができないと考えた日本の外務省は日中間の対立の緩和よりも激化、鮮明化させる政策を選択していた。

 現在の日本の北朝鮮政策は、この来るべき戦争を想定し、それに至る過程を促進するような外交政策がとられており、この過程にしたがってものごとは進んでいる。

 日本がこのような外交政策を継続し、これからも継続しようとするのは、いうまでもなく、日本にとって北朝鮮問題は他人事であり、例え、第二次朝鮮戦争が起こっても戦場は朝鮮半島であり、日本はアメリカ軍に日本の在日米軍基地からの出撃を容認するだけですむだろうと思っているからである。

 しかしこれは日本のブルジョアジーの独断であり、ものごとは必ずしもそのように進むとはかぎらないであろう。