前にも訳したことのある文章ですが、、、
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ロマンティックラブと小家族の理想像
ロマンティックラブの神話は、今日もなお、この時代(資本主義が台頭する時代)に打ち立てられた小家族の理想像の一つである。この神話は、18世紀から19世紀の移行期に、画期的で歴史的な発展を遂げた。ロマンティックラブが、最初まずもってアナーキー的で恐ろしい力(Kraft)だと考えられたことは注目すべき点である。この力は、そもそも資本主義的な商取引(Handel)という新たな経済傾向にも、その傾向に結びつく市民的家族構成にも適していなかった。ロマンティックラブ、その第一のイメージは、そのロマンティックラブが望むところに滑り落ちていく。それは、予測不可能な宿命である。この愛する者たちに突然襲いかかる予測不能な力が、ロマンティックラブの名の下で、社会秩序やその階級層に抵抗する勇気を愛する者たちに与えるのは確かであろう。あの最も有名な例を思い出そう。そう、ゲーテのウェルテル(1774)である。彼は、ロッテとのロマンティックラブの打開策は自殺しかないと考えた。
したがって、ロマンティックラブを意図的に小家族の理想像に役立たせるためには、そのロマンティックラブの扇動的で革命的で暗くて破壊的な要素を抹消しなければならなかった。こうした動きは、実際にラインハルトが述べているように、19世紀においても見られることでもあった。「日常会話百科事典や手引書[の編纂者]は、次第に愛の酔狂的な危険性よりも、愛の救済力や治癒力を強調するようになった。彼らの記述(Geschäften)によれば、19世紀のテノールのように休みなく働き続ける男たちが、自分の妻に、安らぎ(Ruhe)と安心(Geborgenheit)を求めるようになった。つまり、いわゆる≪ノスタルジア≫を求めるようになった」(2007.S.25)。故に、ロマンティックラブは、別居や離婚といったこととは違い、普遍的なもの(Universalie)ではなく、あらゆる文明やすべての時代に見いだされるものではなく、西洋の歴史を示す特徴的な現象なのであった。
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改めてロマンティックラブと家庭の愛情を考えてみると、それらが全然違うものだとはっきりと分かる。ロマンティックラブは、「予測不可能性」があって、人に「突然襲いかかるもの」である。何の根拠もないのに、突然とromanticな衝動に駆られる。いわゆる「トキメキ」「ドキドキした気持ち」である。この衝動は、なかなか理性では止めることのできない感情であろう。
romanceとは、一種の「空想旅行」のことで、非現実的であり、一過性の恋愛事情のことである。一過性であるがゆえに、激しく盛り上がるし、それが悪い方向に行けば、殺人事件にまで発展する。ロマンティックラブは、ときとして、人を殺し、自らをも殺す。とにかく恐ろしいmonsterみたいなものと考えていいだろう。
そうした感情を悪いものと規定するのが、ヨーロッパの思想である。ヨーロッパの愛は、静か(Ruhe)であり、ほっとできて、守られているような感覚(Geborgenheit)をもつものである。そうした愛情は、僕ら日本人にもすでに馴染み親しんでいるものであろう。
でも、昨今の日本の若者を見ていると、そういうロマンティックラブをどれだけしているのだろう?と思ってしまう。激しく盛り上がり、世間から逃避して、二人だけの世界にどっぷりはまるという経験をしている若者が少なくなってきているように思うのは僕だけだろうか。
僕からすれば、ロマンティックラブほど欲したものはなかったと思う。いかんせん、もう十数年も昔のことだから、あんまり覚えてないが、若き日は、いつでもロマンティックラブを欲していたし、ロマンティックラブこそが生きる意味だと思ってた。胸のトキメキこそが恋愛だと思っていたし、トキメキがなくなれば、愛は終わるとホンキで思っていた。トキメキ大好き人間だったので、一度に3,4人、同時にトキメクこともできた(汗)。
でも、今の若い子たちをみていると、そういう暴走に走る子たちが減っているように思う。僕が知らないだけかもしれないけど、恋に狂う若者があまりにもいなさすぎる。淡白すぎる。現実的すぎる。romanceは空想旅行だ。たとえ一過性のものにしても、もっとそのromanceを楽しんでもいいのではないか、と不安になってくる。
これまで、僕はロマンティックラブを「悪いもの」と捉える傾向があった。でも、それは、いっぱいロマンティックラブをやってきて、失敗してきて、その結果として学んだことだった。だが、今の若者は、そういう経験が乏しい。「ロマンティックラブは間違っている!」、とこっちが叫んでも、「そうですよね。わかってますよ。あたりまえじゃないですか」、とスルーされることが増えている。
だから、僕の考えも最近変わってきた。ロマンティックラブはダメだ!と言えなくなってきた。みんな、臆病になっているのかもしれない。あんなにも甘くてせつなくてはかない感情を味わわないなんて、ちょっとおかしいのではないか?と思うようにもなってきている。
もしかしたら、ロマンティックラブそれ自体が僕ら世代で死んでしまったものなのかもしれない。それって、悲しすぎないかなー。。。
僕は、ロマンティックラブに破れ、その破れるたびに、「くそ、見てろよ。絶対、オレをふったことを後悔させてやる」って思って、成長してきた気がする。そして、ロマンティックラブに翻弄されることで、強靭な理性を作ろうと努力してきた。ロマンティックラブなんぞに負けてたまるか、という精神を培ってきた。
だから、すごい逆説的だけど、「ロマンティックラブを否定して、乗り越えるためにも、ロマンティックラブをもっとやってくれ!」と、叫びたくなった。
ロマンティックラブはいずこへ?!