労働者のこだま(国内政治)

政治・経済問題を扱っています。筆者は主に横井邦彦です。

中国の古典から学ぶ“田母神問題”の解決法

2008-11-14 02:23:32 | Weblog
 今、世界は破滅の淵(ふち)に立っており、各国政府は目の色を変えて、行く方を見守っているが、日本だけはまことにのどか平和な別天地となっている。

 そんな日本で、現在、焦眉(しょうび)の問題となっているのは、景気対策に関係しているとも思われない税金のバラマキ方と“田母神問題”である。このオッサン本当に困ったものだが、自衛隊の中で“困っている人”はこの人だけではないということが次第に明らかになり、このことが海外で報道されるなかで、“不思議の国、ニッポン”という印象はますます強まるばかりだ。

 われわれは“田母神問題”などというくだらない問題にはあまり関与したくはなかったのだが、これほど大きな問題になってしまえば、なにか言わざるをえないであろう。

 そこで中国の古典から問題の解決法を探ってみよう。

 ① 司馬遷の『史記』、列伝第五、「孫子、呉起列伝」より、 

 孫子――孫武は、斉(さい)の人である。兵法にすぐれていることで呉王コウリョに謁見(えっけん)した。その時、呉王コウリョが言った。

「そなたの著した十三篇の書は、ことごとく読んだ。ちょっと試しに実際に練兵してみせてくれるか」
「結構です」
「兵は婦人でもいいか」
「はい」

 そこで、呉王コウリョは練兵をおこなわせることにして、宮中の美女180人をかりだした。孫子はそれを2隊に分け、王の寵愛(ちょうあい)している姫二人をそれぞれ隊長とし、一同にホコをもたせて、命令していった。

「お前たちは、自分の胸と左右の手と背とを知っているか」
「知っております」
「前と命じたら胸を、左と命じたら左手を、右と命じたら右手を、後ろと命じたら背を見なさい」
「わかりました」

 こうして、軍令が定まると、それを違反する者を罰するマサカリをととのえて、数回くりかえして丁寧に軍令を説明してから、太鼓を打って〈右〉と号令した。婦人たちは大いに笑うのみであった。

 孫子は、
「軍令が明らかではなく、申し渡しが部隊にゆきわたらないのは、将たる者の罪だ」

 と言って、また三たび軍令を言いきかせて、五たび説明してから、太鼓を打って〈左〉と号令した。婦人たちは、ふたたび大いに笑うのみであった。

 孫子は言った。
「軍令が明らかではなく、申し渡しが部隊にゆきわたらないのは将たるものの罪だが、すでに軍令が明らかであるのに、兵が規定どおりに動かないのは、隊長の罪だ」

 そこで、左右の隊長を切ろうとした。呉王は台上から見物していたが、自分の寵愛している姫を孫子が切ろうとするのを見て大いに驚き、あわてて使者を送って孫子に命じた。

「わしはもう将軍が用兵にすぐれていることをさとった。わしはこの二人の姫がいてくれなければ、食事をしてもうまい味がわからないほどなのだ。どうか、二人を斬らないでくれ」

 しかし、孫子は
「臣はすでに君命を受けて将となっております。将たるものが軍中にある場合には、君命であってもお受けしないことがあります」

 と言って、ついに隊長二人を斬ってみせしめにし、呉王がその次に寵愛している姫を隊長にした。

 こうして、また太鼓を打って号令をくだした。婦人たちは、左といえば左、右といえば右、前といえば前、後ろと言えば後ろ、ひざまずくのも立つのもみな法則どおりで、笑うどころか声を出すものもなく、整然と行動した。こうして孫子は伝令を出して、王に、

「部隊はすでにととのいました。王には、代をおりておためしください。王のおぼしめしとあれば、この兵たちは水火の中にでも喜んでおもむきます」

 と報告したが呉王は言った。

「将軍は練兵をやめて宿舎で休め、わしは、おりていって試そうとは思わない」

 孫子は言った。

「王は、ただ、兵法についての議論はお好きであるが、兵法を実地になされることはできない」

 うんぬん

 ここには兵法についての本質的なことが語られている。

 第一に、「兵(戦争)は死地なり」、すなわち、戦争は命がけのものでありということを孫子もよく知っていることだ。

 兵器がどのように現代化されようとも、戦争が集団による殺し合いであるという本質は変わらない。このことをよく知っているものはむやみやたらと兵について、語らないし、ましてや戦争をむやみに行おうとも思わない。

 そして、厳密に言えば、日本国憲法は兵(戦力)の保持も行使も禁止しているのだから、現代の日本には兵は存在しないし、存在してはならない、というのがわれわれの立場だ。だから、今回の“事件”も笑って見ていることができるし、勝手にやってくれというのがわれわれの立場でもある。ただし、そのような日本の雇用対策のために存在している集団に何兆円もの税金を使うのは非常にムダではないのかという気はする。財政難の折から、三分の一ぐらいにしてもいいのではないか。

 また、本当の兵(軍隊)においては、軍令は“命”によってのみ保たれている。新撰組の『局中法度』でも軍令違反には慚死(ざんし)と切腹しかないし、たいていの軍隊では重大な軍令違反は死刑しかない。これは殺すか殺されるかというギリギリのところで戦っている以上、集団全体を危険に陥らせる重大な行為は絶対に許容できないからだ。

 そういう点で、内戦中に逃亡した指揮官を銃殺にしたトロツキーは正しかったのである。(われわれがトロツキーを批判しているのは、彼が一般将兵、つまり、労働者を銃殺したからである。孫子はここで「軍令が明らかであるのに、兵が規定どおりに動かないのは、隊長の罪」といった当然のことをトロツキーが無視したからである)

 そして、もし、自衛隊が兵(戦力)であると主張するものがいたら、われわれは、当然のこととして、現在の情況のもとでは、自衛隊をもし兵(戦力)にしたいというのであれば、陸海空の左官以上のものを“皆殺し”にする必要があるというしかない。自衛隊に入るときに日本国憲法を遵守すると誓約しながら、それを実行しないのは、軍令以上の罪であるのだから、自分の命で、その罪を償ってもらわなければならないだろう。

 その② 泣いて馬ショクを斬る

 馬ショクは蜀の軍人で諸葛孔明によって取り立てられた。

 諸葛孔明は馬ショクを非常に重く用いたが、「街亭の戦い」の責任を取らされて、諸葛孔明自身によって軍令違反の罪で首を切られている。二人は親子同然の親しい間柄であったので、大軍師孔明は泣きながら馬ショクを斬ったことからことわざになっている。

 しかし、ここにはいくつかの問題点がある。

 第1に、蜀の王、劉備は死に際して「馬ショク、言、その実を過(す)ぐ、大いには用(もち)う可(べ)からず、君、それを察せよ」(馬ショクは言うことは立派だが、実力がともなっていない、だから重要な役職につけるべきではない、君[諸葛孔明]はそういうことを理解しなければならない)という遺言を残していた。

 つまり、諸葛孔明は君命(劉備の遺言)に背いて馬ショクを重用したのだが、これもまた重大な誤りであるからだ。

 第2に、諸葛孔明の第一次北伐のとき、彼は戦略的に要衝である祁山(ぎざん)を攻略にここを拠点に渭水(いすい)をたどって魏の首都である長安を攻めるという戦略を持っていた。

 諸葛孔明は祁山(ぎざん)の攻略には成功したが、魏の将軍張コウ(ちょうこう)が背後から蜀軍を突こうとしたので、諸葛孔明は馬ショクに街亭に防衛戦を築いて張コウ軍から渭水(いすい)の両岸を防衛せよ、と命じたのである。

 ところが、馬ショクは兵書には「高きところより攻めよ」と書いてある(確かにそのように兵法書には書いてある)といって、水路の防衛を主張した部下の言葉も聞かず、水路を捨て、近くの山の上に陣取った。

 蜀軍のこの陣形を見た戦(いくさ)上手の張コウは「バカほど高いところに登りたがる」と言ったかどうかは知らないが、たちまち水路を断ち、山の上の馬ショク軍を包囲した。馬ショク軍は水路を断たれたので、たちまち補給が途絶し、水も手に入らなかったので、馬ショク軍は衰弱し、糧食を断たれて衰弱したところを張コウに攻められたので、馬ショクは張コウ軍に粉砕されてしまった。

 祁山(ぎざん)を攻略した諸葛孔明であったが、背後の街亭が陥落してしまったので、全軍引き上げざるをえなくなり、ここに諸葛孔明の第一次北伐は失敗した。

 ここで問題なのは、馬ショクの軍律(命令)違反うんぬんの前に、馬ショクが自分のなすべきことを理解していないことだ。諸葛孔明が馬ショクに街亭に防衛戦を築いてそこで張コウ軍を向かい打て、と命令したのは、馬ショク軍をおとりにして張コウ軍を街亭に引き寄せて、自分が張コウ軍の背後に回り込んで挟み撃ちにするつもりだったからである。

 ところがそのような諸葛孔明の戦略を馬ショクは知らず、張コウ軍と決戦するつもりで山に登ったのである。つまり、馬ショクは魏軍と蜀軍による街亭の攻防戦を、防衛戦としてではなく、攻撃戦として戦おうとしたのである。

 しかも、馬ショクは諸葛孔明がなぜ街亭にこだわって「そこを防衛せよ」と命じたのかということすら理解していない。諸葛孔明が街亭にこだわったのはそこが渭水(いすい)の両岸にあり、渭水(いすい)をたどって魏の都長安を陥れるという諸葛孔明の大戦略の実行にとって欠かせない場所であったからだ。だから馬ショク軍は何が何でも水路の確保が至上命令でなければならなかったのであるが、馬ショクはこの諸葛孔明の戦略を理解していなかった。

 諸葛孔明にすれば、頭のいい馬ショクであれば、街亭に防衛戦を築いてそこで張コウ軍を向かい撃てと言えば、馬ショクはすべて理解すると思ったのだろうが、思いこみは禁物である。

 先の『史記』では、孫子は「軍令が明らかではなく、申し渡しが部隊にゆきわたらないのは、将たる者の罪だ」というだけではなく、「三たび軍令を言いきかせて、五たび説明」したのである。

 そういう点からするなら、馬ショク軍の敗北には「将たるもの」(この場合は諸葛孔明)の軍令の説明不足という第2の誤りがあるのである。

 今回の“田母神問題”では、「将たるもの」(この場合は防衛大臣)が「自衛隊ではバカを放し飼いにしている」と非難されているが、果たしてこの「将たるもの」は「三たび軍令を言いきかせて、五たび説明する」という努力をしたのだろうか?

 していなかったとするなら、「軍令が明らかではなく、申し渡しが部隊にゆきわたらないのは、将たる者の罪だ」という孫子の指摘は正しいのではないか?

 その③、再度「兵は死地である」について

 この言葉は、趙(ちょう)のチョウシャが息子の括(かつ)について語った言葉である。彼は戦国時代の趙(ちょう)の恵文王の元で有能な将軍であったが、恵文王が死に、息子の孝成王の時代に秦軍が進入してきたので、孝成王は再度チョウシャに出陣を求めた。あいにくチョウシャは病床にあったために、その息子の括(かつ)を将軍にするという話が持ち上がった。その時、チョウシャは

「兵は死地なり、しかるに、括(かつ)は易(やす)くこれを言う。趙(ちょう)をして括(かつ)を将とせざししめばすなわち、已(や)む。もし必ずこれを将とせば、趙(ちょう)の軍を破る者はかならず括(かつ)ならん」(戦いは命がけのものだ、だのに括は安易な気持ちでそれを論じる。趙(ちょう)が括を将軍にしないようなら結構なことだが、どうしても将軍にするということにでもなったら、趙(ちょう)の軍を敗退させるのはきっと括であろう)

といった。

 しかし不幸なことにチョウシャの願いは聞き届けられず、括は将軍になってしまった。

 出陣が近くなると今度は括の母親が

「夫は下賜品(かしひん)がありますと、みな部下の方々に分かち与え、出陣のおりには家事はいっさいかえりみませんでした。ところが括は頂戴(ちょうだい)した金品は自分の家にしまい込み、田地や家屋敷など、手ごろな出物があると、そんなものを買っております。父と子では心がまえがまるで違うのです。どうぞ、あの子をおつかわしなりませんように」と上書したがそれも却下された。

 その結果、括は“長平の戦い”で秦軍に退路を断たれて大敗し、大将軍括は戦死、部隊は壊滅、生き残ったものは秦軍によりことごとく生き埋めにされ、趙(ちょう)の45万の兵は消滅して、チョウシャの言葉どおり趙(ちょう)は滅び去った。

 括は進むことは知っていたが、退くことも戦いの重要な局面であることを知らなかったために、退路を断たれて包囲センメツされてしまったのである。

 括の両親が本当の息子である括のことをよく知っていたので、心を鬼にして、頭がいいことだけがとりえの括を将にしないために努力したが、息子のようにかわいがっていた馬ショクを泣いて斬った諸葛孔明は、ある意味で、情に流されて馬ショクの本当の実力を見抜けなかったのであろう。

 そういう点では、諸葛孔明は戦国時代の孫子やチョウシャに劣るのだが、中国の人は昔から、そういう人間味あふれる諸葛孔明の方が好かれており、今でも「レッド・クリフ」(三国志)が好まれている。(日本でも、「三国志」のファンは結構いる)


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