労働者のこだま(国内政治)

政治・経済問題を扱っています。筆者は主に横井邦彦です。

日本はオリンピックに参加すべきではない (その2)

2010-02-22 01:20:45 | Weblog


 スポーツの論評はわれわれの仕事ではないし、このブログの趣旨にもあっているとは思えないが、現在の日本のスポーツは一つの病気にかかっており、ある意味それは日本の社会が抱え込み始めている病気でもあるようにも思われるのであえてふれることにした。

 どの世界にも、エベレストは存在する。我が師マルクスも「私についてこようとする人は高い山に登る決意がいる」といっていたような気がする。

 だからわれわれはマルクスを師と決めた時から、われわれのエベレスト山に登る決意はできていた。幸いなことに、マルクスは弟子想いな人であるため、われわれの行く手にはいたるところに師の立てた旗が目印代わりにかざしてあるの。したがって、われわれが道に迷うことはないし、われわれに必要なことは困難をいとわず前進する決意だけである。

 とはいえ、山というのは、どの山でもそうなのだが、高みに登るにしたがって、人間の生存条件の限界に直面させる。この限界に挑戦し、克服しようとする姿に人は感動するのだが、日本がやっていることやろうとしていることはこれとは全然ちがうことである。

 日本が登ろうとしている山は、山は山でも「ニイタカヤマ」であり、テレビや新聞を通じて連日、朝から晩まで「ニイタカヤマ ノボレ」が発信されている。

 皇国の興廃この一戦にあり、各人奮起せよということで、オリンピックの選手は“公人”(皇軍兵士)となり、“お国”のために死ぬことを要求される。

 “問題児”が出れば、戦前の治安維持法の逮捕者を出した家族のように、あるいはあるいは連合赤軍兵士を出した家族のように、“連隊長”(選手団長)が謝り、学校の校長が謝り、母親が謝り、父親が謝り、関係者があやまる。(今回は自殺者が出ないだけよかった)

 挙げ句の果てが、飛行機の操縦もろくに知らない若者を学校から引っ張り出して、神風特攻隊という名の自爆テロ部隊まで編成して、無謀な行動に駆り立てる。

 すでに日本の社会は、健全性を喪失して、国をあげて、破滅へ向かう準備を始めているかのようである。

 そういう破産国家がオリンピックに参加する意味はほとんどないであろう。

しばらくはお行儀よく

2010-02-17 01:16:01 | Weblog
どういうわけか、最近のマスコミ諸氏はわれわれに対して挑戦的です。

われわれがマスコミにケンカを売ってうるものは何もないし、むしろ“無実の第三者”に迷惑をかけるだけなので、しばらくの間はお行儀よくしようと思っています。

なお、北海道教祖の問題について、われわれは衆議院選挙の公示前に、すでに、日教組は今回の選挙で権力に目をつけられているから、気をつけて選挙に臨むように、不用意な行動を取って弾圧の口実を与えないように、警告していたはずです。


現在の検察権力と右翼反動派とバカマスコミは、まさに手負いのオオカミそのものであり、みさかいなく人を襲う可能性がある。

君子、危うきに近寄らず。


日本はオリンピックに出るな

2010-02-13 01:27:03 | Weblog

 マスコミは日本のあるスノーボードの選手の服装や態度がどうのこうの騒いでいる。

 どういうことか?

 マスコミによれば何でもオリンピック選手というのは日本を背負っている(どういう意味か?)のだから、サングラスをかけたり、チンピラのような服装をするのは問題だそうだ。

 しかし、オリンピックが国家のために行われるとするなら、そのようなものに税金を使うのはムダそのものだ。いっそ世界の民族主義者を無人島に集めて最後の一人になるまでお互いに殺し合いをやらせてそれを実況中継した方が(民族主義に頭をおかされているマスコミ諸氏は実況中継よりも競技に参加させたほうがいいのかも知れない)、これは愚かさだけが売り物のマスコミの趣味には合っているだろうし、それは民族主義者が絶滅するという意味において人類社会にとっては大きな利益となろう。

 スケートボードやスケボーから発達したスノーボードは、もともとはヤングのインフォーマルな(つまり、あまり歓迎されない)遊びから始まっているし、現在でもスケートボードは道路交通法の規制対象であるし(公道ではやっていけないことになっている=ブレーキがついていないから)学校でもスケートボードで階段の手すりを滑りおりれば処分の対象になるだろう。

 大人からやってはいけないと言われていることを朝から晩まで熱中するヤングたちの手によってこの競技は発展してきた(こういう一文のとくにならないことに熱中できるのは青年の特権であろうし、人類の文化も科学技術もスポーツも芸術もこういう青年のムダ骨によって発達してきたともいえる)だから、その美しさはどちらかといえばフォーマルなフィギュアスケートや体操とは違っている。

 子どもたちを統制し型にはめることだけに熱中している教育不毛国家日本では、子どもたちの自由の上にのみ花開くこの種の競技が世界的なレベルに達することなどありえなかったが、この選手が世界のトップレベルにあるということは、この人がこの競技の本質をよく知っているということだろう。

 それを服装がどうの、態度がどうのと騒ぎ立てるようでは結局何も分かっていないということでしかない。

 何も分かっていない教育不毛国家日本がオリンピックに参加する意味はいったい何であろうか?これこそ税金の無駄づかいそのものであろう。


怒りに身をまかせて

2010-02-08 02:40:30 | Weblog


 今ではすっかりブルジョア反動派(!)の“理論的”(ハッ、ハッ、ハッ)支柱へと落ちぶれてしまったマルクス主義同志会が、小沢一郎氏の起訴を検察が見送ったことを激怒している。

 彼らは最初に、これまで自分たちが検察にエールを送っていたことを忘れて、自分たちは検察にはもともと期待してはいなかったと強がりをいう。(そのわりには『海つばめ』の記事の全体に検察に裏切られたという思いが漂っている)

 もちろん、マルクス主義同志会がいうように、同じブルジョア的な権力機構として、検察と小沢の対立は相対的なものであり、相互の間で、妥協も取引も充分に可能である。

 今回の“司法取引”では、小沢免訴の代わりに検察が得たものは、検察首脳の地位の保全であり、検察人事の“自立性”であり、自白中心の捜査方法の継続の保証である。これが果たして、マルクス主義同志会が金科玉条としている“等価交換の法則”に合致しているかは定かではないが、小沢民主党と検察双方にとって利益のある取引にはちがいなかろう。

 もちろん、この検察と小沢民主党の“司法取引”によって損害を被ったのは、法の正義を愛する人々であり、保守反動派なのだが、マルクス主義同志会はどちらなのであろうか。次の『海つばめ』の記事を読んでいただきたい。

「裁判をやって『確実に』勝てないから起訴しない、などというのは弁解にもなっていない。『確実に』勝てるか、勝てないかといった基準で、庶民の犯罪を起訴したり、しなかったり、常日頃やっているというのか。庶民に対しては、もっとあいまいで、当て推量の、そして矮小な嫌疑の場合にも、いくらでも不当な逮捕や告訴を、思うがままに、高飛車にやっているではないか。小沢のような権力者なら、反対に、『いたれりつくせりの』配慮をするというのか、巨大犯罪も見逃すというのか。」

 ここでは法律に基づかない「不当な逮捕や告訴」を日常的に検察が日常的に行っているという、ある意味ではわれわれと同じ認識に立っている。ただ違うのはわれわれがこのような検察の態度はよろしくないから改めよといっているのに対して、マルクス主義同志会はこのような検察の態度を是(正しいもの)とし、さらには“庶民”に対するように“権力者”に対しても、“庶民”と同じ基準、すなわち法律に基づかない「不当な逮捕や告訴」を行うように進言しているのである。

 さらに、「裁判をやって『確実に』勝てないから起訴しない」(事実と証拠をもって犯罪を証明できなければ起訴しない)という態度についても、「裁判をやって勝てる見通しが立たない、などというのは検察の卑しいごまかしであり、虚偽であって、例えば、小沢がゼネコンから五千万円、あるいは一億円のカネを受け取ったということは、ゼネコン側の証言からもすでにはっきりしているのである」ともいう。

 ここではマルクス主義同志会は、共犯者の一方の自白があれば、共犯と目された他方の被疑者を有罪にできるという立場に立っている。(この立場は、ファシズム時代のドイツや戦前の日本軍国主義時代やスターリン時代のソ連の司法の立場であり、自白のみで有罪にすることはできないというブルジョア民主主義の立場と明らかに矛盾する)

 ここでは「法の正義」という観念は絶無であり、あるのはただただ小沢が憎たらしいという観念のみである。もちろんこういった観念はマルクス主義同志会が権力を喪失した保守反動派と共有している観念の一つである。

 その彼らが自分たちの味方だと思っていた検察に裏切られたと落胆する中で、今回の“司法取引”は鳩山政権と小沢民主党がより既存の権力と野合、癒着し、政府が小ブルジョア的幻想の政府から資本の政治委員会としての立場へと移行し始めていることを表している。

なつかしい“お名前”が・・・

2010-02-04 05:23:39 | Weblog
  『ワーカーズ』で久しぶりに安部文明氏が「個人的所有の再建」を書き始めている。

 この人、「安部文明」というよりも「安部晴明」(平安時代の有名な陰陽師[おんみょうじ])と名乗った方が分かりやすい、“あやし”の術を使う名人であり、同時に歴史の曲がり角には必ず顔を出して策動しなければ気がすまない人でもある。

 だから、社労党の大分裂時代には、とっくの昔に離党しているにもかかわらず、おっとり刀でかけつけて、反乱軍の伏兵として後方攪乱に務めていた人だ。

 前回は同じテーマ(「個人的所有の再建」論争)で、同じワーカーズの飛鷹昭二氏(この人はTAMO2氏と同じ職場で働いている人)と華々しい論戦を繰り広げたが、飛鷹氏は悔い改めないプロレタリア独裁派(要するに純粋スターリン主義者)であり、なおかつエンゲルスと同じようにこの言葉を、生産手段の社会化(国有化)と消費手段の私的所有というように理解していたので、論争の勝敗の帰趨はおのずと明らかであった。

 論争に敗北した傷心の飛鷹氏は、その後、同じ職場の“すばらしい友人”の影響もあって、過去の全部を“悔い改めて”、「社労党は個人的所有の再建が、生産手段の社会化のことだというが、なぜだ、分からん」という有名な言葉を残して、左翼運動そのものから脱落していった。

 確か、あの時、安部文明氏は、この言葉を「協同組合による生産」と理解していたはずなのだが、まあ、そういう細かいことは忘れるとしよう。

 むしろわれわれが注目しなければならないのは、安部文明氏が、マルクス主義の正統派として登場しようとしている点だ。

 ラスプーチンやゲオルギー・ガポン(ガポン神父の活動にはロシアの秘密警察オフラーナの資金が用いられていたと言われている)のような“あやし”の人々が登場しなければ、ロシア革命は始まらなかったのだから、「この人はいったい何の死臭をかぎつけているのだろうか?」などという難しい詮索はやめて、時代の先を読むことにたけている“あやし”の人の登場を率直に歓迎すべきであろう。 

よく考えてみたら

2010-02-02 02:06:21 | Weblog
 改めてこのブログをみるとこのブログには「労働者のこだま」(国内政治)とありました。

 しかしながら、現在の日本の政治は不思議なことに、誰かに魔法をかけられたように、深い眠りの中にあり、すべての政治党派が深い眠りの中で、それぞれのバラ色の夢を見ています。

 しかし、「みなさん、起きてください、寝ている場合じゃないですよ」というのがわれわれの仕事でしょうか?

 たしかに、われわれは、5年ほど前に、「時告鳥」(ときつげどり)を引っさげて、今や時いたれりと、ドラや太鼓を打ち鳴らして登場したが、それはあくまでも労働条件が劣悪化していた労働者のこれ以上の悪化を防止するためでした。そういう点では「時告鳥」は時代を先取り、そういう時代をもたらすという先駆的な役割をすでに果たし終えたと考えています。

 今回の場合は、あまりお付き合いのない「日本の政治諸党派」のみなさんですので、寝た子を起こして叱られたり、逆恨みされるのもなんですから、やはりこれはわれわれの仕事ではないと思います。

泥沼に足を踏み入れたアメリカ

2010-02-02 01:39:33 | Weblog
 オバマ大統領が1日議会に提出する予算教書でアメリカの財政赤字が、1兆6000億ドル(140兆円)にのぼることが明らかになりアメリカの財政赤字が予想以上に深刻なことが明らかになった。

 しかもこの予算の大きな部分を占めるのが、“戦費”という社会的空費であり、“戦費”の多くが、アフガニスタンでの戦争という勝利の見込みがない戦争の経費であるだけに事態は深刻だ。

 もちろん、純粋な“戦費”(戦争遂行のための費用)の他に、アメリカは突出した軍事力を抱えており、それを維持・更新するためにも莫大な国費を投入しなければならないということであれば、アメリカの財政赤字は、恒常的で、構造的なものと見ることができる。

 そしてこのような“社会的空費”を支払って、なおかつ、失業対策という名の産業救済策をほどこさなければならないとすれば、アメリカの財政赤字は天文的な規模にまで膨れあがらざるをえないだろう。

 オバマ大統領の政策の選択肢はますます狭められ、アメリカ経済は、戦争経済といった不健全な部分をいつまでも精算できないので、立ち直ることができなくなりつつある。

 もちろんアメリカ経済が悪化し続けて寝込んでしまったら、それこそ世界資本主義の一大事であろうが、そこまでいかなくてもオバマ大統領の前途には大きな困難が待ち受けていることはたしかなようだ。


いやな予感

2010-02-01 01:28:12 | Weblog
 中国で31日夜、日中両国の有識者による歴史共同研究の報告書の内容を報じていたNHKの海外放送が数十秒間、中断されたという。

中国共産党は、長征途上の1935年、毛沢東が党の指導権を握って以来、実権派の時代も、文化大革命期も、小平の時代も、一貫して小ブルジョア民族主義の党であったし、それは国家資本主義から自由資本主義に移行した現在においても変わらない。

 その民族主義の党が、現在、深刻な政治的なヒステリー状態に陥いろうとしている。

 中国資本主義は、すでに世界資本主義の中で、大きな地位を占めており、その影響力も大きくなり、国際社会(いわゆる欧米の帝国主義諸国)から、責任ある立場を求められているのだが、どうやら中国共産党にはその意志も能力もないようだ。

 もちろんわれわれは資本主義を存続させたいという立場には立っていないので、中国共産党に国際社会における責任ある立場というのは何かを説得するという立場ではない。(そもそも、尊大な彼らは、労働者であるわれわれの話には何一つ耳を傾けないだろう)

 しかしこの大事な時期(世界資本主義が不況からの脱出を求めてもがいている時)に世界経済の牽引役を担っている国が民族主義的・排外主義的なヒステリー状態に陥りつつあることは、人類史の未来を暗くする。

 実をいうと、1929年の世界大恐慌がいち早く抜け出したのはヒトラーのドイツだった。再軍備と大規模な公共事業で失業者はヒトラーが政権についた翌年には失業者は600万人から300万人に激減しており、1936年の国威をかけたベルリンオリンピックではドイツ資本主義は完全に復活した。

 しかし、第一次世界大戦の痛手から復活したドイツ資本主義は、むしろ民族主義と排外主義を深め、結果として、世界を第二次世界大戦へ導いていった。

 中国共産党がナチス党と同じように第三次世界大戦の導き役となるのかは、今の段階で結論を出すには早すぎるであろうが、少なくともその萌芽が見えはじめているのは確かなようだ。