労働者のこだま(国内政治)

政治・経済問題を扱っています。筆者は主に横井邦彦です。

給食費未納問題と帝国臣民の規範意識

2007-01-30 02:20:54 | Weblog
 『日本経済新聞』や『朝日新聞』がそろって、子どもたちの父母兄弟にお前たちは規範意識が足りないのだとお説教をたれている。
 
 われわれの知らない間に『日本経済新聞』も『朝日新聞』も主権者である国民にお説教をたれ、命令できるほどにえらくなったものだが、果たしてこういう問題に接近する態度は正しいのだろうか?
 
 例えば、『日本経済新聞』や『朝日新聞』は国民年金の未納問題やNHKの未納問題に対してこのような接近の仕方をするのであろうか?
 
 支払いの義務があるものが支払いをしないということは、徴収義務のあるものが徴収義務を怠っているということと表裏一体の関係があるのではないのだろうか?
 
 では給食費の徴収義務があるものは一体誰なのだろうか?
 
 この点で『日本経済新聞』や『朝日新聞』もそれは学校、すなわち教職員であると考えている。
 
 しかしそれは必ずしも正しい答えではない。
 
 「学校給食法」では、学校給食に必要な施設や設備、人件費等は自治体の負担になっており、子どもたちの保護者が食材費を負担することになっている。つまり、法律上の主体は自治体なのである。
 
 学校はこれに対して協力者の立場で関わっている。つまり給食が教育の一環として行われているので、自治体にお手伝いをしているのである。
 
 これは実際的な問題でもある。というのは、その月に誰が何食食べ、いくら徴収すればいいのかということは、子どもたちの出席を管理している学級担任しか知りえないことだからである。
 
 だからどこの学校でも原則として学校(学級担任)が給食費を請求し、徴収している。
 
 しかし赤星小学校の教員は「レストラン赤星小学校」の会計係として雇用されているわけではないから、給食費の徴収業務ばかりをやっているわけにはいかない。彼は他にやらなければならない雑用も本来業務も山ほど抱えている。
 
 だから、一部の保護者がお前のところの給食はまずいから給食費は支払わないなどといって意図的に給食費を滞納する事態が起きれば学級担任としてはそれこそお手上げ状態である。
 
 家庭訪問までして給食費を徴収している学校もあるそうだが、教員がそこまでやるべきなのだろうか?
 
 学校給食業務の主体が自治体であるのであれば、給食費の最終的な徴収義務をもつものは自治体なのではないであろうか?
 
 現行の制度では給食費の最終的な徴収義務者があいまいにされたままで、給食費の徴収業務が学級担任に押しつけられており、学級担任が職務多忙の中で給食費の徴収まで手が回らないことが給食費の滞納を増加させているのである。
 
 『日本経済新聞』も『朝日新聞』も賢い人がそろっている新聞社なのだから、給食費の徴収を学級担任にまかせっきりにしないで、意図的に給食費の支払いを拒否している保護者の徴収業務ぐらいは自治体が面倒を見るべきであるという現実的な対策をこそ提起すべきであろう。    

「迷い人」さんへ

2007-01-25 02:12:00 | Weblog
 大変失礼しました。
 
 今後コメントとトラックバックは受け付けるようにします。
 
 為替水準を気にして金利を決定するのはよくないということですが、われわれはそういう為替水準に合わせて金利を決めた方がいいという政策を提言してはいません。
 
 世界経済の趨勢からして、ここ数年の景気の拡大はすでにピークアウトしています(絶頂期を過ぎています)。ですからこれから世界経済は、緩やかな下降か、経済的な混乱をともなう急激な下降かは分かりませんが、何らかの停滞局面なり過剰生産力の整理局面に向かうと思われます。
 
 こういう時に経済政策(金融政策を含む)ができることは、停滞を先きのばしにしたり、より穏やかなものにしたりすることで、景気の循環そのものを変えることはできないと思います。
 
 ですから、日本が低金利政策をこのまま続けても、何らかのかたちで曲がり角は来るわけで、その可能性として低金利政策→円通貨の続落→輸入物価の上昇→輸入インフレを防ぐための金利の上昇とか低金利政策→円通貨の続落→円独歩安に対する国際的非難の高まり→日銀が金利の上昇に追い込まれる、というシナリオがありうると指摘しただけです。

教員免許の更新制度の導入について

2007-01-25 01:33:52 | Weblog
 現在の教員免許制度は戦前の師範学校制度に対する反省から生まれている。
 
 日本軍国主義を支えていた軍国主義教育、国家主義教育を担っていたのは官立公立の師範学校であり、ここでは徹底した服務義務制、給費制、寄宿舎制が行われており、教員志望者を経済的に従属させ、国に対する絶対的な服務義務を強要していた。
 
 この官立公立の師範学校で軍国主義教育、国家主義教育の忠実なしもべとなった教師たちが全国の学校で子どもたちに軍国主義と国家主義、天皇制のイデオロギーを注入する伝道師となっていった。
 
 戦後、日本を訪れたアメリカの教育使節団は、戦前の官立公立の師範学校の閉鎖性がもたらした弊害を説き、教員の養成はもっと開かれた教育機関で行われるべきだとアドバイスした。
 
 これを受けて日本の教育刷新委員会は①教員養成大学を官立公立だけではなく、私学にも認めること。②戦前の師範学校の服務義務制、給費制は廃止すること。③一般の大学卒業者も教員になれるように教員免許制度を導入すること、などを決めた。
 
 したがって開放的な教員免許制度には戦後民主主義のにおいが感じられるのだが、こういうことは当然、教育を破壊して戦前のように子どもたちを国家の奴隷にしようと画策する新しい軍国主義者、新しい国家主義者には耐えがたいものである。
 
 そこで教員免許に更新制度を導入しようという法案が導入されようとしている。
 
 もちろん一定の年月を区切って免許所持者に一定の研修を行うことは望ましいことである。
 
 しかし、その一定の研修が現職の教員には耐えられて、一般の社会人には耐えられないものであるとするなら、それは事実上一般の社会人のなかで教員免許を持っているものから免許を取り上げるものでしかないであろう。
 
 例えば、免許更新時に30時間の講習が平日に行われるとしたら、一般の社会人はそのような講習をまず受けられないから、彼は自分の免許を失効させる以外に選択肢はなくなるであろう。
 
 こういったことは社会に開かれた教員免許制度の本来の趣旨からの逸脱というよりもその否定である。教育が社会から閉ざされた世界に幽閉されてしまったことが、子どもたちを平気で戦場に送り出すことができる教師たちを大量に生み出してしまったという過去の反省がない。
 
 さらに分からないのは安倍晋三政権はこのように教員免許保持者に厳格な更新条件を課そうとする一方で「社会」で有能と認められた人物であれば教員免許なしでも教員になれる道を拡大して大量の社会人を教員にしようというのである。
 
 ここには大いなる矛盾がある。教員の資格にとって教員免許の有無はどうでもいいものであるとするなら、なぜ教員免許保持者に厳格な更新条件を課そうとするのか?
 
 それは「社会」で有能と認められた人物なるものがどのような人物であるのかを見れば明らかである。ここで「社会」というのはもちろん政府のことであり、行政当局のことである。
 
 その一方で、安倍晋三政権はこの免許更新制度のねらいは「指導力不足の教員」を排除することが目的であるともいう。
 
 はっきりいってこれはお笑いだ。現在、安倍晋三政権の支持率は急落しており、一部では支持よりも不支持の方が多いという世論調査まである。この不支持の最大の原因は安倍晋三の「指導力不足」であるというのである。つまり日本国民から「指導力不足」のレッテルをばっちり貼られている「問題首相」が自分の「指導力不足」をたなに上げて、教師の「指導力不足」を問題にするというのは笑止以外の何ものでもない。「指導力不足」の者は去るべきであるというのであれば、まず最初に安倍晋三「指導力不足」内閣が退陣して世に範をたれるべきであろう。
 
 バカを相手にしても仕方がないので、先に進めると反動派が主張する「指導力不足の教員の排除」というのは、あの戦前の「服務義務」を守ることができない教員のことである。日本の教育が戦前のような子どもたちを力で押さえ込み、服従させることを主目的とする「奴隷教育」へと大きく舵を切ろうとする時、そのような教育とは呼べない「調教技術」にためらいを感じる教師を「指導力不足の教員」として排除しようというのがこの教員免許更新制の真のねらいである。
 
 そういう点では、この制度は教育の軍国主義化の大きな柱となりうる制度であり、労働者が決して容認することができない制度である。   

中川幹事長の大いなる誤り、一度ならず二度までも

2007-01-23 01:26:21 | Weblog
 公定歩合を引き上げると見られていた日銀が引き上げを見送ることになった。
 
 もちろんこれは政府与党の恫喝(どうかつ)、脅迫のたまものといえるが、中央銀行の総裁が時の政府(安倍晋三政権)に弱みを握られて意のままになっていることの副作用が出てくるのはこれからである。
 
 今回の一連の“利上げ騒動”では、自民党の中川秀直幹事長の活躍が著しいと言われている。(現在の安倍内閣には金儲けのうまい人はいくらでもいるが経済学を知っている人はあまりいない。)
 
 その中川幹事長が今回これほどまでに強硬な“利上げ反対”論者であるのは、2000年当時の苦い思い出があるからであるという。
 
 もちろん、これは単なる余談だが、この年の中川秀直氏の本当の苦い思い出というのは経済問題ではない。
 
 2000年7月4日に発足した第二次森連立内閣でめでたく官房長官に就任した中川氏であったが、その年の9月にはもう涙を飲んで職を辞さなければならなかったのは別の個人的な問題によってである。
 
 しかし、それでもこの年(2000年)の8月11日に日銀の「ゼロ金利政策」が解除されている。
 
 その後、日本経済は景気の後退局面を迎えることになるが、中川秀直氏はそれを自分が日銀の「ゼロ金利政策」の解除を認めてしまったからであると後悔しているのである。
 
 もちろんこれは正しくない。
 
 2000年の景気の後退は2年間続いた小渕内閣の必然的な結果である。
 
 小渕内閣のもとで2年間、不況対策として積極財政が組まれ、財政の放漫化が進んでいた。特に1999年には一般会計総額が84兆9871億円に対して、国債の発行額は85兆8705億円と日本の財政史上初めて国債の発行額が一般会計を上回るという事態が起こっている。
 
 これが森内閣のもとでは緊縮財政ではないものの、大量の国債発行に対する反省から国債発行の減額が図られこの年の国債の新規発行額は前年の13.2%減となった。
 
 つまり、何のことはない98年、99年の景気の拡大は赤字国債発行による財政膨張によってもたらされ、政府がインフレへの警戒から財政の膨張に待ったをかけると、景気が急落するというものであった。
 
 そういう点では、中川秀直氏が考えているように、景気の下降は日銀の金利の引き上げによってもたらされたものではなく、政府が積極政策の継続にためらいを見せたことによるのである。
 
 金利の引き上げという観点から見るならば、日本経済は明らかにインフレ体質になっており、物価の上昇を防ぐためにもそれは必要であったのである。
 
 このように小渕内閣のもとで採用された積極財政が一時的な効果しかもたらさなかったのは、90年代を通して存在した民間金融機関が保持していた大量の不良債権と日本経済の全般的な過剰生産力が整理されていなかったからである。
 
 そして積極財政によって景気が一時上昇した時、民間企業が行ったのは、既存設備の廃棄とリストラ、すなわち、各職場から労働者を街頭に放り出すことだった。
 
 したがって、2000年には失業者が300万人を越え、労働者の生活が劣悪化したことが、個人消費の足を引っ張ったのである。
 
 これに対して今回は、日本経済の景気循環がピークから下降局面に移行しようとしている局面での“利上げ論議”である。
 
 この局面で政府自民党は、“上げ潮政策”と称して景気が下降するのを防ごうとしている。つまり政府自民党はインフレ政策を継続して景気の底上げをしようとしているのである。
 
 もちろん、現在のように財政赤字が積み上がっている状態では財政出動によるインフレ政策は取りえないが、超低金利を持続させて信用を膨張させることは可能であり、そのためによってたかって圧力をかけ日銀の“利上げ”を阻止したのである。
 
 もちろん、金利を上げるといってもたかだか0.25%であり、この程度では実体経済に影響を与えるものではないが、政府・日銀が一体となって“利上げ”を阻止したということは投機筋の「円売り」に安心感を与え、円は120円を超えて下落し始めている。
 
 ここで問題となるのは、今回、政府・日銀が一体となって“利上げ”を阻止し、結果として円通貨が120円を超えて下落しているという現実を、海外では、日本政府は意図的に円安誘導をして、製品輸出を拡大しようとしていると受け止めていることで、もっぱら欧米では日本の不正競争として受け止められているということである。
 
 おそらくこれは近い将来、貿易摩擦として政治問題化するであろうし、そうならないまでも日銀の“利上げ”に対する国際社会からの圧力はさまざまなかたちで表面化するであろう。。
 
 また、円通貨がその通貨の実態からかけ離れて、不当に安く評価されているということは、この円安を通じて輸入商品の価格が高く評価されるということでもあり、輸入物価の高騰を通して、日本にインフレが“輸入”されることになるであろうということである。
 
 したがってやがて日銀は“利上げ”に踏み切らざるをえなくなるであろうが、国際協調的に“利上げ”を行うのと、国際社会から非難を浴びて“利上げ”を行うのではやはり意味合いが違うし、今回の騒動で政府自民党が日銀の中央銀行としての信用力を傷つけてしまったマイナスの影響は何らかのかたちで出てくるであろう。
 
 そういう点でも、中川秀直自民党幹事長は2度目の大きなまちがいをおかしたと見るべきであろう。    

“排除の論理”は教育にはなじまない。

2007-01-23 01:24:27 | Weblog
 コメニウスが「すべての子どもたちにすべてを教える教育を!」と宣言して以来、ブルジョア民主教育(公教育)は、コメニウスの言葉を理想とし、その実現に向けて努力してきた。
 
 したがって、教室の“秩序”を維持するために、子どもたちのなかから誰かを排除するなどということがあってはならないと考えてきた。
 
 それはいじめ問題でも同じである。いじめた子といじめられた子が同じ教室で和解することこそ問題の解決であり、それ以外の解決はありえない。
 
 昔懐かしい、「廊下で立ってろ」式の教育が淘汰されたのは、それが廊下で立っている子どもの教育を受ける権利を奪うからである。
 
 しかも、いじめた子を出席停止という法律に基づいた処分をするということは、その子を犯罪者扱いにするということであり、その事実を「指導要録」に記載するということであり、子どもをキズモノにして一生を台無しにするということであろう。
 
 一国の首相が子どもたちに対してどうして日本の大事な子どもたちに対してこんな残酷な“いじめ”ができるのか。
 
 子どもたちはただファシスト安倍晋三のマネをして「教室の“秩序”を維持するために、子どもたちのなかから誰かを排除する」ということを実践しているだけなのに、なぜ一国の首相によってこんなにも不当に扱われなければならないのか、むしろ安倍晋三首相としては“いじめっ子”たちに私の政治信条をよく理解してくれましたと表彰状を与えるべきではないのか。
 
 教育再生会議の委員の中にはこんなことを言うものもいる。
 
 「今の子どもたちは教師に対して『お前ら、殴れねぇだろう』などと挑発して来るものもいる。だから子どもたちを押さえ込むことも必要だ。」云々と。
 
 この愚か者は教師という職業がまるで分かっていない。教師がヤクザ・チンピラと同じレベルまで降りていってどうしょうというのか。「愛大全共闘をなめるんじゃねぇぞ」とでもいって子どもたちと殴り合いでもすればよろしいんでしょうか。
 
 「暴力はいけません。力で何事も決まるという考え方は間違っています。」ということを教えるのが教師の仕事でしょうが。この人は本当に荒れた学校で子どもたちのために汗を流したことがある人なのだろうかと疑問に思わざるをえない。
 
 「強きをくじき、弱気を助ける」という心情だけをもって、実際には「弱きをくじき、強きを助ける」というヤクザ・チンピラの世界からまだ完全に抜け出していないのである。
 
 だからこそ教育再生会議の委員をやっていられるのだが、こういう人のもとで教室に“力の論理”と“排除の論理”が持ち込まれようとしている。
 
 教室の秩序は信頼ではなく力によって保たれる、もちろんその力を行使するのは教師であり、子どもたちは“愛のムチ”のもとでおびえて暮らさなければならないのである。
 
 これは教育の破壊以外の何ものでもない。
 
 愚かな安倍晋三はなにも分かっていないけれども、多くの父母たちにとって自分の子どもたちの教育は切実な問題だ。だから彼の教育政策がうまくいかなかった場合(絶対にうまくいくことはありえないのだが)彼は多くの人々のうらみと憎しみを一身でかうことになる。
 
 もちろん彼の政治生命はなくなるだろう。そういう点では政治家安倍晋三はもう死んでいるのと同じである。   

拉致救出運動か拉致報復運動か

2007-01-19 21:33:25 | 政治
 われわれを含め、多くの日本の労働者は拉致問題を銀行強盗が人質を取って銀行に立てこもっているようなものであると考えていた。
 
 当然、この場合最優先されるべきは人質の人命であろう。もちろん犯人を逃すわけにはいかないが、人質を救出するためには、犯人の要求をある程度飲んで、水や食料を差し入れることは許容の範囲である。
 
 警官隊は銀行を包囲するであろうが、それは犯人を逃がさないためで、強行突入は最後の最後の手段であるはずだ。
 
 まずもってしなければならないことは犯人に対するねばり強い説得だろう。道理を説いて自分のおかれている状況を説明することこそ何よりも必要なことであろう。
 
 ところが最近分かってきたことだが、どうも「拉致問題」というのはこのような運動ではないらしい。
 
 「拉致家族会」や「拉致被害者を救う会」と安倍晋三政権は、むしろ銀行に立てこもっている犯人に対して、何の罪もない人を誘拐する許しがたい連中だ、断固制裁すべきであると絶叫している。
 
 もちろん、制裁や報復によって人質が解放されることはありえない。強行突破と言うことになれば、人質の命は非常に危険に陥ることが予想されるが、そういうことを心配する「家族」はいない。
 
 現に、北朝鮮政府は「安倍晋三政権を相手にせず」という態度を明確に打ち出しており、安倍晋三政権のもとでは「拉致問題」の解決どころか、話し合いの場すら設けられることがないことがはっきりとしてきた。
 
 「拉致家族会」や「拉致被害者を救う会」はそれでもいいというのだから、はっきりいってこれは驚きだ。ここには子どもを人質に取られている親の心情とはまったく違う感情が流れている。
 
 むしろこの人たちを支配し、つき動かしているのは拉致した者への復讐、もしくは報復の感情であり、人質を救いたいという感情ではない。
 
 だとするならば労働者はこのような運動を支持することはもうできないだろう。なぜならは北朝鮮は犯罪者国家であるとはいえ、国家である以上、「国際紛争は平和的手段によって解決すべき」であるという日本の“国是”が適用されるべきであり、「拉致家族会」や「拉致被害者を救う会」がすでに拉致被害者の救出をあきらめている現状では、事態の緊急性も重大性もすでに喪失しているからである。
 
 むしろ逆に、北朝鮮への復讐、もしくは報復が主目的であるという運動は世界の平和を脅かすという点で、労働者にとって許しがたい運動になりつつある。
 
 つまり「拉致家族会」や「拉致被害者を救う会」は、拉致問題を口実にして、民族主義、排外主義を煽って、日本を軍国主義化しようとする安倍晋三政権の道具へとますます純化しつつあり、運動の大衆的な基盤を失いつつある。
 
 こういうことは本当の拉致家族にとってもあまりいいことではない。なぜならば、拉致被害者が全員死んでしまっているという前提に立てば、拉致をした北朝鮮を政治的、経済的、軍事的に制裁しようという報復運動もありうる(それが全国民的な支持をうるかは別にして)だろうが、かならずしもそうとばかりは言い切れない場合、すなわち、拉致被害者の何人かはまだ生きているかも知れないという観点に立てば、むしろこういった運動は拉致問題の解決を妨げるからである。
 
 もちろんわれわれが「拉致問題」という場合、拉致被害者を救出するという観点からとらえており、拉致したものに報復する運動とはとらえていない。
 
 そして今「拉致問題」で問われているのはこのことである。 

もっと努力が必要だ

2007-01-18 01:26:02 | Weblog
 書店の中をぶらぶらしていたら「マルクスる」という本が目にとまった。
 
 3時間で分かる『資本論』という内容だそうだが、内容の別はともかくとして、今どきの若い人がこういう本を出してくれたこと自体に感激した。
 
 一昔前は、大きな本屋でも『資本論』を売っていること自体が奇跡に近かったのだが、最近では解説書を含めていろいろなマルクス主義経済学の本が出回り始めたことを率直に喜びたい。
 
 マルクス主義は一時は、水が流れず、水底に何が腐ったものかも分からない腐敗物が堆積し、メタンのガスがボコボコと吹き出す死んだ川だったが、ようやく水が流れはじめ、命ある学問として生き返りつつある。このことを率直に喜びたい。
 
 しかし、底に堆積している腐敗物がそのままである以上、またいつ何時、死んだ川に戻ってしまうかも知れない。
 
 どぶ川の掃除はわれわれの仕事だ。自らが汚れることを恐れず、川の中へ入って、ゴミをすくおうじゃないか。そういう点ではわれわれのいっそうの努力が求められる時でもある。
 
 ただ、苦言を一言、マルクスを、まるくしてはダメですよ。角(かど)があるからこそマルクスで、まるいマルクスは単なるだるまさんでしかありません。 

学校を教員と子どもたちの牢獄としてよいのか?

2007-01-16 23:31:35 | Weblog
 安倍晋三政権下の「教育再生会議」はゆとり教育の見直しと称して詰め込み教育を強化しようとしている。
 
 その第一歩として提起されているのが、授業時間の一割増しである。
 
 たかが一割というなかれ、現行の学校生活のもとでは、この一割はかなり大きな意味合いをもっている。
 
 この増加した授業時間を土曜日の開校によって補おうとする場合、教育労働者、すなわち教員の40時間労働制がくずれる。これは教員に対するさらなる加重労働であり、ただでさえ加重労働が指摘されている教員の健康破壊が進むことになる。
 
 それでは一割分を平日の授業で補おうとすればどうか?
 
 当然、一部で言われているように、一日7時間授業にでもしなければならないだろう。
 
 この場合、終業時間は4時近くになる。それから掃除や「帰りの会」をやって子どもが家にたどり着く頃には5時近くになる場合もあり、冬場には家に着いたら暗くなりはじめていることもあろう。
 
 いくら小学校高学年からであろうとはいえ、午後からの3時間の授業時間に一部の子どもたちは耐えられないかも知れないという心配(この心配は単なる杞憂ではない)ばかりではなく、太陽が出ている時間が子どもの活動時間という“世界常識”の観点からも大きな問題がある。
 
 つまり、平日の子どもたちの拘束時間を現行より一割増加させると、季節によっては学校生活が子どもたちの生活時間のすべて占めてしまうことになってしまうのである。
 
 不思議なことに、こういうことは非常に重大な問題ではないのか、子どもへの教育負荷が大きくなりすぎないか、という教育専門家は日本には一人もいない。これこそ日本の子どもたちの悲劇であろう!
 
 友達と遊ぶ時間や課外活動をする時間、自分の好きなことをする時間、何ものにも強制されない自分だけの時間を持つことは子どもの発育にとって重要なことだが、そういうことの必要性を今の政府は認めていない。
 
 つまり「教育再生会議」、すなわち安倍晋三政権にとって、子どもの人間としての成長なんかははじめからどうでもよくて、学校は軍国日本の有為な人材を育成することだけが目的であり、そのために詰め込み教育を強化することだけを考えており、子どもたちの個人的な生活時間がなくなろうが知ったことではないのである。(まさか安倍晋三政権自体が子どもたちの夜間徘徊を推奨するわけではないであろう。)
 
 そもそもが、この子どもたちへの強制的な残業労働の強要が生まれてきた背景には、「ゆとり教育」への反省があると言われるがそれは正しくない。
 
 というのは、教科の学習時間が減ったのは“総合学習”や“道徳”といった“読み、書き、そろばん”以外の授業時間が設けられているか、“道徳”の時間に遅れている教科の授業をやるなどというのはとんでもないことだという教員に対する規制の強化が図られているからである。
 
 「ゆとり教育」の反省というのであれば、これら「ゆとり教育」のために設けられた授業時間をもとの“読み、書き、そろばん”の授業時間にもどせばすむことであるのだが、「教育再生会議」、すなわち安倍晋三政権は“総合学習”をそのまま残しているから、追加の授業時間が必要となるのである。
 
 「教育再生会議」、すなわち安倍晋三政権が“総合学習”の時間をそのまま残しているのは、この時間を使って、愛国心教育の強化や社会奉仕の強要、すなわち、子どもたちを軍国日本の奴隷にするための教育を行うことを考えているからである。
 
 かくして学校が子どもたちを拘束する時間は長くならざるをえないのだが、その悪影響はすぐにでも出てくるだろう。
 
  

参議院選挙は政治決戦にならないかも知れない

2007-01-16 01:10:20 | Weblog
 われわれは去年安倍政権が誕生した時、07年の参議院選挙は安倍晋三政権を追い落とす政治決戦になるであろうと予測した。
 
 しかし、その後の政治の推移を見るともう一つの可能性が生まれつつある。
 
 それは民主党の凋落(ちょうらく)である。自民党に対抗する政治勢力として期待されていた民主党は最近では急速に政党支持率を下げている。
 
 その分増加しているのが、自民党、公明党であり、共産党、社民党であり、無党派層である。つまり民主党の地盤が崩れ始めてその支持が拡散し始めているのである。
 
 これはもちろん言うまでもなく、この間の民主党の活動、とりわけ防衛庁の防衛省への格上げに賛成したこと、教育基本法に愛国心を記述したことに賛成したことなど、はたから見ると民主党が自民党にすり寄っているような行動が数多く見られたからである。
 
 この民主党が自民党と大差がない政党になったと多くの人に見られていることが、民主党支持者の右派を自民党、公明党支持者に変えている。
 
 そして注目すべきはこれまで民主党を支持してきた労働者層の一部が、共産党、社民党へと流れ、さらには無党派層の増加となって現れていることだ。もちろんこの無党派層は選挙の時には現実的な選択、すなわち、自民党を追い落とすために民社党の候補者に投票するという投票行動に出ると思われるが、選挙で共産党、社民党の候補が善戦すれば、民社党の一人負けという結果になることもじゅうぶんにありうる。
 
 自民党は前回が小泉の登場による大勝であったため、今回は確実に議席を減らすことになるだろうが、そうなった場合でも、参議院選挙後には政界の再編は一気に進み、連立の組み替えもありえる。自民・民主連合政権、または、自民・公明・民主連合政権、または民主党の右派が自民党に合流するということになるのかも知れない。
 
 この場合、安倍晋三政権は生きのび日本は本格的な右翼政権時代に入っていくが、長い目で見れば、この政治の世界の地殻変動の始まりは、労働者の政治意識が大きく変わり始めていることの表れでもあり、最終的には何らかの労働者政党の成長という結果にならざるをえないであろう。
 
 そういう点では、今回の参議院選挙の見どころは、単に与野党の議席数はどのようになるのかという点にとどまらず、どの政党が日本の未来を担うことができるのかということを占う選挙でもありうる。
 
 
 
    

「拉致問題」をめぐる日本と北朝鮮の奇妙な共謀関係

2007-01-15 13:19:16 | Weblog
 不用意な発言から無内容な喧噪に巻き込まれた二ヶ月であったがそれでもわれわれ労働者にとって収穫はあった。
 
 というのは、この喧噪を通じて見えてきたものもあるからである。
 
 最大の見物はなんといっても、われわれに対する安部晋三政権を含む右翼・反動勢力のヒステリー現象であろう。彼らは卑劣な個人攻撃を含むありとあらゆる誹謗中傷に訴えて、86年の「拉致未遂事件」そのものを否定しようとしてきた。
 
 この反動派のヒステリー現象こそ現在の「拉致問題」といわれるものの本質をよくあらわしている。
 
 われわれの何が安部信三政権を含む右翼・反動勢力の気分を害したのだろうか?
 
 それはいうまでもなく、われわれが意図せず、「拉致被害者は神聖にして侵すべからず」というこの運動(拉致被害者救出運動)の大前提を踏みにじったからにほかならない。
 
 安部晋三政権を含む右翼・反動勢力にとって、ようやく北朝鮮から救出した「拉致被害者」が、実は北朝鮮で工作員となっており、過去に日本の左翼活動家を拉致しようとしたことがあり、帰国した今でも北朝鮮の工作活動に未練たっぷりであるというのは悪夢以上の現実であろう。
 
 しかし、安部晋三政権と右翼・反動派はこの「拉致被害者は神聖にして侵すべからず」という拉致被害者救出運動の大前提を守るために、あえてこうした不条理に目を閉ざす道を選んだ。
 
 これは「拉致被害者救出運動」の変質の完成であり、別のものへの転化への道でもある。
 
 なぜなら北朝鮮政府は、単に日本語を習得するために、日本人を拉致したのではないからである。彼ら北朝鮮政府は、秘密であり、自国民だけではできないこと、またやらせたくないこと、たとえば原子力開発、ミサイル開発、ニセ札の印刷、覚醒剤の密造等や各種の非合法活動(他国への潜入活動や密輸、テロ活動、拉致、暗殺等)の要員を確保するためにも日本人の拉致を行ってきた。
 
 こういった人々はいわば北朝鮮の国家機密の核心部分を知っている場合もあり、これらの仕事に従事していた拉致被害者をそのまま帰国させた場合、彼らの口を通して、その秘密が世界に露見するかも知れない。その場合、金正日政権の存続そのものが危うくなるであろう。
 
 したがって北朝鮮にとって「拉致問題」の全面的解決とは、とりもなおさず金日成、金正日と二代続いた金一族による不当な北朝鮮支配の誤りを認め、過去を清算して国際社会の一員として出直すことに他ならないのだが、このようなことは事実上、金正日政権のもとでは不可能に近い。(「不可能に近い」というのは不可能であるということとは違う。北朝鮮政府に本気になって過去を清算して、国際社会のなかで生きていこうという決意があればそれは不可能ではない。)
 
 そこで北朝鮮政府もまた「拉致被害者は神聖にして侵すべからず」という安部信三政権を含む右翼・反動勢力の見解にしぶしぶ賛成している。
 
 つまり、北朝鮮政府もまた、「拉致」は一部工作機関の暴走の結果であり、「拉致」された人は単に偶然拉致されただけであるという見解に立っている。
 
 彼らはその上で、過去において「拉致」された人はいたかも知れないが生きている人は全部返した、したがって「拉致問題」は解決済みであるという主張をしている。
 
 これに対しては、安部晋三政権を含む右翼・反動勢力は「拉致」が一部工作機関の暴走の結果であり、「拉致」された人は単に偶然拉致されただけであるのであれば、まだ生きている人がいるかも知れない、そういう人を返せない道理はないではないかと主張し、返せる人を返せないのは「圧力」が足りないからであると、北朝鮮に対する「制裁」の道具として使っている。
 
 つまり、安部信三政権を含む右翼・反動勢力は、北朝鮮が拉致被害者を返すことはないことを見越して、北朝鮮政府に「拉致被害者」を返せといい、「拉致問題は解決済み」という北朝鮮政府の解答をもって、「圧力」(制裁)をかける方便としているのである。
 
 また、安部信三政権を含む右翼・反動勢力は、北朝鮮政府が善意の人々を拉致して、いつまでも返せる人を返せないのは、彼らの許されざる所業であるとして、日本国内の民族主義、排外主義を煽る手段としているのである。
 
 そういう点では「拉致問題」が日本の民主主義を大きく歪めているという指摘は正しい。善意の同胞が“凍土の共和国”に“理由もなく”閉じこめられているという安部晋三政権を含む右翼・反動勢力の扇動は日本の国民の間に広く浸透しており、この扇動を通して日本は確実に民族主義、排外主義の虜(とりこ)になりつつある。
 
 また、安倍晋三政権は「拉致問題」を政治的に利用しているという一部の外国の報道もまた正しい。なぜなら真に「拉致問題」を解決するためには、北朝鮮政府が彼らを返せるような環境作りこそ必要なのだが、日本政府はそのような努力をまったくやっておらず、北朝鮮政府は「拉致被害者」を返すことはないであろうという前提のもとに、拉致被害者を返せと言っても返さないから制裁であり報復なのであるといい、日本が軍国主義、国家主義に傾斜することへの方便として使っているからである。
 
 かくして「拉致問題」は北朝鮮政府、日本政府ともに自分たちの政権を維持するための道具とされ、その実態からはかけ離れた観念的で“宗教的”な日本と北朝鮮の間の“教義問題”になりつつある。
 
 こういう運動が人々から見すてられる日はそんなに遠くないであろう。
  

ブッシュの「新イラク政策」

2007-01-11 20:14:17 | 政治
 中間選挙で敗北したブッシュ政権が「新しい」イラク政策を発表した。
 
 もちろん「新しい」といってもそれほど目新しさはない。ベトナム戦争終末期のニクソンの「ベトナミゼーション」(ベトナム戦争のベトナム化)、すなわち、アメリカ軍の代わりに「南ベトナム軍」を戦争の表舞台に引きだしたようなもので、現地のカイライ政権の軍隊に治安維持の大きな役割を果たさせようというものだ。
 
 現在のイラクに限っていえば、この「新イラク政策」は二つの点ですでに失敗が約束されている。
 
 一つは、シーア派民兵組織「マハディ軍」の解体をマリキ政権に求めていること。シーア派の強行派サドル師の民兵組織はすでにイラクの治安部隊や「イラク軍」内に大きな影響力をもっており、バクダッドの警察は「マハディ軍」そのものだ。そういう点では「マハディ軍」に「マハディ軍」を討伐させるというのは単なる妄想以上のものにはなりえない。
 
 しかも、ブッシュ政権はイラクのマリキ政権に「マハディ軍」の解体を強要したといわれており、このことがイラク国内の最大の武装勢力をもつサドル派をひどく怒らせている。
 
 何のことはない、ブッシュはイラク国内で新たな敵を作っただけなのだ。
 
 二つ目は、イラク不安定化の最大の要因になっているスンニ派とシーア派の対立の一方であるスンニ派にはどのような懐柔策も用意されていない。むしろ今回増強されることになったアメリカ軍の一部はスンニ派の影響力が強い西部アンバル州に派遣されることになっており、スンニ派武装勢力を力で押さえ込もうとしていることがうかがえる。
 
 ブッシュによればアメリカ軍は今後占領した地域にとどまるそうだが、そうであるならば増強する兵力も4千人程度ではなく、5万人、10万人単位での増派が必要であろう。少ない兵力を分散して駐屯させれば、それこそゲリラ勢力の格好の標的になるのは目に見えている。
 
 また武装勢力が浸透してくるといわれているシリア国境地帯においても、ブッシュはシリアとの話し合いを拒否したのであるから、彼らの活動を制限するものにはなっておらず、ゲリラ戦のための格好の土壌は手つかずのまま残されている。
 
 そしてそれ以前の問題として、このような貧弱な「新イラク政策」で民主党やアメリカ国民を納得させることが可能であろうか?という問題がある。
 
 先の中間選挙で示されたアメリカ国民の意思は、アメリカはイラクから手を引け、というものであり、イラクのアメリカ軍を更なる泥沼に追いやることではなかったはずである。
 
 したがってブッシュのこの「新イラク政策」がこのまますんなりとアメリカ議会を通過するかどうかさえ未知数である。
 

 

安倍晋三政権の曲がり角

2007-01-08 01:28:28 | 政治
 安倍晋三政権の政治スタンスが年を挟んで変化している。
 
 もっともこれは現在政界も正月休みで“お目付役たち”が地元に帰っているから“放し飼い”状態になっており、単に地がでているだけとも思えるが、かなり右翼的、民族主義的、反動的な言辞が飛び交っている。
 
 しかも表情が暗い、正月早々、あの暗い顔で、憲法改正、天皇制擁護、国家主義教育なんぞとまくし立てられたら、いやになる。
 
 これは一体何なのだろうか?
 
① 安倍晋三政権はもって5月までだとあきらめてヤケクソになっている。
 
② 安倍晋三政権の危機を右傾化、強硬姿勢を強めることで乗り切ろうとしている。
 
 おおかたの見方は①だろうが、笑止なことに当人たちは本気で②を考えているみたいなので、今年の日本の政治は乱気流へと突入していく可能性が高い。
 
 このような政治の不安定化は日本の総資本のあり方とも無縁ではない。
 
 御手洗某は個別資本の代弁者たりえても、総資本の代弁者たりえない、視野が狭く、大局的な見地にたちえない。明らかに日本の総資本は自分たちの代表の人選を間違えたのだが、日本の総資本の統治能力低下は政治へのコントロール力の低下として現れ始めている。
 
 したがって当面はだれはばかることのない猪侍の突進で年が明けることになる。
 

まだら模様をどう見るか

2007-01-06 20:52:46 | Weblog
 去年の正月にわれわれは世界経済は青天井であると評価しました。
 
 もちろんいろいろな紆余曲折はあったものの全体として世界経済は好調を維持しました。
 
 今年はどうでしょうか?
 
 これはむずかしい判断です。
 
 多くの経済指標はまだら模様でよくもあり、悪くもありで判断に苦しむものが多くなってきました。
 
 例えば、4日の日経平均は6年連続の大発会での上昇で、好調な経済を繁栄しているかのように思われましたが、つぎの日には一転して200円以上の下落となりました。
 
 陰と陽の経済指標がそれこそ毎日入れ替わるようなまだら模様は、世界経済の先行きを不透明にしていますが、経験則から言ってこのような情況はどちらかに大きくふれる前兆かも知れません。
 
 もちろん「どちらか」といっても、現在は世界経済全体が停滞に向かっているのでその帰趨は明らかです。
 
 原油、銅などの商品市況が世界的に下落しているのは、世界的に需要の停滞があるからで、これにはすでに世界的な規模で過剰な生産力が形成され始めていることのあらわれでもあります。工業生産が頭打ちになっているから投機的な思惑で買い占められていた基礎的な工業原料が値崩れを始めているのです。
 
 もちろんこのような潜在的な過剰生産が顕在化しないのは、これまた世界的な規模で信用の膨張がなされているからで、世界の株式市場は昨年時価総額を20%も増加させて50兆ドルに迫っています。(中国では株価は200%以上も上昇しましたし、ユーロ通貨は1.5倍も増加しています。)
 
 こういった情況は明らかに異常であり、何年も続くことはありません。
 
 そういう点では信用の膨張には限界があり、今年世界はその限界点を見るのかも知れません。

ブログ再開にあたって    

2007-01-04 02:49:49 | Weblog

昨年は読者の皆様にはいろいろご迷惑をおかけいたしました。  

  最初に、このブログを一時的に閉鎖しなければならなくなった週刊誌に掲載された20年前の事件の記事でありますが、横井の証言を掲載した『週刊現代』に対して、蓮池薫氏および内閣府より事実無根であるという「抗議文」が提出されています。

   これは実に変な話でありまして、20年前に蓮池薫氏に会ったとあちこちでいっているのは私、横井邦彦でありますから、本来ならば、蓮池薫氏も内閣府も『週刊現代』にではなくむしろ私に対して、警告なり、抗議なり、非難なり、訂正要求なりをすべきことがらであったと思います。  

  (特に、蓮池薫氏に対しては、私の住所も携帯電話の番号も教えているのですから、何かおっしゃりたいことがあれば、ご一報いただけるとありがたかったと思います。)  

  しかし、これまでのところ、インターネット上でのネット右翼の無内容な喧噪や一部のマスコミ関係者を除けば、蓮池薫氏本人を含む関係者や公的機関(内閣府や警察等)のどこからも、私に対しては、何の反応も、接触もありません。

 (もちろん、何もいわれていないので何をやってもいいと思いませんが、個人のプライバシーに踏み込むような態度は反省しております。)  

  そこで一足早く、ブログを再開する次第になりましたが、もちろんこのブログは政治・経済の一般的論評を行うためのものですので、20年前の事件のことをこのブログで取り上げることはもうありません。  

  (20年前の件についてもっと知りたいという方は新しいブログ「横井邦彦の雑記帳」を作りましたのでそこをご覧ください。)  

  横井邦彦の雑記帳 http://blog.goo.ne.jp/yokoi1917/