労働者のこだま(国内政治)

政治・経済問題を扱っています。筆者は主に横井邦彦です。

東京湾に原子力空母

2005-10-29 19:32:07 | Weblog

東京湾に原子力空母  

 昔、『東京湾に原子力発電所を作れ』という人がいた。その人は原子力発電所が日本の片田舎にのみ建設されることを皮肉って、原子力発電所がそんなに安全であるというのであれば、東京湾に原子力発電所を建設してみよ、といったのであるが、その皮肉がどうも実現しそうである。  

  もうすぐ世界でも有数の人口密集地帯を原子力空母が徘徊するのである。

  もちろん原子力空母に搭載された原子炉が何らかの理由で損傷すれば、その被害は数十キロにも及び、東京湾とその沿岸部は人も魚も住めない場所となるであろう。  

  アメリカ政府と軍は安全であると主張するが、はっきりいって安全であるという科学的な根拠は何もない。要は、われらの同盟軍を信頼するかしないかである。  

  第二に、浦賀沖に空母が浮かんでいるというのと原子力空母が浮かんでいるというのでは軍事的プレゼンスの大きさがぜんぜん違う。  

  かつて1960年代後半に、空母エンタープライズの来日を契機に、日本のベトナム反戦運動が燃え上がったのは、エンタープライズというその名前の有名さゆえであった。誰でも名前を知っているエンプラがやってくるということだけで、石の1つも投げてやろうという連中が次から次へ佐世保に集まってきたのである。  

 そして人々は機動隊と学生の激闘を見て、いつのまにか学生の味方をするようになり、新左翼運動は一世を風靡(ふうび)するまでになっていった。  

  アメリカの原子力空母も戦略核ミサイルと並んでアメリカ軍の代表的な戦略兵器である。そういったものが東京湾に浮かんでいるだけで、人々はいやでもアメリカ帝国主義が行っているもろもろの侵略戦争を想起せざるをえない。  

  そういう点では、これはペルーの黒船来航のようなものである。  

  アメリカ人は大きな誤解をしているのだが、ペルー艦隊の来航で日本が開国したのは、日本人がその力に屈したからではない、幕府が弱腰だったからである。幕府関係者ではない人々はむしろ逆のことを考えていた。  

  ペルー艦隊の来航は、人々を覚醒させ、太平の世から、激動の世と、時の流れを一気に速めたのである。そしてこの中で変化する時代に対応する能力が欠落していた幕府は倒れた。  

  原子力空母の首都圏常駐も、ペリー艦隊の来航のように、日本の人々をいたく刺激し、時代の変化を加速する力を持っているかもしれない。 


アイスランドは世界を変える

2005-10-28 01:02:53 | Weblog

アイスランドは世界を変える  

 アイスランドの首都レイキャビクで10月24日に女性だけのゼネストが行われて5万人が参加した。  

  人口わずか30万人あまりの島国での5万人のスト参加者というのは特筆に値する。  

  ゼネストに参加した女性たちは女性の地位向上と差別の撤廃をスローガンとして掲げている。彼女らはアイスランドの女性の収入が男性の64.15%にすぎないことを告発して、更なる女性の社会参加と男女の実質的な平等を求めているのである。  

  このような女性だけのゼネストは1975年以来といわれるが、この70年代初頭の女性解放運動は60年代後半の“反体制運動”の結果としてあった。

  この頃日本でも女性解放運動が注目されていたが、これも学園紛争の“落とし子”のようなものであった。  

  バリケード封鎖中の青山高校ではなかったかと思うが、共同生活の中で、女子生徒だけが食事の用意をやらされていることに対して、女子生徒が「なぜ女性ばかりが食事の用意をしなければならないのか」と“反乱”を起こしたことが伝説のように伝えられている。  

  こういった事件は当時世界的な規模で起こっており、それは次第に女性解放運動として大きなうねりになっていった。  

  この運動が明らかにしたことは、確かに、日本や欧米諸国では憲法で男女の平等が定められているにもかかわらず、様々な障害があって実態はそれとはほど遠いという現実であった。  

  人類の半分は女性で男性と女性がともに支え合ってこそ平等な社会が生まれるのであるが、現実はそのようにはなっていないのである。  

  したがって当時の女性たちが女性の解放と男女の平等を求めたのはきわめて正当だが、この運動はやがて袋小路の中に迷い込んでしまう。  

  ジェンダー(性差別)であるとか、専業主婦の立場の擁護だとか、何をやっており、何を言っているのか、訳の分からないものになっていく。  

  黒人は黒人ゆえに差別されているのではない。アメリカ人ならば(アメリカ人でなくとも)誰だって皮膚の色の違いで人間は区別されないことぐらい分かっている。それでも黒人差別が一向になくならないのは、黒人を差別するという制度や習慣が支配階級(資本家階級)にとって有益であり、都合がいいから、それはいつまでも残っているのである。  

  したがって黒人差別と闘うということは、黒人差別を温存して、黒人を低賃金で劣悪な労働のもとにおいている現在の制度や支配体制と闘うということでもある。  

  今回のアイルランドの女性のゼネストはそういう女性解放運動の原点を思い起こさせてくれるということで、世界中の働く女性には大きな希望を抱かせる闘争である。    


バーナンキ登場

2005-10-27 01:15:21 | Weblog

バーナンキ登場  

  2005年は世界史的な規模での「リセットの年」であるというのはどうも当たっているようだ。  

  アメリカでは、これまでのグリンスパン議長が引退し、FRB(アメリカ連邦準備制度理事会)の新議長にバーナンキが指名された。  

  グリンスパンが現在の地位についたのは1987年の株価大暴落(ブラックマンデー)の直前であったから、グリンスパンはソ連、東欧の経済的崩壊とそれに続く、“新自由主義”の全盛期(この時代はアメリカ経済の全盛期でもあった)をほぼ生き抜いてきたことになる。  

  もちろん、グリンスパンのFRB議長としての手腕は、“新自由主義”=自由放任とはまったく正反対のもので、投機に対しては抑制的であり、現実の景気下降に対しては積極的な経済拡大論者であった。  

  1987年の「ブラックマンデー」の夜、グリンスパンはFRBは流動性(市場への資金供給)をいくらでも供給する用意がある、と言明し、その日の夜からそれは実施された。この短期資金の供与によって、株価の崩落が恐慌へいたる道をある程度ふせいだのは事実である。(もっともこの時はアメリカの実体経済自体が上昇期で世界恐慌の可能性は小さかったのだが。)  

 その一方で、グリンスパン自身が実業界(銀行業)出身であったから、市場の暴走に本能的な警戒感をもっており、「根拠なき熱狂」(96年12月)発言に見られるように、投機に対しては抑止的で、口先介入によって、つねに市場に警告を発し続けていた。  

  これに対して、バーナンキ新議長はハーバード大学出身の“学者さん”である。  

  もちろん学者が悪いというわけではないが、バーナンキの主な研究テーマは世界大恐慌期(1929年)の金融政策である。特に世界恐慌当時、各国が金本位制に拘泥されていたからよくなかった云々というのが持論で、マネタリストの中でも“どケチ派”(総需要抑制派)というよりケインズ主義に近い。むしろバーナンキはケインズ主義をケインズのように貨幣数量説から説いているだけである。だから、デフレファイターともいわれるのだが、早い話インフレ容認派というより推進派なのである。  

  バーナンキは2003年に来日したときにも、日銀に、高橋是清の積極財政やルーズベルトのニューディール政策を引き合いに出して、「インフレターゲット論」(インフレの目標値を決めてインフレ政策をとること)を提唱している。

  このようなバーナンキ新議長の登場を率直に喜んでいるのはウォール街で、バブルだ、根拠なき熱狂だ、等々とつねに自分たちの足を引っ張る小うるさい“ジイさま”に代わってデフレファイター(インフレ容認派)がリングに上がったことを歓迎してダウは一気に100ドル以上もあげた。  

  一方、ブッシュお気に入りのデフレファイター(積極的インフレ政策推進論者)がFRBの新議長になったことでアメリカの財政規律がゆるんで、当分の間大量の双子の赤字が垂れ流しにされることが確実視されていることから、アメリカの債券市場は国債の大量発行→長期金利の上昇を織り込みはじめている。  

  そして、バーナンキと竹中平蔵はなかなかいいコンビである。竹中が内閣改造後どのようなポストに就くかはまだ判然としていないが、現在の日本資本主義の事実上の舵取りが竹中平蔵であることには変わりがないのであろうから、これからは日米ともにデフレファイター(積極的インフレ政策推進論者)が経済の舵取りをすることになる。このことは、投機筋にとって喜ばしいことであるには違いないであろう。  

  グリンスパンは“山高ければ谷ふかし”という言葉の意味をよく知っていたから、あまり山が高くならないように絶えず心を配って、債券市場や株式市場に冷水をあびせ続けていたが、この二人ならばそういうことはまずありえない。  

  これからどういう経過をたどるのか、まだ見えてこないが、GDP第1位の国と第2位の国がこぞって積極的経済成長政策に転化したことで、世界経済は不安定要素が増大し、これからかなり波乱含みになっていく可能性が高いし、二人の危機管理能力についてはクェスチョンマークが二つも三つも付くことだけは指摘しておきたい。     


これ以上払えません!

2005-10-25 18:31:49 | Weblog

これ以上払えません!  

  現在の日本は二つの困難に目を背けたまま「改革」を推し進めようとしている。  

  一つは資本主義の矛盾であり、大企業が不況に陥るたびに政府は不況対策として莫大な公共投資を行い、国債を大量に発行して財政を悪化させてきた。  

  もう一つは急速に進む高齢社会である。この急速に進む高齢化社会の中で、旧来の社会保障制度や年金制度は、抜本的に見直されなければならなくなっているのに、政府はそのことから目をそらし続けている。  

  “建前”からするなら、社会保障制度は相互の助け合いであり、年金制度は若い世代が年老いた世代を扶養するものである。  

  ところが高齢化社会はこのバランスを壊す。助けが必要な世代が増え、助けなければならない世代が減少している。または、扶養されなければならない世代が増え、扶養しなければならない世代が減っていくのである。負担と給付のバランスはすでにくずれており、これから先、このアンバランスは年々拡大していくのである。  

  社会が社会主義社会のような共同社会であれば、このような世代間のアンバランスが多少あっても障害は克服可能であろうが、社会が貧しいものと富んだものにするどく分裂した社会ではどうしても現役世代の負担増は、現役世代のうちの貧しい者に一方的な負担が押しつけられることになる。  

  しかし、貧しい人はもともと貧しいのだから、貧しい人をさらに貧しくするような政策は社会正義に反するし、社会的にこれ以上零落したら生存できないという最低ラインも当然存在する。  

  したがって、政府(小泉自民党)が考えているような、社会保障費が増えれば税金を増やせばよかろう、定率減税は廃止だ、消費税は14%に引き上げる必要がある、というのは根本的に無理がある。  

  われわれははっきり言うが今の貧しい人々にはこのような負担には耐えられない。人々を救うはずの制度によって人々の生活が破壊されていくのは皮肉以上のものがある。  

  また現行の年金制度では月に20万円も30万円を年金を受給する者がいる。世代分布がピラミッド状であればこのような制度もある程度は目をつぶることができたが、現在のように頭でっかちの(高齢者の比重が大きい)状態では、扶養される者が扶養する者より多くの収入を得ているという現実は、扶養する者にはぜんぜん納得がいかないし、この給付水準を維持するために、もっと現役世代の負担を増やす必要がある、というのは社会的公正という観点からも許容できない。  

  年金の支給額の最高限度を高卒の初任給に設定し、それを超える年金については年金税をかけて吸収し年金財源や社会保障に回すというのであれば、それは一つの案であろう。扶養される者が扶養する者よりも多くの収入を得るというのは、そもそも年金制度の理念そのものに反している。  

  (お前は若いからそういうことをいうのだろうという向きもあるが、われわれももうすぐ年金を受給する世代である。だからいっているのである。そして、われわれは若い人々を生活の困難に突き落としてまで、年金がほしいとは絶対に思わないのである。このことだけは小泉純一郎にはっきりといっておく。)

  われわれが問題にしているのは、小泉自民党のやり方が、現在なおも存在するもろもろの社会的格差をそのままにして、社会的な負担を一律にかけて行うそのやり方なのである。例えば障害者自立法案では受益者負担なのだというが、一律1割といっても、月100万円の1割(10万円)と1万円の1割(1000円)では意味が全然違うであろう。これでは高額医療にかかっている人に死ねといっているのと同じではないか。  

  これは消費税でも同じである月収50万円の人から取る7万円と月収15万円の人から取る2万2500円は重みが違うであろう。こういう一律負担増加方式は、平等のように見えて、実は、社会的不公平の拡大にほかならないのである。  

  資本主義社会とはこんなもの、それが気に入らないというのであれば別の社会を目指せばいいというのであれば、人々は本当に別の社会を目指すであろう。  

  とにかく、社会保障には社会的公正が何よりも必要なのに、世代間の不公正や所得間の不公正をそのままにして現在の制度や社会を維持することはもうできない。必ずどこかで行き詰まるのは目に見えている。  


岐路に立つシリアのアサド政権

2005-10-24 00:10:28 | Weblog

岐路に立つシリアのアサド政権  

  レバノンのハリリ元首相の暗殺事件にアサド・シリア大統領の実弟やシリアの治安機関の最高責任者が関わっていたことが国連の独立調査委員会の報告書によって明らかにされている。  

  長い間、レバノンを実効支配していたシリアが自分たちの意にそわないハリリを暗殺したのはどうやら事実であるらしい。  

  そこで思い起こすのが、1928年に起きた関東軍参謀河本大作による張作霖爆殺事件である。当時の日本軍部は自分たちの意にそわない張作霖を列車ごと爆殺したのである。  

  昭和天皇が戦後当時をふり返って、“若気のいたり”であると自己批判したように、この事件をあいまいのまま終わらせれば、シリアのアサド政権は戦前の日本軍国主義と同じ末路を辿ることになる。

 (昭和天皇の自己批判は「満州は世界の片田舎だからここで何かやっても欧米諸国は見逃してくれると思った」という程度の、何を言っているのかさっぱり分からない自己批判でしかない。こんなくだらないいいわけなら何も言わないほうがよっぽどましだ。)  

  この事件は国連の安保理に付託され、大きな問題になるであろう。したがって国際社会はシリアに対して、これはあいまいのままでは終わらせることができない事件であると、はっきりとしたメッセージを送る必要がある。  

  また、アメリカはこの事件を利用して、シリアに対する軍事的侵略を目論んでいるが、これこそとんでもないことである。  

  アメリカはベトナム戦争末期、一向に進まないベトナム“平定計画”に業を煮やして、カンボジア、ラオスに侵攻してベトナム戦争をインドシナ戦争に拡大させた。もちろんこれによってベトナム戦争は終息にではなく、さらなる泥沼に入り込んでいっただけであるし、アメリカの敗北と不名誉な撤退を早めただけであった。  

  イラクのテロが終わらないのは、この戦争が侵略戦争であり、イラクの人々の大きな怒りと憎しみをかっているからである。テロを終息させる最善の方法はアメリカがイラクから無条件かつ即時に撤退することである。  

  ところがアメリカはイラクのテロをシリアが助長しているとして、シリア侵略の機会をうかがっている。しかしアメリカがシリアに軍事侵攻すれば、戦渦はレバノンにもおよびこの地域全体が不安定化する。またイランも次は自分たちではないかと疑い態度を硬化させるかもしれない。そうなれば中東全体が収拾のつかない緊張と戦乱に巻き込まれる可能性が出てくる。  

  ブッシュはアメリカ国民の過半数の人々が、民主主義のためにアメリカが他国と戦争することに反対であり、もっと多くの人がアメリカはイラクから撤退すべきであると考えている事実をもっと重く受け止めるべきである。


小泉自民党は朝鮮労働党なみ

2005-10-22 14:11:33 | Weblog
小泉自民党は朝鮮労働党なみ  

 小泉自民党は21日、先の衆議院で新党を結成した綿貫らを除名処分にするという決定を下した。  

 その理由として挙げられているのが、先の衆議院で自民党の公認候補と闘ったということである。  

 この例でいうなら亀井静香は除名にはならないはずである、なぜなら亀井の立候補した選挙区には自民党の候補者はいなかったからである。  

 そもそも郵政造反派は総選挙の時に離党届を出している。つまり、彼らは離党届を出した後で、離党後の自分たちの行動の責任を追及される形で除名になったのである。  

 これはムチャクチャな論理じゃないであろうか。彼らが離党届を出した後の行動が問題であるなら、それは離党届を受理しなかった者が悪いのであり、その者(武部幹事長)が責任をとるのが筋であろう。  

 さらに小泉純一郎がいっていることは、間が抜けている。彼は、戦国時代を引き合いに出して、戦国時代は云々と。  

 それではお伺いするが、現在の小泉自民党は“戦国時代”なのか、つまり、既存の秩序が崩壊し、むき出しの力だけが支配する社会であるのか。  

 おそらく小泉純一郎の頭の中はそうなっているのであろう。  

 自分に賛成しない者は謀反人であって、謀反人は許さない、それが戦国時代の“掟(おきて)”であろうといわれても、多くの国民は戦国時代に生きているわけではない。  

 特に小泉自民党は政権政党であろう。その政権政党の党首の頭の中身が、まるっきり戦国時代で、力の強い者が支配し、力の弱い者は服従あるのみであるというのであれば、それは政党内部の問題にとどまらない。   

 力の強い者が支配し、力の弱い者は服従あるのみ、というのは独裁政治そのものであろう。小泉純一郎は党内に対しては独裁政治だが、党外に対して民主政治であるなどという器用なことができるのか、そんな能力があるのか。

  われわれには小泉純一郎がとてもそんな器用な人間であるとは思えない。

 そうであるとすれば、先の靖国神社参拝を独断専行で行ったように、国民に対しても独断専行で自分の政策を強要することななりかねない。これは党内の独裁政治にとどまらず日本の政治全体が独裁政治になることであろう。

  これは日本の政治にとって重大な脅威である。    

進む円安、115円台へ

2005-10-20 01:03:00 | Weblog

進む円安、115円台へ  

  円が2年ぶりに1ドル=115円台に突入している 。  

  “物”の動き、つまり、貿易統計だけみていれば、日本は貿易黒字国で景気も回復しているので、通貨は円高に向かわなければならない。  

  ところが現在はそれとは逆に景気が回復すればするほど円安になっている。  

  この謎を解く鍵は所得収支にある。所得収支というのは外国債券の利子や外国の株式の配当のような利子収入の差額(日本が外国から受け取る利子収入と外国が日本から受け取る利子収入の差額)である。  

  この日本の所得収支は今年はじめて貿易黒字(現在6兆5000億円程度)を抜くといわれている。  

  これを見ると円安の原因は一目瞭然である。  

 つまり、現在、日本の金利はほぼゼロであるのに、アメリカの金利は5%程度と金利差が開いているので日本の投資家や機関投資家(金融機関)が大挙して米国の債券を買っているのである。  

  それで9月末の外貨建て純資産は17兆6000億円あまりと、去年の1.5倍あまりになっている。  

  この他にも日本国内の株や債券の投資残高が35兆円あまりと、景気の回復にともなって、日本の金余り現象が顕著になってきている。  

  もちろん、この余っている金というのは、単なる貨幣ではなく、遊休貨幣資本という利子や利潤を生むように宿命づけられている貨幣資本であり、それが儲け先を探して右往左往しているのが現在の日本の姿といえる。  

  しかし、日本の株もアメリカの債券も必ずしも安全というわけではない。  

  アメリカの金利が現在上昇しているのはインフレ懸念があるからで、これが実際にインフレに火がついて、景気が下降に転ずれば、ドル暴落→為替差損による投信の原価割れというシナリオがないわけではない。  

  現在、ダウ平均はじりじりと値を下げ、一部では1万ドルの大台割れもあるのではという声もささやかれている。これもアメリカの自信のなさの表れであろう。  

  日本でも、こういうアメリカの自信喪失の影響を受けて、日経平均は一進一退となりつつある。  

  もちろんこれはアメリカだけが原因というわけではなく、日本の投機筋も株は投機だ、投機こそ資本主義の正義だ、という確固たる信念を持ってやっているのではなく、ヘンな屁理屈をつけて投機をやろうとしているから腰が引けている。  

  例えば、現在日本で一番有名な投資ファンドである村上ファンドは阪神電鉄の株価を投機によって引き上げることに成功しながら、みすみす高値で売り抜けるチャンスを逃している。安く買って高く売るのが投資ファンドの仕事なのだから村上はそうすべきだったのだろうが、彼は自分が投機家と見られることを嫌ってそうはしなかった。  

  しばらく保有して、大株主として経営に“ご提案”申し上げ、企業価値を高める(株価を上げる)のだそうだが、大株主と経営陣が係争しているというよりも、大株主が総会屋なみに企業を引っかき回している会社の株など誰が買うと思うのか、阪神電鉄の株価の動き(現在急落中だ)は何よりも雄弁に村上の行為自体が阪神電鉄の企業価値を下げていることを物語っており、これは他人の資本を預かって運用しているファンドにとって顧客への背信行為そのものなのではないのだろうか。  

  ともかく、赤信号みんなでわたれば怖くない、いけいけドンドン、という雰囲気がないのは、日本経済がまだ病み上がりの状態で足場がそんなに固くないことを物語っている。  


小泉暗愚宰相が靖国公式参拝

2005-10-17 15:30:26 | Weblog

小泉暗愚宰相が靖国公式参拝  

  ※ 暗愚=あんぐ:道理に暗く愚(おろ)かなこと  

  数は少ないが、世の中には「迷惑だからやめろ」というと、クソ意地になって迷惑行為を繰り返すバカ者がいる。  

  年が若ければ、「ワレ、ええ根性しとるやんけ」と言われることもあるかもしれないが、それが60歳を過ぎたジイさまで、しかも一国の首相だというのであるから、お笑いだ。  

  もちろんこの「お笑い」というの、小泉暗愚宰相が日本の笑い者という意味ではなく、日本が世界の笑い者という意味だ。  

  家臣が、手を変え、品を変え、諫(いさ)めているにもかかわらず、殿様の「悪所通い」が止められないとすれば、藩の責任であり、藩そのものを取りつぶしてしまえという幕府のお達しが、そのうちあるかもしれない。   

  そして、「かくすれば、かくなるものと知りつつも、止むに止まれぬ、大和魂」(吉田松陰)という歌は、広く世界に知識を求めるために、命の危険を賭してペリーの黒船に乗り込み、逮捕投獄され、処刑となった青年の歌ではなく、中国大陸に侵略すれば、戦渦は際限もなく広がり、戦渦が広がれば欧米諸国の利害を損ねて欧米諸国と戦争となり、欧米諸国と戦争になれば日本は敗北しなければならないということが分かっていながら、何の事態の打開策も打ち出せず、その通りの道を歩んで、戦犯として極東軍事裁判の被告席に立った暗愚宰相東条英機の心境そのものであろう。  

  小泉純一郎よ、君も東条英機と同じく、世界の人々の“裁きの場”に引き立てられなければならない。  


連続リンチ殺人事件判決の憂鬱(ゆううつ)

2005-10-16 00:54:58 | Weblog

連続リンチ殺人事件判決の憂鬱(ゆううつ)

   14日に名古屋高裁で行われた、4人が殺害された連続リンチ殺人事件の控訴審判決を聞いて以来、気分がよくない。

   われわれは死刑廃止論者ではない(もちろん声高に、『もっと死刑を!』と叫ぶ死刑推進論者でもない)のだが、3人の被告人の全員に死刑判決が下されたのを聞いて、心穏やかではいられない。

   しかも、判決文を読んでも、なぜ3人とも死刑にならなければならないのか、分からないのである。  

  特に、被告人Cは、①犯行当時未成年であった。②被告人Aおよび被告人Bに比べて、従属的な立場にあった。③犯行後、自分の犯行に後悔し、反省している、等々を見れば、死刑という判決はどこからも出てこないような気がする。  

  裁判官が、それでも被告人を皆殺しにしなければならない、と判断した理由として、挙げたのは、①結果の重大性、②遺族や被害者の処罰感情の厳しさ、③社会に与えた深刻な影響、であるが、②の「遺族や被害者の処罰感情の厳しさ」がなければこういう判決はなかったと思われるだけに、われわれはこの点を問題にせざるをえない。  

  そして、遺族や被害者の心情を重くみるというのは、この判決を下した裁判官だけではなく、現在の司法界の一つの潮流である。  

  だから、小泉自民党の改正「日本国憲法案」でも、「個人の尊厳」の項に「被害者の尊厳を守る」云々の言葉を入れようとしており、この問題自体が一つの政治問題となりつつある。  

  この小泉自民党の「改正日本国憲法」が施行された場合、刑事裁判では判決を下すうえで「遺族や被害者」の意向が重要なポイントになる。  

  もちろん、われわれにも愛すべき家族がいる、その家族が不当な暴力によって殺害された場合、われわれは殺した人間を絶対に許さないだろうし、裁判所で意見を求められたら、顔も見たくないから、死刑にしてくれ、というだろう。  

 そして、裁判所が、このような家族の意見を最重要視して判決を下す、というのであれば、殺人事件には死刑判決しか、事実上なくなってしまう。  

 目には目を、歯には歯を、死には死を、の社会の到来である。裁判所は「国立忠臣蔵劇場」となり、毎回、演題を変えて、「仇討ち(あだうち)」劇を講演する。  

  いっそ、刑事裁判制度を廃止して、民間の「リンチ代行業者」に業務を委託して、「リンチ代行」の現場を入場料を取って人に見せれば、それこそ「安上がりの政府」ともなろう。  

  しかし、殺された人の数だけ、国家もしくは「リンチ代行業者」が殺人を行う社会というのは、理性を失った狂気の世界ではないのだろうか。    


国連組織犯罪防止条約と共謀罪

2005-10-13 20:28:46 | Weblog

国連組織犯罪防止条約と共謀罪

  天下の悪法“共謀罪”が3度目の国会に上程されて、今回はどうも国会を通過しそうである。

   このような法案が出てきたのは、2000年の国連条約に由来しているといわれている。

   この国連条約では批准国に「組織的な犯罪者集団への参加の犯罪化」(第5条)、すなわち、犯罪者集団に参加するという個人の行動そのものを犯罪として処罰せよ、と求めているものである。  

  また同条約では、20条で、  

  「締結国は、自国の国内法制の基本原則によって認められる場合には、組織犯罪と効果的に戦うために、自国の権限のある当局による自国領域内における監視付移転及び適当と認める場合には電子的その他の形態の監視、潜入して行う捜査方法の利用ができるように、可能な範囲内で、かつ、自国の国内法による定められた条件の下で、必要な措置をとる。」

  というように、「監視付移転」(警官が付き添って第三国に追放する)、「電子的監視」(盗聴、盗撮、のこと)、潜入捜査(おとり捜査)という特別な捜査方法を採用するように求めている。  

  政府はこの国連条約を根拠に「共謀罪」の新設をもくろんでいるのだが、この国連条約の第4条では「主権の保護」がうたわれており、条約自体が国家主権の優越性を認めており、この条約が主権を制限するものではないことを認めている。すなわち、この条約の批准国家に何らかの法律を制定したり、既存の法律を廃棄することを強要するものではないのである。  

  だから第20条でも、「自国の国内法制の基本原則によって認められる場合には」とか 「自国の国内法による定められた条件の下で」という限定つきの記述になっており、政府がこの国連条約の存在をもとに、「自国の国内法制の基本原則」を変更しなければならないと主張していること自体が根拠がない。  

  2000年に国連でこのような条約が締結されたのは、南米の麻薬組織や東南アジアの人身売買といった発展途上国の貧困と結びついた特殊な犯罪者集団の形成で、彼らの多くは麻薬や“人間”を欧米諸国に売ることによって利益を稼いでいた。欧米諸国はこれらの“犯罪の輸出”に対して、人権を無視して犯罪者集団を一網打尽にするように発展途上国に要求したもので、それ自体欧米諸国の開発途上国に対する横暴といえるものだった。  

  01年にアメリカに起きた同時多発テロ以降、この国連条約はその性格を大きく変えていく。現在ではアメリカにとって犯罪者集団というのはイスラム原理主義者のことであり、自国のイスラム教徒を準犯罪者集団として監視を強化して、アルカイダ系の非合法組織に関わった者に、そのこと自体(アルカイダ系の組織に参加すること自体)の罪に問うという姿勢に転化している。  

  ブッシュは盛んにアルカイダのことを、犯罪者集団と呼ぶ一方で、彼らはイスラム国家の建設を目論んでいると非難するが、「イスラム国家の建設」という明確な政治目的を持った集団は犯罪者集団などではなく、政治集団であろう。  

  こういう論理のすり替え自体がアメリカの民主主義に大きな腐敗と解体の危機をもたらしている。  

 その一つはいうまでもなく、アメリカのイラクやアフガニスタンへの侵略戦争の結果として生じた、“拘束者たち”である。彼ら(その多くはイスラム原理主義者であるが)は捕虜でもなく(アメリカは「テロリストへの宣戦布告」をしながら、アルカイダを交戦相手と認めていない)、犯罪者でもない(その身柄は何らかの犯罪の結果ではなく戦闘の結果獲得されている)、したがってジュネーブ条約もアメリカ国内法も適用されないという中途半端な状態に置かれ、正当な裁判も受けられず、国際的な監視もなく、その拘束期限も明示されず、不当にアメリカ当局に拘束され続けている。  

 アメリカのブッシュがやっていることは金正日による日本人拉致と同様な国家権力による不当な人身の拘束であり、国家による犯罪行為そのものであろう。  

 また、欧米諸国ではイスラム教徒全体を“アルカイダ予備軍”として治安当局の監視の対象におき、逮捕状なしの身柄拘束や、何らかの犯罪を“共謀”したという罪で逮捕しているが、このようなこと自体、民主主義の自殺行為なのであって、イスラム教徒の人権を守ることができない政府が、キリスト教徒の人権を守れないことほど自明なことはないのである。  

  この点でも、日本政府が欧米諸国に足並みをそろえなければならないという見解には何の道理もないのである。  

  そして、日本政府がこの国連条約の5条を根拠に“共謀罪”を新設することの意味自体が明確ではない。  

  国連条約がいっていることは、日本でいえば、暴力団の構成員になること自体を犯罪とせよ、暴力団の構成員となるという個人の行為そのものを罪に問え、という具体的な提案なのであって、国連条約を尊重するという立場からは、「指定暴力団非合法化案」もしくは「指定暴力団加入罪」という法案の新設こそ、その趣旨にあっているのである。  

  では、なぜ「指定暴力団非合法化案」ではなく、「共謀罪」なのか。   それは政府自体がある団体を犯罪者集団と規定して、その団体に加入すること自体を罪に問うのは憲法でいう「結社の自由」に抵触するということを知っているからである。  

  そこで、もっと後退して、犯罪者集団に参加するだけではなく、その中で何らかの犯罪を謀議(相談)するということを罪に問おうというのである。  

  しかし、そうすることによって「犯罪者集団」という概念自体があいまいとなり、謀議(話し合い)という犯罪行為の実体のない“行為”が犯罪とされてしまうために市民団体から激しい批判を浴びた。  

  そこで3回目の今回は、もっと後退して、謀議だけではダメだ。謀議した計画に具体性が必要で、役割分担なり、スケジュールを書いたメモのようなものがなければ摘発できない。(自民党法務部会長・平沢勝栄)謀議だけではなく、計画の着手がなければならない。(公明党・冬柴)等々と言い出している。

   こうなってくるとこれはもう未遂犯であろう。  

   国連条約、第5条では、未遂、既遂犯と区別して、組織犯罪に参加する個人の行為を犯罪化せよ、といっているのである。  

  日本政府案のように、共謀罪と未遂罪を融合させて、未遂罪を共謀罪というのであれば、他の問題が出てくる。  

  それは同じ人を殺そうとして逮捕された容疑者でも、一方は未遂犯に問われ、他方は共謀罪に問われるということが現実に起こってくるからである。

  かつて尊属殺人が憲法違反であったように、未遂犯を共謀犯として処罰するというのであれば、同じ行為に対して、人によって異なった刑罰が科せられることになり、明らかに憲法違反の状態が生まれる。  

  そもそも国連条約第5条をアレンジして日本に移植しようということ自体が荒唐無稽で無理なのである。小泉自民党は無理を承知で、形だけ整えようとしているから、法案がますます訳の分からないものになっていくのであり、意味も意義も不明な法案が罰則を伴う法律として、国民に押しつけられるのであれば、さらに多くの混乱と法案の犠牲者が現実に出てくる。  

  小泉純一郎はそのすべての結果に対して責任を負わなければならない。  


片山さつきの国会質問

2005-10-09 13:35:23 | Weblog
片山さつきの国会質疑 

 国会で聞き捨てにできない質疑応答が行われている。

 ことの発端は、片山さつきが民主党案では郵便事業が赤字になれば税金を投入することになっていることにかみついたことから始まる。

 これについては民主党の永田が、「ラブレターを出すのに200円も300円も取るのはおかしいでしょう」と茶化して言ったのに対して、片山さつきは「ラブレターのために税金を投入するとは、大変若々しいお考えでございました。」と意味不明の応答をしている。

 新聞には「・・・と(片山さつきが)冷笑を浴びせた。」となっているが、そういうことなのか?

  片山さつきにとって、したがって、自民党にとって、ラブレターのために税金を投入することは笑い事なのか?  

 だとすれば、われわれは議論を最初からやり直さなければならない。
 われわれは前に郵便事業は民営でも国営でもいいといったが、それは「世界中のどこからでも、世界中のどこへでもという『万国郵便条約』の理念が担保されている」という前提がつけられていた。

 その理念というのは、たとえば、北海道の山の中に住む7歳のナツが、ブラジルの奥地に住むハルに手紙を出すことができ、それが届くようなものでなければならないというものなのである。  

 この場合、配達のための必要経費を考えたら、1万円か2万円は確実にかかるであろう。だからといって、利用者である7歳のナツに、1万円か2万円の負担を求めたら、ナツは経済力がないのだから、ブラジルのハルに手紙を出すことができないのではないのか。  

 民営郵便会社から2万円の郵送料を求められるナツは、日本国憲法が、すべての国民に永久に普遍の権利として保障している“信書の自由”を剥奪されており、基本的人権が侵害されている状態になっているではないか。  

 郵便法の第1条では「この法律は、郵便の役務を、なるべく安い料金で、あまねく、公平に提供することによって公共の福祉を増進することを目的とする。」と郵便事業が“公共の福祉”(国民全体の利益)に従属しなければならないものであると規定している。   (“なるべく安い料金”というのは誰もが払える程度の金額という意味である。たとえていえば小学生が自分のこづかいで手紙を出せるような程度の金額であり、空き缶を集めているホームレスの人が空き缶を売った金で手紙が出せる程度の金額である。それでなければ、「あまねく、公平」という、すなわち誰でも手紙を出すことができるように便宜を図るという郵便法の理念に合致しないであろう。)  

 この点は、民営化に賛成するにしろ反対するにせよ、議論の大前提であったはずである。  

 したがって、自民党の片山さつきが言うように、独立した民営郵便会社では採算性が求められ、採算の合わない過疎地では採算に見合うように特別料金が課せられるのは仕方がないなどというのは、「なるべく安い料金で、あまねく、公平に提供する」という郵便法に完全に違反しているのであり、郵便法に違反しているということは、憲法14条の「法の下の平等」にも、21条の「信書の自由」にも抵触しているということにほかならない。  

 また、この点でも、小泉自民党は国民をだましたのである。  

 選挙中は郵便を民営会社でやれば現在よりも安い値段で郵便が届けられるといい、選挙が終わったら、民営会社でやるのだから、採算に合わなければ、過疎地の郵便料金が都市部より高くなっても仕方がない、などというのであれば、ダマすというより、言葉の本当の意味で善良な国民に対して、詐欺行為を働いたのである。

 片山さつきは、したがって、小泉自民党は、信書一通が持つ重みが分かってはいない。だから、誰かに何かを伝えるということが、ある場合には、その人や相手の人生にとって非常に重要であり、その人たちの今後の生き方さえ影響を与えることがあるがゆえに、日本国憲法は基本的人権としてすべての人に“信書の自由”を保障し、郵便法の第1条でその意味を再確認していることが分かってはいない。

 だから、彼らはラブレターのために税金を投入することをくだらないことだなどと笑うことができるのである。    
 

共謀罪新設に反対

2005-10-05 20:12:25 | Weblog
 小泉純一郎はどうしてこう善良な市民の神経を逆なですることばかりやりたがるのだろうか。彼は日本国民に何か恨みでもあるのだろうか。
 
 4日閣議決定された組織的犯罪処罰法はその最たるものだ。
 
 第一に、現在の日本国政府の法務大臣は、法律のことはわからないと自認し、他の人もあの人ではしょうがないと認めている、“カバのおばちゃん”である。内容そのものが法律的な専門知識の必要な法改正であり、それが国民生活にとって重要なものであるなら、少なくともまともな国会答弁のできる法務大臣のもとでそれは行われるべきであろう。
 
 小泉純一郎が、国会審議なんかどうでもいいというのであれば、それは国民を愚弄しているとしかいいようがない。
 
 第二に、新設されようとしている共謀罪は、犯罪の構成要件該当性がないという点で、重大な問題をはらんでいる。
 
 もちろん犯罪の構成要件の核心は“行為”であるが、共謀罪は“行為”の前段階である“着手”・“準備”以前の“共謀”段階で罪に問おうというものである。
 
 ところが刑法43条には「犯罪の実行に着手してこれを遂(と)げざるものはその刑を減軽することを得、ただし自己の意志によりてこれを止めたるときはその刑を減軽または免除す」とある。
 
 刑法では犯罪の実行に着手しても自分の意志でそれを中止したら刑を免除する場合もあるといっているのに、共謀しただけでその罪に問うというのでは、刑法43条の存在意義そのものが宙に浮いてしまう。
 
 刑事政策学者のリストはこの中止犯の規定を「引き返すための黄金橋」といったが、共謀罪の新設は、この“黄金橋”を焼き払ってしまう(刑事政策的な犯罪抑止策を撤廃する)ものでしかない。
 
 第三に、共謀罪自体の犯罪構成要件があいまいである。
 
 たとえば、愚か者が「神風特攻隊」を組織すれば、共謀罪の適用は可能かもしれない。なぜなら「神風特攻隊」が行うことは自爆テロと決まっているので、爆発物取締法の共謀罪が問えるからである。
 
 ところが、△△派が武装闘争をやろうとして△△派革命軍を結成した場合、共謀罪の適用は難しい。“武装闘争罪”などという罪はないのであるから、この法律を適用するためには△△派革命軍が具体的に何を計画し、謀議しているのか、何罪(殺人罪か放火罪か等々の)の共謀であるのかを把握し、明らかにしなければならない。
 
 このように共謀罪の適用には、謀議の計画性、具体性が必要であるとするなら、未遂罪こそ適用されるべきであろう。①「小泉の野郎は許せねえ」「そうだ、そうだ」という段階と②「とっつかまえて痛い目に遭わせてやろう」という共謀段階と③小泉純一郎が通っている料亭がどこかを調べるという着手段階と④小泉純一郎に殴る蹴る突き落とすという「三位一体」の改革を行うという段階を比べれば、①と②には距離があるが②と③は接近している。つまり共謀は何らかの犯罪行為を前提にして謀議がなされるのであるから、謀議に隣接した着手段階で逮捕しても何の問題もないし、公判の維持も容易であろう。なぜわざわざ共謀段階で処罰する法律を作らなければならないのか意味が不明である。
 
 意図のはっきりしない法律は、存在しなければならない(制定されなければならない)意義が希薄であり、それ自体悪法と呼ばれてしかるべきであろう。
 
 第四に、この共謀罪の存在自体が、権力犯罪を誘発する性格を持っている。
 
 司法当局(司法警察)はどのようにしてこの共謀罪の捜査を行うつもりであろうか、イスラム教徒はアルカイダの犯罪に関与する疑いがあるということで、すべてのイスラム教徒を監視・盗聴するのか。この場合、たとえ運良くアルカイダの共謀を立件したとしても、そのために何万もの司法警察による不法行為(盗聴・監視・スパイ工作等々)がなされているのであり、この不法行為は共謀罪の存在によっては棄却されない性質のものである。
 
 捜査は適法でなければならない。不当な捜査によって収集された証拠は証拠として採用されない。
 
 ところが共謀罪の立件は組織犯罪を犯すおそれのある団体を常時警察の監視下におくことによってのみ可能であろう。
 
 つまりあらかじめ組織犯罪を犯すおそれのある団体を特定しておいて、この中から犯罪を共謀しよう連中をとっつかまえるということは、組織犯罪を犯すおそれのある団体を常時監視していなければできない以上、警察による不法で不当な人権侵害が日常化する恐れがある。
 
 この法案が過去二回も廃案となったのはそれだけの理由があるのである。自民党が国会で絶対多数を取ったので何をやっても許されるというのは間違った考え方だ。
 
 
 
 

国会の茶番劇

2005-10-04 13:56:08 | Weblog

 
 世の中には、“小泉劇場”なるものがあるそうである。
 
 派手な演技で人を引きつけ、言葉たくみに人を酔わせる。
 
 もちろん言葉たくみと言っても、饒舌(じょうぜつ)であれば、人は飽きてしまうし、短ければ意味が通らない。
 
 そこで芝居の決まり文句の連発となる。
 
 ヨッ!小泉屋!!
 
 しかし、人は気まぐれなもので、おもしろいから寄ってくるというのであれば、おもしろくなければすぐにどこかへ行ってしまうということでもある。
 
 そこで、次から次へと演題を変える必要がある。
 
 現在の“小泉劇場”の演題は“新人議員の巻”である。
 
 小泉のもとで、おめでたくも議員に選出された出来そこないの新人議員が、悪戦苦闘の末、一人前になっていくというストーリーであるが、見ていて、何もおもしろくない。むしろ不快感だけが募っていく。これは一般観客として率直な意見である。
 
 新人議員は新入社員とは違う。選挙で選ばれた議員は最初から“選良”なのであって、そもそも新人議員が最初から出来そこなっているというのであれば、そのような人物を候補者とした小泉自民党とそのような人物を当選させた選挙区民の良識と責任が問われよう。
 
 「自分の無責任な言動で選挙民が迷惑している」と率直に自分の誤りを認める某議員もいるが、本当にそのように考えるのであれば、ここはいさぎよく議員を辞職するのが筋であろう。まだ若いのであるから議員を辞職して、次回選挙区から立候補して選挙区民の本当の信任を得てはい上がってこい。それが本当の反省というものである。
 
 反省が言葉だけのものであるというなら、何をかいわんやである。小泉純一郎と武部は、いったいどういうつもりで、こういうサル芝居をやっているのか国民に説明する義務がある。
 
 おもしろければいいんだという政治、政治家の仕事は国民に見せ物を提供することであるという政治は議会制民主主義の根幹である議員と有権者の信頼関係を腐らせ、衆愚政治へと道を切り開いていく。
 
 しかし、古代ギリシャや古代ローマは衆愚政治ゆえに滅びたのではない。古代社会の行き詰まりと、社会の崩壊が衆愚政治となって現れたにすぎないのである。
 
 古代ローマが共和制から帝政に移行するころには、古代民主主義の基礎であった平等な土地所有は見るかげもなく衰退しており、社会は一握りの大土地所有者と大多数の土地を失った無産市民に分裂していた。
 
 大土地所有者たちは財産はもっていないが、選挙権を持っている無産市民の歓心と支持を得るために「パンと見せ物」を投げ与えることを自分たちの政治とした。
 
 日本の政治もますますこのような政治に接近していくというのであれば、われわれはいわなければならない、かつてローマがそうなったように、日本もそうなるであろうと。
 

がんばれ、朝日新聞

2005-10-03 01:46:16 | 政治
がんばれ!朝日新聞
 
 考えてみれば、われわれはこれまで朝日新聞の悪口ばかりいっていたような気がする。
 
 しかし、現在のような反動派の集中砲火をあびてボロボロになり始めているのを見ると、声援の一つも送ってみたくなる。
 
 NHKのような小泉自民党御用達のテレビ局に比べれば、あんたはエライ。
 
 自民党の中川某や安倍某といったチンピラ政治家の悪事を暴こうとしたの心意気はたいしたものである。
 
 しかし、こういった労働者に害をなす正真正銘の悪党連中と闘うのはわれわれの仕事ではあるのかもしれないが、いわゆる諸君達“ブルジョアマスコミ”の仕事ではないはずだ。
 
 「朝日新聞」の読者は、「赤旗」やわれわれの「労働者のポチタ」のような記事を期待をしているとはとても思えない。
 
 われわれの「労働者のポチタ」は多分にイデオロギー的な新聞であり、労働者に自分たちの思想や信条を訴えたいという強い願いから生まれた特殊な新聞である。
 
 これにたいして諸君達の朝日新聞は商品として“情報”を売る商業新聞であろう。
 
 情報収集能力が乏しいわれわれがいろいろな記事をあさって“事実”を収集し、自分たちの記事を練り上げているように、多くの読者が望んでいるのは、この世界の“事実”なのであって、この世界の“事実”をNHKのように歪曲したり、隠蔽したりせずに、ありのままに伝えるのがよい商業新聞なのである。
 
 人は日々の出来事が知りたいと思うから商業新聞を買うのであって、日々の出来事をありのままに伝えない新聞は商品としての価値がない。
 
 勘違いしてはいけない、一つの政治的仮説を立てて、それを証明するのは諸君達の仕事ではない。諸君達は政党ではないし、ましてやCIAやKGBのような情報機関でもないのだから、探偵ごっこは似合わないし、隠された財宝を探すために、やみくもに、そこらじゅう穴を掘るのは近所迷惑というものだ。それに穴を掘ったところが他人の土地であれば、それは違法行為であろう。
 
 スクープとか特ダネというのは、ほかの同業者がまだ発見していない“事実”を発見した人にたいしていわれるのであって、一つの政治的仮説を立てそれを証明した人のことをいうのではない。おなじ“事実”の追求にしても、“事実”に対する接近の仕方が違うのだ。
 
 ウォーター・ゲート事件をスクープした記者が讃えられるのは、彼らがニクソンは悪党だという仮説を立てて、それを証明したからではない。盗聴という事件を追って、事実を積み重ねて、ニクソンの犯罪に突き当たり、それを包み隠さず記事にしたからであろう。
 
 そして、「朝日新聞」の読者が期待しているのは前者(ほかの同業者がまだ発見していない“事実”を発見すること)であって後者(一つの政治的仮説を立てて、できもしないCIAやKGBのマネをすること)ではない。
 
 最後に、われわれが「朝日新聞」のことを悪くいうのは、それだけ読んでいるからであり、読むに値する新聞であると思っているからである。