今夜はkyoちゃんのファーストアルバムな気分。
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僕はカフカが大好きで、気持ちが落ち込んだ時に読んでいる。
彼もまた、僕と同じように、自分の存在の不可解さに苦しんでいた、と自分に重ね合わせている。
「真理をおびて始まるものは、しょせんは不可解なものとして終わらなくてはならないのだ」(カフカ『プロメテウス』)
僕が真理を帯びているとはこれっぽっちも思っていないけれど、真理を求める人間ではある。
でも、そういう人間は、不可解なものとして終わらなければならない。
この不可解さこそ、常に自分を悩ませる「何か」なのだ。
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さて、異邦人として生きて-part2-。
http://blog.goo.ne.jp/sehensucht/e/eb25de30b765ab86c0e541a4448dd306
この手の話は、あんまりブログでは書かないんだけど、やんわり抽象的に☆
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先日もまた、自分が「嗚呼、異邦人なんだなぁー」と思うことがあった。
一つは、先日、とある人と別れる際のことだった。とある会合の帰り道、親しく熱を込めて語りあいながら、駅に向かっていた。で、駅の改札で、その人と別れる(見送る)とき、僕は、特別急いでいるわけではなかったけれど、「あ、じゃ。また。ciao♪」と言って、とっとと去ってしまった。その様子を見ていた別の知人が、「え、なに? そのそっけなさ?」と僕に言ってきた。
その知人曰く、「普通だったら、さようならとか言って、もう少しゆっくりと別れるものだ。別れた後も、何度か振り返るのもまた礼儀だ。会社とかでは、訪問者の姿が見えなくなるまで、見送るのもまた礼儀なのだ」、そうだ。
確かに、日本人は、そういう礼儀をもっている。でも、僕はとっとと消える。それに違和感を覚える人は意外と多かったりもする。
けど、どう去ろうと、自由じゃないのか?とやっぱり思う。
二つ目は、とある学校関係者から聞いた話。僕は、とある訪問先で、コートを脱がないまま、その訪問先の事務室に入ってしまった(よくある)。ただ、悪気があるわけではなく、またそれが日本のマナーだと理解もしている。が、忘れてしまうのだ。根本的に、どうでもいいことだと思っているから。いや、もっと言えば、そういうどうでもいいことを無意識で抑圧しているとも言えるかも。で、その訪問先の人から、「コートも脱がない先生ってどうなんでしょう?」、と話が漏れ広まったんだそうだ。僕は、基本的にそういうTPOが死ぬほど嫌いで、どこかで無意識的に抵抗しているんだと思う。ちなみに、TPOって、和製英語で、日本人が作った言葉らしい。
確かに、日本人は、そういう礼儀をもっている。この手の「クレーム」?は、僕には誇れるほどにある。
けど、どこでコートを脱ごうと、自由じゃないの?とやっぱり思う。
ちなみに、僕は、本当にどうしてもって時以外は、名刺をもち合わせない。そして、本当にどうしてもって時しか、スーツもネクタイもしない。髪の毛もいつもボサボサで、長め。どこでも、誰にでも、気軽に明るく話しかける。空気はほとんど読まない…(読めない×読まない)
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日本では、体罰が今問題になっている。柔道界には激震が走っている。
これまで、柔道のみならず、日本のスポーツ界は体罰=暴力が当たり前の常識として、何も問題とされないまま、承認されてきた。先生の体罰も、その文脈で理解されなければならない。
日本人の礼儀もマナーも上の体罰も、同じ現象の現れなんだと思う。本質的に。
日本でこれまで「当たり前」と思われてきたことが、次々に「当たり前じゃない」という風になっていっている一つのエピソードだと僕は思っている。
これだけ「グローバル化」が叫ばれる中、実は、今もまだこの国は「鎖国時代の名残」を残しているんだと僕は思う(なんてことを書くから、「お前は異邦人なんだ」と言われそうだけど、、、)。
畢竟、この国は、個人の自由を認めない社会なのだ。個人の自由を尊重する、ということ。そして、個人の尊厳を徹底的に尊重する、ということ。どういうスタイルや生き方が「よいのか」は、他者ではなく、自分で決定すべきものなのだ。個人に対する抑圧も、拘束も、命令も、暴力も、かけがえのないものであり、いかなる場合でも尊重されなければならない。そういう「グローバル」なスタンダードが、日本には全く浸透していない。それは、スポーツ界のみならず、社会全体、あらゆる日本の領域で言えることではないのか。
柔道界のあの混乱は、グローバルスタンダード化された選手と、鎖国的封建的日本式スポーツ文化を引きずる上層部との戦いだったように僕には見える。選手側が、伝統的価値に対して、「NO!」と声を上げたのだ。そして、そのNOが、メディアを通じて、柔道界全体を動かし始めている。この動きに、僕は日本の未来を感じずにはいられなかった。
体罰の是非以上に、選手たちが、皆で「権威」に対して、NOを突きつけた。そのことに僕は震えた。
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これを、柔道界の体罰問題で終わらせてはならない。でも、きっとそれで終わるだろう。
今も、この国では、「NO」と言える文化は根付いていない。同調して、協調して、皆がマナーや礼儀を重んじ合って、異分子や異端者を排除していく。自ら動こうとする人を認めず、厄介者扱いし、同調圧力をかける。そうし続けるのだろう。
「みんながやっているのだから」
「みんなと同じように」
「みんなが思っていることだから」
そうやって、この国では、「みんな」から外れる人間を排除していく。
不可解な人間は、そうやって、かき消されていく。
でも、だからこそ、僕は、不可解な人間として、しぶとく生き続けたいと思う。別にこの国が嫌いなわけではないし、この国に誇りだってもっている。でも、「NOを言えない」、「みんな一緒」というこの国の根っこだけには、同調できない。
だから、僕はこれからも、NOを言い続けるし、誰に何を言われても、自分がよいと思った道を歩む。他人にたとえ評価されず、他人に罵倒され、嘲笑われても、自分を褒め、自分を誇り、自分を大切にしたいと思う。(そういう人間は、他人に迷惑をかけることになるだろう。でも、人間、生きていれば、必ず誰かの迷惑になっているものだ)
きっと、そういう生き方を、この国では、「わがまま」と見なし、そういう人間を、「異邦人」として片づけるのだろう。
それでいい。しょせん、不可解なヤツで、終わる人間だから。
でも、自分的には、僕は最も普通で平凡な人間だと思っている。
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人生はめんどくさい。でも、だから素晴らしい。