Dr.keiの研究室2-Contemplation of the B.L.U.E-

学ぶことと身体

【学ぶことと身体】


「オマエは頭でしか分かっていない。身をもって学ぶことが最も良いことなのだ」

***

【序】
僕は、どういうわけか、身体が嫌いである。現象学が好きで、ハイデッガーやらボスやらビンスワンガーの本は何度となく読みこんだ。が、なぜかメルロ・ポンティーだけは好きになれなかった。彼がフランス人でフランス語を使っていたからかもしれないが、それだけではなさそうだ。メルロ・ポンティーの根幹に、身体へのまなざしがある。「身体」というと、どうも身構えてしまう自分がいる。なぜかは分からない。

その身体嫌いの僕が今直面しているテーマが、『学ぶことと身体』だ。

【問】
「学ぶこと」。それはどういうことなのか。一般的に想像できるのは、何かあることを頭に入れること、そして、それを覚えること(記憶すること)、そして、その覚えたことを自由に引き出せること、つまりは脳の働き-あるいは意識の働き?-、ということだろう。例えば、九九を学ぶというときには、その九九を頭で覚えて、それをどこからでも言えるようになること。いつでも九九が言えることが学んだということの証明であり、その答えが間違っていれば、それは学んだと言われることはない。元素記号も「スイヘリーベボクノフネ…」と、何度暗唱したことだろうか。

脳も身体の一部ととらえれば、こうした学びも身体で学んでいるとは言える。けれど、覚えること、記憶することは、どうも僕の中では、「身体で学ぶ」という印象は持ちえない。「頭で学ぶ」という行為は、「身体で学ぶ」という行為とは別のもの、という印象の方が強い-心理学の学習論は「頭で学ぶ」のプロセスを解明している?!-。

覚えたことが「言える」というのは、身体行為だと思うが、「言う」という行為も、どうも身体という言葉には馴染まない。「口先だけで学ぶ」という言い方がふさわしいかは分からないが、どうも「身体で学ぶ」というのとは違う気がする。「言えても、やれなければ意味がない」、そういう決まり文句もある。

【宇宙=身体】
僕らは、「頭で学ぶこと」と「身体で学ぶこと」を分けることに慣れている。頭も身体の一部ではあるが、なおもそう思うのである。「言って分からないなら、身体で教えてやる」という言い方もある。どうも、頭というのは、身体とは別のものらしい。そして、身体で教えるという言葉を聞くと、次の言葉を思い浮かべる。

中井久夫:「身体は一つの宇宙のようなものです。宇宙を研究するために可視光線で撮影している場合もあり、X線で撮影している場合もあり、電波望遠鏡の場合もある。それぞれに別の像が得られますが、宇宙はそういう個々の見え方を超えて一つのものであるでしょう

身体で教える/身体で学ぶというのは、どこか宇宙的な感じがする。言い換えれば、全身で分からせてやる/全身で学んでしまう、というイメージが湧いてしまうのである。だから、僕は、身体で学ぶことに抵抗があるのかもしれない。どこか「洗脳」に近いものを感じるし、どこか根底から自分が変えられてしまうような怖さもある。身体は、部分で学ぶことを許さない。部分の寄せ集めでもない。そんな身体で学べと言われると、自分の在り方そのものが変えられてしまいそうで、身が震えるのだ。だから、身体が嫌いなのである。自己否定、生の自分の否定、自分の身体の否定が、身体的な学びには付きまとう。

頭で学ぶことが好きな僕にとって、学校は嫌なところだった。発言するときに、求められる「挙手」。手を上げないと発言できない空間。授業前の号令も怖かった。「起立!」「気をつけ!」「礼!」と誰かが叫び、その声を合図に、立ち、背筋を伸ばし、頭を下げる。体育の授業では、走ることが強要され、教室では、45分座り続けることが強要される。鉛筆の持ち方も指摘され、箸の持ち方も否定される。このように、学校における子どもの身体は、明示的・非明示的に、統一させられていく。

義務教育である小・中学校では、「頭で学ぶこと」よりも、「身体で学ぶこと」が目指されているようにも思う。その一方で、中学生後半になれば、高校受験もからみ、頭で学ぶことに、身体が支配されてしまう。

【erfahren/erleben】
こうした「頭」と「身体」を分けて、学びを考えてしまうのは、ドイツ語のerfahren(経験する)とerleben(体験する)という二つの動詞の区別にも通じることであろう。erfahrenは、経験するという意味をもつが、ニュアンス的には、知るという意味合いが強い。erlebenとは、まさに体を使って分かるというニュアンスをもつ。いや、leben(生命・生活・人生)をもって分かるという感じだろうか。「知る」と「分かる」の違いと言ってもいいかもしれない。この両者の関係あるいは断絶は、そんなに簡単に説明できるものでもない。知ると分かるがどう関連し合っているのか。よく分からない。もっと言えば、erleben、体験する、分かるというのは、まさに「身体で分かること」ということが期待される。教育学で使用される「体験学習」という概念は、まさに身体で分かること、身体で学ぶことが目ざされているし、「総合的学習」というのも、身体で学ぶことに基づく、宇宙的身体に訴えかける総合的な学びであった。が、実際にそれで子どもたちはどこまで、そもそもいったい何を学んでいるのだろうか。

【結論】
身体というのは、宇宙的な要素を内に含んでおり、切り札・特効薬としても考えられながらも、ある種の曖昧さや逃げ道としても考えられているように思う。あまりにも漠としているがゆえに、良くも悪くも捉えられるのだろう。ゆえに、僕は身体という言葉が嫌い、いや、嫌いなのではなく、あまりにも漠とし過ぎていて、身体という言葉の前で立ち止まってしまうのだろう。


12/3の議論を受けて

とりあえず見えてきたのは、「学びという視点から、<身体問題>を捉えなおす」というテーマだった。<身体問題>とは何か。色々あると思うけど、<身体からの疎外>というのは、一つのテーマになるかもしれない。僕らは、ますます身体から自分が疎遠になってきている。あるいは、逆に、ますます身体に依存しているのかもしれない。とすると、<身体への依存>ということになろうか。身体という宇宙を、学びという視点から捉えなおしたとき、どのようにその宇宙は見えてくるのだろうか。

学校での学び。その学びから浮かび上がってくる<身体の在り方>、ないしは<身体の根源>。そういうものは描けるのだろうか。学校にいかない子どもの身体と、学校に行く子どもの身体とでは、何がどう違ってくるのか。それは、学校で学ぶことの意味の発見にもつながる。あるいは、学校で、子どもたちは身体をどう作っていくのか。子どもの身体は、親によって構築されている部分が多い。クセや身ぶり、言葉づかいや生活態度など、どれも親の身体のコピーとまでは言わないまでも、それ相当の影響を受けている。もちろん、家での一人の学びには、他者の身体は介在しない。

身体が、学校での学びを通じて、新たな<身体>に変わっていく。そして、それを通じて、新たな<私>と出会い、新たな私として、生きていく。それが、教育の意義だとすると、身体はそれによって、どう捉え方が変わるのだろうか。ひょっとしたら、学校で学んだことによって、身体からの疎外が生じる可能性もないとはいえない。あるいは、学校で学ぶことによって、身体への依存が深まるのかもしれない。逆に、身体からの疎外に歯止めをかけることもあり得るし、身体への依存から脱却できる可能性もなくはない。あるいは、「学校的身体」とでもいうような身体が作られるかもしれない。

少なくとも、積極的に捉えれば、学校での学びは、己の閉じた身体から離れ、他の身体(他者の身体)と接触することで、身体の融合が起こり、身体の地平が広がる、と考えることはできるだろう。これまでの教育学の身体論はこういう視点で捉えられてきた。これを<間身体性>の理屈から説明することもできるだろうが、それでは、学びからの身体論にはならない。学びから見えてくる身体の地平を記述し、それを明らかにすることで、新たな身体論が拓けるようにも思うし、そう信じたい-そうでなければ、僕の中では研究する意味はない。

とすると、<己の身体を他の身体と融合することで己の身体の地平を拡大させるような学び>とはいったいどのような学びなのか。あるいは、どのような学びの場面で、そうした学びが起こっているのだろうか。また、そういう学びとは、いったいどのような学びであり、またこれまでの学び論・学習論とどこがどのように違うのか。この点も詳しく議論する必要がある。さらには、身体という漠としたものを、どう語るのか。「学ぶ身体」、「身体での学び」、「学ばない身体との差異」、「主体的に学ぶ身体」、「身体における脱主体性」… 

子どもたちは、あらゆる仕方で、何かを学ぶ。それは、己の身体を通じて学ぶことに他ならない。とするなら、身体の在り様が学びを規定するとも言えなくもない。また、学びが起こることで、身体そのものが変わるということもあるだろう。どういう仕方であれ、学ぶことによって、子どもたちは自らの身体の在り方を(良い方向にも・悪い方向にも)変えていく、いや変わっていく。身体は、学びが現れる場である。とすると、身体を単に宇宙的というだけでは不十分であり、その宇宙そのもの=身体そのものが変わるということが主張されねばならない。つまりは、宇宙そのものが多元的であり、多重的であり、それが幾千の顔をもつ、ということであり、その多元性や多重性を促進するのが、学びということにもなる。

話を最初に戻せば、<身体からの疎外>、<身体への依存>を、学びという視点から、どのように克服するのか。子どもの身体への危機意識を説明する概念は多い。「子どもの身体が固くなっている」、「リストカット」、「ネット社会における身体性の貧困」、「母子関係におけるアタッチメント不足」、「虐待」、「かたのない弛んだ身体」、「若者の整形」、「美醜に関わるコンプレックス」、「受験勉強・入試試験と身体」、「若者の性とセックス」、「妊娠問題」、「人工中絶」、「摂食障害」、「暴力」… さらには、「知的基盤社会におけるコミュニケーション能力における身体の在り方」もまた、身体の問題とも言える。

僕の視点からすれば、子どもの<自身の身体>との関わりが問題となるかな。あるいは、家庭における子どもの身体と学校での身体というのも気になる。あるいは、身体レベルでのペアレントクラシーも語ってみたい。あるいは、中絶経験による身体の捉え方の変化や男女差、性の問題と身体の問題も。また、離婚家庭の子どもの身体というのも、研究レベルでは必要かもしれない。身体というのは、視点であり、なんらかの事柄を記述するためのアクセスポイントだと思う。その身体を、学び(あるいは学ぶ現象)という観点から捉えなおすことで、新たに描けるかもしれない(し、描けないかもしれない)。

最後に、蛇足的に言えば、僕は自分の身体が嫌いである。リアルに知っている人は分かると思うけど、太っているし、髪の毛の資源も乏しいし、お尻は異様に大きいし、おでこも広い。二重あご(三重あご?)も醜いと思うし、足も短い。唇も嫌いだし、歯茎も嫌いである。かろうじて目はなかなかいい目をしていると思うが、それ以外は絶望的だ。肉体的なむきむきさもないし、頭の形も悪く、「絶壁」とののしられたこともあった。が、それでも、僕は自分のことが大好きだ。ただ、学校に行ったから好きになったわけではない。むしろ、学校という空間で、己の身体嫌いが確固たるものになった。学校以外の場所では、ほとんど身体に関する話題は出ない。学校でこそ、人は己の身体を自覚していくのである。自分が「かわいい」「かっこいい」、「かわいくない」、「ぶさいく」というのも、やはり学校で強化される。

ただ、見方を変えれば、学校に行くからこそ、そういう基準ができるわけで、他人と比べて自分はどうなのか、ということを知る、という意味では、学校が必要不可欠だとも思えなくもない。所詮、学校は、他人との比較で成り立っているのだから(そういう文脈で語ると、結論が極めて貧困なものになってしまう!!)。だが、この身体の捉えなおし、あるいは身体の俗化、身体の一般化、身体の公共化もまた、人間が生きていく上で欠かせないことある。それを超えて、新たな自己の身体を見出すことも、可能と言えば可能だろう。例えば、「僕は他の友だちと比べて不細工だし、異性にもてない。でも、頑丈な身体があり、意外と力は強い」、という風に、ポジティブに己の身体を捉えなおすことも可能だろう。

自分の身体とどう向かい合うか、どう対峙するか。いずれ人間は己の身体の老いや劣化や機能停止と直面せざるを得ない。身体は有限であり、終わりへと日々刻々と向かっている。身体は、そう遠くない未来、みんな滅びるようになっている。弱る身体との向き合い方もまた、今の時代に問われていることかもしれない。いや、身体レベルでいえば、すべての人間が弱いのである。身体を通じて己を再認する。そういう営みとして、学ぶ身体を考えることももしかしたら意義のあることかもしれない。

と、こんな感じで、学びと身体を語ってみるのも、悪くないなぁと思いました。

これから、どんな風に議論が発展していくのか、ちょっと楽しみになってきました。


「身体は、生産する身体であると同時に隷属する身体である場合のみ有効な力となる」
フーコー、『監獄の誕生』、30

コメント一覧

kei
コメントありがとうございます。

社会構成主義的にも語れそうですね。今のメンバーだとあまり出てこなそうですが。

学びと身体は、まだまだ語り得ることがたくさんあると思います。

関係性から、学びと身体を語るのもありだと思います。僕はそういう立場で書きたいかなって思っています。

こういう問題に関心がおありなのですか?
Unknown
社会構成主義にはまっていきそうですね。
すべては関係から生まれるといった感じでしょうか。
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