Dr.keiの研究室2-Contemplation of the B.L.U.E-

SOS子どもの村@IMSTを訪ねて-60年の歴史と現在

昨年、ウィーンのSOS子どもの村に行き、新たな知的好奇心が生まれました。現在のドイツ語圏の教育学的地平の中に、この取り組みがどう位置付くのか、児童福祉事業とこの取り組みの関連性は何か、従来の養護施設と何がどう違うのか、ムッターという新たな職業は一体どのようなものか、SOS子どもの村の理念や理想は何か、国際NGO/NPO、ドイツ語圏伝統のVereinの可能性はどれほどか、といった色々な疑問や問いが出てきました。

そして、遂に2011年2月、学生たちと共に、SOS子どもの村イムスト(SOS Kinderdorf Imst)に行くことができました。学生たちもこのSOS子どもの村に関心を抱いてくれ、それが僕のパワーとなって、行くことができました。SOS子どもの村イムストのスタッフとして20年働いてきたシュネック・マルレーネさんが全て対応してくださいました。


 

Imstは、SOS子どもの村発祥の地であり、その創設者ヘルマン・グマイナーさんが生きた場所です。チロル地方(オーストリア・チロル州・北チロル)のちょうど中心あたりにある小さな村です。インスブルックから電車で30分くらいでした。Imstの町自体には駅がなく、最寄りは、少し離れた「Imst-Pitztal」という駅です。この駅からバスで35分くらいで、SOS子どもの村に行くことができました。(上の写真の山の麓あたり、下の写真の○枠で囲ってある辺りが子どもの村イムストです)

 

SOS子どもの村は、なだらかな丘の上にありました。近所にはスーパーもあり、ホテルもあり、また住宅も建っていました。静かなチロルの小さな村の中にひっそりと存在しているのが、SOS子どもの村イムストでした。

この写真のように、SOS子どもの村はしっかりと地域の中に根づいています。また、町のバスの停留所の名前も「Kinderdorf」となっていて、子どもの村がきちんと公に認められていることが分かります。Imstの町中で、「子どもの村はどの辺りですか?」と尋ねた時も、「あー、子どもの村ね。あっちの方だよ!」とすぐに分かって話してくれました。Kinderdorfがただの一般名称なのではなく、しっかり固有名詞になっていました。

バスに揺られて、35分。バス停留所「Kinderdorf」に到着すると、目の前がSOS子どもの村でした。バスを降りる時、一人の青年が買い物袋を持って、降りて、子どもの村に入っていくのを見ました。「ああ、この男の子はここでこうして普通に生活しているんだな」、と思い、胸が熱くなりました。彼にしてみれば、ここが家。家には、「お母さん」がいて、共に生きる兄弟的存在(共に預けられた子ども)がいる。

この日は、この地域でもかなり珍しいほどの大雪がつもった後で、歩くのも大変でした。が、徐々に天候が回復し、眩しいほど太陽が輝いていました。

こちらが、SOS子どもの村発祥の地である、SOS子どもの村イムストです。一軒、一軒が家になっていて、各家に、お母さん一人か、お母さんとそのパートナー(男性)、そして、子どもたちが2人~5人程度が共に生活しています。お母さん二人はいません。お母さん一人が原則で、そのパートナーが正しく認められる場合に、こちらで共に生活し、この家から働きにでかけるのだそうです。家ですからね。

こちらは「村」ですから、公共?の運動場もあります。あいにく、誰も遊んでいませんでしたが、夏にはここでみんなでサッカーをして楽しむのだそうです。それにしても、美しい眺めです。午前中は雲に覆われていたのですが、午後になって、快晴になってきました。アルプスの山々が本当に美しいです。

そして、SOS子どもの村イムストの事務所のある建物へ。こちらにヘルマン・グマイナーさんも暮らしていたそうです。この事務所で、シュレックさんが僕らを待っていてくれました。

まず、僕らは、グマイナーさんの書斎だった部屋へ案内され、彼とSOS子どもの村についての基本的なレクチャーを受けました。

こちらが、その書斎、応接室として使われていた部屋です。8人で訪れたので、立ったままで話を聴きました。が、グマイナーさんは、生前、来客があると、こちらの部屋で大いに熱弁をふるったそうです。

話の内容は、実はあまり覚えていません。学生への通訳をメインにしたので、具体的にどんな話があったのかまで集中できませんでした(汗)。学生がレポを仕上げてくれるので、それを待ちたいと思います。

ただ、印象的だったのは、グマイナーさんはとにかく自分の一生をこのプロジェクトにかけた、ということです。結婚もしなかったそうです(できなかったとも言えますが…)。幼い頃の母を亡くし、実の姉に大切にされて育ったそうです。実母に囚われない感覚というのは、こういうところからきているのかもしれません。「誰か母的な存在に愛されれば、それが誰であっても、子どもには関係がない。母的な存在がいないことが悲劇であり、それがあることで人間は生きられる」、といった思想は、彼の成育歴とも関連していそうです。

この絵の左手の女性こそが、そのお姉さん(長女)でした。エルザ(Elsa)という名でした。ヘルマン・グマイナーはこのエルザを母親のように慕っていたそうです。この絵は、子どもの村内部にあるキンダーガーデンにも掲げられていました。

http://www.sos-kinderdoerfer.de/informationen/menschen/hermann-gmeiner/pages/default.aspx

職業:お母さん、と書いてあります。

職業としての母親、それが「ムッター(英:マザー)」です。保育士は本来、母親の役割を果たす存在でした。が、今となってはもうよく分からない。きっと、オーストリアも同じ状況でしょう。だから、あえてムッターと呼ぶのでしょう。保育士を目指す若者の中でも、「世の子どもの母になりたい」とまで思う人はほとんどいません。このムッターという職業は、母親の愛情に欠けた子どもたちの母親になりたい、と願う人ばかりです。

昨年もウィーンのSOS子どもの村で聞いた話ですが、このムッターという職業、「やりたい」と志願する人は多いですが、実際になれる人はとても少ないのです。年間で、数人です。安易な気持ちではなれる職業ではありません。当然ですよね。「母親」になるのですから。途中で投げ出すことはできません。母親を途中で放棄することは、許されるものではありません。ですが、実際には辞めてしまう人もいるとのことでした。シュネックさんも、「できれば、ずっと働き続けてほしいです。そのために私たちは努力をしています」、とおっしゃっていました。

そして、SOS子どもの村内部にある幼稚園を見学させてもらいました。

うちの学生たちにとっての楽しみ(?)の一つでした。いつもは幼稚園見学に行くのですが、今回は予定が合わず、いわゆるキンダーガーデン見学がありませんでした。なので、この幼稚園訪問は、彼女たちにはとても楽しみだったのです。

残念ながら、この日は幼稚園がお休みで、子どもたちはいませんでした。が、その分、じっくりと園の中を見ることができました。

こういった手作りの遊具もまた、こっちらしいなぁと思います。あ、もちろん日本の幼稚園でもこうした遊具作りは行われていますが、なんか違うんですよね。色づかいが違うのかな。なんか、「手作り」のニュアンスが違う気がします。

ちなみに、こちらの幼稚園は、教諭が2名。子どもは20人。うち子どもの村の子どもが5人で、15人はこのイムストの村に暮らす子どもたちです。子どもの村内にありながら、地域に開かれた幼稚園となっています。幼稚園の教諭は、普通に教員養成課程の専門教育を受けた人で、他の幼稚園と変わらない教育課程となっているそうですが、ここオリジナルの実践も行っているようです。(詳しく聞けなかったので、また次回!)

こちらの幼稚園には、ピアノがありました。が、その上に、ギターがどーんと乗っています。通常は、ギターを使用しているとのことでした。やはり♪ 日本の幼稚園にはない風景だと思います。

僕としては、やはり幼稚園=ギターという思想を広めていきたいと思います。「子どものお庭(キンダーガーデン)に、ピアノは普通あり得ないでしょう。ギターなら、お庭で弾けるわ」、と言った先生の言葉が忘れられません。

なお、その隣りにある小さなドラは、中国のお客さんからいただいたものだそうです。中国には、既に10以上のSOS子どもの村があり、交流も活発に行われているそうです。(そのことは、後にはっとするかたちで、実感することができました)
http://japanese.china.org.cn/life/txt/2008-11/30/content_16876142.htm

幼稚園が家のすぐ近所にある、というのもいいですね。しかも、この大自然の中ですからね。(それでいて、徒歩数分で、とても大きなショッピングセンターがある、という!!)

続いて、案内されたのは、ヘルマン・グマイナーさんの墓でした。大雪のため、ほとんど埋もれていましたが、この場所で、今のSOS子どもの村のみんなを見守っているのでしょうね。

グマイナーさんは、どんな思いで、今、ここにいる子どもたちを見ているのでしょう。彼は、医学生から始まっていますが、徐々に子ども問題に関心が向き、教育学的視点へと移っていきます。彼が愛したのは、ペスタロッチでした。やはりペスタロッチなのですね。ペスタロッチが生きたチューリッヒまでも、ここから数時間。「文化」として、ペスタロッチは生き続けているのです。

シュネックさんは言いました。「ペスタロッチが行った取り組みは、まさにSOS子どもの村と同じことです。彼の取り組み自体は、SOS子どもの村ではないですが、ほとんど同じ取り組みです。グマイナーは彼の本を熟読していました」、と。

今の教育学者や教育実践家の本は、後に、ペスタロッチのように読まれるのかな、と思いました。教育学の中でペスタロッチは、教科書の片隅に出てくる程度です。彼の本を熟読して教員になる人がどれだけいるか、果たして疑問です。日本だと、翻訳の問題もあって、なかなか敷居が高いです。僕自身、もう一度読みなおさなければ、と思うきっかけになりました。グマイナーさんは、ペスタロッチの実践のみならず、その愛の精神も引き継いでいます。そのことも、はっきりと分かりました。(グマイナーさんの「愛」に関する文書を入手しました!)

さて、子どもの村。

見てください! うちの学生たちは、お勉強は苦手ですが(苦笑)、子どもと同化することは超得意中の得意。一気に同化します(苦笑2)。僕やシュネックさんが何かを言う前に、既に雪合戦が始まっていました。

小学生の男の子たち、あと3歳くらいの女の子が参戦していました。学生たちは手加減していたみたいですが、子どもたちは徐々にヒートアップ。ガチンコ雪合戦になっていました。さりげなくドイツ語で名前と年齢を聞いていました。そこはさすが。

負けん気の強い子どもたちで、学生たちは悲鳴をあげていました。きっといい思い出になったと思います。子どもの村の子どもたちとホンキの雪合戦をしたのですからね。僕もしたかったなぁー。

最後に、SOS子どもの村イムストから見た麓の町の風景。

本当に美しい景色でした。


YouTubeで、ヘルマン・グマイナーさんとSOS子どもの村についてのPVが見られます!

Hermann Gmeiner - Vater der SOS-Kinderdoerfer weltweit


Eindruck von mir!

・133カ国目の日本→経済先進国、子ども後進国。
・医学、教育学、そして子どもへのまなざし
・ヘルマン・グマイナーという人間
・当初は孤児救済。現在は児童相談所に委託されている。
・母親は一人だけ、という徹底的な思想→母子問題
・施設内にある地域の幼稚園(Kindergarten)20人中5人が子どもの村の子ども。

Schwerpunkt!

・ペスタロッチ教育学との関連は探りたい。

「子どもの最初の教授は決して頭のことでもなく、また理性のことでもない-それは永劫に感覚のことであり、心情のことであり、母のことである」(ゲルトルート児童教育法)

「母は幼児が義務とか感謝とかの音声も出せぬうちに、感謝の本質である愛を、乳のみ子の心に形づくる」(隠者の夕暮れ)

学習の根源、道徳の根源、理性の根源、知性の根源、そして、それがなければ学習や教授が成り立たないような学びの起源、基盤、根源。これを問うことが僕のライフワークだと思うに至りました。つまりは、教育可能性の条件への問い。人間は学び、遊ぶ存在(ホモ・ルーデンス)であるということから目をそらさずに、どうしたら人間は学び、遊ぶ人間になれるのか、それを問い続けたいです。学べない人間、遊べない人間は、欲求、欲望、金銭、地位に目がくらみます。なぜそういうものに目がくらむのか。欲望の充足だけに心奪われる人間は、根本的に学びの起源を唾棄されているんだと思います。

よりよい社会、あるいはより幸福な社会を目指すのであれば、欲求の本質的な充足(つまりは欲求不満の本質的解消)が目ざされなければなりません。欲求がすべてではない、と言い切るためには、欲求の根源にある欲求を満たしておかなければならないのです。愛に渇望する人間に、そもそも欲求を押さえることなど不可能だと思います。ストイックさは、根本的な愛情欲求が満たされて、初めて可能となる精神態度でしょう。

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