労働者のこだま(国内政治)

政治・経済問題を扱っています。筆者は主に横井邦彦です。

訂正と補足

2008-04-28 01:20:02 | Weblog
 前回、レーニンの学歴詐称の記事で若干の間違いと不正確な点がありましたので訂正します。
 
 最初に、レーニンが退学になった大学を「サマラ」といいましたが、これはカザン大学の間違いです。これはレーニンが17才の時のことです。
 
 この間、レーニンは「勉学を続けるため」とか「病気を治療する」という理由で国外旅行(つまり政治亡命)を警保局から拒否されています。(つまりレーニンの行動はロシアの秘密警察によって規制されていたので、警保局の許可なしに何かをするというのは事実上不可能でした。)
 
 1890年、彼が20才の時、ようやくペテルスブルク大学法学部の国家検定試験を受ける許可を得ます。レーニンは91年の春期と秋期の二回この国家試験を受けて合格し、92年に弁護士の資格をえます。(レーニンがこの国家試験を受けなかった、または不合格であったのであれば、問題でしょうが、彼が国家試験を受け、その試験に合格していることは秘密警察も確認しているので間違いはないでしょう。)
 
 そこで問題となるのが、この国家試験の内容ですが、これを現在の司法試験のようなものであると考えると、レーニンがペテルスブルク大学の卒業証書をもっているのはいかにも変な話です。彼はペテルスブルク大学に入学もしていないし、通学もしていないし、卒業式にも参加していないのですから卒業証書をもっているはずがありません。
 
 レーニン全集の第1巻の巻尾の年表によると、92年1月14日「ペテルスブルク学務区管理局から優等の大学卒業証書を受ける」と書いてありますが、もちろん卒業証書には優等、下等の区別などありません。それに卒業証書は基本的に大学が発行するもので文部省の「学務区管理局」が発行するものではありません。
 
 しかし同じ月の1月30日には「サマラ管区裁判所の決定によって弁護士補名簿に登録される」とあります。
 
 つまり、レーニンから弁護士になりたいという申請があって、裁判所がその申請を妥当なものとして受け入れたのですが、その裁判所への申請書類に大学の卒業証書が必要だった可能性があります。
 
 それで再度、「ペテルスブルク学務区管理局から優等の大学卒業証書を受ける」ということの意味ですが、レーニンがもっていたペテルスブルク大学の卒業証書を発送したのが国家試験を主催した「学務区管理局」であるとしたら、「それが正規の卒業証書」ではなかったことの説明にはなるのではないでしょうか。
 
 つまり、文部省の「学務区管理局」は正規の大学卒業者の卒業証書とそうでない人の卒業証書を区別する必要を感じていたわけで、一見してその区別と意味が分かるような卒業証書を合格者に配布していたということでしょう。

いずれにせよ、こういうことをゴチャゴチャと掘り返すことは、あまり意味があることとは思えませんので、これぐらいにしておきます。
 

レーニンの学歴詐称

2008-04-25 01:27:07 | Weblog
 レーニンが学歴詐称をしているという記事をおもしろく読んだ。
 
 何でもペテルスブルク大学を卒業していないそうだが、ひょっとしたらそれはありうるかも知れない。
 
 もっともこの学者が言う、幼年期のレーニンは正しくない。レーニンの父は視学(学校教員を監督する立場の人)であり、兄はペテルスブルク大学の優等生だったから、兄が皇帝爆殺未遂犯として逮捕され処刑されるまでは、当然彼も学業優秀な生徒としてあらゆる“俗世間”の名誉を勝ちとってきたであろうことは間違いない。彼にはこれ以上望めないほど良好な教育環境があったのである。
 
 ところが兄の逮捕後、レーニンは左翼活動家として登場することになるが、こうなると話は一変してくる。当然彼は要注意人物として学校側に目をつけられることになるのだから、彼に対する学校側の評価は否定的なものになる、おとなしくしていれば猫をかぶっているといわれ、何かをいえば、やっぱりテロリストは恐ろしいということになる。
 
 だからレーニンもサマラの大学をデモをしたということを理由にして退学になっているし、法学という彼の専攻した学問の特殊性を考えても、法学部の優秀な学生であることと有能な左翼活動家であることのあいだには相当大きなギャップがある。(私自身の経験に照らしても、大学時代に一瞬、法学者にでもなろうか、と考えたこともあったが、それは左翼活動家をやめなければ不可能だということがわかったので、すぐにそのような考えは捨てた。)
 
 だから、私は以前に、マルクスとレーニンと私はともに法学部出身だが、私とレーニンは“落ちこぼれ”であり、法学をまっとうしたのはマルクスだけというようなことをいったことがある。(これはマルクスが左翼になったのは大学卒業後だという、“幸運”に起因している)
 
 そこでレーニンの法学に対する理解度だが、後年、つまり革命後、レーニンは新生ソビエトの民法や刑法の制定をほとんど、法務人民委員(法務大臣)のデ・イ・クールスキーにまかせきりにしているし、革命後制定された“ソビエト憲法”の起草作業にはスターリンやスベルドルフを参加させており、自身は関わっていない。(もっとも監督する立場として彼らに指示は出しているが、その指示の多くは政治的なものである。)
 
 またレーニンの有名な“プロレタリア独裁”理論についても、政治的な発想はあるが、法学的な意味での「権力論」という発想はあまりない。
 
 それに比べて彼の若い頃の経済学、特にマルクス経済学に対する理解は非常に深いものがあり、二十歳過ぎで「資本論」の講師として労働者に資本論の解説をしていたのだから、マルクスの諸著作はきちんと読み込んでいたはずである。
 
 こういうところから浮かんでくるのはマルクス主義政党の優れた政治的指導者というわれわれのよく知っているレーニンであり、ペテルスブルク大学の法学部を優秀な成績で卒業した学生が左傾化してマルクス主義者になったというイメージではない。(このイメージにぴったり合致するのはメンシェヴィキのマルトフである)
 
 もっともレーニンは大学に通って卒業したのではなく、卒業試験だけを受けて大学を卒業した“特殊な学生”であったことを考えると、こういうこともありうるだろうという気はする。
 
 それでこの画期的な問題提起をしたヨーロッパの学者さんだが、彼はいったい何を言いたいのだろうか?
 
 レーニンは実はバカだったとでもいいたいのだろうか?
 
 しかしこういうことはむしろ逆のことを、つまりヨーロッパのエライ学者さんがよってたかって必死になってレーニンをおとしめ、卑しめようとしていることは、むしろ事態はヨーロッパのエライ学者さんの意図せざる方向に進んでいる(死んだはずのレーニンが亡霊となってヨーロッパをさまよっている)ことを表しているのではないか。
 
  

光事件の死刑判決について

2008-04-24 21:53:22 | Weblog
 光事件について、マスコミ、最高裁判所、そして遺族の念願がかなって、ついに被告人に死刑判決が下った。
 
 われわれは彼らについておめでとうというべきなのであろうか?
 
 彼らは口をそろえてこれで犯罪が減るというのだが、死刑によって犯罪が減るものであれば、死刑大国中国では殺人事件はなくなってもよさそうなものである。
 
 むしろ、最近の不気味な犯罪動向として、反社会的な自殺が増加していることである。
 
 日本の自殺者は毎年三万人を越えているが、その自殺のやり方が手段を選ばないものになっている。新幹線に飛び込んだり、硫化水素を発生させて何十人もの近隣の人に毒ガスによる被害を及ぼしたりと、手口がだんだん荒っぽいものになっている。
 
 どうせ死ぬなら、人の迷惑にならないような手段を選ぶべきだと思うが、そうでないのは日本の自殺者のなかには社会に対する抗議なり、潜在的な敵意といったものも含まれているからなのだろう。
 
 そこで、問題となるのは、これら自殺志願者のなかから自殺の手段として死刑制度を利用しようとする者が出てこないのかということである。
 
 つまり、誰でもいいから、2、3人殺して国家によって死刑にしてもらおうという、不届き者が出てこないのかということである。実際、死刑にして欲しいから人を殺すなどということが実際に起こるようなことがあれば、それは国家とマスコミが無差別殺人を奨励しているようなものであろう。
 
 われわれはこういう不幸なことが起こらないように願うばかりである。
 
 

田口騏一郎氏の不信仰告白

2008-04-15 01:25:26 | Weblog
 マルクス主義同志会の転落はその速度をますます加速させているようである。
 
 本当に不思議な話なのだが、われわれ赤星マルクス研究会とマルクス主義同志会は2002年までは同じ組織に属していたのである。それが今では、同じ組織に属していたということすら、不思議なことであり、信じられないことになってしまった。
 
 どうしてこういうことになってしまったのか、今回は60年安保以来の林紘義氏の“戦友”であり、現在のマルクス主義同志会のナンバー2である田口騏一郎氏の緒論を取り上げつつ再度考えてみよう。
 
 しかし、これもまた不思議なことであるが、田口騏一郎氏はここで林紘義氏が創設した価値妄想教の第一原理である、「価値は物質である」に挑戦しているのであるから、それこそペテロとパウロが二人そろってイスラム教に改宗して、異教徒(キリスト教)に対する“自爆テロ”を志願しているようなようなものであろう。
 
 田口騏一郎氏いわく、「生産のために支出された労働が価値として現れるのは、交換を前提しているからである。異なった使用価値をもつ商品同士が交換されるということのうちには、両者に共通なものがあるからである。それが抽象的人間労働=価値である。価値概念のうちには使用価値を含まれないのである。」(『海つばめ』第1065号)
 
 いわく、「川上は、論文の副題として『価値の物質性について』とつけているが、マルクス主義の価値概念を歪曲して、それに物質を入れて理解しようとする試みの破たんを暴露している。」(『海つばめ』第1065号)
 
 このように田口騏一郎氏は、価値と使用価値はまったく異なるものであるのだから“川上”なる人物の、価値を物質(使用価値)と結びつけて理解しようとする見解は破綻している、このように高々と宣言する。
 
 では価値とは何か?田口騏一郎氏は明快にそれは抽象的人間労働であるともいう。価値が“抽象的人間労働”という観念的なものであるなら、当然それは物質ではないということになるが、田口騏一郎氏はそれでもいいともいう。田口騏一郎氏はマルクスの「交換価値は、ある物に支出された労働を表現する一定の社会的様式であるから、たとえば為替相場と同じように、それが自然的素材を含むことはありえない」と高々と宣言する。
 
 ところが、つぎに田口騏一郎氏は最後にこっそりと価値=貨幣といいかえる。つまり田口騏一郎氏はこれまでいってきたことをすべてご破算にして、価値とは物質(貨幣)であるというのである。
 
 どうして田口騏一郎氏はこれまで否定してきた見解に突如として乗りうつることができるのであろうか?それは田口騏一郎氏が何も考えてはいないからである。
 
 つまり、田口騏一郎氏は自分が信奉しているはずの宗教についても、マルクス主義についても何も知らないし、単に知らないだけではなくこれらのことを知ろうという意欲や意志すらないからであり、ただ「価値と使用価値はまったく異なるものである」という誰が言ったのかも判然としない言葉をたよりに、思弁を積み重ねて(「屁理屈をこねて」ともいう)自分でも何を言っているのかすら分からない世界を作り上げているからである。
 
 だから彼らマルクス主義同志会の理論はつねに砂上の楼閣であり、少し突くだけで、ボロボロとくずれてしまうようなしろものでしかないのである。
 
 試みに、田口理論を少し突いてみよう。田口騏一郎氏は「交換価値は、ある物に支出された労働を表現する一定の社会的様式である」というマルクスの言葉を引用しているが、「ある物に支出された労働を表現する一定の社会的様式」というのはどのような様式であろうか?それは、いうまでもなく「ある物に支出された労働」を「物の属性として」、すなわち対象性(商品に内在するある物質)として表現するような「社会的様式」なのである。
 
 だから、田口騏一郎氏が提示している価値=抽象的人間労働という等式は厳密に言えば正しくないのであって、正しくは、価値=「抽象的人間労働の凝固物」(『資本論』)もしくは「結晶した労働」(『資本論』初版本)、もしくは「物質化した労働」、もしくは「対象化された労働」、もしくは「価値対象性という物的形態」といわなければならないのである。
 
 そういう点では大田口騏一郎氏は大きな誤解をしているのである。
 
 われわれ赤星マルクス研究会とマルクス主義同志会は、価値の根本的な定義について、「馬」(非物質的なもの)か?「鹿」(物質的なもの)か?をめぐって争っているのではない。
 
 それが何であるかは別にして、それが「鹿」(物質的なもの)として現象している(しなければならない)という認識では、マルクスもわれわれ赤星マルクス研究会もマルクス主義同志会も一致しているのである。(この場合、一致していないというよりも、問題の所在すら理解できていないのは田口騏一郎氏だけである。)
 
 われわれ赤星マルクス研究会が、この問題について、「『馬』(非物質的なもの)を『鹿』(物質的なもの)と見なす」(たんにある個人がそのようなものと見なすということではなく、ある特定の発達段階の社会において、その社会の成員の共通の認識、もしくは共通の社会的観念として、そのようなものとして見なされる)と考えているのに対して、マルクス主義同志会は、これ(「馬」が「鹿」として現象すること、すなわち、非物質的なものが物質的なものとして現象するということ)を言葉通りに受け止めて、「『馬』(非物質的なもの)が『鹿』(物質的なもの)になる」と本気で考えているのだから、過去においてわれわれ赤星マルクス研究会とマルクス主義同志会のあいだには、けっして乗り越えることのできない、非常に激しい対立があったのであり、この点において、われわれとマルクス主義同志会は決定的に決裂し、われわれは別離したのである。
 
 われわれ赤星マルクス研究会が、マルクス主義同志会に、「だから、商品形態の秘密はただ単につぎのことのうちにあるわけである。すなわち、商品形態は人間にたいして人間自身の労働の社会的性格を労働生産物そのものの対象的性格として反映させ、これらの物の社会的な自然属性として反映させ、したがってまた、総労働に対する生産者たちの社会的関係をも諸対象の彼らの外に存在する社会的関係として反映させるということである。このような置き替えによって、労働生産物は商品になり、感覚的であると同時に超感覚的である物、または社会的な物になるのである。同様に、物が視神経に与える光の印象は、視神経そのものの主観的な刺激としてではなく、目の外にある物の対象的な形態としてあらわれる。しかし、視覚の場合には、現実に光が一つの物から、すなわち外的な対象から、別の一つの物に、すなわち目に、投ぜられるのである。それは、物理的な物と物とのあいだの一つの物理的な関係である。これに反して、商品形態やこの形態があらわれるところの諸労働生産物の価値関係は、労働生産物の物理的な性質やそこから生ずる物的な関係とは絶対になんの関係もないのである。ここで人間にとっての諸物の関係という幻影的な形態をとるものは、ただ人間自身の特定の社会的関係でしかないのである。それゆえ、その類型を見いだすためには、われわれは宗教的世界の夢幻境に逃げ込まなければならない。ここでは人間の頭の産物が、それ自身の生命を与えられてそれら自身のあいだでも人間とのあいだでも関係を結ぶ独立した姿に見える。同様に、商品世界では人間の手の生産物がそう見える。これを私は呪物崇拝と呼ぶのであるが、それは、労働生産物が商品として生産されるやいなやこれに付着するものであり、したがって商品生産と不可分なものである」(『資本論』第1巻、大月文庫版、第一分冊、P135~136)というマルクスの言葉を無条件に承認するように求めたのにたいして、マルクス主義同志会はわれわれとは正反対の道、すなわち、「諸物の関係という幻影的な形態」(非物質的なものが物質的なものとして現象するという幻影的な形態)を真実であると思いこみ、そのような見解に立脚してマルクス主義に対して激しく攻撃を開始した。
 
 その時、マルクス主義同志会が持ち出した理屈はつぎのようなものであった。商品は自分自身の価値を物質化するだけの超能力は持っていないが、等価形態にある商品を価値体(価値物質)にするだけの摩訶不思議な能力は持っているのであり、この“商品の本性”(商品には人智を超越した神的な霊力が備わっているということ)に導かれて、等価形態にある商品は“目に見える価値”、すなわち価値物質(物質化した価値)となっていくのであると。(マルクス主義同志会は、等価形態にある商品の使用価値によって価値が表示されているので価値が目に見えるようになったということは思いもおよばない)
 
 そして商品世界の発展は、一般的等価形態(すべての商品の価値を一つの使用価値によって表示する)、すなわち貨幣形態を生みだす。
 
 マルクス主義同志会は、こうして「『馬』(非物質的なもの)が『鹿』(物質的なもの)になる」というのだが、他方において、この価値の貨幣の結晶化をつぎのようにも評価している。
 
 「ここでマルクスは、人間の労働が貨幣形態をとるということは、抽象的人間労働としてそれが等しく『人間と人間労働力』がその限りで完全に平等であることを教えているのだ、といっているのだ。そしてさらに重要なことは、これが、労働が私的なものではなく、徹底的に社会的になったということをも明らかにしていることである。
 
 我々は目の前に、一般的な商品経済、貨幣経済を見ている。しかしその最も重要な意味を反省していない。これは、人間労働が徹底的に社会的になったということ、そしてその限りで、そこに社会主義の現実的な条件が形成された (もっとも抽象的な意味で、したがってまたもっとも本質的な意味で、だが)、ということである。」(『林紘義著作集』、第1巻、P71)
 
 実際には、マルクス主義同志会がいっていることとは正反対のことが正しいのである。つまり、商品経済、貨幣経済においては、様々な人間労働は現実に等しくないから、抽象的人間労働という、労働の具象性をはぎ取ったものに還元されなければ等置できないのであり、また現実の労働は私的なものであって社会的なものではないから、貨幣という社会的な道具が必要なのである。
 
 しかし、眼前にあらわれているものをすべて現実として受け止めることによって成り立っているマルクス主義同志会は、この商品社会に特有の“転倒”した姿、(非物質的なものが物質的なものとしてあらわれ、私的なものが社会的なものとしてあらわれ、人と人の関係が物と物の関係としてあらわれ、しかもあたかも物(商品 )が自分の意志を持った存在であるかのようにふるまうという呪物崇拝の虜(とりこ)となっていく。
 
 マルクスはこの呪物崇拝を宗教によく似ているというが、自らの意志で“呪物崇拝の徒”となったマルクス主義同志会は、ここで現実の社会の階級対立を反映した政治集団であることをやめて、宗教団体への道を歩き始める。
 
 つまり、貨幣に社会主義を見たマルクス主義同志会は、
 
 キンキン、キラキラ、夕日の丘に、
 キンキン、キラキラ、日が沈む
 まっ赤、赤、空の雲、
 みんなのお顔も、まっ赤、赤
 
という世界の住人へとなっていくのである。マルクス主義同志会は(貨幣が)キンキラキンであることが、みんなのお顔がまっ赤、赤(社会主義)であることの条件であるというのだから、この社会(一般的な商品経済、貨幣経済)はそのものとして社会主義であるというべきであろう。
 
 ところがマルクス主義同志会は、つぎにこの“キンキラキンの社会主義”をおびやかす、いくつもの悪だくみを発見していきり立つ。
 
 その悪だくみの最たるものは、社会主義=キンキラキンの貨幣を“紙きれ”(価値商標としての不換紙幣)に代えようとするものであり、つぎには人間の平等を根底から否定する“不等価交換”(商品社会では、人間労働の平等性は等価交換によって表されている)である。
 
 だからマルクス主義同志会の「資本と賃労働の交換は“不等価交換”だから許せない」という大絶叫は、資本主義社会を商品生産社会へと引き戻せという要求に帰着する。
 
 ここで、マルクス主義同志会は社会主義を要求し、商品の廃止を訴えているではないかという見解も出てくるのだが、よく考えていただきたい、マルクス主義同志会は確かにそのようなことを主張しているが、そのための第一歩としての資本主義的生産様式の廃絶、つまり搾取を廃絶して生産手段を社会の共有にするということは、商品社会の廃絶を直接的に意味するものではないとして明確に否定されている。
 
 その代わりにマルクス主義同志会が主張しているのは「資本の勢力の一掃」である。この「資本の勢力の一掃」という言葉は「労働の解放」という言葉と対になって語られるが、「労働の解放」とは、もちろん、「労働者階級の解放」のことではない。
 
 そうではなくて、「労働の価値」(マルクス主義同志会はアダム・スミスの価値論に立脚しているので「商品の価値」=「v:労働者の賃金+m:剰余価値」=「労働の価値」である)を労働者が受け取ること、つまり労働者と資本家の交換が等価交換であるような取引がなされることが、「資本の勢力の一掃」=「労働の解放」=「社会主義」なのであって、この場合もやはり、マルクス主義同志会の主張は、資本主義社会を商品生産社会へと引き戻せという要求に帰着する。
 
 マルクス主義同志会は、もともと貨幣=社会主義という立場なのであるのだから、社会主義になっても貨幣は残るという立場なのである。そして、商品があれば貨幣が存在するのだし、社会主義とは「労働者と資本家の交換が等価交換である」ような社会であるということは当然、社会主義になっても資本家は存在しなければならないのである。(当たり前のことだが、資本家がいなくなってしまえば労働者は労働を交換する相手がいなくなってしまい、交換自体が成り立たなくなるであろう)。
 
 そこで田口騏一郎氏だが、氏はマルクス主義同志会が“呪物崇拝の徒”となり、呪物崇拝を通して、マルクス主義同志会が全体として宗教団体へと変容していったことにたいして、まったく無自覚であり、こういうこと(マルクス主義の原理的な問題)は田口騏一郎氏にかぎらず、すべてのマルクス主義同志会の会員にとってどうでもよいことのなかに入っている。
 
 そういう点では、宗教団体としてのマルクス主義同志会において、イエス・キリストはただ一人のみで、他の信者は信者のふりをしているユダばかり、という何とも不思議な宗教団体となっている。
 

はて?はて?

2008-04-11 20:57:04 | Weblog
 何度も言いますが、蓮池薫氏と拉致問題に関するコメントは見つけしだいすべて無条件で削除します。

 ところで、日本語もロクに理解できそうもないバカ者の一人は「フリーチベット」を名乗っていました。

 どういうことでしょうか?

 「フリーチベット」運動というのはそういう運動なのでしょうか?

 だとするならば、このようなくだらない運動にはどんな展望もないということの動かぬ証拠ということになります。

 

ソクーロフのレーニン像

2008-04-05 01:08:54 | Weblog
 アレクサンドル・ソクーロフなる人物によって「牡羊座レーニンの肖像」なる映画がつくられて日本でも上映されているそうである。
 
 何でも“落日のレーニン”を描いた映画だそうで、ソクーロフによれば、レーニンは数度にわたる脳神経の発作によって半身不随になっり、言語機能も喪失しはじめていたがゆえに、頭もボケ始めていたのだそうである。
 
 してみると重度の脳梗塞を患った人はみんな“ボケ”ということになるが、ソクーロフはそういう風に障害を持った人々を見ているのだろうか?
 
 そもそも、ソクーロフはいかなる医学的な根拠によって、あの人は脳性マヒになって、半身不随の上に、言葉もはっきりしゃべれないから、きっと頭もボケているのであろうなどという判断をくだしているのだろうか?
 
 しかもこのことは、ソクーロフが描こうとしているもう一つのこと、つまり、ソ連共産党の書記長であったスターリンが、病気を理由にしてレーニンを事実上隔離し、誰にも会わせようとなかったし、新聞の読ませないし、文通も禁止したばかりではなく、レーニンの治療や介護をしたり、レーニンが口述したものを筆記したりしていた人々を“スターリンのスパイ”で固めていた、ということともひどく矛盾しているのではないか?。
 
 ソクーロフがいうように、レーニンが本当にボケていたのであれば、スターリンはそこまで徹底的にレーニンを管理する必要はなかったであろう。
 
 そうではなくて、“落日のレーニン”は半身不随であり、言語能力(言語を発するという意味での言語能力)を喪失しつつあったが、思考は明瞭であったがゆえに、スターリンはレーニンを死ぬほど恐れており、レーニンを恐れるがゆえにレーニンを徹底的な管理のもとにおこうとしたのであろう。
 
 しかも狡猾なレーニンはスターリンの監視の目をかいくぐって、スターリンの“天敵”と目されていたトロツキーに手紙を送り、スターリンを追い落とすためにともに闘おうとさえ訴えているのであるから、レーニンが死んだ日のスターリンの喜びも理解できようというものである。
 
 ソクーロフはこの“レーニンの最後の闘争”を完全に無視することによって、何ものでもない映画を作っている。
 
 ソクーロフはこの映画で何を言いたいのだろうか?かつて権力の頂点にあった人間が、病気になってぼけてしまいみじめな終末を迎えようとしているといいたいのであろうか?
 
 もちろんそのような考えは徹底的に間違っている。
 
 1923年3月の二度目の発作によって、レーニンの言語能力は失われ、彼は自らの意志を表明することもできず、情報の完全な遮断によりロシアで何が起こっているのかすら理解することはできなくなったが、保養所でとられたレーニンの最後の写真には、衰弱したレーニンの姿態とともにあの往年の不敵な笑みが戻っている。
 
 それはソクーロフの映画でレーニンの役を演じている役者がまねをしようとしてもできない笑みであり、自分は自分のできることはすべてやったのだという満足した笑みでもある。
 
 そしてその不敵な笑みは、自分はやがて復活するという確信に満ちた笑みでもある。
 
 だからこそソクーロフは“破滅の大魔王”が復活しないようにという祈りを込めて、みじめなレーニン像を作り上げようとしているのだが、そういう必死さのなかに、彼もまたスターリンと同じように、“落日のレーニン”にたいして本能的な恐怖心を感じていることの裏返しでもあるのだろう。
 
 
 
   

チベット問題について

2008-04-03 00:39:41 | Weblog
 どういうつもりかは知りませんが、われわれにチベット問題についての見解を執拗に求めている人がいます。
 
 それこそ「どういうことでしょうか?」と聞き返したいほどですが、ここはおだやかに見解を簡単に述べたいと思います。
 
 はじめにわれわれ赤星マルクス研究会は結成以来一貫して現代中国のことを「中国資本主義」と呼んできました。
 
 われわれが旧ソ連や東欧諸国のようなスターリン主義体制の国々を「国家資本主義」(国家と資本主義が癒着、結合しているという意味での国家資本主義)と呼んでいたことと比べてみれば明らかだと思いますが、われわれは現在の中国はどのような「スターリン主義」とも「社会主義」とも無縁な普通の資本主義国家であるという意味で「中国資本主義」、すなわち、国家資本主義(スターリン体制)とも区別された純然たる資本主義社会として中国を規定しています。
 
 これは中国の現代史から見ても、現在の中国の社会体制(土地や財産の私的所有が認められ、労働者を搾取する私企業が国の主要な社会構成体をなしている現代中国の体制)からしても妥当であると考えています。毛沢東の中国革命は当初から農民革命として存在しており、その結果登場した“中国社会主義”は革命最初から小ブルジョア的な性格を色濃くもっており、本来の意味での、つまり“労働者の政治”としての社会主義とはあまり関係のない政治体制でした。
 
 その中国が文化大革命の否定者である小平のもとで小ブルジョア的な農民国家から純然たる資本主義国家へと転換したことは何の不思議もありません。われわれはすでに1980年代に起こった“天安門事件”の時に、中国共産党の一党支配(中国の労働者にとって資本の支配とは何よりも中国共産党の支配を意味していました)に反対した労働者(“天安門事件”の本当の主人公は学生ではなく、労働者たちでした)を中国共産党が虫けらのように殺害したことにたいして、中国共産党は中国の労働者階級の許すべからざる敵であり、労働者階級の怒りによって打倒されなければならない存在であると規定しています。
 
 そこでチベット問題ですが、こういうことは中国が発達しつつある資本主義であることから避けられないものです。この点、ソ連の国家資本主義が崩壊する過程でいくつもの国民国家が誕生していったこととは区別されるべきでしょう。
 
 たとえば世界で最もはやく資本主義的生産様式が発達したイギリスでは、クロムウェルがアイルランドを占領してイギリスの領域に強制的に組み入れており、アメリカで資本主義が本格的に発達した19世紀後半はアメリカインディアンの殉難の歴史でもあります。日本でも明治維新後二度にわたって“琉球処分”と呼ばれる琉球王国に対する徹底的な解体と破壊が行われ、アイヌは内地との同化を強制されたり、千島列島のアイヌ人が色丹島に強制移住されています。(つまり日本資本主義は辺境地帯に“異民族”が居住しているのは好ましくないと考えたのです。)
 
 アメリカ資本主義にとってもこの問題は“ウンディド・ニー”(傷ついたひざ=1890年にウンデッド・ニーでスー族にたいしてアメリカの騎兵隊が機関銃を無差別に乱射して数百人の子どもや女性、老人を含むインディアンを皆殺しにした事件)であり続けている。アメリカでは1973年にインディアンが奪われた自分たちの土地を求めてウンディド・ニーで占拠事件を起こしたとき、アメリカ人(土着のインディアンこそ真のアメリカ人で現在“アメリカ人”を自称している人々はよそから来た征服者にすぎないのだが)は恐怖におびえた。
 
 このように資本主義はどこにおいても古い社会を無慈悲にも滅ぼして自らの領域国家をうち立ててきたのだが、われわれはそれでも資本主義の進歩性(マルクスは資本主義の文明化作用と呼んでいる)を認めてきた。資本主義のもとで生産力が飛躍的に高まり、社会主義の物質的な条件を準備するという点で、それは歴史の必然性の領域の話であり、そういうものとしてわれわれはそれを承認してきた。
 
 これ(資本主義の文明化作用を認めるか否かという問題)は、われわれ赤星マルクス研究会とわれわれの“本家”であるマルクス主義同志会の大きな違いである。
 
 チベット問題について言えば、ラサまで鉄道が引かれ、チベットが中国資本主義の領域に引き込まれていったときから、こういうことになることははじめから分かりきっていた。資本主義は古い世界を徹底的に討ち滅ぼした廃墟の上にうちたてられる生産様式であり、その廃墟の下には、何百万人、何千万人の“非業の死”とげた人の遺体が眠っているのである。
 
 もちろん、近年ではこのような資本主義の必然の支配が貫徹するだけではなく、それとは違った発展の可能性も存在するようになっている。
 
 それはイランで見られたように、資本主義の急速な発展により没落の危機に瀕した人々が、宗教の世界に救いをもとめ、古い社会を代表する宗教勢力を中心にして、資本主義を推し進めようとする勢力を打倒してしまう道である。
 
 この場合に誕生するのは反動的な宗教国家であるが、もちろん、反動的な宗教国家が誕生したからといって、資本主義から完全に離脱することは不可能である以上、反動的な宗教国家は下部構造として、国家によって規制された資本主義、つまり国家資本主義をもたざるをえない。
 
 つまりイランの労働者は資本主義による抑圧のほかに、宗教勢力による支配・抑圧という二重の桎梏をもたざるをえないが、このような国として“仏教的社会主義”を自称するミャンマーを挙げることもできるだろう。
 
 だからイラン、ミャンマーに次いで、反動的な宗教的独裁国家としてのチベットの誕生というシナリオも当然ありうるだろうが、この地域のブータンやネパールやミャンマーやカンボジアがこのような反動的な宗教国家からの離脱を模索しつつある地域の発展段階を考えると、仏教王国チベット王国の誕生にどれだけ現実性があるのか疑問点も多い。